差別・偏見やヘイトスピーチを助長する「嫌韓」デマ・中傷に対抗・反論するウィキです。

「嫌韓」の主張

韓国の政治組織「一進会」は日韓併合を強く主張していた。韓国が日本に併合されたのは韓国人自身が望んだものなのに、現在の韓国人がそれに文句を言うのはおかしい。

反論

一進会の主張は韓国人の代表的意見ではなかったし、本来対等な「合邦」を訴えるものだった。


「マンガ嫌韓流」第8話「日韓併合の真実」には「韓国人自身も日韓併合を望んだのよ!」「韓国最大の政治組織である一進会が併合を主張したのよ」「日本との連帯によって文明開化を成し遂げようとしたのね/彼らは日本の力で朝鮮での維新を目指したのよ」「それと対立したのが清・ロシアに事大する朝鮮王室と両班よ」という台詞があり(P210)、それを補足する形で「改革派 一進会 農民 日本」⇔「守旧派 王室 両班 清 ロシア」という略図が示されています。こうした説明は果たして正確と言えるでしょうか。

日本の幕末がそうであったように、韓国併合前の朝鮮半島にも様々な政治組織があり、それぞれの主張をし、また対立や紛争も起きています。幕末の状況が複雑であるように、朝鮮半島の状況も複雑で流動的でした。「マンガ嫌韓流」では「日韓併合派=改革派=農民」のように書かれていますが、実際には朝鮮王朝時代末期には「甲午改革」と呼ばれる近代化政策がとられていますし、併合前後の抗日運動・闘争には民衆・農民も加わっています。

さて、一進会が大きな政治組織であったのは確かで、日本の国家主義者である内田良平とつながりを持ち、一進会の中心人物の一人である宋秉畯(※注)は1907年、李完用内閣に農商工部大臣として入閣しています。しかし一方では民衆の反発も強く、1908年6月の時点で926人の会員が殺されており、その主張をあたかも韓国民衆の総意、あるいは大半の意見であるとする見方には無理があります。

また、一進会の主張はあくまで日本と韓国が対等な立場で合邦するというものでした。これは当時の情勢を踏まえ、日本からの圧力から自由な形での自主独立は困難であると判断した上での、いわば「苦渋の選択」とも言えるものでした。しかしこうした主張は日本政府にとって都合の悪いものであり、韓国併合後に一進会は解散させられることになりました。

(※注)後に宋秉畯は子爵の位を授与されていますが、「日本に一ぱい喰わされた。爵位なんか要らんから、朝鮮国土を元どおりに返してもらいたい気持だ」と語ったといいます(『朝鮮人がなぜ「日本名」を名のるのか 民族意識と差別』金一勉/三一書房

)。

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