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Zivilverteidigungsbuchの背景にある「精神的国土防衛」


1969年に発行されたZivilverteidigungsbuch(スイス民間防衛)の背景には、1930年代から1960年代にあった、スイス精神的国土防衛運動があった。
Geistige Landesverteidigung(精神的国土防衛)の歴史
[ スイスの歴史「精神的国土防衛」対ナチズム1933-1945 on History of Switzerland]

"Geistige Landesverteidigung"あるいは"Défense Spirituelle"は、ナチからスイスの独立と民主体制を守る、強力かつ広範囲のスイス国民の政治的意思のことを指す。ナチから国を守るという共通目的により、1920年代に(階級闘争という)苦い対立をしていた企業家と社会主義者が、1930年代末にかけて団結した。"Geistige Landesverteidigung"はドイツ語からの逐語訳としては「精神(あるいは知的)国防」と訳せるだろうが、公式フランス語およびイタリア語("défense spirituelle"及び"difesa spirituale")からの逐語訳だと、「スピルチュアル防衛」となり、宗教と関連付けられ、おそらく私がこれから以下で述べることを、より正確に表現している。
なお、スイスには4つの言語がある。ドイツ語(74%)とフランス語(21%)とイタリア語(4%)とロマンシュ語(1%)である。

[ wikipedia ]


スイスにおける言論の自由 対 ドイツにおけるナチプロパガンダ
報道の自由

1930年代のナチ体制のもと、ドイツとオーストリアの報道機関はナチに同調させられ、スイスのメディアは、ナチイデオロギーを公然と批判する唯一のドイツ語プラットフォームとなった。地理的及び文化的理由で、ドイツは常にスイスの最重要の貿易相手国だった。当時、アドルフ・ヒトラーの産業政策によりドイツの景気が良くなっていたのに対して、スイスでは諸外国と同じく不況にあえいでいた。したがって、隣国ドイツへのスイスの経済的依存度は、常日頃よりも、大きくなっていた。そのため、スイス政府は、特に対外貿易に関わる検閲を行っていた。しかし、最も重要かつ特に成功していた新聞は、ナチ体制に対して、明確な境界線をひいていた。


スイスのNational Public Radio:"
占領されたヨーロッパの自由の声

1931年にスイスは、国営ラジオの放送の送信施設を3つ建設した。それはスイスの3つの言語地域に1つずつ建設された。Beromünster(中央スイス、ドイツ語圏)とSottens(西部スイス、フランス語圏)とMonte Ceneri(南部スイス、イタリア語)である。1937年にBeromünsterの送信装置とアンテナがアップグレードされ、1941年にSchwarzenburgの送信施設に短波送信が追加され、スイス国境の外側でも放送が効けるようになった。

ドイツ宣伝相Dr. Goebbelsが自分のナチプロパガンダを広めるためのプレミア媒体としてラジオを使っていた当時、信頼できる情報は重要だった。スイスのNational Public Radio は、英国のBBCと同じく、第2次世界大戦中に独立な情報源としての評価を確立し、それ以来、いずれも職業基準を守ってきた。両放送局は民主主義と自由を支持した。しかし、いずれも、ドイツのプロパガンダの嘘に嘘で対抗するのではなく、開戦数年のドイツ陸軍の成功と連合国軍の問題点を隠蔽することはなかった。なので、ドイツおよび占領された国々の人々は、両放送局のニュース報道が信頼できるものであることを知った。ナチ体制は外国の放送を聴くことを禁じた。


風刺パフォーマンスと政治劇

(検閲はあったものの)比較的自由な報道とともに、ナチを攻撃する風刺政治ショーがあった。ドイツ政治難民herese GiehseとErika MannのDie Pfeffermühle (ペッパーミル)は、穏やかなトーンのパフォーマンスを好み、1933年からチューリッヒで活動していたが、それでも、反アドルフ・ヒトラーなメッセージは聴衆に明確に理解された。親ナチグループの支持者たちによるパフォーマンスの騒ぎが多くあった。

Walter Lesch(芸術監督)とOtto Weissert(プロデューサー)と、Emil HegetschweilerとAlois CarigietとBilly WeilenmannとMathilde DaneggerとToni von TuasonとMax Werner Lenzと Elsie AttenhoferとZarli CarigietとMargrit RainerとKarl MeierとAlbert KnöbelとLudwig DonathとHilde HerterとHelene PastoriniとFritz PfisterとVoli Geilerによるスイスの風刺ショーグループCabaret Cornichon(キュウリのピクルス)は、簡潔なほのめかしをチューリッヒで1934年に始めていた。このグループはスイスの他の都市へもツアーを行っていた。戦前、国境近くのバーゼルでの公演では、ドイツ大衆が見に来ることもできた。幾つかのパフォーマンスは、ドイツの外交的干渉を招いたが、スイス政府は公演を禁じなかった。

(1943年のGalileo GalileiやDer gute Mensch von Sezuanなど)Bert Brechtの作品は、ドイツからの移民であるLeonard Steckelが監督して、チューリッヒ劇場で初演された。Friedrich SchillerのドラマWilhelm Tell (1804年作品)は繰り返し公演された。


国の独立をデモンストレーションするスイス
新たな国家的モニュメント

1934年から1936年にかけて、(ある種のスイスの独立宣言と考えられている、1291年に遡る文書である連邦憲章である)Bundesbrief博物館が建設された。1937年に、中央スイスのImmenseeからKüssnachtへとつながる歴史的街道(14世紀初頭に、伝説的国家的英雄ウィリアム・テルが専制的廷吏に殺されたと言われている)が再建された。この2つの国家的モニュメントは、いずれも、スイスの自由と独立を守るスイスの意志をでもストレーションするためにデザインされた。



1939年スイス博覧会

1939年のチューリッヒでのスイス博覧会(Landesausstellung, 心温まる短縮形 Landi)は、もともとは、1896年と1914年に開催された博覧会と同様に、最新の「ハイテク」製品を展示する工業見本市として計画された。しかし、ナチの脅威が新たな次元を加え、イベントは「精神国防」と呼ばれる現象の最も人気ある表現として記憶されることとなった。テーマである「国土と国民」「スイスの天然資源」「製造と販売」「流通と交易」「心身の文化」は経済的産業見本市と国家の自己主張のバランスをとったものだった。(スイスの人口420万人に対して来場者1050万人という)圧倒的大成功は、国民の幅広い反応を示している。

博覧会の精神(Landigeist)は伝説的なものになった。1939年のスイス博覧会は、他のイベントとは隔絶したものだった。"Landi 1939"を訪れることは、巡礼にも等しいものであり、その頂上である、いわゆる "Höhenweg"(山道)はナショナルアイデンティティを高めるようにデザインされていた。当時の報道によれば、"Wehrbereitschaft"(防衛に備える)と名付けられた像の前で、男性来場者は教会でするように帽子をぬぎ、人々は像の足元に花や貨幣を捧げて、自らを犠牲に捧げる意志を表明した。[Isabelle Meier, Mythos Landi, p. 79] "Landi 1939"は、この世代の人々に「スピリチュアル祖国」の忘れがたいイメージを残した。1930年以前に生まれたスイス人と話せば、その事実がわかるだろう。



陸軍将校による公開講座

数百名の軍事教師を除けば、スイス陸軍にはプロの軍人はいないが、20歳から50歳(現在は40歳)の健康な男性はすべて兵士である。平時には兵士はは半年の訓練を受け、その後は毎年3週間の復習コースを受ける。基本訓練と復習コースは将校によって準備されるが、将校もまたプロの軍人ではなく、弁護士や技術者やセールスマンや教師や農民やトラック運転手などの文民の職業に就いている。したがって、日々の生活と軍務は絡み合っており、スイスでは文民と軍人を厳格に区別することは不可能である。

これが、一部のスイス軍将校が1929年ころに始めた活動の背景である。将校たちは国防に必要な事項についてのブックレットを出版し、大衆新聞を読んで、ニュース記事を書いた。この運動の指導者たちは、大佐までの下位の将校たちだった。プロの写真家であるHausammann大尉は、映画制作に公的支援を求めた。最終的に、映画「Füsilier Wipf」(狙撃手Wipf)は1958年に民間映画会社で制作され、陸軍首脳部は、軍事装備の使用や兵士のエキストラ出演をしぶしぶ認めた。スイスの歴史を反映した別の映画「Landammann Stauffacher」はオーストリアからの移民Leopold Lindtbergによって監督された。彼は、1933年から1945年にかけてチューリッヒ劇場で上演された演劇を監督した。これらの「民間」の努力は、政府外交的抵抗とともに、ドイツナチ体制に気付かれ、批判された。

開戦直前、スイス議会は(スイスのフランス語圏を代表する)Henri Guisanをスイス陸軍司令長官に指名した。Guisan将軍は幕僚を組織して、軍の士気高揚に努めた。軍の移動もドイツに監視されていることがわかっていたので、Guisan将軍はこれらをできる限り、低姿勢かつ非公式なものとした。したがって、1930年代に、これらに参加した将校たちは、公式命令なしに、参加し続けることを推奨された。彼らの公開講座は性質上公開だったが、個人的な招待によるパーティとしてアレンジした。(陸軍は家庭での支援が必要なことが分かっていたので)労働組合やスポーツ団体や婦人団体など既存の社会機構に、会員の動員を依頼した。興味深いことに、これらの公開講座は。1935年まで陸軍に強く反対していた社会主義団体の会員にも提供され、社会主義運動によってイニシアチブがとられた。(Morel Yves-Alain, Truppeninformation)

子供たち向けのメッセージもあった;
Schart euch, Schweizer, um die Fahnen, Stolz und tapfer wie die Ahnen! Eilt zum Heer von Berg und Tal, Denn es ruft der General!

スイスの男たちよ、諸君らの旗のもとに集え。諸君の祖先らの誇りと勇気をもって。山や谷から軍に集え。将軍が求めている

(J. K. Schiele (editor), Globi wird Soldat [Globiは兵士になった], Zürich: Globi Publishing Co., 1940, p. 4. 第8版から引用, 1983.

Globiシリーズは2003年に75周年を迎え、スイスの子供たちには、今もミッキーマウスと並んで人気がある。Globiは半ば子供で、半ば鳥であり、ウォルト・ディズニーが使って同様の成功をおさめた教育方法の一種であるトリックとジョークを使って、精神的な父の道徳を説いた。Globus百貨店チェーンの管理者である編集者Schieleは、精神的国土防衛に参画していたスイス陸軍将校の一人であったことを知って、驚くかもしれない。


ナチの脅威により、スイスの階級闘争は終わりを告げた
社会主義者たちは反ナチ同盟を模索した

社会主義者たちが最初にナチの脅威を認識した。外敵の脅威により、経営側と労働組合の話し合いや、(米国の共和党の考えを大なり小なり代表する)ラジカルな党と社会民主党の話し合いの道はスムーズになった。したがって、労組書記長Konrad Ilgは経営側との交渉に応じ、1937年に最も有力な経営者団体(機械電器産業)と金属労協は、いわゆる平和協定に署名した: 経営側は労働組合をパートナーとして初めて認め、経営者団体と労働組合の間(個々の契約の代わりに)の問題の解決に合意し、労働組合はストライキをやめた。イタリアではファシスト独裁者ムッソリーニが、ドイツではアドルフ・ヒトラーが実践し、カトリック教会が支持していた、権威主義的国家が指導する経済という保守的考え方に、この協定は明確に反対していた。


公的社会保険

第1次世界大戦は重大な社会問題を引き起こした。労働者たちは軍務に動員され、数か月間、賃金を受け取れなかった。この問題を解決するために、兵士の家族に就業時の80%お金額を保証する公的保険が1940年に導入された。この保険の資金の原則は(被雇用者の賃金天引きと雇用者が半々の負担をする)うまく機能し、1948年に導入された社会保障に引き継がれた。資産と高収入に対する新税が、防衛支出の増大の財源となった。したがって、リベラルと保守派社会主義者の要求の幾つかについて妥協し、社会民主党は陸軍への反対をやめ、1935年以降は、国防を支持することになった。


政府に入った社会主義者たち

人口の過半を工場労働者が占める地域の幾つかの市では、社会民主党が与党になり、州および連邦政府へ社会民主党を統合する時機となった。Robert Grimmは1938年から1946年までベルン州政府のメンバーを務めた。Ernst Nobsは連邦政府閣僚を1944年から1953年まで務めた。彼らはいずれも、1918年のストライキ委員会の著名なメンバーで、ゼネストで果たした役割を理由に懲役判決を受けたことがあった。時代は変わった。


スイス精神的国土防衛の重要な要素

精神的国土防衛は、ヨーロッパの人々の抵抗を弱めることを狙った、ドイツ国家社会主義党による、大量かつ系統的なプロパガンダに対するリアクションだった。
There is an extended strategy, there is war with mental means. ... What artillery was for the assault of the infantery, wearing down the enemy psychologically by revolutionary propaganda will have to do before the armies even begin to fight. The enemy people must be demoralized and ready for capitulation, it must be made passive morally, before one can think of military action.

拡張された戦略が存在する。精神的な意味を持つ戦争がある。...歩兵の攻撃のために砲撃のように、軍が開戦する前に、革命的プロパガンダで心理的に敵を弱める必要がある。敵国の国民の士気を喪失させ、降伏しようとさせなければならない。そのために、敵国の国民が軍事行動を考える前に、を道徳的に受動的させなければならない。

(translated from: Rauschning Hermann, Gespräche mit Hitler [talking with Hitler], New York 1940, p. 12f, 15f., as quoted in German by Morel, op.cit., p. 65)

精神的国土防衛運動は、ジャーナリストや歴史家や弁護士や社会主義者などの40の民間代替から構成された。彼らはスイスの伝統的価値観を採り上げて、スイス社会制度がいかにうまく働いているか、スイス国民に納得させた。そして、スイス文化の豊かさと、スイスの異なる地域と文化と言語の統合した要素を、ナチズムのイデオロギーと対置した。

- 連邦主義 vs 画一性
- 平等な権利とマイノリティへの敬意 vs 傲慢な人種主義
- 寛容と個人の自由 vs 国家イデオロギー
- 複数政党制民主主義 vs 一党独裁



スイスの市民宗教(Civil Religion)の信条(Creed)

政府閣僚Philipp Etter(カトリック保守党)は、スイスの文化の保存と推進を行う機関とミッションに関する、スイス政府から議会への1938年の提案で、いわゆる精神国防(この名前は筑後訳すれば非常に示唆的)の中心的コンテンツを構成した。


The Swiss credo was expressed thus: «the idea of a Swiss state was born neither of race nor of the flesh, it was born of the spirit. There is something magnificient, something awesome about the fact that this tremendous idea should have [celebrated its incarnation and have] led to the creation of a state whose heart is the Gotthard, the mountain that sunders [the waters running to the Atlantic, the Mediterranean Sea and the Black Sea] and the pass that connects [northern and southern Europe and the German, Italian and French cultures]. It is a European, a universal idea: the idea of a spiritual community of peoples and Western civilisations!» According to the message, this was «nothing other than the victory of the spirit over the flesh on the rugged terrain of the state».

したがって、スイスの信条は次のように記述された。「スイス国家の考えは、人種や肉体として生まれたものではなく、精神として生まれた。この驚異的な考えは、その顕現を祝福し、国家創造へと導いた。その事実には壮大な何か、素晴らしい何かがある。そして、その国家の中心は、大西洋と地中海と黒海に流れ込む水を分かつ山ゴットハルトと、北ヨーロッパと南ヨーロッパとドイツ・イタリア。フランス文化をつなぐ道である。それはヨーロッパ人という、ユニバーサルな考え、すなわち、人々のスピリチュアルなコミュニティと西洋文明という考えである。」このメッセージによれば、「スイスの険しい地形の上にある肉体に対する精神の勝利以上のものはない」

(BBl 1938/II, p. 999 quoted after Independent Commission of Experts Switzerland - World War II, final report, p. 85. Comments in italics and word-by-word translations from the German original in square brackets [] added by M. Jud)

キリスト教の伝統に親しみがあれば、すぐに宗教の重要な用語が集中的に使われていることに気付くだろう: Creed(信条)とIncarnation(顕現)はヨハネによる福音書1章1-18節、精神と肉体の対置はキリスト教の中心的教義(マタイによる福音書26章41節とマルコによる福音書14章38節とヨハネによる福音書3章6節と、エレミア書4章4節を引用したローマ人への手紙2章28節と、ローマ人への手紙7章5節と8章3節、ガラテヤ人への手紙5章17節)である。さらに、「人種に基づかない」と「肉体に対する精神の勝利」という表現は、人種差別主義のナチイデオロギーに対する明確な否定である。

スイス国民が共有できる市民宗教と呼べるものがあるなら(宗教儀式、トーテム(旗)、神話、聖地(1938年設立の国立博物館はスイス連邦憲章を祭る場であり、実際に教会のように見られていた)などにより国家アイデンティティを創造する)、それこそが、第2次世界大戦前夜の「精神国防」と呼ぶべきものである。

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Isabelle Meier, Mythos Landi: Ein Blick hinter die Kulissen. Zum schweizerischen Nationalismus am Vorabend des Zweiten Weltkrieges, in: Silvia Ferrari et al., Auf wen schoss Wilhelm Tell? Beiträge zu einer Ideologiegeschichte der Schweiz, Zürich 1991. (short version of: Isabelle Meier: »Die Landi«. Zur Rekonstruktion des Nationalismus an der Schweizerischen Landesausstellung in Zürich, Uni Zürich, Zürich 1987)
Morel Yves-Alain, Aufklärung oder Indoktrination? Truppeninformation in der Schweizer Armee 1914-1945. Zurich: Thesis Verlag, 1996

その後、1970年代には、精神的国土防衛は、スイス全体主義あるいは民主的全体主義として、歴史的にネガティブなものとして評価されるようになった
In der Historiografie wurde die G. ab den 1970er Jahren negativ beurteilt und auf die rechtsbürgerl. Spielart reduziert. Sie wurde als "helvet. Totalitarismus" oder als "demokrat. Totalitarismus" gar in Faschismusnähe gerückt und zur Chiffre für Réduit, Nationalismus, Engstirnigkeit und Heimattümelei. Rechtsbürgerl, zuweilen sogar rechtsextreme Werte wurden mit der G. konnotiert. Erst in den 1990er Jahren brach die Geschichtswissenschaft die Reduktion der G. auf ihre rechtskonservative Variante auf und arbeitete die antitotalitäre Stossrichtung und ihr politisch breites Spektrum heraus. Eine Gesamtdarstellung der G. steht noch aus.

歴史叙述では、1970年代の精神的国土防衛は、否定的かつ右翼であると判断された。バリエーションは減少した。精神的国土防衛は、「ヘルベチア全体主義」あるいは「民主的全体主義」に近づき、国家要塞・ナショナリズム・偏狭・自国偏重の符丁となった。右翼、ときには極右の価値観も精神的国土防衛に結びついていた。1990年代になり、歴史学は精神的国土防衛を適切な保守的な形に縮小し始め、反功主義的な推進力とその政治的に広いスペクトルを作り出した。精神的国土防衛の全体像は依然として明瞭ではない。

[ Marco Jorio: "Geistige Landesverteidigung" on Historisches Lexikon der Schweiz (スイス歴史辞典) ]



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