冷戦時代の核実験や民間防衛をめぐるカルチャー

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1945年8月12日の"genzai bakudan"



1946年10月2日付のAtlanta Constitutionに、「日本は敗戦前に原爆を開発しており、1945年8月12日に、朝鮮興南沖の小島で原爆実験に成功していた」という記事が掲載された。根拠は帝国軍憲兵将校からの伝聞、現地はソ連占領地域で直接調べようもないという怪しいもの。米軍はこの記事を一蹴し、APも否定記事を出した。

このネタは与太以上のものではないが、記事を書いた記者が語るように、この記事はネタ的には「米国による原爆投下の決断を疑問視するモラリストたちへの回答」となるものである。そのためか、21世紀に入っても、Military Channelが取り上げるなど、ときおり話題となっている。
1946年10月2日 Atlanta Constitution報道

1946年10月2日に、いかにもそれっぽいが、根拠が伝聞1個という怪しい記事が、Atlanta Constitutionに掲載された。
[ David Snell: "Japan Developed Atom Bomb; Russia Grabbed Scientists" (1946/10/02) on the Atlanta Constitution ] (archive)
日本は原爆を開発していた。ロシアが科学者たちを捕縛した。
Actual Test Was Success (原爆実験は成功した)

終戦3日前に、日本は原爆を開発し、実験に成功した。

ソ連陸軍先遣隊が朝鮮に突入する数時間前に、日本は朝鮮にあった原爆プロジェクト拠点で、未完成の原爆と機密文書と原爆プロジェクトを破棄した。

原爆を開発した日本の科学者たちはソ連の捕虜として、モスクワにいる。彼らは、原爆のノウハウを求める捕縛者たちから拷問を受けた。

朝鮮地域はソ連軍の厳格な支配下にある。ソ連軍は、この地域への米国人の訪問を禁じている。戦後、一度、米国のB-29スーパーフォートレスが朝鮮へ飛行中に、Hammung空港近くで、ソ連軍のYak戦闘機4機に撃墜された。

この情報を私は、日本敗戦前に興南プロジェクト(Konan Project)の防諜の任にあったという日本軍将校から得た。彼は日本の原爆プロジェクトの名称と日付と事実と図面を私に手渡した。これを私はソウルの米国陸軍情報部に送った。米国陸軍省はこの情報の大半を保持している。私に情報を提供した人物を保護、及び陸軍からの要請により、彼を偽名、Tsetusuo Wakabayashi大尉と呼ぶことにする。

この情報は、米国の核兵器独占は長くは続かないだろうというスターリンの最近の演説に光を投げかけるかもしれない。おそらく、Henry A. Wallaceのとった立場を説明することになるかもしれない。また、おそらく、連合国が裕仁を傀儡君主として存続させることに同意するという、我々の提示した降伏条件の受入に日本が急に躊躇したという、これまで説明がつかなかった事態の説明になるかもしれない。そして、おそらく、我が軍のB-29を1945年8月29日に興南(Hungnam)地域でソ連が撃墜した事件にも、新たな光を投げかけることになるかもしれない。

この情報を得たのは、私が朝鮮で活動していた第24刑事捜査部(Criminal Investigation Department)の一員だったときだった。私はWakabayashi大尉に、捜査員あるいは陸軍軍人としてだけではなく、報道記者としてインタビューすることができた。彼は自分が話したことが公表されることを知らされ、十分に理解していた。

彼は引揚者として日本に向かう途上で、ソウルに滞在していた。インタビューは朝鮮の首都を見下ろす丘の上の神社だった場所で行った。この神社は故郷へ還る日本人のためのホテルに転用されていた。

日本に対する戦勝後、朝鮮半島北部の沿岸都市興南近くの広大な山岳地帯で、終戦間際の数か月に動いていた、巨大で謎に包まれた工業プロジェクトの存在についての情報の断片が、米国軍情報部の手に流れ着いた。

この興南での活動についての最も完全な証言が米国の耳に届いたのは、この話題について日本が沈黙して以後、初のことではないかと思われる。

興南近くの山の洞窟で、男たちが昼夜なく働き、日本の原爆の名称である"genzai bakudan"の最終組み立てを行った。それは日本時間1945年8月10日で、広島で原爆の閃光が放たれてから、わずか4日後、日本の降伏の5日前のことだった。

その北では、ソ連の大軍が満洲へと雪崩れ込んでいた。

その日の深夜過ぎに、洞窟の入り口から日本のトラック輸送隊が移動し、用心深い歩哨たちの側を通過した。トラックは渓谷を進み、寝静まった農村を通過した。8月で、棚田の泥の中の蛙が夜中も鳴いていた。まだ涼しい夜明け前に、日本の科学者たちと技術者たちは、興南で"genzai bakudan"を船に搭載した。

日本海の入り江近くの沖合で、より必死な準備が進められた。その日の昼と夜を通して、老朽船やガラクタや漁船が停泊地の中へと移動した。

8月12日の夜明け前、停泊地の船をぬって、エンジン音を立てて、ロボットが発進し、入り江で座礁した。乗客は"genzai bakudan"である。そして、時計が時を刻んだ。

20マイル彼方に観測者たちがいた。休みなく働き、その仕事がまったく手遅れであることを知っていた男たちにとって、その待ち時間は困難で、奇妙なものだった。

OBSERVORS BLINDED BY FLASH (閃光で眼が眩む観測者たち)

日本がある方向の東の空が明るくなった。太陽が水平線から顔を出した瞬間、停泊地は閃光に照らされ、溶接用の遮光面をつけた観測者たちの眼が眩んだ。火球は直径推定1000ヤードの大きさになった。極彩色の上記の雲が上空へを湧き上がり、成層圏にキノコ雲を形成した。

爆発直下の船は、水と上記の混合物に包まれて、見えなくなった。停泊地で、船やガラクタが激しく燃え上がった。大気が少し澄みはじめると、観測者たちは幾つかの船が消滅したことを確認できた。

その瞬間の"genzai bakudan"は、東から昇る太陽の輝きに匹敵していた。広島と長崎を破壊したのと同じく恐るべき原爆の実験に日本は成功した。

時間はあまり残されていなかった。戦争はクライマックスへとなだれこんでいた。米軍の日本上陸に対抗して投下するために神風に原爆を搭載する前に、ソ連軍先遣隊が興南へと到達するだろう。

それは難しい決断だった。しかし、決断は為された。

観測者たちは急いで水上を興南へと戻った。ソ連軍先遣隊が数時間先に迫っており、神々の黄昏の最後のシーンが始まった。科学者たちと技術者たちは機械を壊し、組み立て途中の"genzai bakudan"を破壊した。

ソ連軍列が興南に到達する前に、洞窟はダイナマイトで封鎖された。しかし、ソ連軍はあまりに早く到達し、科学者たちは逃げ切れなかった。

これが、Wakabayashi大尉が私に語った話である。

日本が原爆製造の努力を始めたのは1938年、ドイツと日本の科学者が会って、原子の中に秘められたエネルギーの軍事利用についての論じたときからだった。このとき、技術情報は好感されず、理論だけが論じられた。

1940年に、東京の理化学研究所の仁科研究室で、世界でも最大級のサイクロトロンが建設された。(米軍が東京で発見したサイクロトロンは破壊された。)

THOUGHT ATOMIC BOMB RISKY (原爆はリスキーだと考えた)

戦争初期に科学者たちは原子理論の研究を続けていたが、米国が日本との戦争を始めるまで、科学者たちは日本政府に対して、本格的な原子力プロジェクトに関心を持たせることはできなかった。従来、日本政府はそのような冒険は、あまりにリスキーで高くつくと考えていた。真珠湾に続く数年、日本の軍国主義者は核兵器を使うことなく、米国を屈服させられると考えていた。

機動部隊と侵攻軍先鋒による戦線が日本本土に近づくと、日本海軍は水陸両用作戦に対する防衛手段として原子爆弾の製造に着手した。原爆は神風攻撃により連合軍艦船に対して投下されることになっていた。

Wakabayashi大尉は原爆による完全破壊領域を1平方マイルと推定していた。

プロジェクトは名古屋で始まったが、B-29による日本本土の工業都市への攻撃が始まると、朝鮮への移動をよぎなくされた。

「私はB-29こそが日本を打倒したと考えている。B-29により、朝鮮へプロジェクトを移動せざるを得なくなった。これにより3か月を浪費した。B-29の爆撃がなければ、3か月早く"genzai bakudan"を完成できた」とWakabayashi大尉は述べた。

朝鮮でのプロジェクトには約4万人の日本人作業者が配属された。うち約25000人が訓練された技術者及び科学者だった。プラントの組織は、作業者たちの行動範囲を自分の部署に限っていた。プラントの聖域は洞窟深くに合った。ここでは400名の専門家が働いていた。

KEPT IN DARK ON EACH OTHER’S WORK (互いに秘密になっていた)

1人の科学者がプロジェクト全体の総責任者だった。他の6人は、著名な日本の科学者で、原爆製造の6つの工程を受け持ってた。これらの6人は、他の5人の仕事の内容について知らされていなかった。(これらの科学者の名前は米軍の検閲に該当する。)

ソ連は7人のキーマンを含む、最も訓練された捕虜の大半を確保した。7人のうち1人が1946年6月に脱出し、朝鮮半島の米軍占領地域に逃げ込んだ。米軍情報部はこの男を尋問した。Wakabayashi大尉はこの男とソウルで話した。その科学者はソ連人から拷問を受けたと証言した。彼は7人全員が拷問を受けたと証言した。

「ソ連人たちは燃える破片を科学者たちの指先に突っ込んだ。鼻腔に水を注いだ。我が日本の科学者たちは、機密をソ連人に漏らす前に死んでしまうだろう」と彼は述べた。

Wakabayashi大尉はソ連人が、興南地区を精力的に調査していると述べた。

戦争賠償委員会のEdwin Pauleyが朝鮮半島北部を調査したとき、特定の地域しか見ることを許されず、それも厳格なソ連軍の監督のもとだった。

1945年8月29日、米軍のB-29が、連合国捕虜収容所に投下する食糧と医療品の貨物を搭載して、興南地区に向かっていた。近くのHammung空港から飛び立った4機のソ連軍Yak戦闘機がB-29を取り囲み、Hammungに着陸するように信号を出した。

PILOT REFUSES; REDS FIRE (パイロットは拒否し、ソ連軍機は攻撃した)

パイロットである、ケンタッキー州AshlandのJose H. Queen中尉は空港が小さいことを理由に拒否し、「ソ連軍と事を構えたとき」にSaipon基地へと帰還しようと回頭した。海外から10マイル沖合で、Yak戦闘機は攻撃を開始し、B-29を撃墜した。12人の乗員に怪我はなかった。ソ連軍機一機が通信士Douglas Arthurを機銃掃射したが、はずした。

ソ連人が後にQueen中尉に、「ドイツ軍がときどき米軍のマークをつけていたので、日本軍もそうするのかと思い、米軍のマークが見えたが、確信が持てなかったのだ」と告げた。

Wakabayashi大尉は「日本の防諜部隊は少なくとも、広島原爆投下の1年前には、米国東部山脈に巨大で謎めいたプロジェクトがあることに気づいていた(おそらく、テネシー州Oak Ridgeのマンハッタンプロジェクト)。そこで原爆が製造されていると考えていたが、確信は持てなかった。」と述べた。

「一方、連合国情報部は興南の原爆プロジェクトについて知っていたはずだ。というのは、長期計画だった日本海軍の核実験のわずか6日前に広島に原爆を投下したからだ。」と述べた。

おそらく、ここに、米国による原爆投下の決断を疑問視するモラリストたちへの回答があるだろう。

日本人の事務所で、通訳と私は香り立つ緑茶をすすり、Wakabayashi大尉は、偉大な、そしておそらく世界を揺るがす話を繰り広げた。彼の眼は黒縁眼鏡の奥で誇りを持って輝いていた。インタビューが終ると、彼は我々をドアへと案内し、深々とお辞儀をした。

原爆投下の倫理的問題と、ソ連による核武装(実験成功は1949年)への恐怖がただよう米国1946年の記事である。執筆したのはDavid Snellという軍人で記者という人物で、特に与太記事の評判があるわけではないらしい。
[ 1946 Atlanta Constitution Atom Bomb Articles ]
記者: David Snell

日本の原爆実験成功を伝える記事の執筆者であるDavid Snellは、1945年に米国陸軍に入隊したとき、Atlanta Constitutionの報道記者だった。

ルイジアナ州Minden生まれのSnellは、米国陸軍入隊の直前に、MariettaにあるAtlanta Constitutionの報道局に配属された。陸軍入隊中に、Snellは米国内での訓練中も、朝鮮占領軍として赴任中も、多くの記事をAtlanta Constitutionに掲載した。朝鮮からの記事のひとつが、「米国司教協議会を代表して、布教活動再開のために教会の状況を視察して、中国・日本・朝鮮を歴訪した」AtlantaqのArthur J. Moore司教のインタビューだった。

朝鮮で、Snellは、米国に対する犯罪を調査する第24刑事捜査部(24th Criminal Investigation Detachment)に配属された。原爆の記事は、彼の正式任務ではなく、その一部でもなかった。

Atlanta Constitution在職中は、SnellはMariettaに住んでいた。彼の妻はアーカンソー州Augustaの旧姓Julia Williamsで、Marietta在住中に1人息子のBarryが生まれている。
1946年10月2-3日 一蹴する米軍・否定記事を配信するUP

そして、これについて、当時の米軍は一蹴:
[ News to Me Groves says of Japanese Atom Bomb. Washington, Oct. 2 (UP). ]


Washington, Oct. 2 (UP).

Major General Leslie Groves, Chief of the atom bomb Manhattan project said Wednesday night when informed of reports that Japan explored a test A-bomb three days before surrender.

"I would be very much interested if the story were true."

"It's all news to me."

War Department officials declined immediate comment on the story carried by the Atlanta Constitution which said that the writer, recently returned from duty with a criminal investigation detachment, had given his information to the American Army Intelligence Unit in Seoul, Korea.

Dr. Carl T. Compton, President of Massachusetts Institute of Technology, told a Senate Committee a year ago that Japan had been trying to develop an A-bomb but that the effort failed for two reasons: Japanese physicists reached mistaken conclusions, B-29 attacks demolished the laboratory where such experiments were being conducted.

American forces entering Japan after the surrender of the nation discovered a cyclotron (an atomic splitting device used by laboratories) and destroyed the instrument.

Many military experts concerned with atomic development contend that Germany was far more advanced than any other nation except the American, British and Canadian teams in the race to produce an A-bomb.

German scientists were known to have made substantial strides in research before the military collapse of the Reich. Indeed it is recorded that non-Nazi scientists who fled Germany contributed valuable knowledge to the research which ended in production of the first A-bomb in New Mexico

Groves少将は日本の原爆について初耳だと述べた

日本が降伏3日前に原爆実験を実行したという記事について知らされた水曜夜に、原爆マンハッタンプロジェクトの責任者であるLeslie Groves少将は「その話が真実なら、とても興味があったと思う。私にはまったく初耳だ」と述べた。

米国陸軍省当局は、刑事捜査部の任を終えて最近帰国した著者が情報を朝鮮ソウルの米国陸軍情報部の渡したというAtlanta Constitutionの記事について、コメントを辞退した。

Massachusetts Institute of Technology学長のDr. Carl T. Comptonは昨年、連邦上院委員会で「日本は原爆を開発しようとしたが、2つの理由で失敗した。ひとつは日本の物理学者たちが誤った結論に到達していたこと。もう一つはB-29の爆撃で、実験が行われていた施設が破壊されたことだ」と証言していた。

米軍が日本降伏後に日本に進駐したとき、サイクロトロン(実験室で使われたatomic splitting device)を発見して、破壊した。

原爆開発に関係した多くの軍専門家たちは、米英加のチームを除いて、原爆開発競争で最も進んでいたのはドイツだと主張している。

帝国の軍事的崩壊前に、ドイツの科学者の研究がかなり進展していたことが知られている。実際、ドイツを逃れた非ナチスの科学者が、ニューメキシコでの最初の原爆製造に到達した研究に、貴重な知識を寄与していることが記録されている。
翌日にUPが否定記事を配信する。


原爆を開発し、終戦三日前に実験に成功した日本の科学者たちが、モスクワでソ連の捕虜となっているとAtlanta Constitutionが自社記事で木曜日(1946/10/02)に述べた。

元Atlanta Constitutionの記者で、ソウルで活動している第24犯罪捜査部隊の軍務から最近、帰国した、その記事の執筆者David Snellは、ソ連人たちが「原爆のノウハウ」を手に入れようとして科学者たちに圧力をかけたと述べた。

Snellはこの話を、朝鮮興南にあった日本の原爆開発拠点の防諜部隊長と称する日本人将校から聞いた。この将校は、ソ連軍侵攻の数時間前に、機械と秘密文書と部分的に完成していた原爆を破壊したと述べたと、Snellは書いている。

「全くの嘘だ」という烙印

東京では米国陸軍情報将校が木曜日に、米日の科学者たちとともに、Snellの証言を嘲った。

「まったくの嘘だ」と日本の最も注目される核物理学者Dr. Yoshino Nishinaはコメントした。

「まずありえない」と東京の米国陸軍情報将校は素っ気なくコメントした。

日本の軍事専門家であるDr. Nishinaは「常に嘘をついており、根拠なくものを言っている。そのような実験は朝鮮では行われていない。ただし、興南には化学肥料工場があった」と付け加えた。

マンハッタン計画を率いたLeslie Groves少将は「話が本当なら、彼は非常に興味を惹かれたことだろう」との見方を示した。しかし、サンフランシスコではPatterson陸軍長官は日本の原爆の爆発報道は真実ではないことを保証した。彼は終戦三日前に日本が原爆実験を行ったという報道を否定した。

"Genzai Bakudan"と呼ばれた

しかし、米軍が日本に入った時、実験室で使われていた原子分離装置であるサイクロトロンを発見して、破壊したことが思い出される。

Snellは、日本の原爆開発スタッフのひとりが、6月にソ連人たちのもとから脱出し、米国情報機関の尋問を受けた件に関係していた。さらに彼自身が、偽名"Tsetusuo Wakabayashi"大尉という情報提供者から得た情報を、ソウルの米国陸軍情報部に提供したと述べた。

しかし、米国陸軍省は「日本の原爆についての得た情報は、ほぼすべてSnellによるものだったと」と真偽を留保した。

[ Associated Press 1946/10/3 ]
その後も、よみがえるGenzai Bakudan

この話は、その後、特に相手にされることなく、40年近くの時が流れる。そして、1985年にRobert K. Wilcoxの本"Japan's Secret War: Japan's Race Against Time to Build Its Own Atomic Bomb"で、新たな証拠と主張されるものとともに、とりあげられる。しかし、これも否定されて忘れ去られた。

さらに、20年後の2005年にMilitary ChannelがJapan's Atomic Bombでとりあげるが、このときに至るも、核実験成功の根拠は、David Snellのインタビュー記事のみ。

また、2004年にJoseph P. Farrellが本"Reich of the Black Sun: Nazi Secret Weapons & the Cold War Allied Legend"で、David Snellの記事を引用している。

この他、2004年5/6月号のCold War Timesに、「Genzai Bakudan (Greatest Fighter) 」というWillian J. Pellasの記述が出現している。この奇妙な訳も、その後、真に受ける人が出てきている。

韓国でも取り上げられるGenzai Bakudan

一方、韓国ではMBSが「1945/08/12 Genzai Bakudan実験成功」ネタを事実のように伝える番組を流している。米国とは違った意味で、韓国には、このようなネタの需要があるようだ。
‘이제는 말할 수 있다’
<끝나지 않은 비밀 프로젝트, 일본의 원폭개발>

"今だから言える"
<終わっていない秘密のプロジェクト 日本の原爆開発>(2005/06/12)

◆ 1945년 흥남 앞바다에서 원폭 실험이 있었다?

1947년 연합군사령부 정보 보고서는 놀라운 내용이 들어있다. 1945년 8월 12일 흥남 앞바다에서 섬광과 버섯구름을 동반한 폭발이 있었으며 천 야드 정도 되는 직경의 불덩이가 하늘로 솟았다는 것이다. 섬광과 버섯구름은 바로 원폭실험의 가장 유력한 징표이고 다른 무기는 버섯구름이 불가능했기 때문에 이 보고서는 상당한 논란을 증폭시켜왔다.

8월 12일은 바로 히로시마, 나가사키에 원폭을 맞은 직후여서, 일본이 흥남의 원폭실험 때문에 항복을 늦추고 있었다는 의혹을 낳았다.

또한 일본은 원폭개발에 성공했다면 인간어뢰, 풍선폭탄, 잠수함 등에 원폭을 탑재해 가미가제식으로 미국을 공격하려는 계획을 세웠다. 첫 목표는 하와이였고, 최종 목표는 미국 본토였다.

1945年興南沖で原爆実験があった?

1947年連合軍司令部の情報レポートには、驚くべき内容が含まれていた。1945年8月12日興南沖で、閃光とキノコ雲を伴った爆発があり、1000ヤード程度の直径の火球が空に舞い上がった。閃光とキノコ雲は、まさに原爆実験の最も有力な兆候であり、他の兵器ではキノコ雲が生じえないので、このレポートには、かなりの論議を増幅させてきた。

8月12日は、広島と長崎に原爆攻撃を受けた直後なので、日本が興南の原爆実験のために降伏を遅らせていたという疑惑を生んだ。

また、日本は原爆開発に成功したら、人間魚雷、風船爆弾、潜水艦などに原爆を搭載し、神風式でアメリカを攻撃する計画を立てていた。最初の目標はハワイであり、最終的な目標は、米国本土であった。

[ MBS: 끝나지 않은 비밀 프로젝트, 일본의 원폭개발 ]
もちろん、韓国内にも、ありえないネタという報道もある。
Many modern researchers find fault with Wakabayashi's claims including Walter E. Grunden who compared the American plant at Oak Ridge, Tennessee (93 square miles with 82,000 personnel all dedicated to the production of U-235) to Hamheung, a mere 15 square miles, which at its peak probably had about 45,000 personnel, many of them ``Korean laborers, conscripted students, convicts, and prisoners of war, who were primarily involved in ``manufacturing synthetic fuel, explosives, and industrial chemicals. Grunden also claims that there were only five buildings in Hamheung that the United States was unsure of their purpose.

多くの現代研究家たちが、Wakabayashiの主張に誤りを見出している。Walter E. Grunden は、テネシー州Oak Ridgeの米国のプラント(93平方マイル、ウラン235製造を専門とする要員82000人)とHamheungを比較しており、それによれば、わずか15平方マイルで、最大要員45000人で、その多くは「朝鮮人労働者、学徒動員、囚人、捕虜」であり、主として「合成燃料や爆薬や工業化学製品の製造」に従事していた。Grundenは、米国が用途を特定できなかったHamheungの建屋はわずか5つだったと主張している。 ...
Gruden asserted that stories such as this, once they have become historical myths are almost impossible to dispel and suggested that the allegations of Japan's testing of the bomb in Hamheung was, as Snell had concluded, ``…the answer to moralists who question the decision of the United States to drop an atomic bomb.''

Grudenは、このようなストーリーがひとたび歴史的神話になると、消すことはほぼ不可能だと主張した。そして、Hamheungでの日本の原爆実験があったという嫌疑は、Snellが結論したように「米国による原爆投下の決断を疑問視するモラリストたちへの回答」だと示唆した。

[ Robert Neff:"Japan Tested Atomic Bomb in NK Before End of WWII?" (2009/12/04) on Korean Times ]
それでも、ググってみると、それなり韓国では、1945年8月12日明け方に興南沖で原爆実験が成功したと信じている人がいるようだ。
Genzai bakudan実験場

日本軍による原爆実験がどこで行われたか、場所を特定した主張はない。
北朝鮮Yonghung湾内の小島のどれかということになっている。


この位置だと20kt程度の爆発では、陸地に被害が及ばない。
0.26km すべての蒸発。
0.59km コンクリート建物に甚大な被害。ほぼ全員死亡。
1.24km 建物の相当の被害。死傷者・火災多数。
1.41km 500レムの放射線。
1.91km 第3度の火傷。
3.19km ガラスが割れる被害が出る。

Genzai bakuanが登場するフィクション

"Genzai bakudan"の開発製造場所も実験場所も、現在は北朝鮮領内であり、現地確認のしようがない。そのあたりが、フィクションとして使い勝手が良いのかわからないが、Genzai Bakudanが登場するフィクションがいくつかある。





関連

当時、興南の建物群について米国はほぼすべてを知っており、マンハッタン計画級の建物群が存在できる余地もないなど、詳細な批判まとめ:

1986年のWilcox: "Japan's Secret War"に対する批判記事。
科学史学者Derek de Solla Price (1922-1983)が、わりと初期から日本の原爆開発について、肯定的に記述している。
Genzai bakudanの実験が成功したが、正史どおり日本の敗戦により、日本が原爆を使うことがなかった世界を描くフィクションが幾つかある。





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