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ほぼ実話 8/3(火) 01:55:10 No.20100803015510 削除


今回でその後の西脇と妻の話はおしまいにします。
あまり面白くない話ですが、ご容赦下さい。


西脇とのセックスの話をするときは、相変わらず淫らにあそこを濡らして話しました。
しかし、関係が終わる前の話は痛々しいほどでした。

今まで書いてきたようなことをされていたと云うことを知っても、妻が西脇と別れた後は、浮気はしていないという告白を信じられました。
それは、妻が西脇のセフレの一人として過ごした日々は、壮絶な快感にまみれていましたが、最後はあまりに屈辱的で狂おしい日々だったからです。
私に隠れて、西脇の気まぐれによって支配され、私とのセックスだけでなく生理やオナニーまでも管理され、日々、自分より若い西脇の彼女やセフレの悶える声を聞かされ続ける生活だったと言います。
次第に、性的に嬲られ、焦らされる事ばかりが増え、滅多に性的な満足は与えられないという、SMを超えたような扱いになっていたのです。


何事にも限界があります。
妻の性欲やマゾ気質についても同じ事です。
西脇のサディズムは妻の付き合いきれるものではなかったのです。


西脇の新しい彼女が終わりの始まりでした。

西脇との関係が半年になる頃、西脇も含めて私たちは4年生になりました。
その頃、妻は要領よく就職先も内定をもらっていましたが、私はバイトと就職活動と残った単位でいっぱいいっぱいでした。
西脇は父親の会社にそのまま入るつもりでしたので、ありあまる時間を「女」に使うことが出来ました。
その年に入学したサークルの新入生、恵子と西脇は付き合い始めました。
情報に疎い私も、このことは知っていました。
やっぱ一番いい女の子持って行っちゃったと、噂でした。
4月のことです。

もちろんすぐに彼女も西脇のセフレたちのことも知りましたが、遊び慣れた彼女は初めのうちは、妻や沙季ちゃんは先輩たちでもあり黙認という形でしたが、5月も終わる頃には、妻や沙季ちゃんと一緒の時も西脇と性行為をするようになったと言うことです。

しかし、自分の「セフレではない彼女」という立場からすれば、彼氏にセフレがいるのは、当然、面白いはずはありません。

私も恵子のことは覚えています。
美人だけど気が強そうだな、という印象でした。
西脇と付き合っているらしいということも知っていました。
若く美人で頭も切れスタイル抜群の彼女に西脇は惚れきっていたといいます。
恵子の要求は何でも、言うとおりになりました。
私が言うのもおかしいのですが、妻も同じようなタイプだと思います。
しかし、西脇がセフレではなく彼女にしたいと思ったのは、何故なのか。
多分、妻は西脇の前では完全にマゾにされましたが、恵子はそうではなかったのです。
その差かも知れません。
恵子は徹底的にサディストでした。

だんだんと妻や沙季ちゃんなどのセフレに不躾な態度をとるようになり、意地悪をもするようになったと言います。
特に西脇のお気に入りだった妻への陰湿ないじめはひどいものでした。

彼女のせいでというべきか、彼女のおかげでというべきか・・・
妻と西脇の挿入を伴うセックスの回数は減っていきました。

それまでの半年間、妻の肉体に西脇の精子が注がれなかった日は殆どありませんでした。
生理の時でもフェラチオはしていたと言います。
しかし、恵子が関わり始めてから、膣への挿入が減り、肛門への挿入ばかりになりました。
西脇が恵子に熱を上げていたのもあり、恵子は、西脇が他の女とセックスすることを、はっきりといやがり始めたからです。
アナルセックスならば本当のセックスではないし、手っ取り早く射精できるので、文句を言う恵子をなだめるには、その方が面倒がなかったのです。
また、恵子は妻が苦痛に顔を歪めるのを小気味いいとも、思っていたようです。
しかしそんなアナルセックスでも、挿入に飢えた肉体には喜びであったと言います。

けれども、妻と西脇のアナルセックスさえ恵子がいやがるせいで、次第に口内射精ばかりが増えました。
自然な流れで、妻がフェラチオだけをさせられ、射精もないまま、恵子に挿入するようになります。
本当は自分に入れて欲しいのに、他の女に挿入するために、ペニスをフェラチオで勃起させるのは辛かったのでしょう。

妻が性欲を満たしてもらえないでのけ者にされることが増えていきました。
のけ者といっても、西脇の管理から解放されたわけではないことが、悲劇でした。
いまだに妻に未練のある西脇は、完全に妻を切ることはせず、それまでと同様に自分のマンションに妻を呼びました。
妻の方も未練がありました。
あまりに西脇との濃厚なセックスに慣れ親しんでいたのです。
嫌な思いをすることはわかっていても、習性のような感じで西脇の元に通うのをやめられなかったといいます。
しかしいくら西脇の部屋に行ったところで、そこには毎回のように、自分よりも優先順位の高い恵子がいたのです。
恵子は、妻と西脇のセックスを、他の女性とするより、嫌いました。
西脇の妻への執着、妻とのセックスをやめさせたい恵子の希望、そして恵子の意地の悪い性格は、結局、妻へのサディスティックなプレイに収斂していきました。


西脇の執心を上手く利用した彼女によって、ほんの2、3ヶ月の内に、寝室の支配者は王から王女――むしろ女王というべきかも知れません――に変わってしまいました。

恵子は、はじめは妻をマンションに来させないように西脇に頼みました。
しかし、西脇の妻への執着が勝り、強引に妻は二人のセックスプレイに巻き込まれ続けました。
縛り付けられ、セックスを見せつける事から始まりました。
西脇の趣味です。

オナニーも出来ず、恋人の私とも、西脇ともセックスを奪われた妻は、身の置き所のない性欲の疼きと、屈辱に耐えかね抵抗しました。
しかし恵子のサディズムは、西脇の影響もあり次第に自発的なものになっていったといいます。
縛られ、セックスを見せられた後の妻をローターや指でいたぶっては、放置するのです。

妻が泣いて嫌がっても、恵子の「お願い」の前にはかなわず、西脇の腕力でねじ伏せられました。
そしてそれは、妻のマゾヒズムの欲望を煽って、西脇の部屋に通い続けさせる程度には、エロティックで快感を伴うプレイでもあったのです。

恵子の危険日には、射精直前に西脇があそこから抜いて、彼女の愛液でベットリと濡れたペニスから妻の口や性器、アナルに射精だけされたといいます。
恵子は、西脇がするかわりに自分がすると言って、ペニスバンドを用意して貰い、妻を組み敷いて自分で犯したそうです。
機嫌が悪いと、錠を着けさせたまま、装着した疑似ペニスを長時間フェラチオさせました。
妻は縛られたまま失神するまでイラマチオをされたこともあると言います。
咬まれる心配が無いせいで、西脇よりも過酷な責め方をしたそうです。
「この女は私が死んでもいいと思っているんじゃないか」と思うほど、残酷にいたぶることもあったようです。

恵子にはアナルも犯されたそうです。
西脇は男ですから快感を与えようと気を遣いますが、彼女はそんな気など遣いません。
普段自分を指導する先輩の顔が苦痛で歪む顔を見つめながら激しく腰を振り立てました。
特に西脇とセックスをした後の妻を許すことはなかったと言います。
妻ともセックスをしたがる西脇への恵子からの交換条件は、その後で思うがままに自分の手で妻を痛めつけ嬲り抜くこと、その補助を西脇がする事でした。

西脇が射精し無関心になった後で、凄惨な性的リンチを一人で嬉々として妻に加えました。


もちろん恵子は、妻や沙季ちゃんなどの錠前のことを知っていました。
西脇がセフレと自由にセックスをすることを嫌がり、6月頃には鍵を自分で持ちたいと言い、妻の鍵も、もちろん彼女が持ちました。
焦らされただけの妻の肉体が、太い挿入を求めて悶えていること、その鍵が膣のオナニーすらも妻から奪っている事を、よく知っていました。
見せつけるようにネックレスにぶら下げていたと言うことです。
練習中でも意味ありげに触って見せたりするのです。

妻が沙季ちゃんと仲がいいのも気に喰わず、沙季ちゃんには少し優しくして、差別したそうです。
妻の前で、自分のネックレスから「先輩、オナニーするときは外してください」と言って、沙季ちゃんだけには鍵を渡して上げたりもしたそうです。
時には、わざと妻もいるときに西脇と沙季ちゃんにセックスをさせ、自分は縛った妻を嬲っては楽しんだと言います。
自分と同じタイプの「かっこいい系」の女性である妻には徹底的に対抗心を燃やしていました。


恵子にとってセフレは自分の彼氏を寝取っているメスネコたちで、憎いのです。
当然の心理かも知れません。
恵子自身が西脇とのセックスに溺れていくにつれ、妻への嫉妬や攻撃は過激なものになったと言います。

夏になると、妻が西脇とセックスできるのは、週に1回が限度だったと言います。
それ以外の日は、縛られ焦らされたまま禁欲を強いられるか、恵子のペニバンで犯されたそうです。

欲求不満を溜め込まされて、彼女の疑似ペニスにすら快感を与えられる妻に、恵子はいらだちを覚えるようになりました。
彼女の責め方は陰湿なものになっていきました。

例えば、いく直前で挿入を抜き去り、南京錠を着けてしまうのです。
そして、後ろ手に縛り同じベッドに寝かせたままのこともあれば、手首をロフトの手すりにひもで縛り付け、両腕を挙げて立たせたまま、自分たちのセックスを見せつけたのです。
もちろん、実際に腕力をふるうのは西脇です。
セックスに飽きるとラビアのリングや錠前に重い物、例えば、ローターや妻の化粧ポーチ、携帯電話などを吊していたぶりました。
いたぶりながらも、クリトリスにローターやバイブをあてて、欲求不満を煽ることも忘れないのです。

ネックレスに下げた鍵を見せながら、妻を西脇の部屋から送り出すときの彼女の顔が忘れられないと言います。
「先輩、クリでばっかりオナニーしたらクリがおっきくなっちゃうから気をつけて下さいね」などと言われるのです。

その子のせいでまた何日も妻の膣奥は太さに飢え続けなくてはならないのです。
いつ与えられるかも分からない生挿入と中出しのためにピルを飲み続けるのです。
しかし、それが与えられたときの快感を思いだすと、関係を終わりに出来なかった、と言います。


恵子はサークルでの指導ペアの変更を求めました。
通常1年生とペアになって指導する上級生は3年生で、入部当初からからペアになっていた3年生がいましたが、彼女はいろいろと理由を付けて4年生の妻に変更させました。
女子の中でも発言力のある妻が提案するように要求したそうです。

サークルとはいえ準体育会というほどの、真面目な活動をしていましたし、妻はテニス自体大好きだったので、一生懸命でした。
高校までの水泳は親が小さい頃から半ば強制的に練習をさせていたので、半ば義務のような感じでしたが、テニスは自分で決めて始めたスポーツだったからです。
体格にも運動神経にも恵まれた妻は、サークルの中でも経験者に負けない実力を身に付けていました。
高校からテニスをしていた私を追い越すのには、1年もかからなかったほどです。
西脇との関係が始まった後は、セックスにまみれた日々でしたが、サークルの活動自体は欠かさず真面目に参加し、自主的なランニング、ジョギングも変わることなく続けていました。
(彼女が西脇につけられた錠前をしたまま、ジョギングをしていた姿を思い浮かべると、それはそれで、興奮させられます。
彼女はいったい何を考えながら走っていたのでしょうか・・・)
西脇との関係がどんどん深みにはまっていく中で、唯一、健常な生活とのつながりを維持しているように自分に納得させるためだったかも知れない、と言います。

彼女にとって残された聖域であったサークル活動が、恵子と指導ペアを組むことで徐々に侵食されていくのは辛かったと言います。

練習中などサークル内では従順なそぶりで振る舞っていました。
私も不自然に感じたことなど一度もありませんでした。
しかし、妻の態度や指導の仕方が気にくわなかったりすると、不機嫌な顔になり、シャツの下に隠れていた妻の性器の南京錠の鍵のペンダントを誰からも見えるように、シャツの外に出していじって見せたりしたそうです。
彼女がヒステリーを起こすと、誰もいないトイレに連れ立ち、目の前でネックレスから外して便器に投げ込んだり、「体育館のあたりでネックレスごと落とした」と言うのでした。落とし物の届けが庶務に出るまで妻は不安な時間を過ごさせられたりしました。


時には妻も従順になれないこともありました。
しかしそういう時は、後でその仕返しを、西脇のマンションで行うのでした。

繰り返し行われ、屈辱的で忘れられないプレイは、両方の手首をロフトに縛られ立たされたまま、嬲られることでした。
先ほど書いたように、二人のセックスを見せるだけでなく、時間をかけてあらゆる種類の、いたぶり方をされたそうです。

初めて、その姿勢をとらされたときにされたのは、テニスラケットの柄を入れられたことでした。
わざわざ、試合用のユニフォームの上下を着させた上で、スコートをまくり、インナースパッツとショーツを膝上まで下げさせて、したそうです。
恵子は、妻の目を見つめながら、憐れみの微笑みさえみせて、自分の先輩に両足を開くように命じ、妻自身のラケットのグリップをゴムもつけずにねじ込んだそうです。
そんな挿入すら、ぬめった性器で受け入れてしまう程に、焦らされていたのです。
恵子のラケットにはコンドームを被せ、前後に入れられることもありました。
案の定、膣に2本とも入れられもしたそうです。

好きなだけ膣をかき回すのに飽きると、グリップは性器に突っ込んだまま、膝まで脱がせかけたスパッツとショーツにフレームの部分を引っかけるように乗せて、放置したそうです。

思い出すと、白いテニスウエア姿の妻はとても凛々しくて素敵でした。
卒業後は一度もテニスをすることもウエアを着ることもありませんでしたが、清潔でキリッとしたあのウエア姿のまま、辱められる姿を見ることが出来ないのが残念でなりません。

テニスボールも道具に使われたそうです。
テニスボールにコンドームを被せ、妻に挿入して放置するのです。
ローションを使っても4個は無理で3個がギリギリの限界だったそうです。
鏡で見させられると、丸く伸びた膣口から、コンドームに覆われた黄色いテニスボールが少し顔をのぞかせていました。
3個入れられた後で、小陰唇をいつものように閉じられ、合わせ目の部分に引っかけるようにローターを置いて、ぶら下げるのです。

テニスボールの話を聞いた私は興奮して、妻に許可を得て実際にそれを作ってみましたが、1個でも想像を超える大きさでした。
そんなものを3個も膣に埋め込まれたまま、一晩中放っておかれたら、どんな気持ちになるのでしょうか。
現実的に性器はどのような状態になるのでしょうか。

テニスの道具をプレイに使用することは本当に屈辱的だったようです。
ある意味では、自分のまっとうな生活のすべてであった、テニスを新入生に嬲られる道具にされるのです。
しかし、妻自身のマゾ気質とそれまでに仕込まれてしまっていたセックス中毒、巨根中毒は、そんな責めにさえ快感を感じさせました。

きつい合宿の前日や、大事な試合の前に、一晩中、両手を上に縛られ、立たされたまま責め抜かれたこともありました。
膣には3個のテニスボールと隙間を埋めるように入れた複数のローター、そしてクリにも乳首にもローターを張りつけられて、立ったまま耐えさせるのです。

耐えるというべきなのでしょうか。
立ったまま、全身を見られながら、一人でオーガスムを迎え、笑われる。
いった後の不感期の後、間隔を置いて、またいってしまう・・・
またいった、と笑われる。

立たされたまま、ボールギャグを咬まされることが多かったそうですが、太いバイブを口にくわえ続けさせられることもあったそうです。
バイブの柄の部分に紐を結びつけ、それを股間のピアスにもくくるのです。
手を縛られた状態で口から落とせば、ピアスの部分に激痛が走るのですから、必死で咥え続けたそうです。
ピアスや南京錠にものを吊すのは恵子の好きなプレイでしたから、切れたりしないように、より太いピアスをよりラビアの付け根に近い部分に穴を開けられてつけられていたそうです。
口から落とした後は、再び咥えるか、そのまま股間から吊すか、自分で選ばされたそうです。
再び落としてラビアの千切れるような衝撃を受けることも怖いけれど、重く太いバイブを何時間もピアスに吊されるのもどうしても避けたい・・・
多くの場合は、咥えたそうです。
落とした瞬間気をつければ、何とか腿や膝を曲げて当てることで、落下の衝撃をもろに小陰唇で受けないように出来たからです。
しかし、妻が咥える方を選んでばかりいれば、「吊す」ほうが恵子にとっては魅力的な選択肢になります。
そして、そんなことを繰り返すうちに、結局は、咥えさせたまま別のもう1本を吊す、という風にエスカレートするのです。

頭上に上げた両腕のだるさ、紐が食い込む手首の痛み、ボールギャグから胸そして股間に垂れるよだれの惨めさ・・・
立ったまま、いき続けると太腿の疲労はひどいものです。
快感と痛みや辛さに、うめき声を上げながらバイブを咥え続ければ頭痛がするほど顎が疲れます。
何より、膣に埋め込まれたボールの圧迫感は消えることはありません。
いくたびに、3個のボールを膣が喰い締めるのが分かります。
縛られ立たされたまま何度でも気をやる姿を後輩の女子に見られる惨めさに涙も流したそうです。
涙を流しながらも快感に飲まれてゆく姿を晒さなければならない、そのことにも興奮もしていたそうです。

そんな責めの翌日には、寝不足と全身の疲労で辛そうにしている妻に恵子は平然と「大丈夫ですか〜」と声をかけてきたそうです。
深夜には、責めるのにも飽きて、自分は隣の部屋で寝ていたのに。

恵子への反感こそ消えることはなかったものの、そのような屈辱的なSMプレイは、しかし、妻のマゾヒスティックな願望を虜にし始めていたのも事実だったと言います。
反感を感じ、憎いと思いながら、自分より年下の美しい女の子に責め抜かれることは、快感をももたらしました。

コンドームを被せたテニスボールを入れられたまま、ゼミに出たこともあるそうです。
もちろん、錠をされ、自分では出せないのです。
長時間立ったり座ったり歩いたりするには、1個が限界だそうです。
2個入れたままでは、とても苦しいそうです。
恵子はわざわざ、妻を西脇の部屋から送り出す前に自分でスカートをめくらせ下着を降ろさせて、ボールを入れたコンドームの端を左右のピアスにキュッと縛るのが好きだったと言います。
そんなときは、本当に優しそうに「先輩、夕方まで頑張ってくださいねっ」とキスをするのだそうです。

肉体的な快感で、セフレたちを「飼っている」事を承知している西脇は、ときどき、妻や沙季ちゃんが完全に別れようとする意志を持とうとする前に、二人だけの時間と自分のペニスを与えました。
久しぶりに与えられる快感の鮮烈さは、日頃の屈辱、恥辱を耐えさせました。


妻の口から語られると、私にとっては光り輝く宝物のように思えるこれらのエピソードですが、それは妻をして語るのに10年以上の歳月を必要とした思い出なのです。


4年生の10月、最終的に妻が別れることを決意した時のいじめには邪悪なものを感じます。

妻はピルを飲んでいましたが、恵子から、個人輸入で安く買えるから分けてあげますよ、と言われそれを恵子が飲んでいるのも見てついうっかり信用し、それまでのものから、恵子のくれたものに変えました。
しばらくして、3日ほど恵子が来ない日がありました、西脇が妻とセックスすることは計画どおりだったのです。
喜んだ妻は、恵子に邪魔されることなく何ヶ月ぶりかに長い時間をかけて、西脇にされたそうです。

しかし、久しぶりに恵子が戻ってきて、それまでのように、妻を縛って、西脇とセックスを始めた後でとんでもないことを言い始めたのです。
あのピルは、ただのビタミン剤だ、と言われました。自分は別のちゃんとしたピルも飲んでたよと。
そして、恵子がいなかった、この数日間は避妊薬を飲んでいないとしたら、完全に危険日でした。
その間に何回西脇に中出しされたことか・・・呆然としました。

緊急避妊のことを知っていた妻は、早くその薬を処方してもらうために、クリニックに行きたいと懇願しました。
遅くとも72時間以内でなければ、ピルの内服による緊急避妊は出来ないからです。

泣き叫んで狂ったように暴れましたが、恵子は、後で堕ろせばいいじゃない、とのみ言って、取り合いません。
ボールギャグを咬まされると、叫び声もよがり声も同じようなものです。
本気で暴れるので、何度も縛り直され、プレイのレベルではない、犯罪のようだったと言います。

悔しさは今までのプレイでのものとは比べものではありませんでした。
涙も怒りも枯れ果てたと思うほどの苦痛でした。
妊娠を恐れていたからこそ、たまにしか西脇とのセックスが出来なくてもピルを飲み続けたのでした。
しかしそれがこんな年下の女の策と暴力のせいで、自分の肉体が今まさに取り返しの付かない傷を負わされ、自分が胎児を殺すことになる。

絶叫を繰り返し、どれだけ自分が本気か、こんなのはプレイじゃない、もう全部おしまいにしたい、そう訴えようとしましたが、二人ともせせら笑うだけです。

西脇は、縛られたまま、焦りと怒りにのたうつ妻を平気で組み敷いて、レイプしました。
ローションが必要な状態だったと言います。
それでも激痛が走りました。
本当にレイプだと思うと、言いました。
ローションついでだからと、肛門も犯されそうになりましたが、あまりの絶叫に中断したそうです。
それでも縛めが解かれることはありませんでした。

別室に放置され、怒りと諦めとの間を彷徨い続けました。
翌朝あっけなくそれは終わりました。
眠そうな目を擦りながら妻の前に現れた恵子は、「ビタミン剤っていうの嘘だから、安心して、って今更遅いか、あはは」と言ってトイレに行きました。

言葉は出なかったと言います。
何をどう言えばいいのか、分からなくなっていたのです。
ギャグもロープも解かれたあと、服を着て家を出ました。
家で小陰唇のピアスを切り、南京錠と共に捨てました。
この時ばかりは、ついに、西脇から別れるという決意は揺らぎませんでした。


一晩中感じた、苦痛や激しい怒りや絶望感は、しかし彼女自身の中で、ある意味で正常な思考をもたらしました。

何故こんな目に遭っているのか?
よく考えればそれは明らかでした。
自ら、自分の恋人を裏切り、他人の恋人とのセックスを楽しもうとしたからです。
あの女は憎い、けれども、もっとひどいことを自分は自分の恋人にしている。
西脇のことも憎いと感じたそうです。
しかし、その感情も的外れなものであることは、分かっていた、と言います。
いつでも自分は逃げられた・・・のに逃げなかった。
自分は単に負けたんだ。
セフレに飽きられたっていうことでしょ・・・

言葉の上ではそう解決して見せても、しかし、1年にも及んだ異常なセックスにまみれた二重生活が彼女に残していた爪痕は大きなものでした。

肉体的にも精神的にも西脇と恵子は妻の限界を責め苛み、そして、結局は破綻したのです。
マゾヒストとしての快感を通り過ぎ、心に傷を負わされたのです。

そのせいで、もう二度と男の言いなりになるようなセックスはしない、と決心したと云います。
ひどい心のトラウマになっていたのです。
とくに、西脇との最後のセックスが、激痛を伴った強姦のような状態だったことは彼女を深く傷つけたようです。

そう言われれば、私と結婚したのも、肯ける選択と言えるでしょう。
私のことはセックスをあまり意識させない中性的な男と感じていたのです。

心の傷が癒え始めたのは私と結婚して3年以上経った頃と言います。

心の傷とは、具体的には、西脇と切れてからも、性に関しての心のバランスが崩れていたのです。
摂食障害の人が過食と拒食を繰り返すように、数週間おきに、激しい性欲と妄想に突き動かされ一日中オナニーを繰り返す日々があり、ふとしたタイミングで、全くの不感症になって数週間が過ぎるという、不思議な症状だったと言います。
一番変わったのが、挿入に対する嫌悪感・恐怖感でした。
オナニーでは、挿入はせず、クリトリスのみでしたそうです。
挿入は怖かったと言います。

私とのセックスは普通にしていたのですが、そのことを尋ねると
「嫌だったけど・・・たーくんのだからね・・・分かるでしょ?」
とのことでした。
彼女が恐怖感を持ったりフラッシュバックを起こすような、「男のペニス」とは感じなかった、ということです。

結婚した後に、一度だけ、性欲がおかしいほど高まってしまったときに、私以外の男と寝ようとした事があったそうですが、いざ事になると、猛烈な動悸と吐き気が襲い、何も出来なかったそうです。私より前に付き合っていた彼氏だそうです。

そんな、心の失調にも気付かないほど私は鈍感だったのです。

私が気が付かないなんておかしいとおっしゃる方もあるかも知れません。
しかし、妻の感情の起伏が激しいのはもともとでしたし、意志の強い性格ですから、私に自らの心的トラウマやセックス中毒を隠し通すぐらいのことは出来たのだと思います。

心の傷が癒え始めたとは、そういう意味では、元の通りの巨根願望や挿入を焦がれる気持ちが戻ってきたということです。
しかしそれでも、私のモノよりも大きなバイブや、私以外の男とするのは怖かったそうです。
また、オナニー狂いのような時期と不感症のような時期がそれぞれ薄まって、「持続的な性欲」が戻ってきたそうです。


・・・・・・


さて、妻の大学時代のことは、もうこれくらいでいいでしょう。

私の寝取られマゾの発覚後、妻とのセックスはとても刺激的なものになっていました。
正直に自分の暗い願望を妻に打ち明けたことは、間違っていなかったと思っています。
妻にとっては過去のセックスを私に語ることは自分のトラウマを修復する過程でもあったようです。

毎回のように、嫉妬で煽られ、焦らされて、SMのようなプレイで屈辱を受けても、それは私も望んでいたことでした。
妻により科せられた禁欲に忠実に従い、その後で与えられる快感に身を委ねることは、日課のようになっていました。
同時に妻にとっては、自らが受けた屈辱的でサディスティックな辱めを、今度は自分が私に与えることは、過去の鬱憤を晴らし、西脇や自分自身を許してゆくために必要なことだった様です。

そのような日々に、このサイトに「妻の性」を書き始めたのでした。

これから書く話はこのサイトに投稿するようになった頃に始まりました。



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