個人的な備忘録。事実と妄想は峻別していきたい。

但馬荒人(たじまあらひと)という物書きの個人的な備忘録。随時追加中。

現在のところ
  • 戦国時代の陰陽師:賀茂在昌
  • 咒禁師(呪禁師)
  • カルマニア:古代ペルシアの一地方

について研究した結果(&妄想)をちょぼちょぼと掲載しています。

このサイトを読まれていて「ここがおかしい」「こんな資料がある」等ございましたらコメント欄までご連絡ください。

(2022/07/20)
 気がついたらwikipediaの賀茂在昌の項目が本サイトを元に大幅に拡充されていました。編集していただいた諸氏に感謝いたします。
 錚々たる研究者の中で、一人だけ書籍・論文ではないので「但馬荒人[信頼性要検証]」といっぱい貼り付けられているのがとても恥ずかしいです(笑)。
 本当は学術論文にしてCiNiiに収録されるような雑誌等に掲載してもらうべきなのでしょうが、ツテがありません。申し訳ございません。

(2014/10/10)
ついうっかりtwitterなるものを始めてしまいましたがロクに見ておりませんのでご容赦ください。基本つぶやきません。このページにコメントしていただくほうが反応率高いです。
@ArahitoTajima

(2014/06/14)
 在昌関係の年表を作成。既に作っていると思い込んでいましたが、実は作っていませんでした。

(2014/06/10)
昔から目につくのが「在種の斬殺説」。「斬殺」と書かれている歴史的資料は見たことが無い。「横死」はあるのですが。いったいどこが出元なのか……。こういう出どころ不明の話の火元はだいたい歴史の闇に埋もれた小説の受け売り、つまり作者の筆が滑っただけの誤情報が広まったものと相場が決まっていますが、ときどきキチンとした史料で見つかったりするから寝覚めが悪いのです。

(2014/06/04)
なんか最近やたらと「勘解由小路在昌」で検索してくる人が多くなっていますが、今のところ在昌が「勘解由小路」を名乗っていた文献は見つかっていないらしく(木村純子『室町時代の陰陽道と寺院社会』より)、私も見たことがありません。よって本サイトでは表記はほぼ全て「賀茂在昌」にしてあります。
あと、これだけ資料を揃えているのに未だに「在昌がキリシタンになったから在種を養子にした」という誤説が止まりません(在昌がキリシタンになった(西暦1559年or1560年)のは在種の死亡(西暦1551年)後)。どーすればいいのでしょうか?
(2014/06/10追記)「勘解由小路在昌」で検索の増えた理由はカプコンのブラウザゲーム「鬼武者soul」によるものと思われます。このゲームにおける在昌の紹介文が奇天烈で、在昌が九州から帰ってきたあと父である在富と和解したことになっていますが、史実的には在昌が九州から帰ってくる(1577年)より遥か以前に在富は死亡しています(1565年)。というより、在富死亡後のゴタゴタのせいで在昌は京都に帰ってくることになったのです。うーむ、こうやって誤情報は広まっていくのでしょうね。このゲームのせいで「実は在昌は在富に許されているんですよ(ドヤァ)」的な会話がtwitterで繰り広げられるわけです。
逆にうまいなーと思ったのは「在政」表記を別キャラにして弟にしているところ。史料で在昌の表記が一定しないのを逆手にとっています。

(2012/02/10)
「lifetouch note wiki」で検索するとウチのこのページがトップに来るらしい。正式なwikiに飛ぶように設定する。

(2011/12/14)
戦国時代の陰陽師:賀茂在昌のページに呪禁師に関するご質問が入っておりましたが気づかず長らく放置しておりました。申し訳ございません。トップページでコメントできるように変更しましたので、とりあえず賀茂在昌関係以外は以降こちらでご記入お願いいたします。

(2011/11/01)
いろいろ考えた末、Amazonでヒットする書籍はAmazonへリンクするようにしました。アフィリエイトは行っておらず、単なるリンクであることからいきなりAmazonに飛ばされて驚く方もいると思いますので(Amazonへ飛ぶ)等の注意書きを付けておきたいと思います。

(2011/08/06)
戦国時代の陰陽師:賀茂在昌のページにコメントを入れられるようにしました。「ここがおかしい」「こんな資料がある」等ございましたらお気軽にご記入ください。

あと下の広告に怪しげな陰陽師へのリンクが出るらしいがこれも当方とは一切関係ございません。
霊感商法の被害はお住まいの地域の消費生活センターか国民生活センターへ!


このページへのコメント

初めまして、勘解由小路在種について質問します、メールアドレスにメールを送信しましたが、行き先不明で帰ってきてしまいました。

実家の初代はのお墓は勘解由のお墓と言われていて、天正2年に亡くなっています。
実家は太田の金山城、新田義貞の新田荘のあたりに有りました。

戦いに敗れ、勘解由は何所からか来て、本当の名を名乗ったら殺されてしまうので自分の城があった土地の名前のを名のったと言い、

勘解由と言うのは、百官名だと思っていました。
祖母は勘解由は殿様の側に何時もついている学者のような人で武士ではなかったと言い、軍師という人が居たのだと、後年、テレビで見て解りそういう人だったのかなと考えて居ました。菩提寺の住職は、戒名から、昔の人は此の人の事を宇宙人のように思っていたと言い。
口伝で伝わる内容から、暦、日蝕、勘解由など検索して、暦道家で勘解由小路という姓が有るのだと解りました。
此の人は灌頂を受け真言宗の僧侶になっていたと思われます。勘解由小路在種の実父は近畿で僧呂になっていたと有りますが、真言宗の寺でしょうか、近畿の寺と言うのは根来寺ですか?

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Posted by 歩歩林 2022年06月17日(金) 08:25:46 返信数(1) 返信

メールアドレスが死んでおり申し訳ございませんでした。

まず、名字としての「勘解由」と「勘解由小路」は全く別物です。

「勘解由」は愛知県に多い苗字で、ご実家が太田の金山城ということは二番目に多い栃木の「勘解由」氏と関連が深いと思われます。

対して「勘解由小路」は公家の名字で、烏丸家系と歴道系がありますが歴道系は断絶し、烏丸家系が山口に残っているだけです。

あと、勘解由小路在種の実父であり「宗江」を名乗るようになった在康は「出家して近畿地方を中心として回っていたらしい」というだけで足取りは全く掴めておらず、寺に関する記述もありません。

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Posted by  arahito_tajima arahito_tajima 2022年07月19日(火) 22:58:33

長い間このサイトに手を入れておらずお返事が遅れました。申し訳ございません。

>在種 の読み方が、何故 あきたね だとわかったのですか?

「在」に関しましては在昌研究の根本経典ともいえる海老沢有道先生の「マノエル・アキマサと賀茂在昌」に記載されておりまして、文亀四年の仮名暦から賀茂家では「在」を「あき」と読むことが分かっています。問題は「種」ですが、こちらは漢字表記しかありませんので確定はできないものの、今のところ「たね」以外の訓読みが存在しないので別段異論がない状況です。補強する材料としては『御湯殿上日記』で「種子島」のことを「たねか島」と表記しています。ただ、「あきだね」と濁っていた可能性はあります。

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Posted by 但馬荒人 2017年11月29日(水) 20:26:12 返信

こんばんは、初めまして。

趣味で陰陽師の研究をしている者です。

サイトを拝見しました。
そこで、ふと疑問に思ったのですが、
在種 の読み方が、何故 あきたね だとわかったのですか?
よろしければ、教えてください。

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Posted by Suzu 2017年08月23日(水) 18:41:45 返信

質問と回答を1件「補遺2:山科言継」に移しました。

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Posted by 但馬荒人 2012年05月18日(金) 22:51:25 返信

回答ありがとうございました。とても参考になりました、流石です。
執筆活動、上手くいくようお祈り申し上げます。私も仕事柄(小説ではありませんが)一作きちんと仕上げる大変さは、身に沁みて知っております。小さな仕事小さな連載を取るために、本当に楽しくもしんどかったことを思い出します。くだらぬことをちゃかす輩もいたようですが、但馬様、心より応援しております。ではでは。

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Posted by a.a 2011年12月16日(金) 22:28:29 返信

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