山岡淳一郎 作家活動アーカイブ”時代”に”活きた人”を追い、その夢の顛末を考える政治、建築、医療、近現代史、経済、スポーツ……「21世紀の公と私」として近現代からの問題に向き合えているかエネルギー、震災、復興、メディア、医療保険などを考える



■殴られても、殴られても立ち上がる「レジリアント」な社会へ(4/4)


以下、I=石井@ishii_mit Photo Credit: Aiko Suzuki



Y=山岡@yamajun1ro Photo Credit: GOh FUJIMAKI



現実的には復興が大きなテーマですが、個人的には、鎮魂、復旧、復興のプロセスが大切だと感じています。このプロセスを無視して、火事場泥棒的に復興へ群がる勢力があるとしたら、末代まで禍根を残すと思います。復興についてどのようなイメージをお持ちでしょうか。

もちろん被災者の方々の生活の復旧は大前提です。ただ復興という場合、タイムスパンがものすごく長くなるでしょう。10年、20年、もしかしたら100年、200年単位かもしれない。アントニオ・ガウディのサグラダ・ファミリアみたいに延々とつくり続けなくてはならないかもしれません。その場合、大きな構想が求められるでしょう。
 国土計画は専門外なので、軽々には言えませんが、かつて田中角栄首相は「日本列島改造論」を掲げて、日本をリードしました。その方法論は、功罪相半ばしており、否定的な見方もあるでしょう。ただビジョンとしては明瞭でした。日本の土木専門家のなかには、太平洋側はこれからも地震や津波の被害を受けるはずだから、日本海側に大動脈を通して、産業拠点をつくる構想を掲げている方々もいるようです。太平洋側が被害を受けたら、日本海側がバックアップしようというわけです。それが実際にいいプランかどうかは、わかりませんが、発想のなかに未来像に連なる視点があると思います。


それは何ですか。

「レジリアント(弾力性のある、回復が早い)」という考え方です。太平洋側の危機を日本海側でカバーするところに感じとれます。日本は、今後も自然災害や経済危機などさまざまなクライシスが発生するでしょう。そのときに、殴られても、殴られても、倒されても、倒されても立ち上がり続けなくてはなりません。ちょっと矢吹ジョー的ですけど、何度強烈なパンチを食らってダウンしても、必ずたちあがる。社会として、そんな体力と気力を備える。すなわち「レジリアント」なものでなければいけないと思うのです。
 そのためには百年単位の長いスパンで物事を考えねばなりません。日本海側に交通の大動脈を移し、産業拠点を計画配置しようと唱える日本の大学の先生たちの発言は、経済、生産機能を分散し、震災リスクに備えようという物の見方でしょう。交通の大動脈は、日本の背骨ですよね。それをしっかりしたものにしておこうというのは説得力があるでしょう。


日本は、今後も間違いなく、地震が起きます。1970年から2000年の30年間、震度5以上の地震が起きた回数の国際比較があります。イギリスは0、フランスとドイツは2回。国土が広大なアメリカでも322回。これに対して、国土が狭い日本で、なんと3954回も発生しているのです(「原発に頼らない社会へ」田中優著)。地震列島に住んでいるからは、殴られても、殴られても立ちあがらなきゃいけない。ご専門の情報通信の分野では、どのようにレジリアントな体制を構築すればいいとお考えでしょうか。

情報技術でいえば、電話網、とくに携帯系のあり方を見直すべきではと思います。震災で電話がつながらなくなったのは、トラフィック(通話量)の爆発を抑えるようシステムが設計されているからです。大地震が起きたときに、真っ先に心配したのはこれでした。不安だから電話するのに、システムが自動制御をかけて発信できなくする。それではますます不安とパニックが拡がってします。


福島県相馬市の原釜の漁師さんたちは、地震の発生直後、船をあえて津波に向かって発進させて乗越えました。百隻以上の船が、津波の被害を免れました。ところが、自分たちが乗越えた大津波が、家族や友人、知人が暮らす陸へ向かって突進していく。「早く逃げろ!」と家族に伝えたい。でも、携帯がつながらなかった。このときほど携帯が恨めしかったことはない、と言っていました(アエラ2011年7月25日号「津波がきたら 沖へ出ろ」)。

……痛ましいですね。従来の考え方は、システムがダウンしたら復旧が大変だから、防御のために先に切るというものです。でも、ダウンしてもいいからすぐ再起動するレジリアントなネットワーク、という考え方もある。「お母さん、どこにいるの」「津波だ、早く逃げろ」という電話をぎりぎりまでつなぎ、ダウンしたらすぐに再起動。「明けましておめでとう」コールが集中するお正月の制度とは、ちょっと違ったロジックで、ぎりぎりまでもたせる。あるいはダウンしても、早く立ち上げればいい、と考えてみる。システムを守るという発想から、たとえシステムが一時的にパンクしても、ぎりぎりまで助ける。
 映画の「タイタニック」で、最後まで演奏したミュージシャンがいますね。ああいうのはナンセンスなのかと、一方で技術の問題としてどこまでできるのか、いつか公開の場で議論してもいいのかもしれません。
 レジリアントなネットワークというのは、空手の「寸止め」ではなく、殴らせる。


大山倍達の実戦空手だ。

「想定外」があり得る机上の空論ではなく、実際に壊されても、すぐに立ち直る。そんなレジリアンスを、情報通信を含む社会インフラの中に埋め込んでいく必要を感じました。


緊急時のロジスティクス、現場のニーズに対応したコーディネートも、レジリアントな視点から、 イメージが浮上してきますね。自治体レベルでやるべきことは山のようにある。でも、県は役に立たない。国は遠すぎる。そこで、誰が、どう動くか……。

情報伝達の専門チーム、情報のハブになるコーディネーターがいてもいいのではないでしょうか。たとえば、個人が通信機材やバッテリー、すべて持って、サテライトも通じるようにしてワンマンバンドのように番組を放映するジャーナリストがいますよね。情報のコーディネーションのプロです。そういう人がハブになって、全体のプランに向き合う。
 情報収集に長けて、優先度づけの能力と権限を持ち、支援のない状況下で通信をつづけられる。ハードとソフト両方のスキルがある人を育てていくのです。トム・クランシーの小説に出てくるジャック・ライアン(CIAの情報官)みたいな存在かな。
 そうして育成されたコーディネーターが、バッテリーを満載し、機材を積み込んだトラックで気仙沼や南三陸町などに駆けつけて、ある範囲でハブ機能を果たす。空港の管制官のような役割でしょうか。インフラ復旧までの間、何十キロかの圏内の救援要請や情報の交通整理は、すべて面倒をみる。そういうチームや個人が何百人もいて、自治体や組織の壁を越えて、情報を必要なところに誘導する。自律分散したサブネットの中で、ハブになる人びとが連携し合う。
 ネットの上では、個人で情報のハブになり、良質の情報を必要とする人に流し、需要と供給のマッチメーキングを行う。そういう素晴らしいボランティアが何百人も出てきています。情報への適応度が高い、若い世代が、訓練と経験を通して、その役割を担ってほしいですね。


そうなってくると自治体は必要だけど、都道府県っていらなくなるかも……。

従来の行政の枠を突き抜けた情報のプロがきっと、出てくると思いますよ。そのためにも、後世へ残す「石碑」をつくらなくてはなりませんね。


鴨長明の「方丈記」なんて作品も、延々と天変地異や飢饉を書きつらねています。物書きにとって、あれは石碑でしょう。

そうかもしれませんね。そろそろ成田空港に向かうバスの時間です。


お忙しいところ、ありがとうございました。面白かったです。

時間がなくて残念です。では、また。

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