- 豊前市
天文二年(一五三三年)秋のことです。水不足にあえぐ上毛郡(かみけぐん)一帯の九つの村に、大西の池尾谷に
ため池築造の命が下されました。人々にとっては公役ならぬ苦役。しかし田畑が救われるのならと、土地の大庄屋
西村文左衛門の指揮のもと、勇んで工事にとりかかったのです。
とはいえ人出も少なく、すぐれた土工の技術もない当時のこと。人々は励まし合いながら作業を続け、まる二年半を
費やして、天文五年春、ようやく池尾池が完成しました。
しかし喜びもつかの間、田植えもすっかり終わった六月、春から続いた長雨でとうとう堤が切れてしまったのです。
嘆き悲しむ間もなく、領主から届く再築の命。ところが今度こそととりかかった工事も失敗に終わり、人々は
もうクタクタに疲れ果ててしまいました。けれど領主の命に逆らうことはできません。
そんなときです。石田地域に住む啓衛門が世にも恐ろしい人柱のいけにえを言いだしたのです。文左衛門の家に
集まった村人たちはその話を聞くと、息をのみ顔色を変えました。なぜならその考えはだれの心の中にも同じように
あったからです。
ついに人柱をたてることになり、犠牲者をくじ引きで決めることになりました。そして皮肉なことに言い出しっぺの
啓衛門がそのクジを引き当ててしまったのです。
その話を柱のかげで聞いていたのが啓衛門の娘おクラです。おクラは文左衛門の前に両手をつくと、泣きながら
こう言ったのです。
「だんなさまッ、お願いでございます。家には病にふせたばばさんと幼い妹、弟がございます。ととさんが人柱に
たてば後に残る者は…。このお役目は私が代わって努めますほどに、いますぐ埋めて下さいませ」
「何をいうぞい。若いお前を先立てて、どうして俺が眺めていられようぞ」啓衛門は驚いてこう言いましたが、
おクラとの会話は平行線をたどるばかり。結局、文左衛門の提案で再びくじ引きとなり、おクラの願いが通じることに
なりました。
別れの日が来ました。白装束で白馬にのったおクラはそれはもう神々しく、集まった九カ村の人々は感激といたわしさに
地に伏して合掌したといいます。
「父は泣く泣く人柱、雉も泣かねばうたれまいぞ」という歌を残し、おクラは死出の旅に出たのです。
天文七年六月七日のことです。
その後の作業は驚くほどの速さで進み、初秋には立派な堤が築かれました。おクラの犠牲の精神の崇高さに胸を打たれた
村人は、池のほとりの林の中に御堂を建て、馬鞍神社(まぐらじんじゃ)として祭典を続けました。
大正末年には天地山神社に加えられ、信仰を集めています。また、池尾池の堤防の上には小さなほこらも建っており、
毎年田植えの時期になると守り神としてお参りする人が後をたちません。
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