福岡県の郷土のものがたりです。

  • 福間町・玄海町

宗像で一番大きな川、釣川の堤で一匹のカッパが甲羅を干していました。

長太郎と呼ばれるこのカッパ、年は四百歳をこすと言われ、立派な髭や皿のまわりの髪はもとより、体全体が

銀ねずみ色の堂々とした貫禄を備えたカッパの棟梁です。普段は威厳のある姿で領内に住むカッパに目を光らせる

彼が、今日はどうしたことか浮かぬ顔をして物思いに沈んでいます。

それというのも今朝、彼がまだ眠っているうちに、宗像領を治める大宮司の館から呼び出しがありました。

こんな朝早くから何事だろうと首をかしげながら館の庭で神妙にしていますと宮司じきじきのおでましで

「カッパの元締めは何をしているのだ。このごろのカッパの振る舞いには目に余るものがある。このため、

領民は、はなはだしく迷惑をこうむり、恐れをなしている。特に江口と手光のカッパのいたずらがすぎる。

世間の裏表に通じたお前としたことが…」と頭の皿の水がカラカラになるほど油をしぼられたのです。

「ここ百年ばかりの戦乱続きで田畑は荒らされるし、無理な年貢の取り立てで、食べ物が少なくなってしまった。

それとともにカッパの質も悪くなったものよ。昔はよかったなあ。こんなことはなかったもんな」

長太郎はぶつぶつ言いながら、出かけて行きました。

川の流れに乗って、下って行きますと江口(玄海町)の町近くで土煙りがあがっています。よく見ると江口の

カッパが子供たちを相手に相撲をとっているではありませんか。強そうな子供がかかっていきますと、

分身の術を使って何匹もの同じカッパになります。子供が泣きだすと手をたたいて喜ぶのでした。

「つまらぬことをしておる」

と舌打ちして、彼は子供の一人を呼んで策を授けました。

「いいか、まず畑からキュウリを取ってこい。奴はこれが大好物だからな。奴が術をかけ始めたら、それを

奴の前に投げてやれ。きっとそれに手を出すだろうから、そしたら、お前は後ろから蹴飛ばしてやれ。

面白いことになるぞ」

言われた子供は一目散に近くの畑に駆け込みました。そしてキュウリを二、三本懐に入れて帰ってきました。

「やい、今度は俺が相手だ」

と子供は江口カッパに向って行きました。例のように、江口カッパが土煙りをあげて、術をかけ始めました。

そのスキをのがさず子供はキュウリを投げました。大好物のキュウリが飛び出したものですから江口のカッパは

相撲どころではありません。ひょいと手を伸ばしてキュウリを取ろうとしました。このときばかり子供は

後ろから蹴り上げました。さすがの江口のカッパもたまりません。頭の皿からタラタラと水がこぼれました。

これがカッパの泣き所です。全身の血の気が失せ、体がなえていきます。苦しみもがく江口カッパに長太郎は

いやというほどお灸をすえ、これからは決していたずらしないことを約束させました。

ひとる片付けほっとした長太郎は川をのぼって手光(福間町)に向いました。

「今度の手光カッパは、なにしろ素早いやつだから、俺の手に負えそうもない。ここはひとつ頭を下げて、

人間の知恵を借りるとしよう」

と彼は知り合いの庄屋に頼み込みました。

この風変わりな頼みを聞いた庄屋さんは頭を一ひねり、作戦を練り早速その日のうちに少量のヒマシ油を

飲みました。

「庄屋さんが下痢で、雪隠通い」

との話がたちまち村中に広がりました。これを川淵で聞いていた手光カッパは大喜び。早速尻をなでる

機会を待ったのです。

ドタドタと庄屋さんが雪隠に駆け込んで来ました。シメタとばかり手光カッパは手を伸ばしました。

その瞬間、手光カッパの手は強い力で握りしめられ、あっという間にねじ切られてしまいました。

この話はたちまち近郷の評判となり「庄屋さんがカッパの手をねじ切らっしゃったげな」と大勢の見物人が

庄屋さんの家に押しかけました。

さて、その日の晩のことです。美しい女が庄屋さんを訪れ、「私の手を返してください」と頼みました。

「ひとたび、体から離れてしまったものをいまさら返してもらっても、どうすることもできまい」と庄屋さん。

「仰せはもっともですが、私たちカッパの仲間には、立派に接ぐ方法がございます。手を返してくださるなら

お礼に骨を接ぐ法を教えましょう」

と女が泣かんばかりに哀願しますので、庄屋さんはこれから決していたずらをしないよう念を押し、手を

返してやりました。女は接骨の秘法を庄屋さんに伝えると伏し拝みつつ姿を消しました。

それからは、カッパのいたずらもなくなったということです。

昭和の初めごろまで「手光の骨つぎ医者」として広く知られ評判の高かった吉田喜仙翁は「カッパの秘法」を

伝承継承した人だと言われていました。


◎宗像カッパ
昔、宗像大宮司氏国が片脇城を築城するとき、人手が不足したので多くの藁人形を作って城普請の手伝いを

させた。工事が終って、藁人形を釣川にすてそこらにある物を食って暮らせと言われて以来、カッパになった

と云われる。

トップページ

コメントをかく


「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

管理人/副管理人のみ編集できます