最終更新: centaurus20041122 2014年04月28日(月) 11:16:52履歴
貴樹が内々定を取った週の土曜日。
その日、明里は編集のバイトが遅くなってしまい、貴樹の部屋を訪れたのは23時だった。
呼び鈴を鳴らしても、扉をノックしても反応がない。
おかしい。いないはずはない。だって、昨日、「明日は俺んちにおいでよ」と言われたんだから。合鍵は持っているんだけど、ドアノブを回したら、扉は簡単に開いた。
「?」
玄関に入ると「貴樹くん? いるの?」と声をかける。
返事がない。
嫌な予感がする。靴を脱いで上がり込む。
ダイニングキッチンには、いや、部屋のどこにも灯りがない。
照明をつける。かすかに酒臭い匂いがする。
「貴樹君?」
寝室の扉を開けて、思わず明里は「ひっ」と悲鳴をあげた。
そこには真っ暗な中、貴樹が窓際に座り込んで、焦点の合っていない視線を部屋の隅のほうへ飛ばしていたから。
「貴樹君、ちょっと! どうしたの!」
寝室の照明をつけると貴樹の横にはビールの空き缶がいくつか転がっていた。
23時だから、酒を飲んでいるということは不審ではないが、問題はその量だ。
普段、貴樹は深酒しない。
不意の明かりに、手をかざしている貴樹。そのあたりの反応はまだ正気を保っているようだ。
明里はキッチンに戻り、コップに水を注いで持っていく。
「これ飲んで。そんなに飲んだら急性アル中になっちゃうよ」
差し出されたコップに視線を移し、震える手でつかみ、ごくごくと飲み干す。
飲み干したと思ったとたん、急に立ち上がりトイレへ走った。
どうも嘔吐しているらしい。
そのあと、うがいの音、顔を洗っているらしい音が断続的に続き、ようやく落ち着いたのか、貴樹がふらつきながらダイニングのイスに座ったので、明里もその向かいに座る。
「どうしたの? こんなの初めてよ……。なにかあったの?」
「内々定」
「ん?」
「内々定、辞退してきた」
それを聞いて、明里は最初、意味がわからなかった。
「辞退って……ええっ!? どうして!? あんなに喜んでたのに!」
「明里……俺は、ダメな男なんだ……」
貴樹がうなだれる。両手で頭を押さえ視線を落とす。
「貴樹くん……私はあなたがどんなことになっても味方になるって決めてるから。なにがあったのか教えて」
貴樹が語り出した。
「今日、内々定をもらった学生が集められた。そこで配属先の希望を聞かれた」
「うん」
「もちろん、航空宇宙産業分野を志望したら……そしたら、配属は、福島の相馬か、広島の呉になるって」
「えっ」
「そこが主力工場だからって。東京での仕事はないのか聞いたら、まずは4-5年ほどは現場の仕事を勉強してからだって言われて……。それで、辞退しますって返事したんだ」
「どうして?」
「だって、明里は出版社だから、当然東京勤務じゃないか。俺が地方へ行ったら、また……離れ離れになってしまう」
「……」
「明里……笑ってくれていいよ……、いや、もしかしたら俺に愛想を尽かすかもしれないな……。俺はもう、明里なしの生活なんて考えられないんだ。……怖いんだ…… また、あんな辛い日々を過ごすなんて、そんなことは俺にはもう無理なんだよ……」
貴樹の目には涙が光っていた。泣いているところなんて、あの雪の日以来じゃないだろうか。
「貴樹くん……」
「……あの雪の日の朝、俺は明里を守りたい、守れるほどの力が欲しい、そう思った。だけど、実際は、明里にすがり、明里の存在なしには生きていけないほどの男になり下がってしまった……」
「貴樹くん……私のためではなく、あなたのためにそれがいいのだったら、私はそれを尊重する……」
「明里……」
貴樹の目にわずかに生気がともる。
「でも、これは違うと思う」
明里が強い語気で話し出す。珍しいことだ。
「内々定を辞退した、それはもうしょうがないこと。だったら、次はなにをすべき? 部屋でお酒を飲むこと? 違うでしょ? 私をお嫁さんにしたいんだったら、次を考えて。まだ6月だよ。これからシューカツやりなおしてもなんとかなると思わなかったの!」
「明里……そうだな。うん……そのとおりだ。やっぱり、明里はいてくれないといけない人だとわかったよ……」
「貴樹くん……伊勢島のとき、あなたは私を助けてくれた。だから今度は私の番。どっちがっていうんじゃなくて、私と貴樹君はもう一心同体なのよ。遠慮しないで。私もあなたにたくさん頼っているんだから」
「うん……。でも、とりあえず今日は部屋に戻る? 俺はもうこんな体たらくだし。これからおかゆでも作って食べたら寝るから。来週から、またシューカツ始めるから」
「もう……なにもわかってない」
「え」
「私に頼って。さあ、少し横になってていいよ。私が作るから」
「明里……」
明里はそういうとてきぱきと動き始めた。
(つづく)
その日、明里は編集のバイトが遅くなってしまい、貴樹の部屋を訪れたのは23時だった。
呼び鈴を鳴らしても、扉をノックしても反応がない。
おかしい。いないはずはない。だって、昨日、「明日は俺んちにおいでよ」と言われたんだから。合鍵は持っているんだけど、ドアノブを回したら、扉は簡単に開いた。
「?」
玄関に入ると「貴樹くん? いるの?」と声をかける。
返事がない。
嫌な予感がする。靴を脱いで上がり込む。
ダイニングキッチンには、いや、部屋のどこにも灯りがない。
照明をつける。かすかに酒臭い匂いがする。
「貴樹君?」
寝室の扉を開けて、思わず明里は「ひっ」と悲鳴をあげた。
そこには真っ暗な中、貴樹が窓際に座り込んで、焦点の合っていない視線を部屋の隅のほうへ飛ばしていたから。
「貴樹君、ちょっと! どうしたの!」
寝室の照明をつけると貴樹の横にはビールの空き缶がいくつか転がっていた。
23時だから、酒を飲んでいるということは不審ではないが、問題はその量だ。
普段、貴樹は深酒しない。
不意の明かりに、手をかざしている貴樹。そのあたりの反応はまだ正気を保っているようだ。
明里はキッチンに戻り、コップに水を注いで持っていく。
「これ飲んで。そんなに飲んだら急性アル中になっちゃうよ」
差し出されたコップに視線を移し、震える手でつかみ、ごくごくと飲み干す。
飲み干したと思ったとたん、急に立ち上がりトイレへ走った。
どうも嘔吐しているらしい。
そのあと、うがいの音、顔を洗っているらしい音が断続的に続き、ようやく落ち着いたのか、貴樹がふらつきながらダイニングのイスに座ったので、明里もその向かいに座る。
「どうしたの? こんなの初めてよ……。なにかあったの?」
「内々定」
「ん?」
「内々定、辞退してきた」
それを聞いて、明里は最初、意味がわからなかった。
「辞退って……ええっ!? どうして!? あんなに喜んでたのに!」
「明里……俺は、ダメな男なんだ……」
貴樹がうなだれる。両手で頭を押さえ視線を落とす。
「貴樹くん……私はあなたがどんなことになっても味方になるって決めてるから。なにがあったのか教えて」
貴樹が語り出した。
「今日、内々定をもらった学生が集められた。そこで配属先の希望を聞かれた」
「うん」
「もちろん、航空宇宙産業分野を志望したら……そしたら、配属は、福島の相馬か、広島の呉になるって」
「えっ」
「そこが主力工場だからって。東京での仕事はないのか聞いたら、まずは4-5年ほどは現場の仕事を勉強してからだって言われて……。それで、辞退しますって返事したんだ」
「どうして?」
「だって、明里は出版社だから、当然東京勤務じゃないか。俺が地方へ行ったら、また……離れ離れになってしまう」
「……」
「明里……笑ってくれていいよ……、いや、もしかしたら俺に愛想を尽かすかもしれないな……。俺はもう、明里なしの生活なんて考えられないんだ。……怖いんだ…… また、あんな辛い日々を過ごすなんて、そんなことは俺にはもう無理なんだよ……」
貴樹の目には涙が光っていた。泣いているところなんて、あの雪の日以来じゃないだろうか。
「貴樹くん……」
「……あの雪の日の朝、俺は明里を守りたい、守れるほどの力が欲しい、そう思った。だけど、実際は、明里にすがり、明里の存在なしには生きていけないほどの男になり下がってしまった……」
「貴樹くん……私のためではなく、あなたのためにそれがいいのだったら、私はそれを尊重する……」
「明里……」
貴樹の目にわずかに生気がともる。
「でも、これは違うと思う」
明里が強い語気で話し出す。珍しいことだ。
「内々定を辞退した、それはもうしょうがないこと。だったら、次はなにをすべき? 部屋でお酒を飲むこと? 違うでしょ? 私をお嫁さんにしたいんだったら、次を考えて。まだ6月だよ。これからシューカツやりなおしてもなんとかなると思わなかったの!」
「明里……そうだな。うん……そのとおりだ。やっぱり、明里はいてくれないといけない人だとわかったよ……」
「貴樹くん……伊勢島のとき、あなたは私を助けてくれた。だから今度は私の番。どっちがっていうんじゃなくて、私と貴樹君はもう一心同体なのよ。遠慮しないで。私もあなたにたくさん頼っているんだから」
「うん……。でも、とりあえず今日は部屋に戻る? 俺はもうこんな体たらくだし。これからおかゆでも作って食べたら寝るから。来週から、またシューカツ始めるから」
「もう……なにもわかってない」
「え」
「私に頼って。さあ、少し横になってていいよ。私が作るから」
「明里……」
明里はそういうとてきぱきと動き始めた。
(つづく)
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