絵巻物の一部で絵以外に文章も書かれています。
要約
モンゴル軍が麁原(そはら・祖原)から来て鳥飼潟の塩屋の松の下で合戦となった。
旗指馬(はたさしのうま)が弓で射られて落馬し、季長(すえなが)ほか3騎も負傷。
そこに肥前の国の御家人・白石通泰たちが駆けつけてモンゴル軍と戦い、
モンゴル軍は逃げていった――。
季長とは肥後の国の御家人・竹崎季長のことで、絵の中で馬に乗っている人物です。
確かに文章に書かれている通り、松の下で戦っていて負傷した様子が描かれています。
そして彼に弓を射ている3人のモンゴル兵。これらは実は後世(一説によると江戸時代)
に描き足されたものだと言われています。その左側には逃げ惑うモンゴル軍の様子が
描かれています。つまり、この3人が描かれていない状態であれば、上記の通り、
「モンゴル軍が逃げていった」時の様子だということがわかります。
文章中に「鳥飼潟の塩屋」という地名が出て来ましたが、中央区の鳥飼には
塩屋橋という橋があります。この周辺の旧町名は「塩屋」と言い、塩を作る小屋があった
ことからこの名前になったと言われています。このあたりはかつて低湿地帯で鳥飼潟と
呼ばれていました。
現在、鳥飼3丁目にある埴安(はにやす)神社には「塩屋の松」で作られたと言われる
額束(がくづか)があります。
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