さて、次に問題なのが、「どのsumti位を採用するのか、すなわちどのsumti位を捨てるのか」である。もちろん、不要なら消せばよい。しかし、己の直感が不安な人もいるだろうから、最も簡単な規則としては、
veljvoのtertauにとって不要なseltauのsumtiは極力消す。
たとえば、「犬小屋」のPSに「その犬種」は必要ではないだろう。小屋にとって、{gerku}のg1(犬)は居住者であるから必要だが、その犬種はどうでもよいと考えるのに反対意見はあまりないだろう。他にも「甲虫」{calku cinki}(殻 + 昆虫)のPSに「殻の成分」は明らかに不要だろう。しかし、「校舎」{ckule dinju}(学校 + 建物)のPSに「教える科目」「聴衆」を入れるかどうかは意見が分かれそうだ。建物にとって科目と聴衆はどうでもいいかもしれないが、あった方がいいかもしれない。あくまで規則であるため、
程よく消せばよい。
より重要な問題が、sumti位の順序である。たとえば、「祈」を意味する{jdaselsku}を使った文、{di'e jdaselsku la .dong.}「x1 = 次の発話, 祈り, x2 = la .dong.」には、自然な解釈が2つある。
- 次の発話はドンによる祈りだ。
- 次の発話はドンに対する祈りだ。
もちろん{jdaselsku}を辞書で引けばいいのだが、辞書を引けない場合は類推するしかない。聞き手の脳のグルコース消費を少しでも抑えてやるのが人情というものだろう!というわけで、2つの規則を用意する:
- 対称lujvoの場合は、tertau由来のsumti位から先に置くようにする
- 非対称lujvoの場合は、seltauのx1と一致するtertauのsumti位の直後に置くようにする
seltauのPSをs1,s2,s3,... とし、tertauのPSをt1,t2,t3,...とする。
対称lujvoのPSは、「s1=t1 [lujvo] s2 s3 ... t2 t3 ...」のような形になる。
非対称lujvoのPSは、s1=t3ならば、「t1 [lujvo] t2 t3=s1 (s2 s3 ...) t4 t5」のようになる。
対称lujvoは「seltau → tertau」、非対称lujvoは「tertau中心でseltauを組み込む」ようにするのである。
もちろん意味の重要性というのがあるので、必ずしもこれに従うべきではない。
3つ以上の部分からなるveljvoから作られるlujvoでも同様のことを考えればよい。
{bavlamdei}「明日」は{balvi lamji djedi}「[未来的隣接]の日」というveljvoからなる。これは、まず{balvi lamji}から仮のlujvoを作って、それと{djedi}とで目的のlujvoを作り出すと考えればよい。
他にも、「剣」を表す{cladakyxa'i}は{clani dakfu xarci}「[長いナイフ]的武器」というveljvoからなる。結局、PSとしては「xa1=d1=c1 は xa2=d2(対象)・xa3(使用者)のd3 (素材)の c3 (長さの照合枠)の長剣」となっている。
*5
3つ以上の部分からなるlujvoに関わる話としては、cmavoラフシの省略がある。
CLLではSE類ラフシ(sel-,ter-,vel-,xel-)はしばしば省略してよいとなっているが、原則はつけておいたほうが意味が分かりやすいので、ここではこれ以上立ち入らない。
*6
しかし、{ke}{ke'e}のラフシの省略は余程のことがない限り行ったほうが見やすい。実際「しのびこむ」{zernerkla}(zekri ke nenri klama [ke'e])のveljvoの{ke}を省略したveljvoは、「犯罪的内部、行く」という意味になるが、大前提として
lujvoはよく使う表現のためにあるわけだから、その解釈がおかしいということは容易に分かるだろう。
抽象selbriをlujvo化する際に気をつけるべきことがある。{nu klama}は「x1は行くという事象」というsumti位が1つしかないPSをもつ。しかし、これを実際にlujvo化するとなると、{klama}のsumti位も復活させたほうが有用であろう。すなわち、{nunkla}のPSは「nu1 は k1 が k2(終点)に k3(起点)から k4(経路)を k5(方法)で行く/来るという事象」のほうがベターだろう。
抽象lujvoについての規則として、抽象詞がx2をもつときは、lujvoのPSの一番最後のsumti位とする。
最後に、CLLで述べられているgismuのPS選定における4ファクターについて挙げておく。これらはlujvoのPS選定においてもある程度役に立つだろう:
- 「簡潔さ」はsumti位を取り除く傾向がある。 gismuのsumti位が少ないほど、学習しやすくなり、具体性が少なくなる。一般性はgismuの美徳だ。 gismuだけで意味空間全体をすっかり覆い尽くさなければならないのだから。
- 「便利さ」はsumti位の数を増やす傾向がある。 つまり、ある概念が、すでにあるgismuの場所の1つで表現できれば、別のgismuやlujvoやfu'ivlaを、その概念のために新しく作る必要がない。
- 「形而上学的な必要性」はsumti位を増やしも減らしもする。 これはsumti位の「正しい個数」を与えようとする力となる。 何かが、ある概念の本質的な性質を担うなら、それのためのsumti位を作らなければならない。 一方、その概念の実例が必ずしも持たない性質を担うsumti位があれば、そのsumti位を取り除こうとする。
- 「規則正しさ」もまた、sumti位を増やしも減らしもする。 あるギスムにsumti位が1つ与えられているとき、それに意味論的に関係するgismuにも、それと同じsumti位が与えられる傾向がある。