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20代の頃の写真

概要

リディア・ウラジミーロヴナ・リトヴァク【Лидия Владимировна Литвяк、Lydia Vladimirovna Litvyak、1921年8月18日(木曜) - 1943年8月1日(日曜)、享年:21歳 】は、ソヴィエト連邦・労農赤軍航空隊(この当時、まだ空軍は独立していなかった)の女性エース・パイロット。公認撃墜機数は12機(未確認3機)。

女性エース・パイロットは他に、同じ労農赤軍航空隊のエカテリーナ・ブダノワ(11機撃墜)がいる。

氏名言語変換表

日本語表記リディア・ウラジミーロヴナ・リトヴァク
英語表記
【English】
Lydia Vladimirovna Litvyak
ロシア語
【русский язык】
Лидия Владимировна Литвяк

謝辞

彼女の経歴に詳しい方のご指摘により、古い資料に基づく資料、及び民間伝承と推定される部分について比較対照の上、妥当と思われる部分は修正しました。ご協力とその好意に感謝致します。
  • 文責:ゆい奈。2011年10月22日(土曜)の誕生日に

略歴

生い立ち
1921年8月18日(木曜)、夫婦共働きの家庭、つまり店員の母と鉄道労働者の父の間に生まれた。 
余事・余談
なお、同じ誕生日のエースに「空の宮本 武蔵」と呼ばれた日本海軍・第343海軍航空隊の「紫電二一型(紫電改)」の撃墜王である「武藤 金義」氏(1945年7月24日【火曜】、呉軍港空襲の迎撃中、豊後水道上空で行方不明、後に戦死認定。)がいる。

また、戦死認定された1943年8月1日の2年後の同じ8月1日(土曜)、日本海軍・第343海軍航空隊の「紫電二一型(紫電改)」の撃墜王である菅野 直(かんの なおし)中佐が機銃の筒内爆発*1により行方不明、終戦後の翌月9月20日に戦死認定されている。

生まれから育ちまでモスクワで育ったと伝え聞く。 身長は150cm弱と、当時のロシア女性の基準身長と比較しても小柄であった。

兄弟姉妹に関しては資料がなく、詳しいことは判らない、書籍によっては弟がいると書かれていることもある。
性向
幼い頃から航空学に親しんでいた。

未だ少女(ローティーン)であった(1935年とする説が有力)14歳のときに航空クラブへ入り、翌1936年には初めて飛行機に乗って空を飛んでいる。

1938年に17歳でハイスクールを卒業(航空クラブへは在籍中のまま)。 その後、地質学調査隊へ加わるが、やはり空への憧れは強く、以後、航空アカデミーへ入り、さらに操縦の腕を磨いた。 

ヘルソン飛行教官・航空学校を卒業後、1930年代後半には教官の資格を得て、モスクワの「カリーニン航空クラブ」*2で飛行教官として後輩の指導に当たる。

1937年前半、つまり彼女が17歳の頃、父親が『人民の敵』として処刑される。 生前リディアは、部隊から引き落とされるの事を恐れて、終生この事実を周囲の者には隠し通したと云われている。

乗機の変遷

PNG形式画像 → http://twitpic.com/6ty8kn/full
JPG形式変換 ( Yak-1_Yak-1b for Лидия Владимировна Литвяк )
所属連隊・使用機の一覧表
所属略称使用機種連隊の使用機
第586戦闘機航空連隊586IAPYak-1Yak-1→Yak-1b→Yak-9
第437戦闘機航空連隊437IAPYak-1LaGG-3→La-5
第9親衛戦闘機航空連隊9GvIAPYak-1LaGG-3→Yak-1→P-39→La-7
第296戦闘機航空連隊296IAPYak-1I-16→Yak-1
第73親衛戦闘機航空連隊73GvIAPYak-1bYak-1→Yak-1b→Yak-3
個別機判別表
機種個機・識別呼称所属飛行隊の略称飛行乗務期間
Yak-1白の2437IAP1942年 9月〜10月
Yak-1赤の32296IAP1942年 10月〜1月
Yak-1黄の44296IAP〜73GvIAP1943年 1月〜6月
Yak-1b白の2373GvIAP1943年?月〜8月1日
色区分個機・識別表
第437戦闘機連隊Yak-1 (第二期生産分)「 白の2」
第296戦闘機連隊
→ 第73親衛戦闘機連隊
冬はYak-1b「赤の32」
春はYak-1 (第二期生産分)「黄の44」
第73親衛戦闘機連隊Yak-1「 白の23」
魔女飛行隊・関連動画


女性部隊(当時の名称は『婦人部隊』)

1941年6月22日に開始されたナチス・ドイツによるソビエト連邦奇襲攻撃作戦の秘匿名称であるバルバロッサ作戦によりドイツがソ連に電撃的進攻を開始。独ソ戦が勃発した。

祖国の危機という事で、空軍航空部隊に入隊を志願するも、最初の応募は「飛行時間不足」で拒否された。
その後、女性飛行隊員募集を聞き、再志願時に飛行時間が意図的に水増しされ入隊を果たした。

練習機として用意された ポリカルポフ U-2 / Po-2 での訓練後、1942年1月頃に新造機である「新品の」 Yak-1 を受領した。

Yak-1 に習熟すると、今度も又、意図的に大戦前の彼女の飛行時間が100時間を越えていると水増しされたうえで、リトヴァクは全成員が女性の隊員(整備士までも!)で構成される「第586戦闘機航空連隊」へと配属されることになる。

後世になって「魔女飛行隊」などともてはやされ、有名になる女性飛行連隊で、マリーナ・ラスコーワによって組織された3つの飛行連隊の1つであった。 ほぼ全ての人員が志願により入隊した女性で構成されている。(なお僅かではあったが、この女性飛行隊が編成される前にも軍に入隊し飛行していた女性が居た。)

ここには、後にエースとなるエカテリーナ・ブダノワオルガ・ヤムシュコワ【Ольга Ямщикова】も居た。

男性部隊と

1942年の夏、サラトフで彼女は初空戦を行い、9月にはリディアを含めたパイロット4名は第437戦闘機航空連隊へ転属する。
437IAPは通常の、この部隊はスターリングラードを主戦場にする男性連隊である。

9月10日、基地着任してみるとドイツ軍機による爆撃の真っ最中であった。 その為、エカテリーナ・ブダノワ、「マリア・クズネツォワ」、「ライザ・ヴェリアエワ」と共に男性の地上勤務員を連れて、連隊の飛行場があったヴォルゴ川の東岸に向うが、到着した時に基地が空襲を受けていた為、「スレードナヤ・アフトゥーバ基地」へ移動。

ここで彼女は機体番号「白の2」*3の Yak-1 に搭乗し戦果を挙げた。

この時の彼女について「リーリャ・リトヴァクは非常に攻撃的でかつ優れたパイロットでもあり、生まれながらの戦闘機乗りだ」とボリス・エレーミンは回想している。

彼はのちの空軍中将であり、リトヴァクとブダノワの所属する航空師団の連隊長だった。

リトヴァクが初撃墜を果たしたのは437IAPに移動した僅か三日後の1942年9月13日、彼女にとって二度目の空中戦においてである。
2機の個人撃墜を記録した。 Ju88爆撃機群と護衛のBf109多数との交戦であった。

まずJu88を、次に中隊長機を追尾していたBf109を撃墜。 資料によって前後している物もあるが、この日の撃墜は女性初の撃墜と言われている。 

それはC.ダニロフ少佐率いる四機のYak-1が、スターリングラード上空でBf-109に援護されていたJu-88を撃墜したもので、彼女の攻撃を受けたJu-88は炎に包まれ墜落した。

これは史上初めて女性によってなされた撃墜であると考えられている(これには異説もある )。

それから彼女は中隊長「ライザ・ヴェリアエワ」を追尾していたBf 109 を撃墜した。

このBf-109( G-2型とも推測されるが詳細は不明 )に搭乗していたのは、アーウィン・マニエール曹長であったと云われている
  • 上記同様に異説有り。世界の傑作機 ヤコブレフ戦闘機では強く否定されている。


彼は第53戦闘機航空団【JG-53】・第2飛行隊に所属し、11機の撃墜成績を持つエース・パイロットでもあった。

マニエールはパラシュートで脱出したがソ連軍の捕虜となった。

彼は自分を撃ち落したパイロットに会わせてほしいと頼んだが、彼を撃墜したリトヴァクを前に棒立ちになった彼は、自分が馬鹿にされているのかと考えた。

しかし撃墜までの戦闘経過をリトヴァクが細部まで完璧に解説したことで、やっと彼は自分が女性パイロットに撃墜されたのだと理解したのである。


9月27日には ユンカース Ju 88 を相手にスコアを一つ伸ばす。

これが彼女の最初のスコアだとする意見もある。9月14日にはリトヴァクはBf 109を1機撃墜した。

フリー・ハンター

更に1942年の後半にリトヴァクは第9親衛戦闘航空連隊に移った。

数か月もの間所属していた9GIAPだが、スコアを1つも記録していない。 これには理由がある。 リリアを含めた4人がここへ来た時、連隊はLaGG-3からYak-1へ転換中であった。

翌年1月に同連隊はP-39*4で再編成されたため、彼女とブダノワはニコライ・ヴァラノフの第296戦闘航空連隊に移り、Yak-1機に乗り続けた。

ここで総撃墜数(スコア)の大半を稼ぐ事になる。 

1月に配属、2月11日にJu87とFw190A(共同)、27日にJu88とBf109(共同)、3月22日にJu88とBf109を撃墜。 と、順調に見えるが、最後の3月22日の空戦にて被弾し不時着を行った。 敵弾はコックピットに命中し、彼女自身も負傷した。.

負傷した彼女を救助したのはIL-2と言われている。 敵に『黒死病』と渾名された攻撃機に似つかわしくない働きだ。 リディアはこの後、5月まで療養した。(実は予定より早く切り上げて復帰したらしい)

1943年2月23日(火曜)*5、彼女は赤星章を受ける。

中尉となり、精鋭によるОхотник(狩人)あるいは「フリー・ハンター」(自由狩人の意味で遊撃隊を指す)と呼ばれる航空戦術に参加するメンバーにも選抜された。

これは熟練したパイロットがペアを組み、彼らの裁量でターゲットを探すというものだった。

負傷した彼女を救助したのは イリューシン IL-2(露:Ил-2イール・ドヴァー) と云われている。(乗機ペアは不明)

大戦中に二度、リトヴァクは空中戦で被弾・負傷し 、不時着を余儀なくされたことがある (1943年 3月22日の月曜、及び 7月16日の金曜日)。前者は5月(日付け不明)に復帰、後者は7月19日(月曜)に Bf109G-6 の撃津記録があるので、2日間程度の休養しか取っていないことになる。

なお、この前後にそれまで第296戦闘機連隊とされていた部隊名称が「第73親衛戦闘機連隊」に改編・改称された。

異説について
  • 以下は後世の伝承に基づく記載で、必ずしも事実とは限らない

第73親衛戦闘航空連隊にいる間、彼女は「アレクセイ・ソロマチン」大尉の僚機を務めたとも云われる(これについては実際には男性の同僚と勤務していたとの説も根強い)。 彼もまた15機撃墜のエース・パイロットであったが、5月21日に行われた新人パイロットとの飛行訓練中に殉職、リディアは非常な衝撃を受けた。
多数の書物で 恋人、或いは 既に(内縁の)夫婦だったと書かれているが、はっきりしない。他の男性パイロットと同じ対応だったという証言もある。 少なくとも確実なのはソロマチンの側がリディアに熱を上げていたという事だけは云えるだろう。ある時彼は短剣をリディアに贈り、後に、彼女もそれを腰に付けていたのを部隊の者が見掛けたとする証言もある。
母への手紙には、彼女がソロマチンが死んだ後になってはじめて彼を愛していたことに気づいた、と書かれている。

同部隊の機体整備兵であった「ニーナ・パスポルトニコワ」曹長(当然女性兵)によれば、ソロチマンの死後、彼女は憑かれたように空戦にのめり込むようになっていったといわれる。

1943年5月初週に復帰、同月5日にPe-2護衛任務へ出撃。 迎撃に上がったBf109を撃墜、2日後にまた1機Bf109を撃墜した。 

リトヴァクは、5月31日には撃破困難と言われた機銃掃射でドイツ軍の観測気球を破壊し、スコアをさらに伸ばした。.

ドイツ陸軍砲兵はこれらの気球からの報告を目標設定の補助としていた。

気球を排除することは他のソ連パイロットも試みていたが、気球の分厚い保弾帯によって全て失敗に終わっていた。

リトヴァクは対気球掃討作戦に志願していたが、退けられていた。

そこで彼女は自分の計画を司令官に説明する。

それは戦場の境界線上空を大きく旋回したのちに後方から攻撃するというものであったが、この戦術が効果を発揮し、多数の気球を破壊することができた。

1943年6月13日、リトヴァクは第73親衛(護衛)*6戦闘航空連隊第3飛行中隊長に任じられた。
7月16日、哨戒任務中に、偶然にも敵の飛行編隊の一団と遭遇した。構成は30機のJu88と護衛のBf09が6機、対するYak戦闘機は6機。

リディアはJu88を1機、Bf109を1機共同で落とすも、空戦中に被弾、再び負傷し2度目の不時着を行った。
この時の怪我は軽傷だったようで、この後魔もなく彼女は空戦に復帰している。

7月19日にも出撃しBf109を1機、21日にもBf109を1機撃墜。

そして運命の8月1日、その日の4度目の出撃で未帰還、行方不明となった。 この日の撃墜戦果には、Bf109が単独と共同で各1機づつ記録されているが、何時、そしてこの日の何度目の出撃の物かは不明のままである。

8月18日の誕生日まで、あと17日余りであった。

最期の任務

1943年8月1日、リディアはドンバスにある「クラスニィ・ルーチ基地」へ帰還しなかった。
任務は対ドイツ空軍攻撃隊への索敵攻撃で、彼女にとってこの日4度目の出撃だった。
ソ連のパイロット、「イヴァン・ヴォリセンコ」はこう述懐している。
註記:これ以後は、民間伝承を含めた説の1つで、事実とは限りません。
リディアがドイツ空軍爆撃機の集団を攻撃中、一組の Bf 109 が急降下してきた。
「ドイツの爆撃機を援護してBf 109が飛んでいることをリーリャはわかっていなかったんだ。対になった(註:ロッテ小編隊)Bf-109が急降下してきて、彼女はそれを迎え撃とうとした。 でもそこで雲が影になってまったく見えなくなった」。

ヴォリセンコはこの戦闘に関わり、リディアの最期をみた人間でもある。雲の切れ間から確認した彼女のYak-1 は被弾し、煙を吐きつつ8機ほどの Bf-109 に追われていたという。

彼女を発見可能なものと期待を掛けて、ヴォリセンコは降下したものの、パラシュートも爆発の何れも確認できなかった。

この状況からソ連当局は彼女の戦死を認めず捕虜になったものと疑い、それが彼女のソ連邦英雄叙勲の妨げになってしまう。

その最後に関する推測

運命の1943年8月1日:ドイツ空軍 Ju88爆撃機:30機、護衛 Bf-109:18機。 ソビエト連邦空軍 Yak-1:9機。
最後に在籍していたのはウクライナ東部ルハンスク州(ドンバス炭田)のクラースヌィイ・ルーチの基地であった。

ここから先のことは推測の域を出ない、或る民間伝承によれば、彼女はこの日、Bf109戦闘機8機に包囲されて集中攻撃を受け、この内2機を撃墜するも、機銃弾を使い果たして力尽き、未帰還となったという・・・(これに関しては「一体誰がリディアの撃墜を見れたというのでしょうか…。」と批判の意見も根強い)

この日までに彼女は、累計で168回出撃し、うち空中戦89回の間に、撃墜11機、協同撃墜3機を記録していた。

「白百合」と「白薔薇」

リトヴァクは乗機の機体に白い百合のパーソナルマークを描いていたといわれ、ソビエトの新聞発表では「スターリングラードの白百合」と呼ばれていた。

「マドンナリリー」が「白い百合の花」としてロシア語訳されたものだ。

また欧米では「スターリングラードの白薔薇」とも呼ばれている。彼女の偉業が英語圏で紹介されてからのことである。

かつてコヴェントリー で彼女を題材にした演劇「白薔薇」が演じられている。

1979年ドミトリェフカ村付近の草原で遊んでいた子供たちによってリディアの乗機の残骸と、その傍に埋葬されていた彼女の遺体が発見され、改めて戦死が確認された。

そして1990年5月5日、ソ連のゴルバチョフ大統領により国葬が執り行われ、ソ連邦英雄の称号を贈られた。

搭乗機

リトヴァク機

セルゲイ・ルガンスキー【Sergei Lugansky】機



最初の戦闘機としての搭乗機は、ヤコブレフ Yak-1(黄の44号機)とYak-1B(白の23号機)。

そのコクピットにはリディアの摘んだ草花が飾られ、最期の日までいつも華やかであったという。

Yak-1B(Як-1Бヤーク・アヂーン・ベー)
スターリングラート上空に登場したドイツ空軍新型戦闘機 Bf109G に対抗すべく開発された機体。

Yak-1b (Як-1б) とも書かれる。エンジンを M-105PF に換装した。

中央流体力学研究所 【TsAGI】 で開発され、1942年に初飛行した。

操縦席を改設計したことも大きな変更点で、風防の形状をそれまでの後部胴体へ直線的に繋がる空気力学的に優れていると考えられる形状から、より視野範囲に優れたいわゆる「水滴風防」へ変更した。

このスタイルは、位置の変更や風防形状の改良などはあったものの、基本的には最後のYak-9P、及びジェット化されたYak-23まで受け継がれた。

Yak-1Bは、20 mm機関砲のShA-20 ShVAK と12.7mm機銃のUB各1 門を搭載した。

漫画作品本命『戦場伝説/翼をもつ魔女』

  • 歴史群像歴史群像 No.110 2011年12月号から連載開始


  1. 学研の「歴史群像」に連載中の『戦場伝説/翼をもつ魔女』。
  2. 萌え系統ではないので極端な誇張はないが、絵柄が今風で、とにかく可愛い。こういう描きかたもありかと。
  3. 単行本としての出版を待つ。

漫画作品(その他)

  • 学研の歴史群像コミックス「不屈の大空」予告の作家とは違う別の作家の絵柄のリーリャ・リトヴァクが刺さっていたでござる。確かに歴史群像連載は完結していないから怪しいと思ったが。

  • たなかてつお作画:史上最高の女性撃墜王"リーリャ"・リトヴァク(第68頁〜79頁)



関連図書

ブルース・マイルズ著 「出撃!魔女飛行隊 」
  • 英国人の著者が実際の元ソ連女性パイロット30名余りとインタビューを行い、複数の飛行連隊の様々な逸話(エピソード)をまとめた本書は、原題を「夜の魔女」と云い、すなわち有名な 女性パイロットで構成された「夜間爆撃機連隊」だけでなく、昼間爆撃機連隊、戦闘機連隊という3つの女性部隊の活躍を描いています。


スカル大隊との関連

  • 以下は事実そのものではなく、民間伝承としての記載です
民間伝承
乗機の La-5のコクピット両側に愛称の「リーリャ」(百合)に因んだ白百合を描き込み、それを「白い薔薇」と誤認したドイツ軍から「スターリングラードの白薔薇」と呼ばれたと伝えられていた。 パーソナルマークを持つソ連機は極めて珍しく、敵機の注目を大いに集めたが、これは経験の浅いパイロットが乗る僚機から敵の注意を逸らし、自分を狙わせる為であったと言われている。

史実は?(註:SWyattuke氏の私論のまとめ)
  1. 液冷エンジン Yak-1 から空冷エンジンの La-5への機種転換は、失速特性やその他飛行特性、飛行計器の取り扱いまで全く異なるもので、戦時の状況ということを考慮しても最低でも1箇月、通常は後方に下がり数ヶ月の訓練を重ねるのが普通で、物理的にあり得ない。
  2. エースでも無いパイロットが個人マーキングをアメリカのような軍の風土ならともかく、枢軸・ソヴィエト空軍の風土で許されたとは思えない。(あってもせいぜい整備員の落書きレベル)、従って後世の宣伝(軍隊と広告塔参照)とする説が有力。
  3. そもそも、激しく機動し、回避と照準を繰り返す空中戦(例え一撃離脱戦法でも)で、敵の機体の配色はともかく、個人のマーキングを確認出来るはずがない。
  4. 機付の整備士が何度もインタビューを受けたにもかかわらず、はっきりとした情報が出ていない。マーキングはプロパガンダの産物だとsする意見も多い。何故なら証拠もないし、証言も各員でまるで異なる。本当にマーキングがあったのなら整備士が細かく証言している事だろうという考えによるもの。もちろん、全く無かったと断言する証拠もまたない。

マイア・スターリングとの関連

スカル・リーダーの慣例に倣い、四代目の飛行大隊長マイア・スターリング中佐 の VFA-6Z(S)レギオスも、鮮やかなパープル・ピンクと、ネイビー・ブラックにて塗装されている。

インビッドが比較的、人類の可視光領域に弱く(人間で云う色盲)、むしろプロトカルチャー (資源)の融合反応の放出を抑えることの方が重視されている時代であっても、やはりこのような派手な塗装には危険性が伴う。

しかし、大隊初の夫婦両立・三代目隊長であった両親(マックス夫妻)のスカル大隊の鉄則を幼い頃から叩き込まれてきた彼女は、ともすれば「親の七光り」に陥りがちな、隊長の襲名行為を、姉のダーナ・スターリング少佐(2044年当時)と異なり、実力で勝ち取っている。

それ故劇場公開映画シャドウ・クロニクル(邦訳例:「影の年代記」)本編にて、アレックス・ロメロ少尉が隊を守る為に敵機に突入した行動や、今際(いまわ)の際の「すまんな、姐さん(無線が悪くて)聞こえない・・・」の呼びかけも理解出来るものといえよう。

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