エスペラントの修正版として開発された人口言語、国際補助語です。

英語の「what」のイド語訳の方法

英語の「what」は、場面によって、様々な意味を持っていますので、イド語訳にする場合、その意味に応じて翻訳する必要があります。
(a)関係代名詞としての「what」
「what」は先行詞を含む関係代名詞として使われるならば、イド語では意味に応じて「quo」や「quon」になります。
(1)What is here is good. (=That which is here is good.)
To quo esas hike, esas bona.
ここにあるものは、良い。
上の英文の「which」は主格なので、イド語の関係代名詞も主格「quo」になります。
(2)What you say is right. (=That which you say is right.)
To quon vu dicas, esas justa.
あなたが言っていることは、正しい。
上の英文の「which」は対格なので、イド語の関係代名詞は対格「quon」になります。
(注意)
イド語においては、「to quo」「to quon」という関係において、動詞の後の「to」は省略できます。
I heard what he said.
Me audis quon ilu dicis.
私は、彼が言ったことを聞いた。
I know what they are.
Me savas quo li esas.
私はそれらが何であるかを知っている。
(b)疑問代名詞としての「what」
「what」が疑問代名詞の意味で使われる時は、イド語では「quo」「quon(対格)」を使います。
What is it?
Quo esas?
これはなんですか?
What is the matter?
Quo eventas?
どうしたの?(何が起きましたか?)
What do you want? (= you want what thing? ,'what' being the object.)
Quon vu volas?
あなたは何がほしい?(「what」は目的格(対格))
(c)疑問形容詞としての「what」
疑問形容詞としての「what」は、イド語では「qua」「quan」が使われます。
What carriage?
Qua veturo?
どんな乗り物?
What day?
Qua dio?
何日?(何曜日?)
(d)間投詞としての「what」
間投詞としての「what」は通常、疑問文を伴って、驚きや怒りを表します(何だって、ええ、まさか)。イド語でも、英語と同様に間投詞としても使われます。
What! is it true?
Quo!, ka vera?
えっ!それは本当か?
(e)「what」を使った感嘆文
感嘆文で使われた「wtat」(whatは、次の来る名詞を強調するので、形容詞としての役割をもっています)は、イド語では「quala」を使って翻訳します。
What a wind!
Quala vento!
なんという風なんだ!

不定形容詞など

(no,either,neither,few,afew,several,many,much,such,all,each other,one another,not anything,no one)
「some」「any」については第21課の部分冠詞で解説しています。
「no」
「no(どれでもない、まったくない)」の場合は、イド語では、通常の否定文にする場合と、否定の形容詞「nula」を使う場合があります。

*** a noun of quantity ***
I have no bread (=I do not have bread.)
Me ne havas pano.
私はパンを持っていない。
英文では「全く無いパン(no bread)」という表現を使って、パンの量を否定しています。結果的には、英文は文全体を否定する文となっています。この時、英語の「no」は、「量を否定する形容詞」として機能しているわけです。本来は、一部の語句を修飾しているはずなのに、文全体を否定する役割をもつのが「no」の特徴です。
ところで、ここで使われている意味で「no + 名詞」を逐語的にイド語訳するならば、どうなるでしょうか。「量を表し、形容詞として機能して、しかも、その量を否定する単語という」条件に当てはまるイド語の単語は「nulquanta(少しも〜ない)」です。したがって、
I have no bread
Me havas pano nulquanta.
となります。逐語的は、これが論理的に正しいのですが、語法的に表現が重すぎるかもしれません。しかも、否定語が文の後半に来るのは、欧米語では馴染みがないのです。(日本語では、否定語が文の末尾に来るのは自然なことですが…)
したがって、できるだけ否定語を前に持ってきて「Me ne havas pano」という表現のほうが好まれるのかもしれません。
次の例文を見ましょう。
I see no woman.
Me ne vidas muliero.
女の人が全然いない。
「女性がいない」という表現を使って、「私は女性を見なかった」という否定文にしています。
論理的には、
Me vidas muliero nulquanta.
という表現も可能ですが、語法的には、単純な否定文にしたほうがいいのでしょう。
つまり「一般的な名詞(厳密には名詞の表す量=a noun of quantity)を否定する時には、英語が名詞を否定するのに対して、イド語では動詞を否定する」のです。

*** a noun of individuality ***
No man will say.
Nula homo dicos.
誰も言わないだろう。
さて、英語「no」が否定の形容詞となって、個別の名詞(a noun of individuality)を否定する場合について考えます。
この「no」は、「どの人も、モノものも〜ない」という表現を使って、個々の人やモノを否定しています。
個別の名詞を否定するイド語の形容詞は「nula」です。その名詞の前にnula を置いて否定します。
No woman likes me.
Nula muliero prizas me.
私は女の人に全然もてない。
個性を持った名詞を否定する時には、イド語では名詞そのものを nula で否定するのです。
これは、一種の強調文になっております。ただの女性ではなくて、「どの女性もを」と強調しているのです。

上記の例文のように「no + 名詞」が文全体を否定するものばかりではありません。
「no」が次の来る名詞だけを否定する場合もあります。
No news is good news.
Nula nuveli*/nuntii* esas bona nuveli*/nuntii*.
Estar sen nuveli*/nuntii* esas bona nuveli*/nuntii*.
何のニュースがないことが良いニュースだ
(注)英語の news にはイド語では幾つか新語が提案されております。

ところで、ここで登場する「量の名詞」とか「個別の名詞」という概念は、エスペラントで使われる相関詞の考え方を利用することによって、より分かりやすくなると思います。「エスペラントの相関詞表とイド語語彙との比較」を参照して下さい。
「either」と「neither」
「either(どちらかの、どちらでも)」は、次のように,イド語訳にします。
Either of them will do (= one or other will suit).
Una od altra konvenos.
どちらも似合うだろう。
Either book will do (= one book or the other will suit).
Un libro o la altra konvenos.
どちらかの本がいいだろう。
(「either…or… 」として相関接続詞的に使われる場合、イド語では「sive ... sive」を用います)

「neither(どちらもない)」の場合のイド語訳は「」nek una nek la altra」です。
Neither door was open.
Nek una nek la altra pordo esis apertita.
どちらのドアも開いていなかった。
「few」「sevral」「many」「much」
「few(ほとんどない,少数[少し]しかない)」は、イド語では「poka」です。
「a few( 少しはある,ないことはない)」は、イド語では「kelka」です。
「sevral(いくつかの,数名[数個,数度]の)」は、イド語では「plua」です。
「many」「much」は、イド語ではいずれも「multa」で翻訳します。(「too many」「too much」は「tro multa」)
「such」
形容詞の「such(それほどの,そのような)」はイド語では「tala」、代名詞の「such(こんな事、そんな事)」はイド語では「ti」で訳出します。
Such as we are
Tala quala ni esas.
そんな私たちだ。

代名詞の「such」はイド語の「ti」で翻訳します。
Such as like it.
Ti qui prizas olu.
それを好むそんなもの。
「all」
英語の「all」も、多様な用法があるので、イド語訳する場合は、特に注意を要します。
「all」が単数扱いで「すべて(のもの)、万事」という意味の代名詞として使われる場合、イド語では「omno」。
「all」が複数扱いで「すべての人々、みんな」という意味の代名詞として使われる場合、イド語では「omni」。
「all」が形容詞として使われる場合、イド語では「omna」。
All I have said.
Omno quon me dicis.
私が語った全てのこと。
All were there.
Omni asistis.
みんなが出席した。
All trouble, all efforts.
Omna peno, omna esforci.
全ての苦労、すべての努力

「all」が「すべての〜」という意味の場合は、イド語では「la tota」。
ALL THE, meaning the whole = la tota.
All the town was ablaze.
La tota urbo flagris.
街全体が燃えていた。
「each other」
「each other(お互いに)」は、イド語では「una altra」となります。「each other」は3人以上でも使えます。
二人の場合の「one another(お互いに)」は、イド語では「una altra」または「inter-」の接辞が入った動詞が用いられます。
They loved each other.
Li amis una altra.
彼らはお互いに愛し合っていた。
They loved one another.
Li amis una altra.
Li inter-amis.
彼らはお互いに愛し合っていた(二人の場合に限定される)
They took each other's hats.
Li prenis la una la chapelo di la altra.
彼らはお互いの帽子を取り合った。
その他
「not...anything」「nothing」(〈どんなことも〉・何も)は、イド語訳で「ne ... ulo」「nulo」と逐語訳でもよさそうです。
「no one」「none」は、イド語では「ulo」「nulu」となります。
英語の「one」のイド語訳
数詞としての「one」の場合は、「un」ですが、単一性を示す形容詞としては「una」、人称代名詞としてのは「uno」です。
One and one make two.
Un ed un facas du.
一足す一は二。
The One Holy Church.
La Una Santa Eklezio.
一なる聖教会
The one said this, the other sai that.
Unu dicis ico, la altru dicis ito.
一人はこう言い、別の人はあのように言った。
指示詞の後の「one」と形容詞の後の「one」が、イド語では省略されます。
This one said this, that one said that, and the other one said the other thing.
Ica dicis ico, ita dicis ito, e la altra dicis la altro.
この人は、こう言い、その人はそのように言い、あの人はあのように言った。
The little one was tired.
La puereto esis fatigita.
その子は疲れていた。

形容詞の後の「one」は、名詞の反復で、しばしば訳されることがあります。
'One' after an adjective, is often translated by a repetition of the noun.
She had a doll, a beautiful one too.
Elu havis pupeo, vere bela pupeo.
彼女は人形を持っていた、それも本当に美しい人形を。

代名詞としての「the ones」はイド語では「uni」と翻訳されます*1
The ones were long, the other were short.
Uni esis longa, l'altri esis kurta.
これらは長く、あれらは短かった。

形容詞の後の「ones」は、イド語には翻訳しません。
ONES, after an adjective, is not translated:
Give me two small ones.
Donez ad me du mikra.
小さなふたつを下さい。
再帰代名詞「self」
再帰代名詞「self」は、イド語では「ipsa」と翻訳します。
Who was there? Only myself.
Qua esis ibe? Nur me ipsa.
そこには誰がいるのか?私自身です。

「myself」「himself」などが、単純な代名詞の後に使われるの時(すなわち「I myselef」「himself」など)、あるいは名詞の後に使われる時(the king himself)、単純な代名詞もしくは名詞を翻訳してから、空白をおいて「ipsa」と付け加えます。
They themselves told me.
Li ipsa dicis to a me.
彼ら自身が私にそのことを語った。
She saw it herslef.
Elu ipsa vidis olu.
彼女自身がそれを見た。
She saw the thing itself.
Elu vidis la kozo ipsa.
彼女はそのバラ自体を見た。

注意しなければならないのは、「ipsa」はそれを言及する単語の次に置くということです。
名詞としての「self」は、イド語では「persono」と訳出されます。
My whole self.
mea tota persono.
私自身の全て。

「quale」と「kom」を適切に使う方法

A quale BAとBは似ているが、同じ性質ではない。
「quale」は、(比較対照して)「〜のように」を意味します。
Matro quale mortinta patro reprimandis sua kindi*' ma ne suficante bone.
亡くなった父のように母は、自分の子どもたちを罰したが、それで十分ではないのだが。
(kindi* : children)
A kom BAとBは同じ品性をもっているが、同じ性質ではない。
「kom」は、「〜の品性として、〜の性質として、〜の役割として」と意味を持っています。
Patro anke kom matro sorgis sua kindi*, nam ja mortabis la matro.
父も母のような役割で自分の子どもたちを世話したが、なぜなら子供らの母は亡くなっていたからだ。

イド語の非公式的な世界 「qua」と「quo」の違いについて


ベブソンさんが所属しているイド語のヤフーグループの中でも、「qua」と「quo」の相違について、議論することがあるらしい。
ここでは、その議論についての概要を、ベブソンさんが同グループへのメーリングリストを掲載する形で、なぞっています。

まず最初に、フランスのイディストのロイック・ランデ氏からのメーリングリストの記事を紹介しています。
Kara Jean,
ジャンさんへ、
Me remarkis segun me eroro pri la Dio-Proverbo di hiera Diala Jurnaleto
昨日の日刊小新聞の「その日のことわざ」について、私なりにその間違いに気がつきました。
"Omno quo brilas ne esas oro ".
「Omno quo brilas ne esas oro 」は
Ka ne esus plu bone skribar
次の文の方が、うまく書けているのではないでしょうか?
"Omno qua brilas ne esas oro " od "Omna to qua brilas ne esas oro"?
「Omno qua brilas ne esas oro」あるいは「Omna to qua brilas ne esas oro」です。
Kordiale Loik
敬具 ロイック
ロイック・ランデ氏は、「quo」の「qua」の使い方について、疑問を抱いていますね。

そこで、ベブソンさんは以前に、同グループに掲載した記事(「qua」と「quo」の違いについて)を、ロイック・ランデ氏宛に送ったわけです。
Sro Loi"c LANDAIS: Yen mea antea letro por granda difero inter qua e quo.
ロイック・ランデ氏へ:「qua」と「quo」の大きな違いに関する以前の手紙がありますよ。
Quankam me sporadike lektas IdoListo, tamen nek me nek Sro Jean MARTIGNON pluse esas membri di IdoListo. Do povesar ke lu ne lektas vua questiono..
私はときどき「IdoListo」(の記事)を読んでいますが、私もジャン・マルティニョンもすでに「IdoListo」のメンバーではありませんので、だから、あなたの疑問を彼(ジャン・マルティニョン)は読んでないかもしれませんよ。
Me sendas mea anciena e sequanta letro por vu.
私は自分の古い、次の手紙をあなたへ送ります。
Sro Christophe GAUBERT: quo = qua'ns kontenajo
クリストフ・ゴーベール氏へ:「quo」とは「quaの中身」のこと
Sro Eduardo A. RODI:Por klimar monteto di quo.
エドゥアルド・A・ロディ氏へ:「quo」の丘をのぼるために
(以下の文は、クリストフ・ゴーベール氏と、エドゥアルド・A・ロディ氏の2人へ送ったものですね。)

ベブソンさんは何処からか勉強の為の例文を引き出して来ました。
On ya vidas ke multa homi mem ocidas por kelka monet-peci.
すこしばかりの小銭のために、多くの人たちが殺人をおかすのが知られております。
Ed en la televiziono (adminime en mea lando) on vidas homi facanta kozi mokinda po premii pekunia.
そして、少なくとも自分の国(日本)では、(殺人は犯さないけれど)テレビでは、人は賞金で釣られて馬鹿げた事をしております。
Do forsan la ideo pri kordio militista esas nur traito kulturale impozita al homaro.
だからおそらく、軍国主義者の心を動かす思想も、人類に押し付けられた文化的特色にすぎないでしょう。
On pensas ke suceso esas suceso materiala, aparar en televiziono (facante irgo) esas maxim granda revo por multi.
人々が考えるのに、成功とは物質的な成功であり、(何でもやって)テレビに出られるのは、多くの人たちにとってとても大きな夢なのです。
Quante plu stupida on esas e montras su, plu multe on esas aceptita.
自分を愚かにするほど、またそれを見せ付けたりするほど、人々はより多く受け入れられるのです。
Pensar esas konsiderata neutila.
(深く)考えることは、無駄だと思われています。
Ed on devas facar nur to quan omni facas (precipue le sucesoza).
そして、人々はみんなが行っていることだけは行うべきである(特に成功者は)
E la sucesoza ya militas ed esas violentema.
そして、成功者はまさに闘争しており、暴力的です。
Do on mustas esar violentema, se on volas sucesar quale li.
したがって、人々が彼らのように成功を願うならば、荒々しくあるべきだ。
上記の文は、とりわけ、イド語の文法事項を述べたのものではありません。おそらく、その文章の中に登場する関係代名詞「qua」の例を示すためだと、推察されます。

つぎからの記事が、ベブソンさんの「qua」と「quo」との相違についての記事になります。
Quo esas "quo"? Quo esa la kontenajo di "qua".
「quo」とは何か?「qua」の中身とは何なのか?
(上記の文章では、「on devas facar nur to quan omni facas」となっているところを次のように修正しているのでしょう)
On devas facar to quon omni facas.
人々は、みんなが行うことを行わなければならない。
(修正部分は「to quan」→「to quon」です。そして、「qua」を関係代名詞として使うならば、「to di qua kontenajon」としなければならない、と指摘するわけです。)
On devas facar to di qua kontenajon omni facas.
人々は、みんなが行う内容を行わなければならない。
(次に、「qua」の使われる例文のモデルを示しています)
Qua esas la pacifisto? La duesma de la dextra.
平和主義者はどちらなのか?右から二番目だ。
(次は「quo」の使われる例文です)
Quo esas la pacifisto? Vera prejanto por paco.
平和主義者とは何者なのか?平和のために本当に祈る人だ。
(ベブソンさんは、上記の例文で、「quo」「qua」の使い方を示しているので、E・ルディ氏に対して、やんわりと皮肉をこめて、次の文章をのせたのです)
Qua esas do la pacifisto? Lu esas Sro E. RODI.
だから、平和主義者とはどの人なのか?その人とはE・ルディ氏だ。

(ここから、「quo」「qua」の使い方の例文を列挙します)
Me ne komprenas to quon vu prejas* (insistas).
私はあなたが祈っている(主張する)ことが分からない。
Me ne komprenas to di qua kontenajon vu dicas.
私は、あなたが言っている内容が分からない。
Me ne komprenas "nur" to quan vu prejas*.
私は、あなたが祈っていること"だけ"は分からない。
Me komprenas l'altra kozi quin vu dicas, tamen me ne povas komprenar nur to "quan" vu prejas.
私はあなたが言っている別のことは分かるが、しかし私はあなたが祈っていることだけは理解できない。

(ベブソンさんは、「to qua/quan」の流れは否定しているものの、限定の副詞「nur」がついたときは、、「to qua/quan」の使用を肯定しているのです。すなわち…)
>Ed on devas facar nur to quan omni facas ...(precipue le sucesoza).
vu semblas gramatikale justa, pro ke ...
ここではあなたは文法的に正しいようです、なぜなら…
>Ed on devas ne facar "l'altra nenecesa kozi",
人々は「他の必要ないこと」をすることをすべきではないが、
>ma on devas facar "nur" to quan omni facas ..
しかし、みんながしていること”だけ”はすべきである。
>(precipue le sucesoza).
(とくに成功者は)
(なぜ、そうなるのかの説明が次からの文章です)
Se vu uzus "quon" vice "quan" ....
もし、あなたが”quan”のかわりに”quon”を使ったならば…
>Ed on devas facar nur to quon omni facas ...(precipue le sucesoza).
「Ed on devas facar nur to quon omni facas ...(precipue le sucesoza).」ようになるので、
Co dicus ....
この文は…次のようになるかもしれません。
>On devas facar nur to quon (nejusta ma profitebla kozi=la kontenajo) omni facas (precipue le sucesoza).
「人々が、みんな(特に成功者たち)がしていること(正しくはないが有益な事柄=その内容)だけはすべきである。」
Co anke dicus ....
これはまた…次のようになるかもしれません…
>On devas facar "anke egale bone" to quon omni facas (precipue le sucesoza).
「人々は、みんなが(特に成功者は)(行っていることを”また等しく、うまく”行わなれければならない。
Pro ke "nur" hike kun sequanta "quon" ma ne "quan" aspektas a me retorikale egalesar ya "anke egale bone".
なぜなら、”quan”ではなく”quon”についている”nur”は、”anke egale bone”と修辞学的に等しいと、私には思えるからである。

このようなベブソンさんの議論に対して、エドゥアルド・A・ロディ氏は次のような反論を寄せています。
Me ne bone komprenas vua expliko.
私は、あなたの説明をよくわかりません。
Kom relativi, me uzis "qua/i(n)" kande esis "antecedento"(substantivo avana a qua la pronomo referas), e me uzis "quo(n)", kande ne esis tala substantivo, quale la Angla "that/which/who" vice "what":
”先行詞”(代名詞quaに先行する名詞)がある時は、関係詞として、”qua/i(n)”を私は使いましたし、また、そのような名詞(先行詞)がない時は、"what"の代わりに"that/which/who"使う英語のように、”quo(n)”を使いました。
>>> I didn't understand the EXPLANATION (that) you offered to me.
Me ne komprenis la EXPLIKO quan vu ofris a me. >>>
(例えば)「I didn't understand the EXPLANATION (that) you offered to me.」
「Me ne komprenis la EXPLIKO quan vu ofris a me.」から…
I didn't understand what you explained to me.
Me ne komprenis quon vu explikis a me.
(次のようになります…)「I didn't understand what you explained to me.」
「Me ne komprenis quon vu explikis a me.」
Ka ta uzado esas nekorekta?//99% korekta ma..
この語法は正しくないのですか?99%正しいと思いますが…

この反論に対するベブソンさんの返事は次のようなものです。
Me dicus en la duesma frazo...
私は二番目の文章で次のように言っています…
Me ne komprenis to quon vu explikis a me.
私は、あなたが私に説明したことが分からなかった。
Me ne komprenis la EXPLIKO quan vu ofris a me.
私は、あなたが私に提供した「説明」は分からなかった。
Onu ne parolas la kontenajo di la explko en la unesma frazo.
最初の文では、説明の内容を話していません。
Kande me a vu dicadis multa kozi inkluzante expliko, jokajo e mem prediko edc.:
説明やジョークや小言までも含めて多くの事を、私はあなたに対して言ってきました。
Me komprenis la jokajo quan vu ofris a me.
あなたが私に提供したジョークは理解できますよ。
Me komprenis ma ne prizas la prediko quan...
小言は好きではないが、分かりますよ…
Me ne komprenis la expliko quan vu ofris a me.
あなたが私に提供した説明は分かりません。
Vu indikas la expliko inter multa kozi de me.
あなたは、私からの多くの事柄の中に、その説明を示しているのです。
(次の文は、「to + quo」を使った例文)
Me ne komprenis to quon vu explikis a me.
あなたが私に説明したことは、分かりません。
Me ne selektas vua expliko inter multa kozi.
私は、多くの事柄の中からあなたの説明を選抜しません。
Existas nur la expliko avan me.
私の前には説明だけがあるのです。
Kande tamen me esforcas pensar pri la kontenajo di l'expliko, me tote ne komprenis to quon vu predikis a me.
しかし、その説明の内容について努めて考える時には、私に対する説教を私は全く理解できなかったのです。
En ta kazo, vu do anke povas dicar quale...
その中で、あなたはこのように言っているのかもしれませんね…
Me ne komprenis l'expliko quon vu dicis a me.
私は、あなたが私に語った説明を理解できなかった。
Me ne komprenis l'expliko qua'ns kontenajon vu vane esforcas koaktar aden mea bonega cerebro.
私は、自分のとても良い頭に向かって、あなたが虚しく無理いじする内容の説明を、理解できなかった。

つまり、qua は何かを指している矢印なのです。----> ◯ その先にある、面積を持った丸が to とお考え下さい。
qua は何かを指し示せば良いので、qua 自体には内容がありません。 nur to qua の時には、 qua が to の中の小さな ○ を示しているのでしょう。

On devas facar nur to quan omni facas (precipue le sucesoza).
人々は成功する為に他に色々やるべき事があっても、みんな(特に成功者)が行っていること(絶対的に必要な事)だけは行うべきである。ここでは nur は狭い矢印 qua が示す to 中の小さな部分の意味になるのです。

一方、to quo は ===> ◯ が一緒になったモノです。内容を持った矢印なのですね。

On devas facar nur to quon (nejusta ma profitebla kozi=la kontenajo) omni facas (precipue le sucesoza).
人々が、みんな(特に成功者たち)がしていること(正しくはないが有益な事柄=その内容)それだけは全てすべきである。ここでは nur は to 全体を漏れなくの意味になるのです。
On devas facar "anke egale bone" to quon omni facas (precipue le sucesoza).|
人々は、みんなが(特に成功者たち)が行っていることは、漏れなく(全て)同じ様にうまく行わなれければならない。

参考:co ca(これ) と to ta (それ)に付いても同様な関係です。
ca や ta は矢印で指し示しているだけ、co や to は指し示された実体です。詰まり形容詞は矢印で名詞は実体です。bela は美しいモノ/人を指し示しているだけ。belo になると指し示された実体、美男、美女になります。

(一連の議論の流れから見ると、ベブソンさんの細かなこだわりが見て取れます。また、問題となっている「quoとquaの相違」を文章に混ぜながら、ジョークを巧みに操っているベブソンさんの語学能力には、恐れいりますね)

ベブソンの呟き:イド語を学習すると、言語の裏にある論理が見えて参ります。私程度の語学能力を身に付けるなど訳もありません。
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