エスペラント語の修正版として開発された人工言語、国際補助語です。

語順

一般的に言って、活用語尾がほとんどない英語は単語を、主語、動詞、目的語と論理的に配置しなければならないので、英語の語順はとても明確です。
英語イド語日本語
I love him.Me amas ilu.私は彼を愛する。

形容詞は(ひとつであったり、長くなければ)名詞の前に置かれます。英語も、イド語も同じです。
英語イド語日本語
A long way.Longa voyo.
Voyo langa
長い道

通常、副詞もまた、修飾する単語の前に置かれます。この点も、イド語も同じ。
英語イド語日本語
He truly said he fully understood.Ilu vere dicis ke ilu tote komprenas.彼は、自分は分かると、本当に言った。

イド語では、副詞の「ne」「tre」は常に、その単語の前に置かなければなりません。英語では、語尾に来る場合もあります。
英語イド語日本語
I like him very much.Me tre amas ilu.私は彼がとても好きだ。
Not entirely (=not quite).Ne tote.必ずしも〜ない
Entirely not (=not at all).Tote ne.少しも〜ない

対格 (第28課の復習)

いかなる名詞や代名詞は、動詞の直接目的語となり同時に主語の前に位置するときにだけ、対格形になります。接尾辞「-n」を付け加えることによって、対格になるのです。(対格の名詞を修飾する形容詞は、接尾辞「-n」はつきません)
英語イド語日本語
A fine story, he told me!Bela rakonton ilu facis a me!素敵な物語ですね、彼が私に話してくれたものは!
It was they that I called.Lin me vokis.私が呼んだのは、彼らです。
代名詞の「il」「el」「ol」はそれぞれ「ilu」「elu」「olu」の省略形ですので、これらの対格は「ilun」「elun」「olun」となります。
英語イド語日本語
She it was whom I loved so!Elun me tante amis!私がそのように愛したのは彼女だった!
しかし主語が目的語の前に来る時は、対格である必要はありません。
英語イド語日本語
I saw them (=I them saw).Me li vidis.
'Me lin vidis.'
私は彼らを見た。
(Me lin vidis)の方が明確。
しかしながら、動詞の前に目的語が来る時はいつでも、(目的語になる単語を)対格にすることが奨励されています。
英語イド語日本語
I love you.Me tun amoras.私はあなたを愛します。

複合語

イド語でも英語のように、前置詞を省くために名詞を合成することができます。
英語イド語日本語訳など
A tea-cup (=a cup for tea).te-taso (=taso por teo).ティーカップ
A steam-ship.vapor-navo.蒸気船

合成する単語の間に「o」を置くことがあります。言葉の響きが良ければ「o」をつけ、そうでなければ、「o」はつけません。
例えば、「skribo-tablo」(机)と「skrib-tablo」という言い方はありますが、「tabl-tuko」という言い方はしません。「tablo-tuko」(テーブルクロス)の方が言葉の響きがいいからです。
合成する単語の間には、ハイホン記号をつけたほうがいいです。例えば「fervoyovagono」でなく、「fervoyo-vagono」(列車)が使われます。
形容詞や副詞と合成語を作る時は、それらを語尾につけるほうが役に立ちます。
英語イド語日本語訳など
English-speaking people.Angle-parolanti.英語を話す人たち
Sky-blueCiel-blua青空
SunburntSun-brulita日焼け
A dark-eyed, curly-headed little boy.Nigr-okula loklo-hara pueruleto.黒い目の巻き毛の少年
イド語の前置詞を使う複合語は、まず最初に前置詞をおいて、英語の語順と同じ順序にします。
英語イド語日本語など
subterraneansub-tera地下の
このような複合語は、その関係性を前置詞が表しているので、普通の接辞は使いません。
英語イド語日本語など
nationalnacionala国民の
internationalinternaciona国際的な
一方で、次のような例があります。
英語イド語日本語など
naturalnaturala自然の
supernaturalsupernatura超自然の
上記の語彙に付いている接辞「-ala」は、「pri」を意味しています。すなわち、「naturala」とは、「pri naturo」のことです。また「fenomeno supernatura」は、「fenomeno super naturo」となり、意味は通じるかもしれませんが、「fenomeno supernaturala」というように接辞「-ala」を使うと、「fenomeno pri super naturo」(超自然についての現象)となり、意味が明確になります。
前置詞と動詞を使う複合語は、複合語の形を、動詞の目的語に代えてはならないということに注意しなければなりません。
「I see the stones at the bottom through the water.」(私は水の底にある石を見た)という文は、イド語では「Me vidas la stoni di la fundo tra la aquo」となりますが、複合語を使うと、「Me tra-vidas la stoni di la fundo en la aquo」(私は水の中の底にある石を見通した)となります。この場合、「me travidas la aquo」(水を見通す)としてはだめです。
形容詞「travidebla」は「transparent」(透明な)という意味にはなりません。
これは、「石」にだけ適用されるので、「visible through (the water)」(水を通して見える)のです。
英語の「transparent」(透明な)に相当するイド語は「diafana」(透明な)があります。
Stoni travidebla tra diafana aquo.透明な水を通して見える石

自動詞になり他動詞にもなる動詞   参照:http://goo.gl/tQ1Arl

イド語では、英語と同様に、自動詞になり他動詞にもなる動詞があります。この点、エスペラントは、自動詞と他動詞は明確に区別されています。
自動詞Mea laboro komencas, duras, cesas
他動詞Me komencas, duras, cesas mea laboro(laborar)

無主語動詞

次の動詞は、主語なしで使われ、その後に不定詞が続きます。
「oportas(= it is necessary)」(必要である)、「importas(= it is important)」(重要である,)、「konvenas(= it is convenient)」(似合う)、「decas(= it is proper)」(ふさわしい)、「suficas(= it is sufficient)」(充分である)。
英語イド語日本語など
We must get up early tomorrow.Oportas levar ni frue morte.明日朝早く、我々は置きなければならない。
その他の”無主語動詞”は、形容詞と「estar」によって作られます*2
英語イド語日本語など
It is useful to empty the barrel.Esas utila vakuigar la barelo.樽は空にするれば役に立つ。

派生

語彙の論理的関係は、派生語においても厳密に踏襲されなければなりません。イド語の名詞「adreso(住所)」から動詞に派生させるには接尾辞「-iz」*3を使って、動詞「adresizar(「住所を供給する」→「〜に住所を書く」)」に派生することができます。
動詞名詞
adresizarに住所を書くadreso住所
イド語の名詞「broso」は、「ブラシをかける」という意味しか持ちません。これは動詞「brosar」の語根が「ブラシをかける」行為しか意味しないからです。それでは「ブラシ」という名詞にするためには、道具を意味する接尾辞「-il」が必要です。したがって、イド語ではブラシを意味する語彙は、「brosilo」(ブラシをかける道具)となります。
動詞名詞
brosarブラシをかけるbrosiloブラシ
しかし、接辞にしか使われない接辞のほかに、多くの語根は、接辞として使われ、一種の合成語を作っています。多くの道具の名称が第一語根となっている時、「行動する、行う、扱う」という意味の語根「ag-」が、接辞的に使われます。例えば、英語で「a hammer」(ハンマー:名詞)、「to hammer」(ハンマーで打つ:動詞)となりますが、後者の動詞は明らかに前者の名詞から派生したものです。
イド語ではハンマーのことを「martelo」と言います。これを動詞化するためには、「martel-agar」あるいは「martel-uzar」というようになります。いずれも、「ハンマーを打つ」という意味になるのです。(道具を表す語根)+agar(uzar)となります。この際、「ager」あるいは「uzar」は、接辞的な役割を持つようになります。「martelagar」という動詞は、「〜をハンマーで打つ、ハンマーで叩く」という意味の他動詞となります。
動詞名詞
martelagarハンマーで叩くmarteloハンマー
英語イド語日本語
He hammered (at) the picture.Ilu martelagis la pikturo.彼はその絵をハンマーでたたいた。
同様な方法で作られる動詞には次のようなものがあります。
動詞名詞
klefar鍵をかけるklefo
butonagarボタンをするbutonoボタン
frenagarブレーキをかけるfrenoブレーキ
pedalagarペダルを踏むpedaloペダル

敬称

高貴な人たちなどへの敬称は、必ず品位を表す名称がそれに続く時に、「Sinior(ul)o」や「Siniorino」が使われます。
イド語英語日本語訳など
Sinioro Rejo, me humile pregas..-国王陛下、恐れ多くも、お願い奉りますが…
Sinioro Episkopo di London.-ロンドンの主教陛下
Siniorino Komto-The Countess..伯爵婦人
Yes, Sinioro,Yes, your Honor,
your Worship.
はい, 閣下

省略

冠詞「la」と形容詞(とりわけ接辞「-al-」で派生された形容詞)の語尾「a」は、意味上の混乱が発生しない時、省略してもかまいません。
Ilu parolis a l'infanto.彼はその子に話しかけた。
la nacional sentimento.国民感情
アクセントは、「a」があるものとして、そのまま同じ音節に置かれます。

定冠詞は、若干の前置詞と組み合わせた時に、短縮してもかまいません。
省略形 ← 本来の形
dal  ← da la
dil ←  di la
del ←  de la
al ←  a la

イド語の非公式的な世界

再び、合成語について
名詞は、合成語の語根(つまり主語)になることができます。ただし、動詞のように機能する前置詞は合成語の要素にはなりません。この時、その名詞語根は、前置詞(つまり動詞)の目的語とみなされるからです。
英語イド語日本語訳など
A steam-shipvapor-navo
Navo (subjekto) movas per vaporo.
汽船(船は蒸気を使って動く)
英語の「submarine」について考えてみましょう。
イド語に逐語訳すると、「sub'mara」(海の下の)ですが、そのままでは「潜水艦」という意味にはなりません。
「Ka maro esas sub ulo?(海は何かの下にあるのですか?)」「Ulo posedas maro (objekto) en la pozeso sub la maro.(何かが、海の下の位置の中に海がある=海の下にあるものは海なのだ)」。
「sub +目的語」の意味は「何か(主語)が、何か(目的語)の下の位置の中に、ある物を所有している」ということです。

結論を言えば、「submarine」のイド語逐語訳「sub'mara」は、「海の下の」という意味するだけであって、「海の下の何か」までを意味しないということになります。

したがって、「submarine(潜水艦)」本来の意味を表すためには、「sub'mara navo」という具合にしなければなりません。「sub'mara navo」の意味は、
Navo movas sub la maro
Navo sub'movas la maro
船が海の下を動く
となります。
繰り返しになりますが、ベブソンさんは、「前置詞と接頭辞を同じ語句を使うべきでない」と、注意喚起をしています。前置詞をそのまま、接頭辞として使用することで、若干の論理的な問題が生じるからです。(第26課参照)
英語イド語日本語訳など
internationalinter'naciona
= posedanta ulo inter nacioni
国際的な
国家間で持っている〜
supernaturalsuper'natura
= posedanta ulo' od existanta super la naturo
超自然の
自然を超えて何かを持っている(何か)、自然を超えて存在している〜
fenomeno super'natura
= fenomeno evanta super naturo
超自然現象
自然を超えて起こる現象
改めて、ゴンサル・ネヴェシュ氏に教授するために
第26章のイド語の非公式的な世界で、ゴンサル・ネヴェシュ氏との議論について、再び説明します。(詳細は第26章を参照のこと)

「avan-brakio」とは「manuo(手)」のことです。「avan」は前置詞であるため、「ulo avan brakio」(腕の先にあるもの」とは、「手」です。
「avana-brakio」とした場合は、「avana parto di brakio avan kudo」(肘の前にある腕の前の部分)つまり「brakio avan kudo」(前腕)という意味になります。
「avana-brakio」の中で使われている「avana」とは、形容詞です。

「vice-prezidanto」とは、何のことでしょうか?
Vice-prezidanto (A) esas ula Sro B, qua esas anke kapabla laborar kom prezidanto vice Sro A. Do BYT dezirus expresar la vorto kom vice-A-B. (B vice A)
「Vice-prezidanto(A)」(会長A代理)は、B氏である。B氏は、A氏の代わりに会長として仕事をする能力がある。したがって、ベブソン(私)は、「vice-A-B」(Aの代わりのB)という語彙を表現したかったのかもしれません。
Sro B esas vice-prezidanto (A) -prezidanto.
B氏は、会長であるA氏の代わりの会長です。
Ca parto, vice-prezidanto (A), povus egalesar "vicea".
「vice-prezidanto (A)」の部分は、「vicea」と表現できるかもしれません。
Sro B povus nomesar prezidanto, tamen onu ankore ne definas lu esar/ye pura prezidanto ma nur vicea-prezidanto, dum ke Sro A ja povas funcionar tale.
B氏は会長と呼ばれるかもしれませんが、純粋な会長と定められるのではなく、A氏が会長として役職を遂行していたとしても、(B氏は)「vicea-prezidanto」(会長の代理)に過ぎません。
Vicea- = tempala, provizora, segun-dezira edc.
「vicea」とは、「tempala」(仮の)、「provizora」(暫定的な)、「segun-dezira」(択一的な)などの意味になります。
Onu anke povus uzar neben*- vice vicea- quale neben*-prezidanto.
「neben*-prezidanto」のように、「vicea」の代わりに「neben*」を使うこともできます。*4
「マウスをクリックする」をイド語で何と言うのか?「Kad kliktar o klikar ?」
イド語で、「クリックする」という表現は、どうなるのでしょうか。イド語界では自然発生的に「kliktar*」という単語が使われいますが、この単語に対して、ジャン・マルティニョン氏が、ヤフー・グループ上で、意見を求めました(2007年)。これに対して、ベブソンさんが回答しています。
最初は、ジャン・マルティニョン氏の疑問を呈する投稿の内容です。
Yo* Idistaro !
やあ、イド語のみなさん。
Singlu savas ke me odiegas la prilingua diskuti.
私が言語についての議論が嫌いだということは、皆が知っています。
Tamen, hike, esas ulo neklara por qua me dezirus expliko.
しかし、ここに、説明したい不明確なものがあります。
Nia samideani uzas por komputilala uzo la vorto kliktar*.
同志たちが、コンピュータを使うときの「kliktar*」という単語を使っています。
Ma en la precipua fonto-lingui la radiko di ca vorto esas klik- e nule klikt- segun mea savo (Angle, France, Germane).
しかし、主要な語源言語の中で、私の知るところによると、この単語の語根は「klik-」であって「klikti-」ではありませんね(英語、フランス語、ドイツ語)
Ni, ya, ja havas la vorto kliktar qua segun la dicionario dil la 10 000 radiki signifikas : bruisar ne-matide.
すでに私達には、『10000語源辞書』によると、「kliktar」という単語があります。「鋭い騒音を出す」
Pro quo on uzas ica vorto en tote altra senco ?
なぜ、全く違った意味で、この単語を使っているのはなぜだろう?
Predanko*5 pro -> por via respondo. JM :::-:::
あなた達のご返答、おねがいします。
ジャン・マルティニョン氏の投稿を要約すると、「ネット上で、普通に『kliktar*』という単語が使われているが、語源的におかしい。英仏独の『クリック』は『klik-』だ。イド語語源辞書では、『klikt-』があるが、全く、別の意味だよ。どうなんだ。意見求む。」というもの。
これに対して、ベブソンさんは、次のような投稿をしました。
Sro Jean MARTIGNON:On n'est jamais si bien servi que par soi-même.
ジャン・マルティニョン氏へ:満足行く結果が欲しいのならば、自分でやるべきである。
En Ido ne existas la vorto klikar' ma nur substantivo kliko (cliquet).
イド語には、「klikar」という単語は存在しませんが、名詞の「kliko」(《歯車の逆回転を防ぐ》つめ、歯止め)だけはあります。
Do onu trovas la vorto quala kliko'roto (roue `a rochet / ratchet wheel).
ですから、「kliko'roto」(つめぐるま*6)という単語もあります。
Ma en Ido existas verbo kliktar, qua tamen esas verbo ne'transitiva.
しかし、イド語には、自動詞である「kliktar」という動詞があります。
Onu nun uzeskas la verbo kom un transitiva quale onu kliktas* sur ikoni skrenala.
いま、「onu kliktas* sur ikoni skrenala.」(画面のアイコンの上をクリックする)というように、他動詞として使い始めています。*7
kliktar (ne'transitiva) = facar kurta e kraketema sono
「kliktar」(自動詞)=短く、カチッとした音が出る
kliktar (transitiva) = igar facar kurta e kraketema sono
「kliktar」(他動詞)=短く、カチッとした音を出す
Onu ofte igas la muso facar kurta e kraketema sono sur ikoni skrenal.
=Onu ofte kliktas la muso sur ikoni skrenal.
人は何度も画面上でマウスを短くカッチとした音を出す
何度も画面上のマウスをクリックする
Ex. Kliktez sur la ikono ibe.
例)そこのアイコンをクリックして下さい。
「plu antee」という言い方は?
「plu antee」という言い方は、ありでしょうか?ヤフー・グループ上で、議論になったことがありました。
エドゥアルド・A・ロディ氏が「plu antee」はおかしいと、投稿しています。パルタカ氏への質問でした。
Kara Partaka,
パルタカさん。
"Plu antee" esas evidenta eroro en la Hispan[ian]a (e vere lede aspektanta, anke).
「plu antee」とはスペイン語では明らかな間違いです(また、本当に間違って見えるのですが…)
Ma en Ido, qua esas linguo plu reguloza e racionoza, olu devas esar aceptenda, por taspeca exempli:
しかし、規則的であり道理にかなったイド語では、このような種類の例を必ず受け入れなければならないのです。
"Cavespere, me kusheskos frue. Ma antee, me dineos, e "plu antee" me balnesos."
「今晩、私は早く横になるさ。でも、その前に、食事をして”plu antee()”風呂に入るんだ」
Ya nia linguo denaska repulsus tala expresuro.
すでに我々の生来の言語は、そのような表現を排斥していたかもしれません。
Ma me vidas nula motivo por repulsar olu anke en Ido, ka yes?
しかし、私はイド語でもまたそれを排斥する動機はわかりません、違いますか?
Standez bone. Eduardo.
お元気で。エドゥアルドより。

このようなエドゥアルド氏の投稿に対して、ベブソンさんのコメントは次のようなものでした。
「欠点もあるけど、それも含めて、受け入れよう」ということを言いたかったのでしょうか。
Sro Eduardo A. RODI: El ken kere la roza, kere i el punchon (espina). :-P
エドゥアルド・A・ロディ氏へ:バラを愛する者は、その棘も愛すべし。(ラディノ語)
Quankam anke en la Angla "more earlier" esas kompreneble' evidenta eroro, multa Japoni uzas ta expresuro en sua Angla frazi, forsan, pro ke li male lernas la Angla patuazo*.
英語でも「more earlier」はもちろん、明らかな間違いですし、多くの日本人たりは、自らの英文の中で、その表現を使っています。おそらく、ひどく悪い(英語という)民族語を学んでいるからです。
E me pensas olu ye tam logikoza quale anke me uzas ta expresuro kande necesa por apte expresar tala situeso.
だから、そのような状況を適切に表現する必要がある時に、その表現を使っても、それは論理的だと私は思っています。
Nuna'tempe mem kelka USA-ani uzeskas ta expresuro en sua frazo quale "I could have kicked myself for not playing him more earlier in the year," Bowden said.
最近は、少数の米国人たちが「I could have kicked myself for not playing him more earlier in the year」(私は今年のはじめに彼を起用しなかったことに後悔していたかもしれない。)というような文章の中で、その表現を使い始めた、とボウデンが言っていたよ。
「中国の古典」より
ベブソンさんからの贈り物です。人生訓。
Kar Idisti: Nun Chuang-cu(Zhuang1-z) rakontas en la antiqua China quale ....
イディストの皆さん。荘子が昔の中国語で、こんなことを書いています。
方舟而濟於河,
Fang zhou er ji yuhe.
ファーン ジョウ オーァ(アル) ジー ユイ ホーァ,
方舟にして河を済(わた)らんとするに、
有虛船來觸舟,
You xuchuan laichu zhou.
ヨウ シュイ チュワン ライ チュウ ジョウ,
虚船の来りて舟に触るる有れば、
雖有惼心之人不怒。
Sui you bianxin zhi ren bunu.
スゥイ ヨウ ビエン シン ジー ゥレン ブゥ ヌゥ。
惼心を有するの人といえども怒らず。
有一人在其上,
You yiren zai jishang,
ヨウ イー ゥレン ザイ チイ シャーン,
一人のその上に在る有れば、
則呼張歙之。
ze hu zhangxi zhi.
ゾーァ ホゥ ジャーン ショーァ(シイ) ジー。
すなわち呼びてこれを張歙す。
一呼而不聞,
Yihu er buwen,
イー ホゥ オーァ(アル) ブゥ ウエン(ウエン),
一呼して聞かず、
再呼而不聞,
Zaibu er buwen,
ザイ ホゥ オーァ(アル) ブゥ ウエン(ウエン),
再呼して聞かず、
於是三呼邪,
yushi sanhu xie,
ユイ シー サン ホゥ シエ(イエ),
ここにおいて三呼するや、
則必以惡聲隨之。
Ze bi yi esheng shizhi.
ゾーァ ビー イー オーァ(オーァ,ウー,ウー,ウー) シュヨン スゥイ ジー。
すなわち必ず悪声を以てこれに随わん。
向也不怒而今也怒,
Xiang ye buhu er jin ye nuzhe.
シアーン イエ ブゥ ヌゥ オーァ(アル) ジン イエ ヌゥ,
さきには怒らずして今や怒るは、
向也虛而今也實。
Xiang ye XU er jin ye SHI.
シアーン イエ シュイ オーァ(アル) ジン イエ シー(シー,ジー)。
さきには虚にして今や実なればなり。
人能虛己以遊世,
Ren neng xuji yi youshi,
ゥレン ヌオン シュイ ジー イー ヨウ シー,
ひと、よく己れを虚にして以て世に游べば、
其孰能害之.
qi shu nenghai zhi.
チイ シュウ ヌオン ハイ ジー
それだれかよくこれを害せんや。

これは、(『荘子』 山水 第二十)からの引用です。
白文
拼音(ピンイン)
ピンインのカタカナ表記
書き下し文
上記の順に記述しています。

次は、ベブソンさんによるイド語訳です。http://bit.ly/i4HSAC
Kande viro en sua batelo esforcas pasar fluvio ed ula vakua kanoto proximeskas e frapegas lua batelo, lu ne iracas stulte, mem se lu ya esas facile iracebla, pro ke lu vidas nulu apud su.
自分の船に乗っていた男が河を渡って行くと、空の小さな船が近づいてきて、自分の船にぶつかった時に、おろかにも、怒らなかった、たとえ、彼が怒りやすかったとしても。なぜなら、傍らに誰も見なかったからだ。
Kande tamen ulu direktas la kanoto, nu la viro klamas por hauligar e jirigar da lu la kanoto.
しかし、誰かが小舟を操っていたなら、さて、その誰かが船を操って旋回するように、小舟に叫ぶのだ。
Se lua unesma klamo ne audesas, lu ri'klamas e, se la duesma nek audesas, lu ri'klamas ica'tempe iracante ya per torento de sordida maledikuri.
もし、最初の叫びが聞こえないならば、再び叫び、もし二回目の叫びも聞こえないならば、今度は、怒りながら、汚い呪いの言葉を連発して叫ぶ。
Che la unesma kazo lu ne iracas, tamen nun che la duesma kun ulu en la kanoto la viro furias.
最初の場合は、怒らないが、小舟の中に誰かがいる二度目の場合は、男は怒り狂うのだ。
Antee lu afrontas simpla vakueso, nun avan sua okuli lu renkontras nur simpla okupeso da ulu.
先に、彼は単純に空(くう)であったが、今、目の前に、誰かによって占拠されているものと出会った。
Se homo sucesus facar su ipsa ye vakua' e vagus tra la mondo, qua sub la cielo voleskus nocar lu?
もし人が、自らを空(くう)にしていて、世間をさまよっていたなら、空の下で誰が彼に害を与えたがるだろうか?
Askoltez Chuang-cu se onu havas la oreli!
もし耳があるなら、荘子の教えに耳を傾けよ!
ベブソンさんの独白
Mea mastro di Kungfu regretinde aspektis febla oldulo.
私のカンフーの師匠は、残念ながら弱々しい老人にしか見えませんでした。
Irge'kande raskali ma sen'kauze VENDIS, tale dicas la Japoni, disputi a mea mastro, lu sempre ridetis ed exkuzis su avan li por ganar pardono de la raskali.
チンピラたちが何の理由もなく、私の師匠に対して、けんかを売って来た(喧嘩を売るとは、日本人の表現)時はいつでも、師匠は微笑んで、チンピラの許しを得るため、彼らの前で詫びていたのです。
Pro ke lu tre timis li?
彼がチンピラを恐れていたからでしょうか?
Ma l'omna lua dicipuli, inkluzante me, konocis ke lu povus ocidar la omna raskali ibe per sua feroca manu'frapi quik inter kelka sekundi, nur se lu vere voleskus.
いいえ、彼のすべての弟子たち(私も含めて)は、知っていたのです。もしも彼が本当に望めば、自らの拳を使って、そこにいたチンピラたち全員を瞬時のうちに殺すことも可能であったことを。
Tamen la mastro ne volis.
しかし、師匠はそんな事は望みませんでした。
Forsan ja en ta tempo lu sucesis facar su ipsa ye tote vakua avan irga personi (mem raskali).
おそらく、すでにその時、師匠はどんな人間の前でも(たとえチンピラにでさえも)、自らを全く空(くう)の状態に、できていたのでしょう。
Kande uli a me vendis disputi, me par'batis li segun mea granda iraco e deziro.
誰かが私に対してけんかを売って来た時は、私は、激怒の情にまかせて、彼らを打ちのめしていたのです。
Ta'kaze mea mastro, nu des'estimante regardis me, e dicis ke me esas ma stulta poltrono.
そんな場合、私の師匠は、軽蔑した様子で私を見つめ、お前は愚かな臆病者だと言ったのです。
Kande me ri'memorigis da me la ceno, me devis agnoskar ke me esas tre stulta.
その場面を思い出した時、自分はなんて愚かだと認めざるを得なかった。
Kande onu esas vera poltrono, lu multe deziras stulte pruvar ke lu tote ne esas tala, quankam fakte lu esas tala ad'vere.
本当の臆病者は、実際にそうであるにも関わらず、自分は臆病でないことを、おろかにも証明したがるものなのです。

日本人の創意工夫と伝統の継承 :ベブソン(イタチ?)の最後っ屁:


仕事で日本国内を旅行する時に、超一流の帝国ホテルは勿論の事、小さな地方都市の何処にでもあるビジネスホテルの東横インですら、ウォッシュレットや歯ブラシ、髭剃り等、急な所用で何も持たなく出かけても快適な旅行ができる様になっております。
対して、例えば英国の超一流ホテルのサヴォイでは、ウォッシュレットや歯ブラシ、髭剃り等は見当たりません。それにトイレの水流が弱くて、モノが完全に流れない事もありです。流石に従業員のサービスは一流ですが、日本人が何の用意も無しに気楽に泊まれる感じではありませんね。特に私の様な痔主(地主ではありませんよ)の人間にとっては辛い旅になるでしょう。私の様に英語が自由であれば、近くのお店に寄って、歯ブラシ、髭剃り等を購入すれば済む話ですが、普通の日本人にとっては、お店を見付けるのも少し難しいかも知れません。

ホテル業もその昔、日本人は英国等の西欧から学んだと思われますが、現在は日本のシステムは西欧を抜き去ってしまいました。客の痒い所に手が届く様なサービスは西欧社会の様に高学歴のエリートが従業員に命令指示して仕事をさせている社会ではとても生まれては来ません。日本は現場の人間が色々創意工夫してそれを上の人間が吸い上げますので、実現される可能性が生まれます。反対に、旧ソビエトロシアでは、現場の人間は全く創意工夫を出す事は禁じられ、上からのノルマを達成する事だけが必要とされておりました。昔、経済学者の長谷川慶太郎先生がロシアに招かれて、資本主義の優れた点は何だと質問された時に、先生は『資本主義社会には倒産がある事です。』と答えられました。企業は社会の変化する需要に素早く答える為の創意工夫をしませんと直ぐに倒産してしまいます。その証拠に、管理職が現場の意見に耳を傾けられないような会社は日本では、山一證券の様に倒産したり、シャープの様に倒産寸前になったりします。翻って共産主義社会には倒産がありませんから、創意工夫など無用の長物なのですね。創意工夫ができるかどうかが、最終的に社会発展を決めます。

でも西欧社会は高学歴のエリートが全てを支配しておりますので、自らよりも下位の人間の提案などなかなか聞けるモノではありません。日本では学歴など無くとも、カレーハウスCoCo壱番屋創業者で高卒の宗次徳二氏の様に、客の気持ちを汲み取る創意工夫が優れていれば幾らでもビジネスを大きくする事ができます。日本を凄い国にしているのは、個々の日本人の創意工夫だと思います。そして他の国には少ない、工夫を自らだけのモノにして囲い込むのではなく、気前よく次の人間に伝えて行く伝統の継承の精神です。

このイド語教室も、私の Ido Skolo が原典ではありますが、それを伊藤氏が自らの創意工夫によって全然別の風格のモノに作り変えてしまっております。これからイド語に熟達して行く皆様方も、それを継承して更に御自分の創意工夫で新しいイド語世界を切り開いて頂ければと願っております。

(注) イタチの最後っ屁? 私のこれは標準日本語の使い方ではありません。
伊藤氏の初めてのイド語講座に付随して私の個人的な意見を沢山書かせて頂きました。私の Ido Skolo は迫り来るヨーロッパの崩壊を防ぐ僅かな一助になればと思って作ったモノですが、伊藤氏の講座を少しお手伝いしている内に、イド語は日本人にも強力な武器になる事を発見して、イド語が少しでも日本人のお役に立てればと種々の追加情報を書き始めましたが、一部の方々にはウザイ、クサイと思われているのだろうなと感じてはおりました。が、この30課を終わるにあたり、どんなに臭いと思われても最後にどうしても言って置きたい事柄がありましたので、私の最後っ屁として追加させて頂きました。日本人の創意工夫の精神がイド語などを通して世界に広まれば、世界を救う事になると固く信じているからです。

本当に臭いベブソン(イタチ?)の再最後っ屁:

皆様方が欧州の言語をマスターしてヨーロッパ人と対峙して行くのは実は大変です。
日本人のエスペランチスト達はその辺を殆ど理解できていない感じがしますね(:−P
でもイド語があるじゃん?そうですね、イド語を使えば可也な事ができる様になります。
それでもヨーロッパ人がドンナ人種かとゆう事は中々分かり難いんですね。
最後にそれを教えてくれる良い本がありますので、ここで御紹介:
中公新書 中島義道 著 『ウィーン愛憎』ヨーロッパ精神との格闘
私は中島先生の哲学の本は余り好きではありませんが、この本は読み応えがありました。
ヨーロッパ人の頑迷さに辟易としていた中島先生が御自分の息子さんもオーストリアに留学させたのですよね。強い日本人に育てたかったのでしょうか?
さて上の本には少し毒気が含まれておりますので、毒消しとして以下の2冊の本を紹介します。
川口マーン惠美 著
住んでみたドイツ 8勝2敗で日本の勝ち (講談社+α新書)
住んでみたヨーロッパ 9勝1敗で日本の勝ち (講談社+α新書)

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イド語文法編(4)

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