エスペラント語の修正版として開発された人工言語、国際補助語です。

イド語中級講座 第15課+



私が14課+の最後に追加したイド語の物語も伊藤氏が訳されてしまったので、仕方なく僅かな部分に手を加えてマタマタここに発表します。伊藤氏の好奇心に脱帽!
皆様方も伊藤氏の様に御自分で訳せるまでイド語を学んで下さい。
そして東洋の深い思想を西洋人に教えて上げて下さい。今、世界が必要としているのは、本物の東洋思想なのですから。

トマスによる福音書


La Evangelio da Tomas
トマスによる福音書

Sri Idisti: Dao helpas des'metar da vi' via multa ma falsa maskili.
イディストの皆さん: 神様は、君達が多くの偽りの仮面を自ら脱ぎ捨てるのを助けてくださるのだよ。

Olim Sro Petro TOTTEN skribis a me quale ...
かつて、ペテロ・トッテンは私に次のように書いてよこした…

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Me trovis interesiva verso en Evangelio qua esis bruligita dal Romana Imperiestro Konstantino en la yaro 367, ma trovita en Egiptiana dezerto pos la dua mondo-milito.
367年にローマ帝国のコンスタンティーヌによって燃やされてしまい、第二次世界大戦後にエジプトの砂漠の中から発見された福音書の中に、私は興味深い一節を見つけた。

La Evangelio da Tomas, verso 37:
トマスの福音書第37節

Lua dicipuli (dicipulULo, dicipulINo, dicipulI :=: gedicipuli) dicis: "Kande tu aparos a ni, e kande ni vidos tu?"
彼の使徒たちは言った。「いつ、あなたが私たちに現れるのでしょうか、またいつ、私たちがあなたに会うのでしょうか?」

Iesu dicis: "Kande vi desvestizesos e ma ne embarasesos, E vi prenos via vesti e pozos oli sub via pedi quale mikra kindi*, E vi surpazos oli, Lore vi vidos la Filio dil Vivanto e ne timos."
イエスは言った。「あなたがたが服を脱ぎ、恥ずかしがることもなく、自分の服を取って、小さな子供たちの様に(遊んで)足の下にそれを踏んづける時に、あなた方は神の息子を見るであろう、そして恐れることもないであろう」
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Segun mea lontana parento, Moyshe Yehuda HOCHFELD:
私の遠い親戚、モィシェ・イェフ−ダ・ホックフェルトによると、

La Evangelio da Tomas havas multa komuna idei kun Zen e pluse Daoismo.
トマスの福音書には、禅やさらに道教とも多くの共通の考え方があるそうだ。

Kande kindo, onu facile des'metas sua vesti e per oli mem vishas la pedi, nam l'adulti cirkume sempre regardas e protektas lu quankam nuda..
子供の時は、自分の服を簡単に脱ぎ捨て、その服で足を拭くことさえもするが、それは、周りの大人たちが、子供が裸(無防備)でも、いつも彼等を見守っているのだから…

Kande adulto, lu ne facile des'metas la vesti kom protektilo ne'kareebla, nam lu devas ipse protektar su kontre irga danjero quala bestii.
大人になると、それなしでは済まされない防御の道具としての服は脱ぎにくい。それは獣の様な、いかなる危険に対しても、自分自身で自分を守らなければならないからだ。

Sen vesto/armo/maskilo la mondo esus tro kolda por la mento di l'adulti..
服・武器・仮面なくしては、大人たちの心には、世間はとても冷たいモノかもしれない…

Do li volunte lernas metar kom sua maskilo: rango, pekunio, titulo edc.
だから、彼らは、地位、お金、肩書などを自らの仮面として身に付けることを喜んで学ぶのである。

la homo ne savas qua lu fakte esas, e saveskas lo nur che sua morto.
人は自分が本当は何者であるかを知らず、自らの死の時においてのみ、それを悟るのである。

"Nun me morteskas, me savabas ke mea vesti ne esas me. Qua vere esas me?"
「いまや死なんとする時に、私は、自分の服が私(自身)ではないことを知ってしまった。私は、一体誰なのだろうか?」

Kungfuisti savas ke li devas luktar sen pistolo ma nur per sua nuda manui por renkontrar su ipsa en la mezo di batalio tra vera danjero, nur quo montras lia esenco:
カンフーの武術家たちは、知っている。自分自身に出会あうためには、本物の危険な戦いのド真ん中で拳銃にも頼らず、素手の拳だけで戦わなければならないことを。その状況でのみ本当の自分が現れてくるのを。

"Qua o Quo esas me, pos ke mea vesto esas fore?"
自分の服を脱ぎ捨てた後に残った私とは、何者なのであろうか?」

Tra vera danjero onu renkontras sua esenco. Sen danjero onu lernas nulo.
本当の危険を通過して、人は自らの本質(本当の自分)と出会う。危険なくして、決して学ぶことはできないのだ。

Iesu forsan dicabus en la evangelio da Tomas, verso 37.....
おそらく、イエスはトマスによる福音書第37節の中で、このように言ったのかもしれない…

"Kande vi hazarde des'vestizesos e tamen sentas sekureso, do vi prenos via vesti e pozos oli sub via pedi kom via ludilo, nam vi mis'komprenabas ke la vesti/maskili esas vi ipsa,......
「あなた方がたまたま、服を脱がされても安全だと思った時には、自分の玩具のように足元に置くだろう。なぜなら、それは今までは自分の衣服や仮面が自分自身であると誤解していたからである。

Lore vi vidos via esenco en l'Universo e ne pluse timos irga maskili."
その時、あなたは宇宙の中に自分の本質を見て、これ以上、(自分ではない)どんな仮面さえも恐れなくなるだろう」

Dume Bebson dicas kom Idiotisto....
一方、愚昧主義者(Idioto [愚者]+isto [主義者])のベブソンは、次のように言う…

"Kande me esas nuda, me deziras balnesar en kuraciva minerala fonto, e me povez bone sentar la varmeso di la tota mondo, dicante ...
「裸の時には、私は温泉に入りたい、この世界全体の暖かさが良く感じられるように…

'Ups! Co (hike) esas mondala cielo!'."
『おっと! ここはこの世の極楽だね!』」

A multa Ideologiisti, religiozi e pluse forsan a Sro David MANN:
多くの観念主義者、宗教家そしてさらに多分デビット・マン氏に対しても(言う)。

Kande onu sucesas des'metar sua maskilo kom Yudismo, Kristanismo, Islamo, Budhismo edc.,
人は、ユダヤ教やキリスト教やイスラム教や仏教などの仮面を上手に脱げたら、

lu do lore povas senteskar la varmeso di la tota universo.
その時、その人は宇宙全体の暖かさを感じることができるだろう。

Ka vi en via vera esenco esas Cionisto, Katoliko, Mohamedisto, Bonzo edc?
本質としてのあなた(本当のあなた)は、シオニストなのか、カトリック信者なのか、モハメッド主義者なのか、僧侶なのですか?

解説:このお話の意味は?

その昔、日本人は欧米の優れた思想を学ぶ為に外国語を学びました。
現代では迷える西欧人達に日本の優れた思想を伝える為に、皆様にイド語を学んで欲しいのです。
反対に、外国語の下手な日本人大衆が比較的習得の容易なイド語を学んで、個人的に外国人と交流する事によって、現実の世界情勢の中でも耐えられる甲羅を作る事も学んで欲しいのです。日本人ならば、その甲羅を自由に脱いだり着たりする事が可能になると思っております。

人間は、自分自身が何者なのかを知らないのです。何とか、自分が社会で身に着けて来た服を脱ぐ事に成功して、裸の自分を見つけても、必ずしも本物の自分とは言えないのですね。そこの所まで来るのに本当に苦労したとゆうのに!
実は、人間は氷山の様なモノなのですね。意識できる氷山の頂上部分は全体の1割で、残りの9割は海の下なのです。緑の苔に覆われた頂上部分の苔を剥ぎ取って、透明な氷が露出しましたら、そこの所から海面の中の氷の部分が見えて来ます。清明な意識の部分を通して、海面下の9割の無意識(潜在意識)の部分を覗くのが、魂の旅の始まりとなります。星の王子様の旅の様に。
この旅の物語を、私の旅だけではなく、世界中の人達の体験談を集めてイド語を使って書いて行きたいと考えております。イド語は深く考える為の本当に便利な道具なんです。皆様方にも是非、参加して頂ければと願っております。

この無意識(潜在意識)の世界を西欧で最初に見つけたのは、ユダヤ人のフロイドであり、その発見を真の意味で拡張したのが、プロテスタント・スイス人のユングです。
所が、東洋日本に於は、道元禅師を始めとする偉大な禅のマスター達は、この無意識(潜在意識)の世界に気付いていた様に思われるのですな。勿論、わが宿無し興道禅師も気付かれていた節(ふし)があります。なにせ、日露戦争で命の遣り取りをして来た方ですからね。何と言っても、緑の苔に覆われた頂上部分の苔を剥ぎ取るには、命を掛ける様な相当な体験が必要とされますのでね。
さて、宇宙が人間意識を創造した時に、巨大な無意識(潜在意識)の上にチョコッと小さな苔むした意識部分を乗っけたのは、とても不思議なんですね。私はこの小さな意識部分にこそ、宇宙の目的がある様な気がしてなりません。その目的を世界中の皆様と考えたいと思って目覚めた友達とイド語で連絡を取っております。人間が意識を使う限り、イド語は強力な道具となります。

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イド語文法編(4)

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