学校では教わることのない日本の自虐史観を省いた歴史を年表にまとめたもの。

  • 1861年1月
英人レイ清国総税務司となる。
  • 1861年1月15日(蔓延元年12月5日)
米国公使館通辨官ヒュースケン暗殺さる。
  • 1861年1月24日(蔓延元年12月14日)
幕府、普国との修好通商条約に署名。(文久3年12月13日批准交換)
  • 1861年1月26日(蔓延元年12月16日)
英佛両国公使幕府の外国人保護の不備を非難して横浜に退去。
  • 1861年2月
南部分離諸州、アメリカ連合国を作る。
  • 1861年3月2日(蔓延2年1月21日)
英佛兩公使江戸に帰任。
  • 1861年3月3日
ロシア農奴解放令施行。
  • 1861年3月13日(蔓延2年2月3日)
露艦ポサドニック対馬に来航、尋で3月4日芋崎浦に投錨滞泊し、同島占領を企図。
  • 1861年3月17日
伊太利統一成る。
  • 1861年4月12日
米にチャールストン事件、南北戦争始まる。
  • 1861年5月2日(文久元年3月23日)
将軍家茂、佛・蘭・米・英・露五か国元首に直書を致し、両港両都の開港開市延期を要請。
露艦ビリレフ対馬藩に英艦隊の来襲を警告し重ねて藩主謁見土地貸与を要求。
  • 1861年5月3日(文久元年3月24日)
幕府、開港開市延期交渉の爲外国奉行竹内保徳等に欧州派遣を命ず。
  • 1861年5月21日(文久元年4月12日)
露艦ポサドニック乗員、大船越瀬戸を越えんとし、対馬藩民農兵之を防いで衝突。
  • 1861年5月22日(文久元年4月13日)
幕府、外国奉行小栗忠順に対馬派遣を命ず。(5月7日着島露艦長ビレリフと折衝開始するも要領を得ず5月20日帰府の途につく)
  • 1861年5月31日(文久元年4月22日)
英艦2隻対馬尾崎浦に来る26日更に1艦来航し27日全部退去。
  • 1861年6月6日(文久元年4月28日)
函館奉行支配調役水野正太夫等露領の貿易及び国情調査のため出発。(6月1日尼港着7月16日尼港発8月9日帰還)
  • 1861年6月26日(文久元年5月19日)
幕府外国奉行水野忠徳に欧州派遣を命ず。
  • 1861年7月3日(文久元年5月26日)
対馬藩主宗義和露艦長ビレリフを引見。
  • 1861年7月5日(文久元年5月28日)
英仮公使館東禅寺襲撃事件起こる。
  • 1861年7月8日(文久元年6月1日)
露艦長ビレリフ対馬藩に芋崎昼ヶ浦間の土地租借を求め拒絶される。
  • 1861年8月
清国同治帝即位。
  • 1861年8月14日(文久元年7月9日)
老中安藤信行、英公使オールコック及びホープ中将と両港両市開港開市延期及び対馬事件に関し会談。
  • 1861年8月16日(文久元年7月11日)
幕府、品川御殿山に各国公使館設置を許可。
  • 1861年8月25日(文久元年7月20日)
幕府、外国奉行野々山兼寛、目付小笠原廣業に対馬派遣を命ず。
  • 1861年8月28日(文久元年7月23日)
英提督ホープ軍艦2隻を率い対馬に赴き露艦の退去を要求。
  • 1861年9月19日(文久元年8月15日)
露艦ポサドニック対馬を去り函館に向かう。
  • 1861年9月24日(文久元年8月20日)
露艦隊司令官リカチョフ、領事ゴスケヴィッチ、函館奉行と樺太国境制定に関し会談。
  • 1861年9月27日(文久元年8月23日)
幕府、対馬占據に関し露外相ゴルチャコフに公式抗議。
  • 1861年9月29日(文久元年8月25日)
露艦オプリチニック、アプリヤーク対馬を退去。
  • 1861年11月8日
トレント号事件起こり米英間緊張。
  • 1861年11月15日(文久元年10月13日)
幕府遣欧使節竹内保徳等に樺太国境を北緯50度となすべく訓令。
  • 1861年12月14日(文久元年11月13日)
幕府、ヒュースケン暗殺に関し1万ドルを支払う。
  • 1861年12月17日(文久元年11月16日)
幕府小笠原島再開拓のため外国奉行水野忠徳等を派遣の旨英米兩公使に通告。
  • 1862年1月3日(文久元年12月4日)
小笠原島再度開拓使水野忠徳等軍艦咸臨丸にて出発12月19日父島に到着。(文久3年5月開拓中止)
  • 1862年1月16日
佛メキシコと開戦。
  • 1862年1月21日(文久元年12月22日)
遣欧使節竹内保徳等品川にて英艦オーヂンに搭乗。(12月24日横浜出発3月5日マルセイユ到着)
  • 1862年2月
清国太平軍再度上海攻撃失敗。
  • 1862年2月18日(文久2年1月20日)
神奈川奉行阿部正外横浜にて佛宣教師の説教を聴聞したる福井藩の歩卒及び商農等30余人を捕縛。
  • 1862年3月9日(文久2年2月9日)
英代理公使ウィンチェスター着任。
  • 1862年3月23日(文久2年2月23日)
英公使オールコック外国奉行支配通辨頭取森山多吉郎、同調役淵辺徳藏を伴い帰国の途に就く。
  • 1862年4月13日(文久2年3月15日)
遣欧使節竹内保徳等佛皇帝ナポレオン三世に謁見、18日より佛委員と開港開市延期交渉開始。
  • 1862年4月20日(文久2年3月22日)
幕府、蘭総領事デ・ウィットに軍艦建造並海軍技術習得のため留学生派遣を依頼。
  • 1862年4月25日(文久2年3月27日)
米国辨理公使プリュイン着任。(4月19日登営)
  • 1862年4月26日(文久2年3月28日)
米公使ハリス、将軍家茂に謁し公使解任に関する米大統領リンカーンの親書を捧呈。(4月12日帰国の途に就く。)
  • 1862年5月16日(文久2年4月18日)
遣欧使節竹内保徳等英外相ラッセルと開港開市延期に関する協商開始。
  • 1862年5月27日(文久2年4月29日)
幕府、貿易視察のため勘定方根立助七郎等を上海に派遣、是日千歳丸にて長崎出発。(5月6日上海着)
  • 1862年6月5日
佛安南サイゴン条約締結。
  • 1862年6月5日(文久2年5月9日)
竹内遣欧使節等英外相ラッセルと兩都両港開市開港延期に関する約定に調印。(倫敦覚書)
  • 1862年6月12日(文久2年5月15日)
新任英代理公使ニール東禅寺に入る。
  • 1862年6月15日(文久2年5月18日)
藩書調所を一橋門外に移し洋書調所と改称。(文久3年9月2日更に開成所と改称)
  • 1862年6月17日(文久2年5月20日)
幕府小笠原島の日本領土なるを重ねて英代理公使に通告。
  • 1862年6月24日(文久2年5月27日)
佛国公使ベルクール、将軍家茂に謁し公使昇任の信任状捧呈。
  • 1862年6月26日(文久2年5月29日)
英公使館(東禅寺)守衛松本藩士伊藤軍兵衛、英国護卒2名を刺して自盡(自害)す。
  • 1862年7月21日(文久2年6月25日)
遣欧使節竹内保徳等普国王ウィルヘルム一世に謁見。
  • 1862年8月
アスプロモンテの戦でガリバルディ敗る。
  • 1862年8月5日
倫敦で英佛獨白労働者会議。
  • 1862年9月12日(文久2年8月19日)
遣欧使節竹内保徳等、兩都両港の開市開港延期及び樺太分界、貨幣改鋳に関する三ヶ条の改正を露外相ゴルチャコフと調印。
  • 1862年9月14日(文久2年8月21日)
生麦にて薩摩藩士英人リチャードソンを殺し2人を傷つく。(生麦事件
  • 1862年9月26日(文久2年8月3日)
竹内遣欧使節蘭國の開市開港延期承諾の公文書をパリにて受領。
  • 1862年9月30日
ビスマルク、プロシア首相に就任。
  • 1862年10月2日(文久2年8月9日)
竹内遣欧使節佛外相と兩都両港開市開港延期約定書に調印。
  • 1862年10月12日(文久2年8月19日)
幕府英代理公使ニールの質問に答えて琉球の我が領土たることを声明。
  • 1862年11月1日(文久2年9月10日)
幕府派遣和蘭留学生榎本武揚等長崎出発。
  • 1862年11月12日(文久2年9月21日)
廟議攘夷に決す。
  • 1862年12月6日(文久2年10月15日)
米辨理公使プリュイン米国条約改正案(対馬の開港保税倉庫設置等)を幕府に提出。
  • 1863年1月
ワルソーに叛乱。
  • 1863年1月1日
リンカーン米大統領奴隷解放を宣言。
  • 1863年1月16日(文久2年11月27日)
勅使三条實美等登営攘夷及び親兵設置の勅旨を傳う。(12月5日幕府奉答書を上る三条等12月7日帰途に就く)
  • 1863年1月17日
佛伊通商条約締結。
  • 1863年1月28日(文久2年12月9日)
遣欧使節竹内保徳等帰朝。
  • 1863年1月31日(文久2年12月12日)
長州志士高杉晋作等品川御殿山に建設中の英公使館を焼く。
  • 1863年2月
プロシア、露と防守同盟締結。
  • 1863年2月1日(文久2年12月13日)
幕府諸大名以下に総出仕を命じ攘夷の根本方針を布告。
  • 1863年3月19日(文久3年2月1日)
米辨理公使プリュイン、長崎・横浜・函館三港に保税倉庫設置を要求。
  • 1863年4月6日(文久3年2月19日)
英代理公使ニール、生麦事件に対する20日間の期限付き要求書を幕府に提出。
  • 1863年4月28日(文久3年3月11日)
瑞西使節ウンベール条約締結のため横浜に来る。
  • 1863年5月13日(文久3年3月26日)
蘭艦艦長、非常の際は居留民保護のため武装水兵を横浜に上陸せしむべき旨幕府に通告。
  • 文久3年4月
是月初横浜に英11、佛3、蘭2、米1、計17の軍艦及び避難用に商船6隻待機。
  • 1863年6月
佛軍、メキシコ市を占領。
  • 1863年6月6日(文久3年4月20日)
後見職徳川慶喜、将軍の名を以て5月10日を攘夷期日と奉答。
  • 1863年6月22日(文久3年5月7日)
英領事ウィンチェスター、生麦事件償金交渉決裂により英艦隊をして自由行動を執らしむべき旨神奈川奉行に通告。
  • 1863年6月24日(文久3年5月9日)
老中格小笠原長行東禅寺事件扶助料及び生麦事件償金44万ドルを英代理公使に交付。
幕府、小笠原長行の名を以て各国公使に諸港閉鎖、在留外人の退去方を通告。
  • 1863年6月25日(文久3年5月10日)
英佛米普蘭使臣、幕府の国交拒絶の通告を難じ且居留民の退去を強要せば自衛行動に出づべきを通牒。
長藩、米商船ペンブロークを下関に砲撃す。
  • 1863年7月3日(文久3年5月18日)
幕府、英佛両国守備兵の横浜駐屯を許可。
  • 1863年7月8日(文久3年5月23日)
長州藩佛艦キァンシァンを下関に砲撃。
  • 1863年7月11日(文久3年5月26日)
長州藩蘭艦メヂュサを下関に砲撃。
  • 1863年7月16日(文久3年6月1日)
米艦ワイオミング下関砲撃。
  • 1863年7月20日(文久3年6月5日)
佛艦セミラミス、タンクレード下関を砲撃陸戦隊上陸。
  • 1863年7月25日(文久3年6月10日)
佛英米蘭4國代表横浜に会して条約既得権の擁護と内海通航権の復活のため長州藩膺懲を決意。
  • 1863年8月
佛、カンボジアを保護国とす。
  • 1863年8月6日(文久3年6月22日)
英国支那艦隊司令長官クーパー、ニール代理公使とともに7艦を率い横浜解纜鹿児島に向かう。
  • 1863年8月12日(文久3年6月28日)
英艦隊鹿児島湾前に投錨、生麦事件の賠償ヶ条を提示し、24時間を限り回答を要求。
  • 1863年8月15日(文久3年7月2日)
薩摩藩英艦と交戦2日に亘る。(7月4日英艦隊湾口を去り東航、7月9日横浜帰着)
  • 1863年9月25日(文久3年8月13日)
攘夷親征の大詔渙発。
  • 1863年10月14日(文久3年9月2日)
佛国士官カミユス井土ヶ谷(武蔵)に於いて襲殺さる。
  • 1863年10月26日(文久3年9月14日)
幕府、横浜(長崎、函館には触れず)鎖港を米蘭使臣に提議。
  • 1863年10月28日(文久3年9月16日)
米蘭佛英各使臣横浜鎖港に関する会商を拒絶。
  • 1863年11月17日(文久3年10月7日)
朝廷横浜鎖港談判に関し将軍後見職慶喜尋で11日将軍家茂に上京を命ず。
  • 1863年12月11日(文久3年11月1日)
薩摩藩救恤金10万ドルを英公使に交付して生麦事件解決。
  • 1864年1月7日(文久3年11月28日)
幕府、鎖港談判のため外国奉行池田長発、同河津祐邦等に欧州派遣を命ず。(12月29日佛艦に搭じ横浜を出発)
  • 1864年1月28日(文久3年12月20日)
幕府二郡二港の開市開港延期並びに関税引き下げに関し米国との約定に署名。
  • 1864年2月
普・墺連合軍、シュレスウィヒに侵入。
  • 1864年2月6日(文久3年12月29日)
幕府、瑞西使節ウンベールと修好通商条約に署名。
  • 1864年2月24日(文久4年1月17日)
英代理公使ニール、生糸貿易殆ど途絶のため倫敦覚書の破棄、及び諸侯と直接通商開始を以て幕府に改善を迫る。
  • 1864年2月28日(文久4年1月21日)
天皇、将軍家茂に宸翰。
  • 1864年3月2日(文久4年1月24日)
英公使オールコック帰任、横浜に於ける英国の地歩確守のため必要なる地點占領、及び海軍力行使並びに香港駐屯陸兵の派遣要求権限付き与さる。
  • 1864年3月5日(文久4年1月27日)
重ねて宸翰を将軍家茂に発して膺懲の備を嚴にすべきを諭す。
  • 1864年3月16日(文久4年2月9日)
函館奉行支配調役並山口錫次郎等貿易試行のため兵庫を発して上海に向かう。
  • 1864年3月21日(文久4年2月14日)
将軍家茂参内し両度の宸翰に対し横浜の鎖港沿海の武備に尽力すべき旨答う。
  • 1864年4月27日(文久4年3月22日)
佛公使ベルクール後任レオン・ロッシュの着任を通告し来る。
  • 1864年5月7日(文久4年4月2日)
横浜鎖港談判使節池田筑後守等佛外相ルイと談判開始。
  • 1864年5月28日(文久4年4月23日)
英艦横浜に来航陸兵1500人上陸。
  • 1864年5月30日(文久4年4月25日)
英佛米蘭各国使臣、下関通航及び横浜鎖港に関する覚書を作成幕府に同文通牒を発す。
  • 1864年6月
英、イオニア諸島をギリシャに譲与。
  • 1864年6月14日(文久4年5月11日)
佛国狙撃中隊軍艦タンクレードに搭乗横浜に来着。
  • 1864年6月20日(文久4年5月17日)
横浜鎖港使節池田筑後守等佛外相ルイと下関海峡通航税率改訂に関する協約に調印。(パリ廃約)
  • 1864年7月11日(文久4年6月8日)
長州藩、長門黄波戸浦にて米船モニターを砲撃。
  • 1864年7月19日
南京城陥落し太平天国の乱鎮定。
  • 1864年7月21日(文久4年6月18日)
英艦バロッサ号井上聞多、伊藤俊輔を乗せ横浜出帆長州へ向かう。
  • 1864年7月22日(文久4年6月19日)
英佛米蘭4か国使臣下関砲撃に関する共同覚書協定、20日間を限りて下関通航の安全保証を幕府に要求。
  • 1864年7月26日(文久4年6月23日)
バロッサ号姫島に着く。翌日井上聞多、伊藤俊輔山口に入る。7月5日両人バロッサ号を訪い軍事行動の三ヶ月延期を求む艦長等応ぜずして7月6日抜錨帰東。
  • 1864年8月19日(文久4年7月18日)
横浜鎖港談判使節池田長発等横浜帰着。尋で22日五策を上陳鎖港の非を力説す。翌日使命を果たさざるを以て譴責せらる。
  • 1864年8月22日
赤十字条約成立。
  • 1864年8月25日(文久4年7月24日)
外国奉行星野千之尋で28日目付合原義直に横浜鎖港談判のため欧州派遣を命ず。(11月3日派遣中止を各国使臣に通告)
  • 1864年8月28-29日(文久4年7月27-28日)
英佛米蘭4国連合艦隊解纜、豊後姫島沖に集結。
  • 1864年9月5-7日(文久4年8月5-7日)
4国連合艦隊17隻下関砲撃、陸戦隊2千余上陸し各砲台を占領。
  • 1864年9月14日(文久4年8月14日)
長州藩、4国連合艦隊と講和条件五条を締結。
  • 1864年9月15日
佛伊、9月協定成立。
  • 1864年9月28日
第一インターナショナル創立。
  • 1864年10月6日(文久4年9月6日)
4国公使、老中水野忠精等と会し横浜鎖港の意図を難じ、下関事件の償金を幕府に要求し条約の勅許を請わしむ。
  • 1864年10月7日
露清、タルパガタイ条約締結。
  • 1864年10月22日(文久4年9月22日)
幕府、英米佛蘭4国と横浜にて下関事件取極書に署名。
  • 1864年10月30日
ウィーン平和条約成る。
  • 1864年11月8日
リンカーン、米大統領に再選。
  • 1864年11月21日(文久4年10月22日)
英国士官2名ボールドキン、バード、鎌倉にて襲殺さる。
  • 1864年12月8日(文久4年11月10日)
幕府、佛國公使ロッシュに横須賀製鉄所建設計画を一任す。
  • 1864年12月19日(文久4年11月21日)
幕府、英佛米蘭使臣と横浜居留地覚書書署名。
  • 1864年12月24日(文久4年11月26日)
英公使オールコック帰国の途に就く。
  • 1864年12月26日(文久4年11月28日)
神奈川駐箚英国領事ウィンチェスター、代理公使就任。
  • 1864年12月27日(文久4年11月29日)
英国士官ボールドキン及バード加害者処刑さる。


参考文献

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