最終更新: mikapyon_cocone 2013年12月29日(日) 23:52:00履歴
健康にいいと思っていた食品は、有害物質に汚染されていた
1968年、日本の福岡県・長崎県などを中心とした西日本一帯に、奇妙な健康被害を訴える人が急増しました。
全身のひどい吹き出物、手足の痺れ、大量の目やになど、その症状は様々でした。
原因がカネミ倉庫製の食用油「カネミライスオイル」にあるとわかったのは、約半年後のことです。
実はこの「カネミライスオイル」は、有害なダイオキシン類(PCDFおよびCo-PCB)に汚染されていたのです。
翌年7月までに届け出のあった人数は約1万4000人にものぼりました。
ダイオキシン類を含むカネミライスオイルによってひどい健康被害を出し、現在も多くの人々が苦しみ続けている
――それが、日本最大規模の食品公害事件の1つ、「カネミ油症事件」です。
1.カネミ油症事件のおこり
2.油症による健康被害の実態
3.被害者たちのたたかい
4.現行の補償制度
福岡県北九州市小倉北区(当時・小倉区)のカネミ倉庫株式会社は、食用の米ぬか油「カネミライスオイル」を製造・販売していました。このライスオイルは、「美容と健康にいい」として西日本を中心に広まり、多くの家庭が利用していました。
1968年2月、ライスオイルの製造過程で、脱臭の際に利用されていたPCB(ポリ塩化ビフェニール)が配管部からオイルに混入してしまいました。PCBが加熱されてPCDF(ポリ塩化ジベンゾフラン)というダイオキシン類が生成され、PCBの変異体であるCo-PCB(コプラナーPCB)とともに、ライスオイルを汚染しました。
このときに製造されたライスオイルを多くの人が料理に使い、有害なダイオキシン類を口から体内に摂取してしまったのです。
同年3月ごろから、何が原因か特定されないまま、吹き出物や膿を持つ腫れ、手足の痺れ、皮膚への色素沈着、大量の目やに、肝機能障害などの様々な健康被害を訴える人が増えていきました。
病院の患者同士の話から、その共通項が「カネミライスオイル」かもしれないと噂はありましたが、なかなか油の分析はされず、体が異常をきたす中でも健康に良いと信じてライスオイルを使い続けている人もいました。
この健康被害が新聞で報道されたのは同年10月のことです。これがきっかけとなって調査が行われ、原因がPCB混入による汚染だとわかりました。(後に、PCBの加熱により生成されたPCDFおよびCo-PCBによる複合汚染だったと判明しました。)当時、中毒の届け出をした人は約1万4000人にもなりました。
実は、このカネミライスオイルによる健康被害が広がる少し前、1968年の2月から3月、西日本では鶏が大量死する事件(ダーク油事件)が起こっていました。
当初は伝染病が疑われていましたが、現地調査により、鶏の餌に使われていた「ダーク油」に原因があるのではないかと疑われました。ダーク油は、米ぬか油の製造過程でできる副産物であり、このとき使われていたダーク油は、カネミ倉庫製でした。
しかし、ダーク油があやしいとされたものの事件の原因が特定されるには至らず、6月の時点で「油脂そのものの変質による中毒と考察される」ということになっていました。
ダーク油の出荷は同年3月に停止されています。しかし、ライスオイルについては、食用であるにも関わらず、調査されずにそのまま販売され続けていました。
ダーク油事件発覚のときに、ライスオイルの調査も十分に行っていれば――
健康被害を訴える人が出てきてすぐに、原因究明に着手していれば――
苦しむ人はもっと減っていたのかもしれません。
汚染されたカネミライスオイルを通じて有害な物質を摂取してしまった人々には、様々な健康被害が出ました。
当初は皮膚にでる症状に注目が集まっていました。全身に塩素ニキビ(クロルアクネ)ができて膿をもち、悪臭を放ちました。また、爪や皮膚への色素沈着が起こる人もいました。
しかし症状は皮膚だけでなく、全身に、実に様々な形で出ていたのです。
全身のいろいろなところに異常を抱え、翌年7月までに健康被害を届け出た人は約1万4000人にものぼります。皮膚疾患のことで周りから差別された人も多く、また、疲れや頭痛が出やすいことから日常生活にも大きな不便が生じました。
さらに、これらの症状の中には慢性化するものもあり、事件発生から40年以上がたつ現在でも症状に苦しむ人が多くいます。
あまりに多くの症状が全身に出るので、カネミ油症は「病気のデパート」などと言われることもあります。
健康被害は、実際にカネミライスオイルを食した人だけにとどまりませんでした。
「黒い赤ちゃん」という言葉をご存じでしょうか。油症の原因が明らかになってきた頃、汚染されたライスオイルを食した妊婦から皮膚の黒ずんだ赤ちゃんが生まれたのです。その後も、色素沈着や障害を持つ赤ちゃんが多く生まれました。ライスオイルに混入していた有害物質は、母親の胎内を通じ、また生まれた後にも母乳を通じて、赤ちゃんの体を蝕んでいたのです。
この、皮膚の黒ずんだ赤ちゃんたちのことは「黒い赤ちゃん」として社会に大きな衝撃を与え、カネミ油症事件の象徴となりました。
また、近年になって注目されたのは、最初の被害者の子世代だけでなく孫世代への影響です。国が認定患者1131人に行ったアンケートでは、約4割が子世代の症状、1割以上が孫世代の症状があると答えました。また、ある女性患者の孫のへその緒からは、通常よりも高濃度のダイオキシン類が検出されました。
ダイオキシン類の子世代・孫世代への遺伝については、まだまだ調査、研究が必要です。しかし、差別などの理由で自分が油症患者であることを隠さざるを得なかった人も多く、子や孫にも伝えていない人もいて、被害の実態をつかむことは難しいようです。
このようにカネミ油症事件は、1968年〜69年の健康被害だけではなくその後も続き、今もなお被害者の体を蝕み、さらにはその子や孫の世代にまで影響を及ぼしています。
カネミ油症は、終わってはいないのです。
1987年、原告団が国への提訴を取り下げ、国がそれに同意することによってすべての民事裁判は終結しました。けれども国は最後まで和解に応じませんでしたので、すでに賠償金の仮払いを受けていた小倉民事第1陣と第3陣の原告、合わせて約830人は国から仮払金約27億円を返すよう求められました。元原告の多くは油症のため思うように働けなかったり、医療費の負担がかさんだりして生活に困窮していたために受け取った仮払金はすでに使い果たしていました。国に対する債務は、経済的に困窮状態にあるなどの特別な事情がある場合には10年の猶予が認められていますが、多くの患者らはその10年間に返済を終えることは困難でした。
1968年、日本の福岡県・長崎県などを中心とした西日本一帯に、奇妙な健康被害を訴える人が急増しました。
全身のひどい吹き出物、手足の痺れ、大量の目やになど、その症状は様々でした。
原因がカネミ倉庫製の食用油「カネミライスオイル」にあるとわかったのは、約半年後のことです。
実はこの「カネミライスオイル」は、有害なダイオキシン類(PCDFおよびCo-PCB)に汚染されていたのです。
翌年7月までに届け出のあった人数は約1万4000人にものぼりました。
ダイオキシン類を含むカネミライスオイルによってひどい健康被害を出し、現在も多くの人々が苦しみ続けている
――それが、日本最大規模の食品公害事件の1つ、「カネミ油症事件」です。
1.カネミ油症事件のおこり
2.油症による健康被害の実態
3.被害者たちのたたかい
4.現行の補償制度
福岡県北九州市小倉北区(当時・小倉区)のカネミ倉庫株式会社は、食用の米ぬか油「カネミライスオイル」を製造・販売していました。このライスオイルは、「美容と健康にいい」として西日本を中心に広まり、多くの家庭が利用していました。
1968年2月、ライスオイルの製造過程で、脱臭の際に利用されていたPCB(ポリ塩化ビフェニール)が配管部からオイルに混入してしまいました。PCBが加熱されてPCDF(ポリ塩化ジベンゾフラン)というダイオキシン類が生成され、PCBの変異体であるCo-PCB(コプラナーPCB)とともに、ライスオイルを汚染しました。
このときに製造されたライスオイルを多くの人が料理に使い、有害なダイオキシン類を口から体内に摂取してしまったのです。
同年3月ごろから、何が原因か特定されないまま、吹き出物や膿を持つ腫れ、手足の痺れ、皮膚への色素沈着、大量の目やに、肝機能障害などの様々な健康被害を訴える人が増えていきました。
病院の患者同士の話から、その共通項が「カネミライスオイル」かもしれないと噂はありましたが、なかなか油の分析はされず、体が異常をきたす中でも健康に良いと信じてライスオイルを使い続けている人もいました。
この健康被害が新聞で報道されたのは同年10月のことです。これがきっかけとなって調査が行われ、原因がPCB混入による汚染だとわかりました。(後に、PCBの加熱により生成されたPCDFおよびCo-PCBによる複合汚染だったと判明しました。)当時、中毒の届け出をした人は約1万4000人にもなりました。
実は、このカネミライスオイルによる健康被害が広がる少し前、1968年の2月から3月、西日本では鶏が大量死する事件(ダーク油事件)が起こっていました。
当初は伝染病が疑われていましたが、現地調査により、鶏の餌に使われていた「ダーク油」に原因があるのではないかと疑われました。ダーク油は、米ぬか油の製造過程でできる副産物であり、このとき使われていたダーク油は、カネミ倉庫製でした。
しかし、ダーク油があやしいとされたものの事件の原因が特定されるには至らず、6月の時点で「油脂そのものの変質による中毒と考察される」ということになっていました。
ダーク油の出荷は同年3月に停止されています。しかし、ライスオイルについては、食用であるにも関わらず、調査されずにそのまま販売され続けていました。
ダーク油事件発覚のときに、ライスオイルの調査も十分に行っていれば――
健康被害を訴える人が出てきてすぐに、原因究明に着手していれば――
苦しむ人はもっと減っていたのかもしれません。
汚染されたカネミライスオイルを通じて有害な物質を摂取してしまった人々には、様々な健康被害が出ました。
当初は皮膚にでる症状に注目が集まっていました。全身に塩素ニキビ(クロルアクネ)ができて膿をもち、悪臭を放ちました。また、爪や皮膚への色素沈着が起こる人もいました。
しかし症状は皮膚だけでなく、全身に、実に様々な形で出ていたのです。
カネミ油症の主な症状 | ||
---|---|---|
塩素ニキビ(クロルアクネ) | 顔面等への色素沈着 | 大量の目やに |
手足の痺れ | 頭痛、強い倦怠感 | 骨や歯の異常 |
肝機能・腎機能障害 | 大量の抜け毛 | 視力・聴力の衰え |
さらに、これらの症状の中には慢性化するものもあり、事件発生から40年以上がたつ現在でも症状に苦しむ人が多くいます。
あまりに多くの症状が全身に出るので、カネミ油症は「病気のデパート」などと言われることもあります。
健康被害は、実際にカネミライスオイルを食した人だけにとどまりませんでした。
「黒い赤ちゃん」という言葉をご存じでしょうか。油症の原因が明らかになってきた頃、汚染されたライスオイルを食した妊婦から皮膚の黒ずんだ赤ちゃんが生まれたのです。その後も、色素沈着や障害を持つ赤ちゃんが多く生まれました。ライスオイルに混入していた有害物質は、母親の胎内を通じ、また生まれた後にも母乳を通じて、赤ちゃんの体を蝕んでいたのです。
この、皮膚の黒ずんだ赤ちゃんたちのことは「黒い赤ちゃん」として社会に大きな衝撃を与え、カネミ油症事件の象徴となりました。
また、近年になって注目されたのは、最初の被害者の子世代だけでなく孫世代への影響です。国が認定患者1131人に行ったアンケートでは、約4割が子世代の症状、1割以上が孫世代の症状があると答えました。また、ある女性患者の孫のへその緒からは、通常よりも高濃度のダイオキシン類が検出されました。
ダイオキシン類の子世代・孫世代への遺伝については、まだまだ調査、研究が必要です。しかし、差別などの理由で自分が油症患者であることを隠さざるを得なかった人も多く、子や孫にも伝えていない人もいて、被害の実態をつかむことは難しいようです。
このようにカネミ油症事件は、1968年〜69年の健康被害だけではなくその後も続き、今もなお被害者の体を蝕み、さらにはその子や孫の世代にまで影響を及ぼしています。
カネミ油症は、終わってはいないのです。
1969年2月に「福岡地区カネミライスオイル被害者の会」が訴訟を起こして以来、全国で次々と訴訟が提訴されていきました。
裁判はカネミ油症の認定患者かその遺族が原告となって(姫路訴訟のみ未認定患者)、ライスオイルの製造元であるカネミ倉庫、カネミ倉庫の加藤三之輔社長、カネミ倉庫にPCB(カネクロール400)を売った鐘淵化学工業、そして国と北九州市を相手に損害賠償を請求しました。
ー各地で起こされた民事裁判 (認定基準見直し以前)ー
民事訴訟では、1985年までは、原告側勝訴の流れが続き、カネミ倉庫、鐘淵化学工業、国に賠償金の支払い命令が出されました。
それにしたがって、福岡民事、小倉民事第一陣・第三陣原告には賠償金が支払われましたが、鐘淵化学と国は判決を不服として上告したため、両者の支払い分はあくまでも「仮払金」でした。
1986年小倉民事第2陣の控訴審で鐘淵化学と国の責任が否定され、原告側の敗訴となってからは流れは一気に原告側に不利なものになりました。
原告は最高裁に上告しましたが、このまま裁判を続けて最高裁での敗訴が確定すると、カネミ倉庫以外からは一切賠償金を受け取ることができなくなるばかりか、国に対して責任を問うことができなくなり公的な救済を求める道も閉ざされてしまう可能性が大きくなったのです。また、それまでに受け取った仮払金の返還する義務も生じてしまいます。
そこで原告団は、最高裁の勧めに従って鐘淵化学との和解に応じ、和解に応じようとしない国に対しては、判決を待たずに訴えを取り下げるという苦渋の決断をせざるを得ませんでした。
裁判はカネミ油症の認定患者かその遺族が原告となって(姫路訴訟のみ未認定患者)、ライスオイルの製造元であるカネミ倉庫、カネミ倉庫の加藤三之輔社長、カネミ倉庫にPCB(カネクロール400)を売った鐘淵化学工業、そして国と北九州市を相手に損害賠償を請求しました。
ー各地で起こされた民事裁判 (認定基準見直し以前)ー
訴訟名 | 提訴日 | 原告人数(提訴日) | 被告 | 判決 | 結果 | |
福岡 民事訴訟 | 1969/2/1 | 44人 | カネミ倉庫、加藤社長、鐘淵化学 | ・一審(1977年10月)原告勝訴 ・控訴審(1984年3月)原告勝訴 ★鐘淵化学 最高裁に上告 | 1987年3月 鐘淵化学と和解 | |
小倉民事訴訟 「統一民事」 「全国民事」 とも呼ばれる | 第1陣 | 1970/11/16 | 708人 | カネミ倉庫 加藤社長 国 北九州市 鐘ヶ淵化学 (第1陣当初は鐘淵化学を除く) | ・一審(1978年3月)カネミ倉庫と鐘淵化学に原告勝訴 国・加藤社長に敗訴 ・控訴審(1984年3月16日)国・加藤社長に逆転勝訴 ★原告・鐘淵化学とも最高裁に上告 | 1987年3月 鐘淵化学と和解(*) 同年6月 国への訴訟取り下げ |
第2陣 | 1976/10/8 | 329人 | ・一審(1982年3月29日)カネミ倉庫・加藤社長・鐘淵化学に原告勝訴 国・北九州市に敗訴 ・控訴審(1986年5月15日)国・北九州市・鐘淵化学に敗訴 原告側が最高裁に上告 | |||
第3陣 | 1981/10/12 | 71人 | ・一審(1985年2月13日)カネミ倉庫・加藤社長・鐘淵化学・国に原告側勝訴 ★国・鐘淵化学 最高裁に上告 | 1987年3月 鐘淵化学と和解 1987年9月28日 国への訴訟取り下げ | ||
第4陣 | 1985/7/29 | 10人 | カネミ倉庫 加藤社長 国 鐘淵化学 | 1987年3月 鐘淵化学と和解 1987年10月 カネミ倉庫と和解 国への訴訟取り下げ | ||
第5陣 | 1985/11/29 | 78人 | ||||
油症 福岡訴訟 | 1986/1/6 | 568人 | 鐘淵化学 カネミ倉庫 加藤社長 | 1987年3月 鐘淵化学と和解 1987年12月21日 カネミ倉庫と和解 | ||
広島 民事訴訟 | 1971/4/24 | 51人 | カネミ倉庫 加藤社長 国 北九州市 鐘ヶ淵化学 | 1972年2月 小倉民事第一陣に併合 | ||
姫路 民事訴訟 | 1971/10/6 | 1人 | カネミ倉庫 | 原告敗訴 |
*第2陣で和解を拒んだ3人の原告を除く(3人は1989年3月に訴訟取り下げ)
民事訴訟では、1985年までは、原告側勝訴の流れが続き、カネミ倉庫、鐘淵化学工業、国に賠償金の支払い命令が出されました。
それにしたがって、福岡民事、小倉民事第一陣・第三陣原告には賠償金が支払われましたが、鐘淵化学と国は判決を不服として上告したため、両者の支払い分はあくまでも「仮払金」でした。
1986年小倉民事第2陣の控訴審で鐘淵化学と国の責任が否定され、原告側の敗訴となってからは流れは一気に原告側に不利なものになりました。
原告は最高裁に上告しましたが、このまま裁判を続けて最高裁での敗訴が確定すると、カネミ倉庫以外からは一切賠償金を受け取ることができなくなるばかりか、国に対して責任を問うことができなくなり公的な救済を求める道も閉ざされてしまう可能性が大きくなったのです。また、それまでに受け取った仮払金の返還する義務も生じてしまいます。
そこで原告団は、最高裁の勧めに従って鐘淵化学との和解に応じ、和解に応じようとしない国に対しては、判決を待たずに訴えを取り下げるという苦渋の決断をせざるを得ませんでした。
鐘淵化学との和解内容は 原告はカネミ油症事件について鐘淵化学に責任がないことを確認し、鐘淵化学に対する訴訟・仮処分申請を直ちに取り下げること、鐘淵化学は原告に見舞金を支払うというものでした。すでに仮払金を受け取った原告は、受け取った額と見舞金を相殺した残額を鐘淵化学に返還するものとされましたが、強制執行等の強制手続きによる履行は求めないこととされました。(事実上返還を請求しない)。また、鐘淵化学はこれ以降に認定された患者については和解に応じないことを表明しました。
カネミ倉庫には原告一人当たり500万円の賠償金を支払う義務が認められ、原告に対して債務があることが確認されましたが、原告はこの債務について強制執行しないこととなっています。またカネミ倉庫は債務とは別に治療費の支払いを続けることを約束しました。
カネミ倉庫には原告一人当たり500万円の賠償金を支払う義務が認められ、原告に対して債務があることが確認されましたが、原告はこの債務について強制執行しないこととなっています。またカネミ倉庫は債務とは別に治療費の支払いを続けることを約束しました。
訴訟に加わらなかった未訴訟被害者は1978年の小倉民事第一陣の判決を受けて、「カネミ油症全国被害者統一交渉団」を作って、鐘淵化学・カネミ倉庫と交渉を行いました。
その結果、鐘淵化学から一人当たり130万円を受け取り、カネミ倉庫から22万円の支払いを受けることと、カネミ倉庫が医療費を継続して負担することを確認しました。
民事裁判以外では 福岡地検小倉支部が1970年3月24日にカネミ倉庫社長加藤三之輔と元工場長森本義人を業務上過失傷害罪で起訴しました。加藤社長は無罪でしたが、森本被告禁錮1年6月の有罪となり服役しました。
その結果、鐘淵化学から一人当たり130万円を受け取り、カネミ倉庫から22万円の支払いを受けることと、カネミ倉庫が医療費を継続して負担することを確認しました。
民事裁判以外では 福岡地検小倉支部が1970年3月24日にカネミ倉庫社長加藤三之輔と元工場長森本義人を業務上過失傷害罪で起訴しました。加藤社長は無罪でしたが、森本被告禁錮1年6月の有罪となり服役しました。
1987年、原告団が国への提訴を取り下げ、国がそれに同意することによってすべての民事裁判は終結しました。けれども国は最後まで和解に応じませんでしたので、すでに賠償金の仮払いを受けていた小倉民事第1陣と第3陣の原告、合わせて約830人は国から仮払金約27億円を返すよう求められました。元原告の多くは油症のため思うように働けなかったり、医療費の負担がかさんだりして生活に困窮していたために受け取った仮払金はすでに使い果たしていました。国に対する債務は、経済的に困窮状態にあるなどの特別な事情がある場合には10年の猶予が認められていますが、多くの患者らはその10年間に返済を終えることは困難でした。
この債務の支払い期限が迫った1996年になって、国はすべての債務者に督促状を送りつけました。その中には、幼い時に油症患者として認定され、仮払金の受け取りなどは親がしていたために自分が国に借金を負っていることを全く知らなった人や、すでに亡くなった油症患者の子などで、知らないうちに借金を相続してしまった人もありました。また、自分が油症であることを家族に隠していた人もいて、この督促状をきっかけに離婚に追い込まれたり、国への借金を苦に自殺する人まで出ました。
そこで、国との間で協議が行われ、この時点で債務が残っていたすべての人は、支払い期限をさらに10年延期したり、少額ずつ分割して返済するなど、いくつかの方法の中から返済方法を選択し、債務を返還することで合意しました。
そこで、国との間で協議が行われ、この時点で債務が残っていたすべての人は、支払い期限をさらに10年延期したり、少額ずつ分割して返済するなど、いくつかの方法の中から返済方法を選択し、債務を返還することで合意しました。
民事裁判終結後は被害者運動のほとんどは消滅し沈黙を守ってきましたが、2001年に油症の原因がダイオキシンであることが、当時の坂口力厚生大臣によって認められると、再び患者自身による被害の訴えが聞かれ始めました。そして、2004年から2005年にかけて、517人の患者らが日本弁護士連合会(日弁連)人権擁護委員会に人権救済の申し立てを行い、日弁連は2006年4月に国と責任企業2社に対して人権救済勧告書を提出しました。カネミ油症人権救済勧告書 その中には、仮払金の返還を請求されている被害者に対し、一律に全額免除する措置を採るよう記されました。
2006年時点で仮払金の返済が終わっていない債務者は510名、総額17億3400万円でしたが、そのすべてを免除するためには現行の法律には限界がありました。そこで、与党プロジェクトチームが仮払金免除のための特別立法を作り、2007年6月 カネミ油症事件関係仮払金返還債権の免除についての特例に関する法律 (平成十九年六月八日法律第八十一号)が発令されました。これによって、新たな債務免除の基準が設定され、仮払金返還問題はようやく決着を見ることになりました。
2006年時点で仮払金の返済が終わっていない債務者は510名、総額17億3400万円でしたが、そのすべてを免除するためには現行の法律には限界がありました。そこで、与党プロジェクトチームが仮払金免除のための特別立法を作り、2007年6月 カネミ油症事件関係仮払金返還債権の免除についての特例に関する法律 (平成十九年六月八日法律第八十一号)が発令されました。これによって、新たな債務免除の基準が設定され、仮払金返還問題はようやく決着を見ることになりました。
驚いたことに、事件発生から40年以上ものあいだ、
カネミ油症の被害者を救済するための法的な「補償制度」は存在しませんでした。
ようやく平成24年9月にカネミ油症患者に関する施策の総合的な基準の推進に関する法律が制定され、今年度から施行されています。
けれども、この法律によっても油症被害者が その被害に見合うような補償をうけられるようになったとはとても思えません。
今も患者を苦しめるのは、健康被害にとどまりません。
健康上の問題のために思うように働けなかったり、
「カネミ油症」だということでいわれのない差別を受けたり、
「賠償金で儲けた」という誤解をうけたり、
言葉では言いつくせない 辛さ 苦しさ 悔しさは癒えることはありません。
1987年までの裁判をたたかってきた被害者たちには、
一人当たり500万円の賠償金がカネミ倉庫から支払われなくてはなりませんが、
それもいまだに払われていません。
カネミ倉庫の主張によると、賠償金を支払えば経営が立ち行かなくなり
治療費も支払うことができなくなるというのです。
被害者らは、カネミ倉庫に対して賠償金の強制執行を求めないという和解案を受け入れざるを得ませんでした。
また、裁判に加わらなかったり、1987年以降に認定された被害者は その和解案とは無関係なはずですが、
事実上、カネミ倉庫の提示するままの補償を受け入れる形で現在に至っています。
カネミ油症の被害者を救済するための法的な「補償制度」は存在しませんでした。
ようやく平成24年9月にカネミ油症患者に関する施策の総合的な基準の推進に関する法律が制定され、今年度から施行されています。
けれども、この法律によっても油症被害者が その被害に見合うような補償をうけられるようになったとはとても思えません。
今も患者を苦しめるのは、健康被害にとどまりません。
健康上の問題のために思うように働けなかったり、
「カネミ油症」だということでいわれのない差別を受けたり、
「賠償金で儲けた」という誤解をうけたり、
言葉では言いつくせない 辛さ 苦しさ 悔しさは癒えることはありません。
1987年までの裁判をたたかってきた被害者たちには、
一人当たり500万円の賠償金がカネミ倉庫から支払われなくてはなりませんが、
それもいまだに払われていません。
カネミ倉庫の主張によると、賠償金を支払えば経営が立ち行かなくなり
治療費も支払うことができなくなるというのです。
被害者らは、カネミ倉庫に対して賠償金の強制執行を求めないという和解案を受け入れざるを得ませんでした。
また、裁判に加わらなかったり、1987年以降に認定された被害者は その和解案とは無関係なはずですが、
事実上、カネミ倉庫の提示するままの補償を受け入れる形で現在に至っています。
現在、被害者に対してなされている補償については、厚労省のホームページに以下のように掲載されています。
(*印で説明を捕捉しました)
*生活の質の維持向上に資することを目的として支払われる一定の金額とは、今年度は一人当たり5万円が支給されることになっています。
厚労省から毎年送られてくる調査票に記入して返送すると、
健康調査に「協力してしただいたことにたいして」19万円が支払われることになっています。
カネミ油症患者に対して、国が直接支援することを定めたのはこれが初めてのことです。
(*印で説明を捕捉しました)
- カネミ倉庫が行う補償
*見舞金は現在、新たな認定患者には23万円が支払われています。
*生活の質の維持向上に資することを目的として支払われる一定の金額とは、今年度は一人当たり5万円が支給されることになっています。
- 国が行う支援
*これは、平成24年に制定されたカネミ油症患者に関する施策の総合的な基準の推進に関する法律によって、今年度からはじまったもので、
厚労省から毎年送られてくる調査票に記入して返送すると、
健康調査に「協力してしただいたことにたいして」19万円が支払われることになっています。
カネミ油症患者に対して、国が直接支援することを定めたのはこれが初めてのことです。
NHK『ETV特集 毒と命〜カネミ油症 母と子の記録〜』(2013年5月25日放送)
五島市Web版社会科副読本『災いを乗り越えて(カネミ油症について)』わたしたちの五島市(オンライン、2013年10月アクセス)
全国油症治療研究班・追跡調査班『油症の検診と治療の手引き』(オンライン、2013年10月アクセス)
長崎新聞『カネミ油症を追う』(オンライン、2013年10月アクセス)
Takesumi YOSHIMURA『Yusho in Japan』(2003年)(オンライン、2013年10月アクセス)
Masuda Y.『Toxic effects of PCB/PCDF to human observed in Yusho and other poisonings』(2009年)PubMed.gov(オンライン、2013年10月アクセス)
日本子孫基金(現・食品と暮らしの安全基金)『なくそうPCB』(オンライン、2013年10月アクセス)
下田守, 2010, カネミ油症とは,『回復への祈り-カネミ油症40年記念誌ー』第1章,カネミ油症40年記念誌編さん委員会 長崎県五島市
日本弁護士連合会『カネミ油症人権救済勧告書』,2006年4月(オンライン、2013年10月アクセス)
五島市Web版社会科副読本『災いを乗り越えて(カネミ油症について)』わたしたちの五島市(オンライン、2013年10月アクセス)
全国油症治療研究班・追跡調査班『油症の検診と治療の手引き』(オンライン、2013年10月アクセス)
長崎新聞『カネミ油症を追う』(オンライン、2013年10月アクセス)
Takesumi YOSHIMURA『Yusho in Japan』(2003年)(オンライン、2013年10月アクセス)
Masuda Y.『Toxic effects of PCB/PCDF to human observed in Yusho and other poisonings』(2009年)PubMed.gov(オンライン、2013年10月アクセス)
日本子孫基金(現・食品と暮らしの安全基金)『なくそうPCB』(オンライン、2013年10月アクセス)
下田守, 2010, カネミ油症とは,『回復への祈り-カネミ油症40年記念誌ー』第1章,カネミ油症40年記念誌編さん委員会 長崎県五島市
日本弁護士連合会『カネミ油症人権救済勧告書』,2006年4月(オンライン、2013年10月アクセス)
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