最終更新: kyo_miyato 2017年04月28日(金) 01:59:38履歴
伏見はかつての山城国紀伊郡を中心とし、古くから( 71 )を中心とする渡来系の人々の勢力圏にあった。伏見稲荷大社を創建したのもその一族であるといわれている。 平安時代に入ると、宇治川や巨椋池(おぐらいけ)に隣接する交通の要衝として発展し、貴族たちが別荘を営むようになった。藤原頼通の子で「伏見長者」と称された ( 72 )も山荘を営んだが、山荘の傍らにあった光明院を持仏堂として阿弥陀如来と二十五菩薩を安置したという。この寺を起源とするのが( 73 )であり、現在は泉涌寺の塔頭となっている。 11世紀後半には、( 74 )の退位後の居所として鳥羽離宮が造営された。造営は孫の鳥羽天皇の時代まで続き、広大な敷地に南殿・北殿・東殿などが建立されて隆盛を極めた。現在は東殿の遺構として、創建時の作とされる阿弥陀如来を安置する( 75 )や鎮守社として知られる( 76 )などが残り、往時を偲ばせている。 豊臣秀吉の築城に伴い、伏見は城下町として整備された。( 77 )の付け替えや街道が整備され、商工業者も全国から集められた。秀吉の没後、関ヶ原の戦いで城と城下が焼かれたが、覇権を握った( 78 )は伏見を重視し、日本で最初の( 79 )の開設、角倉了以による高瀬川の開削などが行われ、京都と大坂を結ぶ中継点として大きく発展した。 幕末になると伏見は再び政治の舞台となった。文久2年(1862)、尊攘派の薩摩藩士の有馬新七らと、藩主の島津久光が差し向けた藩士らが争う事件が船宿 「( 80 )」で勃発した。のちに坂本龍馬もこの場で襲われ、宿の娘の機転で危機を脱したのは有名である。慶応4年(1868)には鳥羽・伏見の戦いがあり、戊辰戦争の発端となった。 |
(71) 伏見はかつての山城国紀伊郡を中心とし、古くから( )を中心とする渡来系の人々の勢力圏にあった。伏見稲荷大社を創建したのもその一族であるといわれている。
(72) 平安時代に入ると、宇治川や巨椋池に隣接する交通の要衝として発展し、貴族たちが別荘を営むようになった。藤原頼通の子で「伏見長者」と称された
( )も山荘を営んだ。
(73) ( 72 )の寺を起源とするのが( )であり、現在は泉涌寺の塔頭となっている。
(74) 11世紀後半には、( )の退位後の居所として鳥羽離宮が造営された。
(75) 現在は東殿の遺構として、創建時の作とされる阿弥陀如来を安置する( )や鎮守社として知られる( 76 )などが残り、往時を偲ばせている。
(76) 現在は東殿の遺構として、創建時の作とされる阿弥陀如来を安置する( 75 )や鎮守社として知られる( )などが残り、往時を偲ばせている。
(77) 豊臣秀吉の築城に伴い、伏見は城下町として整備された。( )の付け替えや街道が整備され、商工業者も全国から集められた。
(78) 秀吉の没後、関ヶ原の戦いで城と城下が焼かれたが、覇権を握った( )は伏見を重視し、日本で最初の( 79 )の開設、角倉了以による高瀬川の開削などが行われ、
京都と大坂を結ぶ中継点として大きく発展した。
(79) 秀吉の没後、関ヶ原の戦いで城と城下が焼かれたが、覇権を握った( 78 )は伏見を重視し、日本で最初の( )の開設、角倉了以による高瀬川の開削などが行われ、
京都と大坂を結ぶ中継点として大きく発展した。
(80) 幕末になると伏見は再び政治の舞台となった。文久2年(1862)、尊攘派の薩摩藩士の有馬新七らと、藩主の島津久光が差し向けた藩士らが争う事件が船宿「( )」で勃発した。
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