☆ただし、以下のワードについては、小論文内に必ず含むこと
- 東軍および西軍を率いた大名
- 戦端が開かれた神社
- 当時の将軍とその正室
解答チェック
《解答例》※これらのポイントうち、赤字のキーワード部分を含む解説を適正に記述することができて正答 公式テキスト[増]53・287ページ/[新]64・350ページ
◦ 応仁の乱は、室町時代の応仁元年(1467)から文明9年(1477)まで約10年間続いた、8代将軍足利義政の継嗣争いを契機とした内乱。
◦ 13歳で室町幕府の将軍となった足利義政は、29歳の時に正室の日野富子や側室との間に嫡男ができなかったため、実弟で浄土寺門跡の僧だった義尋(ぎじん)に家督を譲ることを決断する。
◦ 当初は義政がまだ29歳であることから、後継ぎが生まれる可能性を鑑みて義尋は固辞していたが、幾度の説得により寛正5年(1464)に室町幕府管領の細川勝元の後見を得て還俗して足利義視と
改め今出川邸に移った。
◦ しかし、その翌年に義政と富子との間に長男となる義尚が誕生。富子は義尚に家督を継がせようと義政を説得したが聞き入れられなかったため、幕府侍所所司の山名持豊(のちの宗全)に相談を
持ちかけ義視の将軍職就任を阻止しようした。
◦ こうした構図により、義政の実弟・義視を支持する細川勝元と、生まれたばかりの実子・義尚を後継ぎに推す山名持豊(宗全)の対立となり、やがてこの家督争いは全国の守護大名を勝元派の
「東軍」と宗全派の「西軍」に二分する事態となった。
◦ 一般に応仁の乱と呼ばれるのは、応仁元年(1467)1月18日に東西両軍が上御霊神社の御霊杜(ごりょうのもり)で睨み合い先端が開かれたといわれている。
◦ また、宗全率いる西軍が陣を張ったことから、現在の今出川大宮を中心としたおよそ半径1kmのエリアは「西陣」と呼ばれ、有名な絹織物産地となってる。
◦ 文明5年(1473)に義尚が室町幕府第9代将軍となり当初の効因については決着したが、応仁の乱ではこの問題と並行して、三管領の一角である畠山持国の家督問題も持ち上がり、結果的には
これも含めて応仁の乱(あるいは応仁・文明の乱)として文明9年(1477)まで争いが続いた。
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