☆ただし、以下のワードについては、小論文内に必ず含むこと
- 松平容保が藩主を務めた藩
- 京都で就任した幕府の役職とその役割
- その本陣(宿舎)をおいた場所
- 彼を篤く信頼した天皇
- 京都で体験した戦い
解答チェック
《解答例》※これらのポイントうち、赤字のキーワード部分を含む解説を適正に記述することができて正答 公式テキスト[増]41・42ページ/[新]49ページ
◦ 松平容保は、天保6年(1836)に江戸の四谷に生まれる。12歳の時に叔父である会津藩主の松平容敬(まつだいら かたたか)の養子となり、嘉永5年(1852)18歳の時に養父の死去に伴い会津藩主に
就任する。
◦ その後、文久2年(1862)28歳の時に、徳川家茂の命により「京都守護職」に就任する。それまで、京都所司代や京都町奉行が京都の治安を守っていたが、尊王攘夷派の志士たちが「天誅」の名の
元に要人暗殺や強盗などを行ったことから、特にそれらを取り締まるために京都(主に御所と二条城)の治安維持を目的として創設されたポストである。
◦ 初代京都守護職に就いた松平容保は本陣を金戒光明寺に置き、1000人規模の傭兵を配下に治めた。また、その翌年に近藤勇や芹沢鴨ら浪士組を取り込み、攘夷派の志士たちをさらに厳しく掃討して
いった。これが、新選組の始まりである。
◦ 同じ年、加茂社に孝明天皇が行幸するが、これは過激派が企てた暗殺工作であった。しかし、容保らが事前にその情報を察知し、天皇は無事に避難することができた。これがきっかけで、孝明天皇は
将軍家茂を招いてともに会食するなど容保のことを篤く信頼したという。
◦ そんな最中、元治元年(1864)に約3000人規模の長州軍が、御所の蛤御門付近で警護にあたっていた薩摩および会津藩士ら幕府軍と衝突するという「蛤御門の変」が起こり、やがて一連の戦乱は
「鳥羽伏見の戦い」や「戊辰戦争」にまで発展していった。
◦ 慶応4年(1868)に京都守護職を退任後は日光東照宮などの宮司を務め、明治26年(1893)59歳で死去する。
コメントをかく