最終更新: kyo_miyato 2017年05月05日(金) 00:04:16履歴
映画の都と称された京都と映画の関係は、映画が日本に紹介された明治に端を発している。それは、京都府費留学生出身の稲畑勝太郎が、学友であったリュミエールからシネマトグラフ(映画)の興行権を購入し、現在の元( 41 )小学校(当時は京都電燈株式会社)の敷地で、日本初となる映写を明治30年(1897)に成功させたことに始まる。明治41年(1908)には、千本通の芝居小屋の座主であった( 42 )が、( 43 )の境内で『本能寺合戦』を撮って映画監督の道を切り開いた。そのことから、同寺の境内には「京都・映画誕生の碑」が立っている。また、翌年には日本初の映画スターといわれ、目玉の松ちゃんと親しまれた( 44 )を生み出した。彼らの活躍で映画人気への原動力となり、京都初の撮影所も( 45 )の西南隅櫓の向かい側に開設された。 大正期には活動と人気は日活を拠点にますます広がり、撮影所も広い敷地を求めて北野地域へと移動した。この地にあった( 46 )道具店(のちの( 46 )商会)も小道具の協力を始め、その歴史については今も( 46 )古文化会館で確認できる。さらに、日活から( 42 )が独立して( 47 )の境内に撮影所を開き、阪東妻三郎や月形龍之介といった新たなスターを輩出した。今もその境内には( 42 )の像が立ち、墓地には日活の社名を刻んだ( 44 )の墓もある。 昭和期には、阪東妻三郎が開いた撮影所を皮切りに、撮影所が北野地域から太秦地域へと移り、1930年代には太秦地域だけで7社もの撮影所が軒を並べ、映画人の家々も立ち並んだ。阪東妻三郎の撮影所は現在の「( 48 )京都撮影所」であり、北野地域から太秦地域を結ぶ嵐電( 49 )線の鳴滝駅界隈も、住人であった映画監督の山中貞雄や稲垣浩らが「鳴滝組」と称されるなど、鳴滝は映画人の街として知られた。一方、戦時期には太秦にあった多くの撮影所が( 50 )に統合されて、スタッフや技術が継承され、1950年代にはベネチア国際映画祭グランプリを受賞した『羅生門』をはじめ、数々の名作が発表された。現在では同社はすで解散しているが、その名称は「( 50 )通り商店街」という形で残されている。 現在、太秦には松竹と( 48 )の二つの撮影所がある。( 48 )の撮影所の一部は、昭和50年(1975)からアミューズメント施設の「( 48 )太秦映画村」として公開されている。 |
(41) 京都と映画の関係は、京都府費留学生出身の稲畑勝太郎が、学友であったリュミエールからシネマトグラフ(映画)の興行権を購入し、現在の元( 41 )小学校(当時は京都電燈
株式会社)の敷地で、日本初となる映写を明治30年(1897)に成功させたことに始まる。
(42) 明治41年(1908)には、千本通の芝居小屋の座主であった( )が、( 43 )の境内で『本能寺合戦』を撮って映画監督の道を切り開いた。
(43) 明治41年(1908)には、千本通の芝居小屋の座主であった( 42 )が、( )の境内で『本能寺合戦』を撮って映画監督の道を切り開いた。
(44) 明治42年には日本初の映画スターといわれ、目玉の松ちゃんと親しまれた( )を生み出した。
(45) 彼らの活躍で映画人気への原動力となり、京都初の撮影所も( )の西南隅櫓の向かい側に開設された。
(46) 大正期には活動と人気は日活を拠点にますます広がり、北野地域にあった( )道具店(のちの( )商会)も小道具の協力を始め、その歴史については今も( )
古文化会館で確認できる。
(47) 日活から( 42 )が独立して( )の境内に撮影所を開き、阪東妻三郎や月形龍之介といった新たなスターを輩出した。
(48) 昭和期に阪東妻三郎が開いた撮影所は、現在の「( )京都撮影所」である。
(49) 北野地域から太秦地域を結ぶ嵐電( )線の鳴滝駅界隈も、住人であった映画監督の山中貞雄や稲垣浩らが「鳴滝組」と称されるなど、鳴滝は映画人の街として知られた。
(50) 戦時期には太秦にあった多くの撮影所が( )に統合されて、スタッフや技術が継承され、1950年代にはベネチア国際映画祭グランプリを受賞した『羅生門』をはじめ、
数々の名作が発表された。現在では同社はすで解散しているが、その名称は「( )通り商店街」という形で残されている。
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