最終更新: kyo_miyato 2017年05月02日(火) 22:34:54履歴
(71) 近松門左衛門の浄瑠璃「堀川波鼓(ほりかわなみのつづみ)」に歌われた京都の南北の通りを、現在と比較すると( )が抜けている。
(72) 室町通と新町通の間を三条通から六条通まで抜ける( )は、桃山期の有名な茶人の屋敷があったことにちなみ名付けられた。
(73) 豊臣秀吉が聚楽第の周辺に諸大名を集住させ、現在の上京区には武将に由来する町名が多く残る。中でも主計町は( )の屋敷があったことにちなんで名付けられた。
(74) 修学院から比叡山延暦寺の根本中堂に至る( )は、延暦寺への勅使参向に用いられたため「勅使坂」とも呼ばれた。
(75) 下京区の悪王子町(あくおうじちょう)は( )の荒魂を祀る悪王子社に由来する。
(76) 鎌倉時代の記録にも残る( )には、今も大西清右衛門家をはじめ専門の職人が住む。
(77) 北野天満宮東門の門前に形成された北野上七軒は、( )の指定を受けている。
(78) 京都の地誌・観光案内書である( )には、47ヵ所の辻子や、豊臣秀吉が御所参内の際に必ず通ったことにちなんで御幸町通(ごこまちどおり)と名付けられたことが記されている。
(79) 円珍(智証大師)が訪れた際に、辺りを案内したとされる動物にちなんで名づけられた( )は、俊寛の山荘があったことでも知られる。
(80) 西田幾太郎と同様に「哲学の道」を散歩したことで知られ、経済学者でもある( )の墓は、ほど近い法然院にある。
(72) 室町通と新町通の間を三条通から六条通まで抜ける( )は、桃山期の有名な茶人の屋敷があったことにちなみ名付けられた。
(73) 豊臣秀吉が聚楽第の周辺に諸大名を集住させ、現在の上京区には武将に由来する町名が多く残る。中でも主計町は( )の屋敷があったことにちなんで名付けられた。
(74) 修学院から比叡山延暦寺の根本中堂に至る( )は、延暦寺への勅使参向に用いられたため「勅使坂」とも呼ばれた。
(75) 下京区の悪王子町(あくおうじちょう)は( )の荒魂を祀る悪王子社に由来する。
(76) 鎌倉時代の記録にも残る( )には、今も大西清右衛門家をはじめ専門の職人が住む。
(77) 北野天満宮東門の門前に形成された北野上七軒は、( )の指定を受けている。
(78) 京都の地誌・観光案内書である( )には、47ヵ所の辻子や、豊臣秀吉が御所参内の際に必ず通ったことにちなんで御幸町通(ごこまちどおり)と名付けられたことが記されている。
(79) 円珍(智証大師)が訪れた際に、辺りを案内したとされる動物にちなんで名づけられた( )は、俊寛の山荘があったことでも知られる。
(80) 西田幾太郎と同様に「哲学の道」を散歩したことで知られ、経済学者でもある( )の墓は、ほど近い法然院にある。
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(78)公式テキスト[新]78ページ
(80)公式テキスト[新]154・352ページ