最終更新: kyo_miyato 2016年10月25日(火) 17:53:54履歴
☆平城京から都が遷された際には、旧京の寺院が新京に移すことは許されなかったため、新たに平安京内に建てられたのは国営の東寺と西寺のみだった
☆平安京を草創した桓武天皇は延暦25年(806)に崩御し、皇太子の平城天皇が即位したがわずか3年で病気のため実弟の嵯峨天皇に譲位した
◦ 退位した平城上皇はかつての平城京に移ったが、それに乗じて藤原式家出身の藤原仲成・薬子兄妹が上皇をトップに置いた平城京還都を企てたが失敗
◦ 嵯峨天皇により封じられ、平城上皇は剃髪、仲成は射殺され、薬子は自殺した ⇒ いわゆる「薬子の乱」は3日で収束した
☆この事件によって令外官として蔵人所(くろうどどころ)が設置され、トップの蔵人頭には藤原北家出身の藤原冬嗣が任ぜられた
◦ 冬嗣は嵯峨天皇の信頼を受け、藤原北家全盛の時代の基礎を築き、一方の藤原式家は政治の中枢に返り咲くことはなかった
◦ さらに冬嗣の子である良房は人臣として初めて太政大臣・摂政となり、良房の養子の基経は初の関白となった
⇒藤原北家による他氏排斥は着々と行われ、いわゆる摂関政治の時代となる
☆藤原良房は発展していた左京に東西1町・南北2町に渡る大邸宅「東三条殿」を造営し、藤原摂関家の氏長者に代々受け継がれた
◦ 藤原氏全盛の時代の道長は、数ヵ所の邸宅を所持していたが、中でも「土御門殿」は東三条殿に匹敵する大邸宅だった
☆天皇が居住していた内裏はたびたび焼失し、摂関家の邸宅が仮の内裏(里内裏)と呼ぶ
◦ 焼失するたびに内裏は建て直されたが、摂関家全盛の時代になると内裏が存在するにも関わらず、里内裏が用いられることが多くなった
☆平安京を草創した桓武天皇は延暦25年(806)に崩御し、皇太子の平城天皇が即位したがわずか3年で病気のため実弟の嵯峨天皇に譲位した
◦ 退位した平城上皇はかつての平城京に移ったが、それに乗じて藤原式家出身の藤原仲成・薬子兄妹が上皇をトップに置いた平城京還都を企てたが失敗
◦ 嵯峨天皇により封じられ、平城上皇は剃髪、仲成は射殺され、薬子は自殺した ⇒ いわゆる「薬子の乱」は3日で収束した
☆この事件によって令外官として蔵人所(くろうどどころ)が設置され、トップの蔵人頭には藤原北家出身の藤原冬嗣が任ぜられた
◦ 冬嗣は嵯峨天皇の信頼を受け、藤原北家全盛の時代の基礎を築き、一方の藤原式家は政治の中枢に返り咲くことはなかった
◦ さらに冬嗣の子である良房は人臣として初めて太政大臣・摂政となり、良房の養子の基経は初の関白となった
⇒藤原北家による他氏排斥は着々と行われ、いわゆる摂関政治の時代となる
☆藤原良房は発展していた左京に東西1町・南北2町に渡る大邸宅「東三条殿」を造営し、藤原摂関家の氏長者に代々受け継がれた
◦ 藤原氏全盛の時代の道長は、数ヵ所の邸宅を所持していたが、中でも「土御門殿」は東三条殿に匹敵する大邸宅だった
☆天皇が居住していた内裏はたびたび焼失し、摂関家の邸宅が仮の内裏(里内裏)と呼ぶ
◦ 焼失するたびに内裏は建て直されたが、摂関家全盛の時代になると内裏が存在するにも関わらず、里内裏が用いられることが多くなった
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