最終更新: kyo_miyato 2016年10月24日(月) 21:40:19履歴
☆京都盆地は三方を山に囲まれている約300平方kmの内陸盆地で、北方と東西の三方を山に囲まれている
◦ 北側・・・丹波高原に連なる北山
◦ 南側・・・大きな平野部が展開
◦ 東側・・・比叡山・東山・醍醐山など
◦ 西側・・・西山山地が広がる
☆京都盆地には大小様々な河川が流れ、やがて合流して淀川に流れつき大阪湾に至る
◦ 北域・・・鴨川・高野川・桂川など
◦ 南域・・・木津川・宇治川など
☆京都盆地の原型が出来たのは約80万年前のこと
☆京都盆地の地形は気候にも大きな影響を与え、夏は酷暑・冬は酷寒といわれる
[増] ◦ 1971年から2000年の平均で、真夏日は66.4日・冬日は27.4日、年間平均気温は15.6℃と平均気温以上に寒暖差は大きく感じられる(年間平均降水量は1545.4mm)
[新] ◦ 1981年から2010年の平均で、真夏日は71.3日・冬日は22.9日、年間平均気温は15.9℃と平均気温以上に寒暖差は大きく感じられる(年間平均降水量は1491.3mm)
☆京都盆地には生活の営みを示す遺跡が、時代別に多く発見されている
◦ 旧石器時代・・・右京区にある [増]大沢池遺跡 [新]梅ヶ畑菖蒲谷遺跡
◦ 縄文時代・・・北白川一帯で土器や石器
◦ 弥生時代・・・桂川流域で多数の集落や水田の遺跡
◦ 弥生時代中後期・・・向日市や長岡京市周辺に大規模な集落跡
◦ 4世紀初頭・・・盆地東南部に巨大な前方後円墳
◦ 北側・・・丹波高原に連なる北山
◦ 南側・・・大きな平野部が展開
◦ 東側・・・比叡山・東山・醍醐山など
◦ 西側・・・西山山地が広がる
☆京都盆地には大小様々な河川が流れ、やがて合流して淀川に流れつき大阪湾に至る
◦ 北域・・・鴨川・高野川・桂川など
◦ 南域・・・木津川・宇治川など
☆京都盆地の原型が出来たのは約80万年前のこと
☆京都盆地の地形は気候にも大きな影響を与え、夏は酷暑・冬は酷寒といわれる
[増] ◦ 1971年から2000年の平均で、真夏日は66.4日・冬日は27.4日、年間平均気温は15.6℃と平均気温以上に寒暖差は大きく感じられる(年間平均降水量は1545.4mm)
[新] ◦ 1981年から2010年の平均で、真夏日は71.3日・冬日は22.9日、年間平均気温は15.9℃と平均気温以上に寒暖差は大きく感じられる(年間平均降水量は1491.3mm)
☆京都盆地には生活の営みを示す遺跡が、時代別に多く発見されている
◦ 旧石器時代・・・右京区にある [増]大沢池遺跡 [新]梅ヶ畑菖蒲谷遺跡
◦ 縄文時代・・・北白川一帯で土器や石器
◦ 弥生時代・・・桂川流域で多数の集落や水田の遺跡
◦ 弥生時代中後期・・・向日市や長岡京市周辺に大規模な集落跡
◦ 4世紀初頭・・・盆地東南部に巨大な前方後円墳
☆弥生時代の盆地開発により、集落を豊かにし、強大な氏族が誕生
◦ 副葬品の鏡などから大和政権の支配が及んでいたことが明らか
◦ 京都盆地には「県(あがた)」が認定されており、大和政権の公領あるいは直轄地が存在した
☆この頃、大和政権の支配により、行政的な「やましろ」が誕生
◦ 5〜6世紀頃・・・「山代」という字があてられる
◦ 8世紀・・・機内制の成立と共に「山背」となり
◦ 794年・・・平安京遷都と共に国名が「山城」となった
☆5世紀になると京都盆地に多くの渡来人を含む移住者が進出し、大きく発展した
◦ 北域・・・賀茂氏・出雲氏 ※列島内移住者/小野氏・秦氏・土師(はじ)氏・八坂氏 ※渡来系移住者
◦ 南域・・・高麗(こま)氏(あるいは狛氏) ※渡来系移住者
☆特に巨大氏族集団であった秦氏は、西部の桂川流域と東部の深草の鴨川流域に進出し開発
◦ 特に桂川(葛野川)流域に移住した秦氏は、土木技術を駆使し葛野一帯を田園地帯に変え
◦ 養蚕・機織技術を扶植することにより豊かな産業地帯に変貌させた
⇒絹をうずたかく積むことを「うずまさ=太秦」と呼んだことから、この一帯の地名にもなった ←[新]では削除
◦ 副葬品の鏡などから大和政権の支配が及んでいたことが明らか
◦ 京都盆地には「県(あがた)」が認定されており、大和政権の公領あるいは直轄地が存在した
☆この頃、大和政権の支配により、行政的な「やましろ」が誕生
◦ 5〜6世紀頃・・・「山代」という字があてられる
◦ 8世紀・・・機内制の成立と共に「山背」となり
◦ 794年・・・平安京遷都と共に国名が「山城」となった
☆5世紀になると京都盆地に多くの渡来人を含む移住者が進出し、大きく発展した
◦ 北域・・・賀茂氏・出雲氏 ※列島内移住者/小野氏・秦氏・土師(はじ)氏・八坂氏 ※渡来系移住者
◦ 南域・・・高麗(こま)氏(あるいは狛氏) ※渡来系移住者
☆特に巨大氏族集団であった秦氏は、西部の桂川流域と東部の深草の鴨川流域に進出し開発
◦ 特に桂川(葛野川)流域に移住した秦氏は、土木技術を駆使し葛野一帯を田園地帯に変え
◦ 養蚕・機織技術を扶植することにより豊かな産業地帯に変貌させた
⇒絹をうずたかく積むことを「うずまさ=太秦」と呼んだことから、この一帯の地名にもなった ←[新]では削除
- 京都盆地を取り囲む環境は、北側には○○高原に連なる○○山、東側は○○山・○○山・○○山などがあり、西側には○○山地が広がり、南側は大きな○○が展開する。
- 京都盆地は三方を山に囲まれた約○○km²の内陸盆地で、北域を○○川・○○川・○○川が流れ、南部地域では○○川・○○川などが主流で、これらが合流して淀川となる。
- このような京都盆地の原型が出現したのはおよそ○○万年前のことで、大沢池遺跡では数万年前の○○、北白川一帯では○○時代の土器・石器、桂川流域では多数の○○跡、特に向日市や長岡京市
周辺では○○時代中後期の大規模な○○で、その頃の生活の営みを物語る遺跡も数多く発見されている。 - 4世紀初頭には盆地東南部に巨大な○○が出現し、副葬品から○○政権の支配が及んでいたことが明らかで、京都盆地には「○○」が認定されており、○○あるいは○○地が存在していたとみられる。
- これが行政的な「やましろ」の誕生で、5〜6世紀頃には「○○」の字があてられ、8世紀になると畿内制の成立に合わせて「○○」という字に変わった。また、平安京成立とともに、国名も「○○」となった。
- 5世紀に入ると京都盆地に多くの移住者が進出し、北域には列島内移住者の○○氏や○○氏、渡来人の○○氏・○○氏・○○氏・○○氏など、南域には同じく渡来人である○○氏などが支配した。
- 渡来人の多くは○○から渡って来た人々が大半で、一部は中国大陸からも人々がやって来たという。彼らの多くは先進的な技術や文化を伝え、「やましろ」の開発に大きく貢献した。
- 特に巨大氏族集団であった○○氏は、西部の○○川流域に進出し、持ち前の土木技術によって葛野一帯を○○地帯に換え、さらに養蚕・機織技術によってうずたかく絹を積むことを表わす「○○」という
地名にまでなるほどの豊かな産業地帯へと変貌させた。
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