平安京の末路 公式テキスト[増]22〜24ページ [新]16〜18ページ要約
☆平安京が左右両京において均斉美を誇った期間はごくわずかで、遷都から100年も経たないうちに、右京が著しく衰退していった
◦ 右京がもともと西南部の地形が低く湿地帯であったことが影響して、蚊の媒介により温帯性マラリアが大流行した
◦ 右京から人々が離れると、住宅や道路が姿を消し田園地帯に変貌していった
◦ 平安京の中心を通っていた朱雀大路が次第に狭小化し、南端にあった羅城門も倒壊して以降は再建されることがなかった
※現在、東寺が所蔵する兜跋毘沙門天立像(とばつびしゃもんてんりゅうぞう)は、倒壊前は羅城門楼上に安置されていたと伝わる
☆他方、左京には多くの人々が移住をしたため、平安京の枠に収まらず拡大した
◦ 左京域・・・一条大路を越えて北側に住宅地が拡大、それに伴い大路・小路も新造される
◦ 南北域・・・西洞院大路が一条大路を越えて北側に拡大、この地域が「西大路」となる
◦ 東西域・・・武者小路や北小路(現在の今出川通)、毘沙門堂大路(現在の上立売通)が出現
◦ 都市域・・・東側で拡大し、近衛大路と三条大路間に東朱雀大路が誕生
◦ 鴨川域・・・二条大路が東進し、白河の地に到達して「外京(げきょう)」という市街地や、六勝寺の建立、白河北殿・南殿・押小路殿など、邸宅や貴族・官人たちの住居が次々に建設
◦ 鴨東の南域・・・平安時代末期から鎌倉時代に、平氏の政権が六波羅第(六波羅政庁)を作り武家町に変貌させた
☆左京中心の展開で平安京という名称も失われ、さまざまに変化しながら「京都」という呼び名が固有名詞化
◦ 「京都」という漢語系の都市名に変化したことを機に、中世の幕開けが告げられた
鎌倉幕府の成立と京都の関係 公式テキスト[増]24ページ [新]18〜19ページ要約
☆文治元年(1185)、平氏の滅亡により源氏が鎌倉に幕府を成立させ、京都と鎌倉に二重政権が誕生した
◦ 源頼朝政権は当初は京都と距離を置いていたが、やがて平氏政権当時の基盤であった六波羅に拠点を置いた
◦ これが「六波羅探題」の先駆けとなり、朝廷の監視と洛中の警護に加え、西日本全体に強い成敗権を行使していた
◦ また、嘉禎4年(1238)には京中の48ヵ所の辻々に「篝屋(かがりや)」を設置して、治安の安定と同時に行政権も行使していた
☆一方、朝廷も令外官である「検非違使庁(けんびいしちょう)」が治安警護(特に強盗・殺人など凶悪犯罪)を担当し、都の人々から信頼を得ていた
◦ 検非違使庁は民事から行政まで関与しており、朝廷を代表する有効な働きを示していた
☆鎌倉時代の京都は、朝廷と武家政権の二つの機能によって運営されていた