寺院の建立と仏教 公式テキスト[増]24〜25ページ [新]19〜20ページ要約
☆平安時代は京中には国営寺院である東寺と西寺以外には寺院の建立を認められていなかった
◦ ただし、平安以前から存在した町堂(六角堂や因幡薬師堂など)は黙認されていた
◦ 京郊外では、それまであった天皇や貴族の別荘が寺院の役割を果たしていた
☆鎌倉時代になると、京中でも徐々に寺院の建立が認められる
☆[増]室町時代に入ると、旧仏教である強大な天台宗や真言宗などの妨害にも関らず、新仏教の時宗・浄土宗・一向宗(浄土真宗)・禅宗・法華宗が京中に支持者や拠点を拡大
◦ 中でも時宗と法華宗は、市中にいち早く進出し教線を拡大
◦ 時宗は七条・六条・四条周辺の都市民の支持を得て、「道場」と呼ばれる寺院を建立
◦ 法華宗は日蓮や日像が説いて布教拡大に努め、室町時代には「洛中二十一ヵ寺本山」と呼ばれる寺院群を建立
⇒ 戦国時代には、洛中は「皆法華(かいほっけ)」といわれるほどになっていた
☆[新]室町時代に入ると、旧仏教である強大な天台宗や真言宗などの妨害にも関らず、新仏教の浄土宗・浄土真宗(一向宗)・時宗・臨済宗をはじめとする禅宗・日蓮宗(法華宗)が京中に支持者や拠点を拡大
◦ 中でも時宗と日蓮宗は、市中にいち早く進出し教線を拡大
◦ 時宗は七条・六条・四条周辺の都市民の支持を得て、「道場」と呼ばれる寺院を建立
◦ 日蓮宗は日蓮のあと日像が説いて布教拡大に努め、室町時代には「洛中法華二十一ヵ寺本山」と呼ばれる寺院群を建立
⇒ 戦国時代には、洛中は「皆法華(かいほっけ)」といわれるほどになっていた
☆京郊外では、禅宗を中心に、巨大寺院が次々に誕生
◦ 足利氏の室町幕府が最大の支援者となっていたことから、武家の多くが帰依者となった
☆永和3年(1377)、3代将軍義満は「花の御所」(室町殿)を造営して翌年に移り住む
◦ 晩年の応永4年(1397)には、のちに金閣と称される山荘「北山殿(きたやまどの)」を造営
⇒ 8代将軍義政は延徳2年(1490)、義満に敬意を払ってのちに銀閣と称される山荘「東山殿(ひがしやまどの)」を造営
※この別業で催される数々の遊芸や文芸は、室町文化を代表する
商工業の発展と「町」の形成 公式テキスト[増]25〜26ページ [新]20〜21ページ要約
☆平安時代に国営産業の商人・工人たちは、その当時の王朝政府の弱体化に伴いリストラされ失業していた
◦ 彼らは自立するために、現在の同業者による協同組合のような「座(ざ)」という連携帯を組織
◦ 朝廷の貴族や寺社に、仕事の確保と権利の保障を求めた
⇒ その結果、一定の貢納品を上納することで地位が確保されるシステムが構築
☆室町時代に入ると、政権の安定に伴い町小路・室町小路・西洞院大路などに進出し、大棚・小棚を持つようになる
⇒ 15世紀に入ると、これらの戸数は1万から数万戸に達し「座」の数も60を超え、京都は日本最大の商工業都市となった
☆商工業者が増大すると自然に市民の増加にも繋がり、都市における地縁的結合を促し「町(ちょう)」の再編成が進む
◦ 平安時代には「条坊制」によりブロック制による町づくりが行われていたが、中世以降には道路がスリム化
◦ これにより、通りを挟んで両側の家々の近隣感から、両側町あるいは片側町と呼ばれる「町」という共同体となる
◦ 14世紀頃には、これらの「町」が祇園祭礼の運営主体としての役割も果たす
◦ 16世紀になると、町が集まり「上京」「下京」というより大きな地域共同体を形成
※上京・・・120町からなる5つの町組/下京・・・66町からなる5つの町組
☆「町」や「町組」には、年寄・乙名(おとな)・月行事と呼ばれるそれぞれの役割を担う各リーダーを、それぞれ「入札(いれふだ)」という選挙システムによって選出
⇒ 京都は全国に先駆けて、市民による自治都市としての力を持つようになった