今は亡き耳かきコリッの避難所

「冴えないな、こんなの」
シャワーから上がって、パンツ一丁の旦那が苦笑する。
頭にバスタオルを被ってわっさわっさと残った水分を拭き取りながら、
私の隣にゆったりと座る。
ソファーに腰掛け、新緑の山々と、濡れ縁のすぐ向こうにあるハーブガーデンの
チェリーセージの赤やピンクの花に目をやる。
「そんな事ないよ、GWだからって、出ても今どこも混んでるし」
「………ありがとう」
「嫌だ、気を遣ったんじゃないって、誤解しないで」
私はそれから、キッチンの冷蔵庫から冷えたアールグレイをグラスに二つ注ぐ。
「ふう」
旦那はそれを無造作に掴むと、まるで子供みたいに一気に飲み干す。
「夏はアレだぞ、絶対に海に連れてってやるから」
まだ気にしてるのか、と思いながら、膝枕になるよう促した。

旦那は飴耳で、しかも新陳代謝もいいので耳掻きマニアの私としてはたまらない
ターゲットなのだが、不精な彼は自分で耳掃除をすることがまるでない。
気持ち悪くないのかとそこだけが理解できないところなのだが。
「わ」
「どうした」
思わず声が出た、というのも、湯上がりのせいか、耳に人さし指を突っ込んだら
先が触れるであろう、入り口の周辺からしてグレーのドロドロが浮いているのだ。
そこからまず竹の耳掻きで、ブルドーザーやショベルカーのように掬ってやる。
先端部分にこんもりと付着した老廃物を見せてやると、旦那も無言で恥ずかしそうだ。
それを数回繰り替えしてから、やっと本格的に外耳道へと取りかかる。
「なぁ、どうして人にしてもらうグルーミングって気持ちいいのかな」
「どうしたの急に」
「いや、こっちに戻って久しぶりに佐藤の散髪屋に行ったらさ。シャンプーが妙に
気持ちよくて」
旦那が楽しそうに散髪の時の話をしだすので、暫く聞くことにした。

頭皮まで両手の指でワシワシと丁寧に揉まれて、毛穴の脂を全部押し出して
くれるんだろう、証拠に泡を洗い流すとスースーするから。
それから顔剃り。
髭っていうのも剃られるんだが、耳たぶの産毛と、それから伸び過ぎてた
耳毛を一本一本ショリショリやって貰ってさ。
刃物だから本当はかなり危険だし、ドキドキするんだけど、それを操る手は
優しくて本当にいいね。
産毛が剃れる度にプツプツと幽かな音まで聞こえるのがゾクゾクして。
それから仕上がると、首と肩をマッサージしてくれるのさ。
それが体の芯までじっくり効く感じでねぇ。

「そう、それはちょっとしたエステみたいね」
話は聞いてはいたが、こっちは耳の採掘作業に夢中になっている。
自分をじらすように外耳道の入り口から順に耳掻きで掻き出しては
ティッシュに取るという作業をくり返す私。
本当は一気に3cmぐらい突っ込んで、一気にがさっと取りたい、
しかしそれがひどく野暮なことのように思われ、自戒の意味からしない。
せいろに盛られたお蕎麦や揚げ立ての天麩羅をどっぷり全部つゆに浸して
しまうぐらい、咎める人の目がなければやっても構わないだろうに、
自分の中の美意識や幾許かのスノッブさがそれをさせない、そんな感情の
せめぎあいを楽しむ。
「じゃ、奥いこうか」
「ああ、やっとかー」

グジュ…………。
え、と固まる私。
無造作に奥に入れようとして、粘り気のある抵抗感を感じてしまった。
丁度、食べていたアップルパイのジャム部分に指先が刺さってしまったような感覚。
やばいことにはなっていないだろうが、これは…………。

耳掻きを引き抜くと、先月焼肉屋で旦那が、一緒に頼もうと言われて
初めて食べた石焼きビビンバにかけたコチュヂャンみたいなものが先端数cmに亘って
付着していた。
耳掻きを引き抜く時にスッと尖って途切れたことから、溶けたキャラメルにも
近い粘性があるのが分かる。
「ちょっとこれ」
「おお」
見せた旦那も思わず眉を潜める。
慌ててペンライトで覗くと、耳道の殆どが塞がっているのがはっきりと見えた。
もういい、私は粋な大人の耳掻きスタイルに固執することをこの時点で放棄した。
「痛くしないけど一気にいくから」

ゴソッ…………。
かぼちゃのアイスクリームをディッパーですくうさまをイメージしながら
手前に掻き出すと、こんもりと先端部山盛りを遥かに超えた分が耳の穴周辺に流れた。
耳もとを拭いてやりながらティッシュに。
「オイオイスゲーな何か」
やっと旦那も事態の深刻さを感覚として理解できたらしい。
それを数回繰り替えしてやっと、きれいなピンクの皮膚が見えてきたようだ。
会話もないまま、ネトネト、ボロボロといった感触でどんどん採掘していくうちに、
耳垢の水分量が徐々に減り始めた。
より深い地層に到着したようで、出てくるものはサイズといい形といい、玄米や小豆
みたいなものがコロコロと出てくるようになった。
「こっちはもういいみたい。今度こっちね」

既に夫婦の癒しだとか憩いだとかという甘い空気はそこにはなく、私は外科医のような
気分で言葉数も最小限だけになってしまう。
ティッシュペーパーは既に摘むと何だか厚手のハンカチかのような重さすら感じる程に
なってしまっていた。
「終わった?」
「いや、綿棒あるから」
ミントローションに浸した綿棒でクリッ、と一回転。
「冷てっ!!」
「じっとしててね」
つま先がピクッ、ピクッと動くのが気持ち良さそうだ。
抜き取ると、ボトルから出した時は瑞々しかったハッカの気は既に抜け、
明るいレモンイエローに染まっていた。
「気持ちいいなあこれ」
「うん、こっちもやるから庭の方向いて」

気がつくと、この作業は20分にも及んでしまっていた。
「これからは毎日頼む」
冷蔵庫からみかん水を飲みながら呟く旦那。
私はそれを断ることもなく、緊張からの解放感をソファで味わっていた。

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