今は亡き耳かきコリッの避難所

囲炉裏にかけた南部鉄瓶がシュンシュンと音を立てて部屋を暖めていた。
炬燵で新聞の記事に目を通す。
障子戸にはめ込まれたガラスから見えるのは雪に覆われた庭が見える。
灯籠にみかげ石のガマガエル、古くなった松、それに吊るした徳利などが水墨画のようだ。
「やっと出たのか」
廊下から家内がスリッパでやってくる音がして顔をあげると、自分も浸かっていたゆず湯の
残り香の他に、何か甘い匂いがした。
「もう火が充分通っていましたから」
そう言われて出されたのは、煮物ではなくかぼちゃを中の種やワタを取り除いて
具を詰めてじっくり加熱したものだった。
「今年はこんなものでもと思って。おかしかったかしら」
と、遠慮がちに家内が機嫌を伺うように言うものだから、
「いや、そんな事はないよ。旨そうじゃないか」
と差し出されたスプーンと小皿を受け取った。
本当はハロウィンの時に作りたかったのよ、なんて英文科らしいことを言いながら
中身を掬ってみせた。
その10月頃はクルミやアーモンド、 ドライフルーツなんかをぎっしり詰めて私が
時折チビチビやっていた洋酒を全部使って保存しているシュトーレン作りに四苦八苦していたっけ。
ドイツのクリスマスケーキで、秋の実りをふんだんに使って数カ月寝かせるのだそうだが、
無断で全部使ったことを責めると、結局口には入るんだからと切り返されてしまった。
「チーズ、熱いですから気をつけて」
「うん」
ホクホクした質のいい栗かぼちゃを囲んで世間話を楽しむ。
東京にいる長男は今年いつ戻るのか、長女はいつまでアメリカなのか。
それから今年はついぞ二人でどこにも旅行に行くことがなかったこと、そして何より
男のワガママでどうしても囲炉裏と自在鍵、天窓のある和室の居間が欲しいんだと
建てたこの家のローンが完済して一安心したこと。

「なかなか旨いじゃないかこれ」
「良かった、初めて作るからどんなものかしらと思っていたから」
「いや、本当に旨いよ」
中の具はあっという間になくなってしまい、それからすぐにかぼちゃの果肉をスプーンで。
「あ」
一瞬、私の手が止まったのを見て、家内は急に吹き出してしまった。
「嫌だわ、貴方のさっきの顔、学生の頃そっくりなんですもの」
そう言われてはこちらも笑うしかない。

当時、大学で知り合った私達二人はよく下宿していたマンションで、何をするでも
なくCDを聴いて時間を過ごしていたものだ。
それからそこで初めて、家内がそっと私の耳を覗き込んでから、
「やだ、修平ったら耳掃除してないの!?」
と、そう指摘する割にはどこか嬉しそうな顔をしてから、手荷物から何故か
持ち歩いていたロジウム製の細い耳掻きを取り出した。
そんな習慣はなかったからとおっかなびっくりな私の耳をシャッシャッ、と
かき出す家内が急に小さな声をあげるもんだから、何があったのかと顔をあげて。
出血したか、鼓膜を破ったかと思ったがそんな痛みはない。
「修平、これ」
「あ」
使い古した10円玉のような色をした、小豆のような塊が取れて驚いたものだ。
丁度その時の顔のことを思い出したのだという。
それから耳掃除がやみつきになって、考えてみればそれが私達夫婦の関係を
決定づけたような気がする。

「なぁ、あの……」
「ふふっ、分かりました。そうねぇ、考えてみれば久しぶりよね」
新婚当時は毎日、会議が朝からあって関係のない日ですらしてもらっていたのに、
最近とんとやって貰っていなかったな。
家内はそれからすぐに、引き出しから耳掻きを取り出した。
今もまだあの日の輝きは失っていない。
家内の膝枕の暖かさも昔のままだ、ただ指遣いだけはうまくなっている。
そのことを言うと、子供二人にもしてあげていたからよと笑われた。
「どうだ、中」
「やっぱり不精だと駄目ね、奥に取り残しがあるみたい。ねぇ、年明けに
お医者様に見ていただいたら?」
「そんなにあるのか」
そう聞くと、家内は無言でベットリと松やにのようなものに包まれた先端を見せた。
「こりゃひどいな」
「そう思うんだったら毎日言ってください」

それからティッシュで拭って、それからまたカリカリ。
回りの空気が水飴のようにトロンと気持ち良く、意識が空中を彷徨う。
「はいおしまい。逆側見せて頂戴」
それから家内の腹に顔を向けて。
耳の中を掬い取りながら、これまでのことを色々と語り合う。
肩まで軽くなるような、そんな解放感が一掬いごとに感じられる。
柱時計が、ジャーン、と軽い音で11回。
「ねぇ貴方」
「ん?」
「囲炉裏の火、消してこのまま炬燵で寝ませんか」
「………ああ、その前にかぼちゃどうにかしないとな」

灯りを消して、間接照明だけにする。
半熟の目玉焼きの黄身のような色の光がぼうっと私達を照らした。
外の雪はまだ降り積もっている。
耳の中には雪風が吹くが、全身を優しい温もりが包んでいた。

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