今は亡き耳かきコリッの避難所

底抜けに暗い鉛色の空から、地面に向かって無数の銀の直線が降り注ぐ。
黒いアスファルトの表面も、窓から見える家々の屋根も、跳ね返した
雨粒が細かい霧になって風に流れる。
「道理で痛いはずだよ、入り口にニキビ出来てるわ」
ハンドボール部を引退したばかりの悟を見て美由紀は言った。
「………どうなってる?」
「東京タワーみたい、先っぽだけ白くて尖ってる」
そう言うと、美由紀は先の細いピンセットをエタノールで消毒すると、
膝枕になるように言ってゆっくりとほんのり赤いグラデーションの
腫れた部分を軽く摘んだ。
「痛いッ!!」
ビクリと大きく震えたことから、相当痛いと分かったのだろう、
「もう、男の子でしょ? じゃあ方法変える。もっかいじっとしててね」
今度は先端の乳白色の部分の角質層を僅かに摘んで切開した。
途端に中の膿はビーズ玉大の球体状に溢れだし、それを押さえずに
ティッシュの端に吸わせ続ける。
「あ、何か痛みが引いてきた」
「そう、ならもっかい我慢して」
今度こそ、とグイッと押したら、やっと胡麻粒ほどの核がプリッと
飛び出したので、残りの中身をある程度出すと、消毒液を塗った。
「すげ、もう何か殆ど痛くない!?」
「そう、良かった。いつぐらいから痛かったの」
「もう1週間ぐらいかな」
そう聞いて美由紀はペンライトで更に耳の奥を覗く。
「うわっ、汚い!!」
思わず口に出る無遠慮な台詞、母親ならではか。
「え」

「え、じゃないわこれ。腫れて密閉されてたところにこんな時期に
部活とかしまくってたから、すごい耳垢溜まってる!!気持ち悪くない?」
「言われてみれば、うん」
美由紀はそのまま細い金属製のスプーン耳掻きで悟の耳を掻き始める。
蒸れていたせいか、飴耳が余計に水っぽく、鼠色の耳垢がどんどん汲み出されていく。
「ほら、何かこんなの」
「うわ、こんなの!?」
自分の目で見れば確かに驚くが、それより耳垢をすくい取られたところだけ
線上にスースーと空気に触れた感覚が気持ち良い。
目を閉じる悟、金属の先端がなぞる幾何学模様が脳裏に浮かぶ。
その星座のような軌跡に沿って得られる爽快感。
「粗方取れたかな…………」
「じゃ、もう終わり?」
来年大学に進もうかというのに何を、と思ったが、考えてみれば会話どころか悟の顔をまともに見たのは一週間ぶりだ。まあいいか。
「いや、左耳があるし、その前に奥をね………」
更に奥に進む耳掻き。
「んんっ!?」
細い耳掻きの先端が、グイッとテコの原理で狭くなっていた
耳道をこじ開いた途端、ネチャッと粘着質のもの同士が剥がれる音がした。
一瞬ドキッ、とした悟だが、それからすぐに襲ってくるだろう激痛がなくほっとした。
「どうしたの?」
「あ、いや変な音がして」
「えー、大変!!」
それからすぐに美由紀が耳掻きを引き抜くと、山吹色を通り越して茶褐色になった半固形物がべったりと付着していた。
「すご………これ!!」
「ホントだ………」
念のため確認したが、やはり血はついていない。
耳の穴付近を親指のへりで圧迫したが、不自然な疼きもないことから、
怪我はしていないようだ。
「悟、これ、耳垢が奥で塞いでるわ」

「マジで!?」
あれだけ毎日耳掃除しているって宣言していたのに、と思ったが、
やけに気持ち良かったというのは、つまり普段やる自分の耳掃除では
そこまで奥に突っ込まなかったせいだろう。
「あのさ、もしかして綿棒使ってる?」
「あ、うん」
「そのせいねー、先が丸いから、どんどん取れるはずだった一部が奥に
押し込められて、耳道が塞がりかけてたんだな」
綿棒は大方の耳垢を取ってから使うものだ、と美由紀は説明しながら左耳に。
耳掃除をしながら、悟の爪先がヒクヒク痙攣する具合を見てツボを探ってゆく。
ツボと思われる辺りを丹念に掻いて、最後に成果を見せてやる。
「どう?」
「何でかな、喉の奥がイガイガするな………」
自分もそうだ、と美由紀は言って、後でスーパーで買ってきた王林が
冷やしてあるから、後で切ってやることにした。
「今日はこんな感じ」
ティッシュに盛られた黒褐色の混じった山吹色、しめてティースプーン1/3。
「うわー、すげー」
悟はいつまでもそれを物珍しそうに見ていた。

このページへのコメント

お母さんがやけに説明口調なのが面白い
それ以外は気持ちよさそうな描写で読んでて楽しかったです

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Posted by 名無し(ID:nETkzCJiTw) 2019年12月18日(水) 03:58:34 返信

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