最終更新:ID:1Wp15OO1zg 2017年03月09日(木) 16:25:11履歴
133 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2017/03/09(木) 11:42:44.63 0
とうとう、来てしまった。
いつも暮らしている街から電車で15分。
改札を出てすぐ目に飛び込んできた建物は、予想を上回る大きさだった。
思わず立ち止まって見上げた雅の横を、途切れることなく人が通り過ぎていく。
彼らが皆その建物に吸い込まれていくの目の当たりにして、体の芯がツンと冷たくなったような気がした。
ざわざわと落ち着かない喧騒の中で、ギターケースを背負い直す。
出演者用のチケットを握りしめ、雅も人の流れに乗った。
ホールの規模は800人程度。
出演バンドは15組。1組に与えられる時間は3曲程度。
たった3曲、されど3曲。
その時間で、1人でも多くの人の心を震わせられたら。願うことはそれだけ。
入場待機列の脇を抜けて、出演者用の入口をくぐる。
薄暗い廊下を抜けた先は、独特の高揚感に満ちていた。
椅子や机が雑多に置かれた中で、数人のグループがあちこちにできている。
雅くらいの者もいれば、だいぶ上の親世代の者まで年齢層は様々。
今日のこのステージに向けて、皆それぞれの形で準備を進めてきたのだ。
そう思うと、自然と気分が高まっていくのが分かった。
「みやー、こっちこっち」
声がした方に視線を移すと、愛理が千切れんばかりの勢いで手を振っている。
愛理のそばには、見慣れたケース。桃子もすでに来ているらしい。
「ももは?」
「お手洗いだって」
そっか、と答えて愛理の近くに腰を下ろした。
あと数時間後には、全てが終わっている。
ちらりと伺った時計に、そんな現実を突きつけられたような気がした。
戻ってきた桃子と簡単に最終確認を済ませ、あとは開演を待つのみ。
135 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2017/03/09(木) 11:43:19.07 0
1組、また1組と舞台裏へ消えていき、自分たちの番が回ってきたのはあっという間だった。
仄暗い舞台袖に漂う、落ち着かない空気。
前のバンドの演奏が耳に入ってきて、嫌でも緊張は増していく。
いや、やれることはやってきた。あとは、ステージの上にそれをぶつけるだけ。
「みや、大丈夫?」
「あ……うん」
押し寄せる緊張と闘っているところへ、愛理の声が割り込んできた。
初めて愛理と一緒に演奏をした学園祭でも、こんな風に話しかけられたっけ。
そんな記憶が不意に呼び起こされた。
「……大、丈夫」
「なんか、顔強張ってるけど」
むに、と愛理に右頬を軽くつままれて、自分の頬がやけに冷えていたことを知る。
なんてことを考えていたら、急に左頬にも突っ張るような感触が与えられた。
「ホントだ、ガチガチ」
いたずらっぽい表情で左頬をつまむ桃子にどきりとした後で、いやいや待てよと思い直す。
「ひょ、ひゃえお」
片方ずつの頬を別々の人間に引っ張られているなんて、間抜けにもほどがある。
雅が2人の腕をぐいと引き剥がしたのと、左手が柔らかさにくるまれたのはほとんど同時だった。
「みや、手冷たすぎじゃない?」
自分の左手が桃子によって包まれている、ということを遅れて脳が認識する。
「うわ、え、血回ってる?」
「いやいや、生きてるし」
そんな風にからかわれながら、右手は愛理の手の中へ。
きっと側から見たら奇妙な光景。
けれど、さっきよりは断然マシだろう。
それに、2人があまりに真剣に温めてくれるものだから、しばらくこうしていようと思った。
1人でいる時よりも、こっちの方がずっとしっかり立っていられる。
136 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2017/03/09(木) 11:43:47.18 0
「スタンバイお願いします」
スタッフの声に促され、3人は明るいステージの下へ飛び出した。
その明るさに眩んだ目も、しばらくすると収まって。
それは逆に言えば、客席もはっきりと見えるということで。
——あ、やばい。
こちらに注がれる視線の数を意識した瞬間、喉に閉塞感を覚えた。
さっき2人にもらったはずの温もりが、一瞬にしてどこかへと流れ去っていく。
再び硬直しかけた体に、ふわりと何かが触れた。
「みや」
聞こえるか、聞こえないか、ぎりぎりの声。
けれど、それは確かに雅の耳を通り抜け、体中に染み渡った。
「ごめん、大丈夫」
わずかに首を動かして、唇の動きだけで桃子に伝える。
桃子の表情が微かに緩んで、よかった、と言ったように見えた。
もう大丈夫だ、だって、みんな一緒だから。
用意されたマイクスタンドの前に立ち、静かに呼吸を整える。
ここからは、自分たちの時間。視線は一瞬だけ交わされて、愛理が高々とスティックを掲げるのが見えた。
軽快な音色で、カウントが鳴り響く。
流れ始めた音楽は、乗ってしまえば最後まで降りられないジェットコースターのよう。
盗み見た桃子の横顔は、雅が初めて桃子の歌を聞いたあの時と変わらないまま。
もしくは、それ以上の存在感を示していて。
置いて行かれまいと、雅も思うがままに全身を躍動させた。
名刺代わりの1曲目、少ししっとりとした2曲目、そして勝負の3曲目。
愛理の聴かせるソロが完璧に決まって、つかみはバッチリ。
1番、2番と曲は進み、残すは間奏明けの大サビのみ。
互いが自由に演奏していた間奏の途中、思いがけず桃子の視線に捕らわれた。
きらりと光る瞳に、きゅっと不敵に微笑む唇。
時間の流れが急にゆっくりになったような錯覚に陥って、桃子から目を離せない。
徐々に狭まる2人の距離に、否応なしに鼓動は高まって。
それはあまりに呆気なかった。
瞼を閉じる余裕もないまま。
柔らかすぎる何かが、ほんの一瞬、唇に触れた。
響き渡る桃子の声に、止まっていた時間が動き始める。
どこまでも伸びやかに空気を震わせる声に、躍動する世界。
はっと気がついた雅は、振り落とされないようにとギターを握り直した。
そこから最後までは、全速力で駆け抜ける。
空気に溶けていく、最後の1音。
それを見送って大きく息を吐き出すと、視界が急にはっきりとしたようだった。
拍手のさざめきを、全身に浴びて3人で深々とお辞儀を一度。
ふわふわとした心地で舞台裏にはけると、突然くたりと力が抜けた。
「わっ、みや?!」
2人に抱えられて、派手にこけることだけは免れる。
そのまま床にぺたりと座り込むと、笑いがこみ上げて止まらなくなった。
それにつられてか、桃子と愛理からも笑みがこぼれる。
やった、やりきった。この3人で、音楽をやれてよかった。
138 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2017/03/09(木) 11:46:22.82 0
個性豊かなバンドたちが参加したイベントは、大盛況のうちに幕を閉じた。
充足感に満ちたロビーの片隅で、3人はベンチに腰を落ち着ける。
飲み物を買ってくると桃子が席を立つと、それを見計らっていたように愛理がぽつりとつぶやく。
「……みやとももって、つきあってるの?」
「ぶっ!」
口にしていたスポーツドリンクを吹き出しそうになって、雅は慌てて口を押さえた。
「あっ! いやぁ、どーだろうなー」
「ごまかせてないからね」
こうもばっさりと切り捨てられては、観念するほかない。
タオルで口を拭いながら、雅は言葉を探して。
「まだ、ビミョーなとこ」
「そうなの?」
「返事は、まだっていうか」
「ふぅん」
遠くを見つめながら、そっと愛理が笑うのが分かった。
それが気になって視線を合わせると、すっと目を細められる。
「やっぱみやって、もものことだと弱気だね」
「……そう、かもね」
思えば、最初の頃も同様のことを愛理に言われたような。
こればかりは、簡単に変えられるものでもないらしい。
仕方がない。
弱気にも臆病にもなる。
だって、桃子のことだから。
「ていうか! なんで、その……」
「そんなの、すぐ分かるって」
——だって2人とも、お互いのことしか話さないんだもん。
言い淀んだ雅に対し、愛理ははっきりとそう告げた。
そんなに?と目で問うと、力強く首が縦に振られる。
「それに、今日、」
愛理の言葉に被さって、振動と共に電子音が鳴り響いた。
おっと、と愛理が取り出した携帯の画面には"パパ"の文字が浮かぶ。
「あ、お迎え来てくれたみたい」
言いながら、桃子が消えていった方向を気にする素振りを見せる愛理。
まだ帰ってくる気配はないし、今日の反省会はまた後日集まってやれば良い。
そう促すと、愛理は分かったと荷物を手にして立ち上がる。
じゃあね、と手を振りながら人混みへと愛理が紛れた後で、雅はぐったりとベンチにもたれかかった。
139 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2017/03/09(木) 11:47:41.84 0
愛理の言葉は、後になってじんわりと効果が出てくる薬のようで。
いやいや、恥ずかしすぎるでしょ。
全部もろバレだった、とか。
「ああぁー……」
両手で顔を覆って、声にならない声を漏らす。
愛理を信じるならば、桃子も雅のことばかり話していたことになる。
それはそれで、少しくすぐったくて、嬉しいけれど。
「お待たせ……って、みや?」
思わぬ雅の様子に、桃子は怪訝な表情をしていた。
「何かあった?」
「や、別に」
何気なく、隣に座る桃子。
そういえば、桃子に確かめなければならないことがある。
あの行動の、意図を。
「もも。さっき、うちら——」
「おー、おつかれちゃん」
良いところで遮られて、思わず眉間に皺が寄るのを止められなかった。
「ち、千奈美……」
だが、桃子から漏れ聞こえた音が思いがけぬもので、雅は目を見開いていた。
ももこさん、今、なんて?
140 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2017/03/09(木) 11:48:14.47 0
「あれ? もう言っちゃっていいの?」
「……あ」
桃子の反応は、明らかにやってしまった、という雰囲気。
一連のやりとりに、まさか、という気持ちがむくむくと沸き起こる。
「……え……? えっ、ちょ、ちょっとまって? ……は?」
「みや、あの、これは」
焦ったように桃子が両手をわたわたさせるのが見えて、推測は確信へと変わった。
桃子は理由もなしに、誰かを呼び捨てにはしない。
それはつまり、2人の間には元から何かしらつながりがある、ということで。
バラバラだったパズルのピースが、急速にあるべき場所へと収まっていく。
行き着いた結論は、にわかには信じ難いものだった。
けれど、そう考えれば全てのつじつまが合うのもまた事実。
「え……あ……千奈美? 千奈美が、全部……?」
「あはは、そうそう。そーゆーこと」
カラカラと楽しげに笑う千奈美に対して、青ざめていく桃子の顔。
「はあーあ! 本当さ、手が焼けるよ、2人とも」
「手が焼ける……?」
「それ言うなら、世話が焼けるとか、手がかかるだと思うよ」
桃子のつっこみをさらりと受け流し、千奈美はがっちりと肩を組んでくる。
「ところで、夏焼さん」
「何、」
今度は何が飛び出てくるというのか。
顔をしかめかけたところで、差し出された携帯の画面に映る画像に言葉は奪われた。
「ちょっ! なっ……これ、何」
「んー? うちに来たももがぁ、うたた寝してるトコ」
「えっ! や、やだっ! 勝手にそんなのばらまかないでよ!」
「コーカン条件。焼きそばパン1ヶ月分で、どう?」
うろたえながらこちらへと伸びてくる桃子の手を器用に交わし、千奈美がにやりと口角を持ち上げる。
それはさながら悪魔のささやきで、ぐらりと揺れる心を自覚した。
「う、うぅ」
「ちょっと! みやも悩まないでよ!」
冗談冗談、なんて言いながら千奈美が離れていく。
ちょっと欲しかった気もする、なんてことを考えてしまったのは秘密。
「なーんてね。別に、こういうことしに来たわけじゃなくって」
本題だとばかりに、千奈美から差し出される紙袋。
近所の百貨店のロゴマークが入ったそれを受け取ると、かさりと紙の擦れる音がした。
「差し入れ。3人で分けて」
「あり、がと」
じゃあね、と千奈美はあくまで軽いノリで去っていく。
けれど、先ほど明らかになった事実は、消化不良のまま。
141 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2017/03/09(木) 11:49:24.60 0
「あの、さ」
「……はい」
「後で、詳しく聞かせてもらえる?」
「…………はい」
意図せず低くなった声に、桃子が小柄な体をさらに縮める。
「ご、ごめん……怒ってる?」
「怒っては、ないけど」
「ホントに?」
バツが悪そうにしょんぼりとしている桃子に、雅はふっと表情を緩めた。
怒っているわけではないのだ。
ただ、もっと早く言ってくれればよかったのに、と思っただけで。
「もー……ももってば、なんにもわかってない」
「へ? あ、みや?」
さっと周囲を見渡して、雅は桃子の手を引いた。
こうも人が多くては、いつまた邪魔が入るとも知れない。
人目を避けて静かな場所に移動すると、ようやく少し落ち着いた気がした。
向かい合って、桃子の両手を自分の両手に乗せる。
「あ、あの……みや?」
「ん?」
「えっと、あの」
急に連れてこられた空間に、指先から伝わる桃子の戸惑い。
そんな桃子をよそに、雅は静かに息を吐いた。
「……さっきの、どういうこと?」
「さっき」
「最後の。曲、途中の。」
もしかしたら夢だったのではないだろうか。
ともすれば、そんな風に思ってしまうほど、それはほんの一瞬の出来事。
だからこそ、確かめたかった。
視線を向けた先で、桃子の目がふわりと泳ぐ。
「ごめん、その、勢いで」
「ふーん? 謝られるようなこと、されたの? うち」
「そ、それは」
触れ合った指先は、火傷しそうなほど熱い。
「……してないなら、謝んないで」
「ごめ……あ、いや、そうじゃなくて、えっと」
何かを探すように、桃子の視線があちらこちらに彷徨う。
不意に、今だ、と声がしたような気がした。
おずおずと、けれど、まっすぐと、桃子の視線が雅に定められて。
142 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2017/03/09(木) 11:50:24.08 0
「本当に……ももでいいの?」
上目遣いになった桃子の表情に、心臓が大きく跳ねる。
「……ももがいいって、何度も言ってるつもりなんだけど」
その視線をまっすぐに見つめ返して、触れていた手のひらをゆるりと掴んだ。
「ね。返事、聞かせて?」
促すように握る手の力を強めると、桃子が小さく息を吐いたのが分かった。
桃子の呼吸に合わせて、ふわりと上下する丸い肩。
やがて、少しの間を置いて、桃子の口がゆっくりと形を変えた。
——……みーやんが、いい。
言い切った後、きゅっと唇が結ばれるのを見届けて。
お腹の底から噴き出した感情のままに、雅はその華奢な体を強く抱きしめていた。
きゃ、と小さくこぼれた声さえも愛おしくて、逃がしたくなくて、回した腕に力を込める。
頬のあたりに触れる髪の毛から、ふわりと漂う香りはこの上なく甘かった。
特に抵抗されないのを良いことに、どのくらいそうしていただろう。
わずかに桃子が身じろいだのを感じて腕の力を緩めると、腕の中からそっと見上げられた。
「ごめんね、みやの夢……叶えらんなくなっちゃって」
「夢?」
眉を下げながら言われたことがピンとこなくて首を傾げると、さらに言葉が付け足される。
「小学校の時の。幸せなお嫁さんになるって夢」
だが、そう言われても心当たりが全くない。
小学校なんて、遥か昔のことのようで。
「……え、うちそんなこと書いてた?」
「書いてた。しかも漢字間違えてたし」
「げ、マジ?」
マジだよ、と返ってきた言葉の端には笑いがにじんでいて、雅は少しだけ口を尖らせた。
それにしても、よく覚えているものだ。そんな、昔のことを。
いや、まさか。そんなに前から?
「……覚えてて、くれたの」
「え?」
「そんな、前のこと」
本日二度目の、あ、という顔。
それはほとんど肯定されたも同然で、雅は力任せにぐりぐりと桃子の額へ頬を寄せた。
143 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2017/03/09(木) 11:50:43.41 0
「きゃっ。ちょっ、みや?」
「もう……ほんとに、ばか」
入学式の日、忘れられていると知ってどれだけ落ち込んだか桃子に聞かせてやりたい。
本当は覚えているはずだという期待もあったけれど、それさえも今の今まで確証がもてないままで。
だから、許されるなら飛び上がって叫び出したいほどだった。
今は、桃子を離してしまうのが惜しいからしないけれど。
「マジ、めっちゃ凹んだんだから」
「そ、それは……ごめん」
でも、と桃子から柔らかな反撃。
「みやが、ケッコンしたいとか、言うから」
「……言ったような、気もする」
「でも、ももとはできないんだよって言ったの」
「まあ、できないね」
だから、お嫁さんになるという夢も叶えてあげられない。
桃子の思考回路は理解できたけれど、それにしたって忘れたふりまでしなくたっていいじゃないか。
そう思ったけれど、口にはしないでおいた。
桃子は桃子なりに、雅のことを思ってくれていて。
その上での行動だったのだと分かっただけで、今は十分。
それに、と雅は思う。
「確かにケッコンとかは無理かもしんないけど、お嫁さんにはなれるんじゃん?」
「へ? ま、まって、お婿さんとかやだよ、もも」
「ちがうちがう、2人でお嫁さん、なればいーじゃん」
2人でウェディングドレスとか、結構魅力的じゃない?
そう提案すると、桃子は呆れたように顔をくしゃくしゃにした。
みやには敵わないや、なんて。
それは笑顔なのに、どこか泣き出してしまいそうな空気を伴っていた。
「そしたらさ、ほら。うちの夢、叶うよ」
「幸せな、お嫁さん?」
「そ」
そっと抱き寄せて、桃子の体温を頬に触れさせて。
「絶対、幸せになるし。誰に何言われてもカンケーない」
「……それ、逆じゃない?」
逆?って問い返すと、ゆるゆると桃子の腕が背中に回された。
「幸せに、するよ。絶対」
静かだけれど、それは硬くて強い言葉だった。
きっと、2人なら大丈夫。
桃子に抱きしめられて、雅も同じだけの力で抱きしめ返した。
終
とうとう、来てしまった。
いつも暮らしている街から電車で15分。
改札を出てすぐ目に飛び込んできた建物は、予想を上回る大きさだった。
思わず立ち止まって見上げた雅の横を、途切れることなく人が通り過ぎていく。
彼らが皆その建物に吸い込まれていくの目の当たりにして、体の芯がツンと冷たくなったような気がした。
ざわざわと落ち着かない喧騒の中で、ギターケースを背負い直す。
出演者用のチケットを握りしめ、雅も人の流れに乗った。
ホールの規模は800人程度。
出演バンドは15組。1組に与えられる時間は3曲程度。
たった3曲、されど3曲。
その時間で、1人でも多くの人の心を震わせられたら。願うことはそれだけ。
入場待機列の脇を抜けて、出演者用の入口をくぐる。
薄暗い廊下を抜けた先は、独特の高揚感に満ちていた。
椅子や机が雑多に置かれた中で、数人のグループがあちこちにできている。
雅くらいの者もいれば、だいぶ上の親世代の者まで年齢層は様々。
今日のこのステージに向けて、皆それぞれの形で準備を進めてきたのだ。
そう思うと、自然と気分が高まっていくのが分かった。
「みやー、こっちこっち」
声がした方に視線を移すと、愛理が千切れんばかりの勢いで手を振っている。
愛理のそばには、見慣れたケース。桃子もすでに来ているらしい。
「ももは?」
「お手洗いだって」
そっか、と答えて愛理の近くに腰を下ろした。
あと数時間後には、全てが終わっている。
ちらりと伺った時計に、そんな現実を突きつけられたような気がした。
戻ってきた桃子と簡単に最終確認を済ませ、あとは開演を待つのみ。
135 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2017/03/09(木) 11:43:19.07 0
1組、また1組と舞台裏へ消えていき、自分たちの番が回ってきたのはあっという間だった。
仄暗い舞台袖に漂う、落ち着かない空気。
前のバンドの演奏が耳に入ってきて、嫌でも緊張は増していく。
いや、やれることはやってきた。あとは、ステージの上にそれをぶつけるだけ。
「みや、大丈夫?」
「あ……うん」
押し寄せる緊張と闘っているところへ、愛理の声が割り込んできた。
初めて愛理と一緒に演奏をした学園祭でも、こんな風に話しかけられたっけ。
そんな記憶が不意に呼び起こされた。
「……大、丈夫」
「なんか、顔強張ってるけど」
むに、と愛理に右頬を軽くつままれて、自分の頬がやけに冷えていたことを知る。
なんてことを考えていたら、急に左頬にも突っ張るような感触が与えられた。
「ホントだ、ガチガチ」
いたずらっぽい表情で左頬をつまむ桃子にどきりとした後で、いやいや待てよと思い直す。
「ひょ、ひゃえお」
片方ずつの頬を別々の人間に引っ張られているなんて、間抜けにもほどがある。
雅が2人の腕をぐいと引き剥がしたのと、左手が柔らかさにくるまれたのはほとんど同時だった。
「みや、手冷たすぎじゃない?」
自分の左手が桃子によって包まれている、ということを遅れて脳が認識する。
「うわ、え、血回ってる?」
「いやいや、生きてるし」
そんな風にからかわれながら、右手は愛理の手の中へ。
きっと側から見たら奇妙な光景。
けれど、さっきよりは断然マシだろう。
それに、2人があまりに真剣に温めてくれるものだから、しばらくこうしていようと思った。
1人でいる時よりも、こっちの方がずっとしっかり立っていられる。
136 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2017/03/09(木) 11:43:47.18 0
「スタンバイお願いします」
スタッフの声に促され、3人は明るいステージの下へ飛び出した。
その明るさに眩んだ目も、しばらくすると収まって。
それは逆に言えば、客席もはっきりと見えるということで。
——あ、やばい。
こちらに注がれる視線の数を意識した瞬間、喉に閉塞感を覚えた。
さっき2人にもらったはずの温もりが、一瞬にしてどこかへと流れ去っていく。
再び硬直しかけた体に、ふわりと何かが触れた。
「みや」
聞こえるか、聞こえないか、ぎりぎりの声。
けれど、それは確かに雅の耳を通り抜け、体中に染み渡った。
「ごめん、大丈夫」
わずかに首を動かして、唇の動きだけで桃子に伝える。
桃子の表情が微かに緩んで、よかった、と言ったように見えた。
もう大丈夫だ、だって、みんな一緒だから。
用意されたマイクスタンドの前に立ち、静かに呼吸を整える。
ここからは、自分たちの時間。視線は一瞬だけ交わされて、愛理が高々とスティックを掲げるのが見えた。
軽快な音色で、カウントが鳴り響く。
流れ始めた音楽は、乗ってしまえば最後まで降りられないジェットコースターのよう。
盗み見た桃子の横顔は、雅が初めて桃子の歌を聞いたあの時と変わらないまま。
もしくは、それ以上の存在感を示していて。
置いて行かれまいと、雅も思うがままに全身を躍動させた。
名刺代わりの1曲目、少ししっとりとした2曲目、そして勝負の3曲目。
愛理の聴かせるソロが完璧に決まって、つかみはバッチリ。
1番、2番と曲は進み、残すは間奏明けの大サビのみ。
互いが自由に演奏していた間奏の途中、思いがけず桃子の視線に捕らわれた。
きらりと光る瞳に、きゅっと不敵に微笑む唇。
時間の流れが急にゆっくりになったような錯覚に陥って、桃子から目を離せない。
徐々に狭まる2人の距離に、否応なしに鼓動は高まって。
それはあまりに呆気なかった。
瞼を閉じる余裕もないまま。
柔らかすぎる何かが、ほんの一瞬、唇に触れた。
響き渡る桃子の声に、止まっていた時間が動き始める。
どこまでも伸びやかに空気を震わせる声に、躍動する世界。
はっと気がついた雅は、振り落とされないようにとギターを握り直した。
そこから最後までは、全速力で駆け抜ける。
空気に溶けていく、最後の1音。
それを見送って大きく息を吐き出すと、視界が急にはっきりとしたようだった。
拍手のさざめきを、全身に浴びて3人で深々とお辞儀を一度。
ふわふわとした心地で舞台裏にはけると、突然くたりと力が抜けた。
「わっ、みや?!」
2人に抱えられて、派手にこけることだけは免れる。
そのまま床にぺたりと座り込むと、笑いがこみ上げて止まらなくなった。
それにつられてか、桃子と愛理からも笑みがこぼれる。
やった、やりきった。この3人で、音楽をやれてよかった。
138 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2017/03/09(木) 11:46:22.82 0
個性豊かなバンドたちが参加したイベントは、大盛況のうちに幕を閉じた。
充足感に満ちたロビーの片隅で、3人はベンチに腰を落ち着ける。
飲み物を買ってくると桃子が席を立つと、それを見計らっていたように愛理がぽつりとつぶやく。
「……みやとももって、つきあってるの?」
「ぶっ!」
口にしていたスポーツドリンクを吹き出しそうになって、雅は慌てて口を押さえた。
「あっ! いやぁ、どーだろうなー」
「ごまかせてないからね」
こうもばっさりと切り捨てられては、観念するほかない。
タオルで口を拭いながら、雅は言葉を探して。
「まだ、ビミョーなとこ」
「そうなの?」
「返事は、まだっていうか」
「ふぅん」
遠くを見つめながら、そっと愛理が笑うのが分かった。
それが気になって視線を合わせると、すっと目を細められる。
「やっぱみやって、もものことだと弱気だね」
「……そう、かもね」
思えば、最初の頃も同様のことを愛理に言われたような。
こればかりは、簡単に変えられるものでもないらしい。
仕方がない。
弱気にも臆病にもなる。
だって、桃子のことだから。
「ていうか! なんで、その……」
「そんなの、すぐ分かるって」
——だって2人とも、お互いのことしか話さないんだもん。
言い淀んだ雅に対し、愛理ははっきりとそう告げた。
そんなに?と目で問うと、力強く首が縦に振られる。
「それに、今日、」
愛理の言葉に被さって、振動と共に電子音が鳴り響いた。
おっと、と愛理が取り出した携帯の画面には"パパ"の文字が浮かぶ。
「あ、お迎え来てくれたみたい」
言いながら、桃子が消えていった方向を気にする素振りを見せる愛理。
まだ帰ってくる気配はないし、今日の反省会はまた後日集まってやれば良い。
そう促すと、愛理は分かったと荷物を手にして立ち上がる。
じゃあね、と手を振りながら人混みへと愛理が紛れた後で、雅はぐったりとベンチにもたれかかった。
139 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2017/03/09(木) 11:47:41.84 0
愛理の言葉は、後になってじんわりと効果が出てくる薬のようで。
いやいや、恥ずかしすぎるでしょ。
全部もろバレだった、とか。
「ああぁー……」
両手で顔を覆って、声にならない声を漏らす。
愛理を信じるならば、桃子も雅のことばかり話していたことになる。
それはそれで、少しくすぐったくて、嬉しいけれど。
「お待たせ……って、みや?」
思わぬ雅の様子に、桃子は怪訝な表情をしていた。
「何かあった?」
「や、別に」
何気なく、隣に座る桃子。
そういえば、桃子に確かめなければならないことがある。
あの行動の、意図を。
「もも。さっき、うちら——」
「おー、おつかれちゃん」
良いところで遮られて、思わず眉間に皺が寄るのを止められなかった。
「ち、千奈美……」
だが、桃子から漏れ聞こえた音が思いがけぬもので、雅は目を見開いていた。
ももこさん、今、なんて?
140 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2017/03/09(木) 11:48:14.47 0
「あれ? もう言っちゃっていいの?」
「……あ」
桃子の反応は、明らかにやってしまった、という雰囲気。
一連のやりとりに、まさか、という気持ちがむくむくと沸き起こる。
「……え……? えっ、ちょ、ちょっとまって? ……は?」
「みや、あの、これは」
焦ったように桃子が両手をわたわたさせるのが見えて、推測は確信へと変わった。
桃子は理由もなしに、誰かを呼び捨てにはしない。
それはつまり、2人の間には元から何かしらつながりがある、ということで。
バラバラだったパズルのピースが、急速にあるべき場所へと収まっていく。
行き着いた結論は、にわかには信じ難いものだった。
けれど、そう考えれば全てのつじつまが合うのもまた事実。
「え……あ……千奈美? 千奈美が、全部……?」
「あはは、そうそう。そーゆーこと」
カラカラと楽しげに笑う千奈美に対して、青ざめていく桃子の顔。
「はあーあ! 本当さ、手が焼けるよ、2人とも」
「手が焼ける……?」
「それ言うなら、世話が焼けるとか、手がかかるだと思うよ」
桃子のつっこみをさらりと受け流し、千奈美はがっちりと肩を組んでくる。
「ところで、夏焼さん」
「何、」
今度は何が飛び出てくるというのか。
顔をしかめかけたところで、差し出された携帯の画面に映る画像に言葉は奪われた。
「ちょっ! なっ……これ、何」
「んー? うちに来たももがぁ、うたた寝してるトコ」
「えっ! や、やだっ! 勝手にそんなのばらまかないでよ!」
「コーカン条件。焼きそばパン1ヶ月分で、どう?」
うろたえながらこちらへと伸びてくる桃子の手を器用に交わし、千奈美がにやりと口角を持ち上げる。
それはさながら悪魔のささやきで、ぐらりと揺れる心を自覚した。
「う、うぅ」
「ちょっと! みやも悩まないでよ!」
冗談冗談、なんて言いながら千奈美が離れていく。
ちょっと欲しかった気もする、なんてことを考えてしまったのは秘密。
「なーんてね。別に、こういうことしに来たわけじゃなくって」
本題だとばかりに、千奈美から差し出される紙袋。
近所の百貨店のロゴマークが入ったそれを受け取ると、かさりと紙の擦れる音がした。
「差し入れ。3人で分けて」
「あり、がと」
じゃあね、と千奈美はあくまで軽いノリで去っていく。
けれど、先ほど明らかになった事実は、消化不良のまま。
141 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2017/03/09(木) 11:49:24.60 0
「あの、さ」
「……はい」
「後で、詳しく聞かせてもらえる?」
「…………はい」
意図せず低くなった声に、桃子が小柄な体をさらに縮める。
「ご、ごめん……怒ってる?」
「怒っては、ないけど」
「ホントに?」
バツが悪そうにしょんぼりとしている桃子に、雅はふっと表情を緩めた。
怒っているわけではないのだ。
ただ、もっと早く言ってくれればよかったのに、と思っただけで。
「もー……ももってば、なんにもわかってない」
「へ? あ、みや?」
さっと周囲を見渡して、雅は桃子の手を引いた。
こうも人が多くては、いつまた邪魔が入るとも知れない。
人目を避けて静かな場所に移動すると、ようやく少し落ち着いた気がした。
向かい合って、桃子の両手を自分の両手に乗せる。
「あ、あの……みや?」
「ん?」
「えっと、あの」
急に連れてこられた空間に、指先から伝わる桃子の戸惑い。
そんな桃子をよそに、雅は静かに息を吐いた。
「……さっきの、どういうこと?」
「さっき」
「最後の。曲、途中の。」
もしかしたら夢だったのではないだろうか。
ともすれば、そんな風に思ってしまうほど、それはほんの一瞬の出来事。
だからこそ、確かめたかった。
視線を向けた先で、桃子の目がふわりと泳ぐ。
「ごめん、その、勢いで」
「ふーん? 謝られるようなこと、されたの? うち」
「そ、それは」
触れ合った指先は、火傷しそうなほど熱い。
「……してないなら、謝んないで」
「ごめ……あ、いや、そうじゃなくて、えっと」
何かを探すように、桃子の視線があちらこちらに彷徨う。
不意に、今だ、と声がしたような気がした。
おずおずと、けれど、まっすぐと、桃子の視線が雅に定められて。
142 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2017/03/09(木) 11:50:24.08 0
「本当に……ももでいいの?」
上目遣いになった桃子の表情に、心臓が大きく跳ねる。
「……ももがいいって、何度も言ってるつもりなんだけど」
その視線をまっすぐに見つめ返して、触れていた手のひらをゆるりと掴んだ。
「ね。返事、聞かせて?」
促すように握る手の力を強めると、桃子が小さく息を吐いたのが分かった。
桃子の呼吸に合わせて、ふわりと上下する丸い肩。
やがて、少しの間を置いて、桃子の口がゆっくりと形を変えた。
——……みーやんが、いい。
言い切った後、きゅっと唇が結ばれるのを見届けて。
お腹の底から噴き出した感情のままに、雅はその華奢な体を強く抱きしめていた。
きゃ、と小さくこぼれた声さえも愛おしくて、逃がしたくなくて、回した腕に力を込める。
頬のあたりに触れる髪の毛から、ふわりと漂う香りはこの上なく甘かった。
特に抵抗されないのを良いことに、どのくらいそうしていただろう。
わずかに桃子が身じろいだのを感じて腕の力を緩めると、腕の中からそっと見上げられた。
「ごめんね、みやの夢……叶えらんなくなっちゃって」
「夢?」
眉を下げながら言われたことがピンとこなくて首を傾げると、さらに言葉が付け足される。
「小学校の時の。幸せなお嫁さんになるって夢」
だが、そう言われても心当たりが全くない。
小学校なんて、遥か昔のことのようで。
「……え、うちそんなこと書いてた?」
「書いてた。しかも漢字間違えてたし」
「げ、マジ?」
マジだよ、と返ってきた言葉の端には笑いがにじんでいて、雅は少しだけ口を尖らせた。
それにしても、よく覚えているものだ。そんな、昔のことを。
いや、まさか。そんなに前から?
「……覚えてて、くれたの」
「え?」
「そんな、前のこと」
本日二度目の、あ、という顔。
それはほとんど肯定されたも同然で、雅は力任せにぐりぐりと桃子の額へ頬を寄せた。
143 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2017/03/09(木) 11:50:43.41 0
「きゃっ。ちょっ、みや?」
「もう……ほんとに、ばか」
入学式の日、忘れられていると知ってどれだけ落ち込んだか桃子に聞かせてやりたい。
本当は覚えているはずだという期待もあったけれど、それさえも今の今まで確証がもてないままで。
だから、許されるなら飛び上がって叫び出したいほどだった。
今は、桃子を離してしまうのが惜しいからしないけれど。
「マジ、めっちゃ凹んだんだから」
「そ、それは……ごめん」
でも、と桃子から柔らかな反撃。
「みやが、ケッコンしたいとか、言うから」
「……言ったような、気もする」
「でも、ももとはできないんだよって言ったの」
「まあ、できないね」
だから、お嫁さんになるという夢も叶えてあげられない。
桃子の思考回路は理解できたけれど、それにしたって忘れたふりまでしなくたっていいじゃないか。
そう思ったけれど、口にはしないでおいた。
桃子は桃子なりに、雅のことを思ってくれていて。
その上での行動だったのだと分かっただけで、今は十分。
それに、と雅は思う。
「確かにケッコンとかは無理かもしんないけど、お嫁さんにはなれるんじゃん?」
「へ? ま、まって、お婿さんとかやだよ、もも」
「ちがうちがう、2人でお嫁さん、なればいーじゃん」
2人でウェディングドレスとか、結構魅力的じゃない?
そう提案すると、桃子は呆れたように顔をくしゃくしゃにした。
みやには敵わないや、なんて。
それは笑顔なのに、どこか泣き出してしまいそうな空気を伴っていた。
「そしたらさ、ほら。うちの夢、叶うよ」
「幸せな、お嫁さん?」
「そ」
そっと抱き寄せて、桃子の体温を頬に触れさせて。
「絶対、幸せになるし。誰に何言われてもカンケーない」
「……それ、逆じゃない?」
逆?って問い返すと、ゆるゆると桃子の腕が背中に回された。
「幸せに、するよ。絶対」
静かだけれど、それは硬くて強い言葉だった。
きっと、2人なら大丈夫。
桃子に抱きしめられて、雅も同じだけの力で抱きしめ返した。
終
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