まとめ:雅ちゃんがももちの胸を触るセクハラ

549 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2016/11/06(日) 02:50:43.35 0


『本当につれないなぁ、雅は』
「……そういう言い方やめてほしいんだけど」
『別にうまくいってないなら、そんなに気にしなければいいのに!なにより、この距離じゃバレる訳じゃないし。寧ろ、そろそろほかにも目を向けてみる時期じゃないの?』

「……まぁ、それもそうだね。じゃあ次回は付き合うから」


「バイバイ」とやや事務的なトーンで最後の挨拶を交わすと、雅は電話をきった。
昔の友達からの誘い。たまたまお仕事で神戸に来て、ちょうどそこに遊びに来ていた女友達に、ナンパついでの飲み会に雅も来ないかと誘われた。

いわゆる合コンである。
別に彼女が嫌いだとかそういった理由からではなく、世間的な常識で彼女からの誘いを断り続けてもう何度目になるだろうか。まぁ、常識とかいう前にそういう場所は好きじゃないんだけど、と雅は小さく溜息をつく。

合コンなんて、過去に何度か騙されて行ったけれど何ひとつ楽しいことなんてなかった。
勿論、日頃お世話になっている友達の顔をたててやりたいと思ったりもするし、20歳を越えた今では、社会人として良好な人間関係を築くためにも酒の場というのがとても重要であることもわかっている。
だかしかし、それでも雅が誘いを断るのは、そして周りがそれを渋々でも了承するのは、それなりの理由があるからである。


ーー夏焼雅には恋人がいる。


550 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2016/11/06(日) 02:55:17.68 0


合コンとは恋人がいる自分が行くべきところではないことを、雅は重々心得ていた。
別段、恋愛に対して生真面目とかそういうわけではないけれど、恋人がいるのであれば、なるべくそういったところへは行くべきではないと思っている。
世間一般の大多数と同じように、なんとなくそれが常識だと思っていた。
なので、雅の中ではただ当たり前のことを当たり前にしているだけなのだが。

周りから見ると自分は恋愛に対してかなり自由に見えるらしい。
恋人がいること、ましてや相手のために自分の行動を制限するようには思えないと、合コンやその類いの誘いを断るたびに毎度毎度しつこいくらいに目を丸くされるのだった。
何度も繰り返されるその反応は、雅にとっては不快でならなかった。
こういえば更に目を丸くされるのかも知れないけれど、それでも断り続けるほどに、自分は恋人を想っているのである。

しかし、それは少し前の話である。
実のところ、ここ最近の自分の置かれている状況は、律儀にその常識を守るに値するのかどうか、雅には判断がつかないでいるのだった。


先ほど役目を終えたばかりの携帯端末の画面をスクロールすれば、恋人からの着信履歴は約一ヶ月程前の日付を表示していた。
連絡をとらなくなって一ヶ月、直接会ったのは更にその一ヶ月程前。
そんな関係になった今でも恋人と呼んでいいのかな……と疑問が浮かぶ。
少しの間、携帯の画面とにらめっこをしてみるが、いつまでたっても発信する気にもなれず、雅はソファへと携帯を放り投げた。

時刻は10時過ぎ。
今日もまた、着信履歴と同様に、発信履歴にも嗣永桃子の名前は刻まれることはなく終わりを迎えようとしていた。


552 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2016/11/06(日) 03:01:23.53 0


キッズオーディションで桃子と出会ってから13年、お互い高校生の時に想いが通じあってからはもうすぐ7年の月日が過ぎようとしていた。
Berryz工房が活動停止後、桃子はカントリー・ガールズでアイドルを続ける道を選び、雅は同じく新しいグループで歌を歌い続ける道を選択した。

初めは新しいグループが決まるのかどうかわからないドキドキや、違う道を進んで順風満帆なメンバーを見て焦ったりもした。
今思えば、なんて保障のない道を選んだのだろうと、自分でもたまーに呆れちゃったりもする。たまにね。
それでも、今ではグループのPINK CRES.も少しずつ軌道に乗りはじめて、雅はまたグループとしての活動というものにやり甲斐を覚え始めていた。

PINK CRES.を結成する前までは、恋人と一緒にいれる時間が少なくなる現実に、一度は別の道も考えた。
けれど、「みやがやりたいことやりなよ!忙しくても桃たちなら大丈夫!」と桃子は何でもない様に笑った。その時の桃子の自信に満ち溢れた瞳は今でも忘れることはできない。
その瞳をみて、あぁみやたちは大丈夫だと確信して、雅は新しいグループで頑張る決意をした。

そうして、なんともまぁあっさりとお互い別々のグループでの活動が始まった。


そんな話をした帰りの電車、駅のホームでアナウンスが流れる中、自分を乗せた新幹線はガタリ、ガタリと徐々にスピードを上げる。ホームに残る恋人は満面の笑みで、跳びはねながらこちらの方へぶんぶんと大きく手を振る。
その子供っぽさにクスリと笑って、窓辺から小さく手を振り返す。
ドラマなんかじゃ切なげに取り交わされる別れのシーンもすらそんな風に呆気なく終わったのは、雅も桃子も信じていたから。

そう、あの時は微塵も疑うことなく、二人なら大丈夫だ、と確かにそう信じていたのに。



互いが自分の目標へと一歩一歩近づくにつれて、無常にも二人の心の距離は離れていった。
些細なことでケンカをして、忙しい時間が仲直りを遅らせる。
そんなことを繰り返して積もりに積もったものはついに、大きなズレとなった。最後のケンカの理由は本当にどうでもいいようなことだったような気がする。今はもう、思い出すことさえもできないくらいに。



555 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2016/11/06(日) 03:07:19.07 0


忙しさを理由にあやふやにしていた恋人との関係に頭を悩ませながら、雅はソファに凭れたまま天井を仰いだ。

(そろそろ、どうにかしなきゃなー……)

チカチカ光る蛍光灯の光に目を細めながら、どうしたものかと途方にくれる。
正直、寂しいだとか別れたくないだとかそんな風には思えなかった。
だからといって嫌いになったとか、どうしても別れたいわけでもない。

桃子がいない生活に慣れてしまった今、桃子とどうしたいかなんて、もう、自分でも分からなくなってしまっていた。
だが、そろそろ決着をつけるべきなのもわかっている。
夢へと向かって走る桃のためにも、自分のためにも、無駄にできる時間なんてこれっぽっちもないのだから。
現に、放り投げられたままの携帯電話は恋人の名前を映しだすことはない。
桃子だって忙しいんだ。少なくとも、自分との中途半端な恋愛に、現を抜かしている暇はないほどに。

(でも別れ話……面倒くさいしなぁ。あと、フリーになったら、誘いを断れなくなるのもヤダ。)

フリーになんてなろうものなら、ここぞとばかりに旧友から合コンの誘いが来るだろう。その想像だけで、雅は肩が重くなる気がした。やっぱり、形だけでも恋人はいたほうが都合はいいんだけど……
それでは桃子に失礼だし、かといって適当に恋人を作るのもそれこそ面倒だ。気の知れた桃子だからこそ、こうやって気兼ねなく仕事に打ち込むことができるのだから。新しい恋人になんやかんや言われるのは目に見えている。

ぐるぐると堂々巡りの思考をそのままに、雅は立ち上がりキッチンへと向かった。気分転換にコーヒーでも飲めば何かがひらけるかもしれない。
……なんてそんな都合のいい話はないのはわかっているのだけれど。


559 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2016/11/06(日) 03:11:09.56 0


湯気がゆれるマグカップを片手に、雅は再度ソファへと腰を下ろした。
多めのミルクと少しの砂糖の入ったコーヒーをスプーンでくるくるとかき混ぜながら、もう一度自分の気持ちを整理する。

そういえば、最後に電話をした時はツアーが始まるとか言っていた気がする。もうそろそろ終わってオフも増えてきている頃だろうか。
カントリー・ガールズは桃子が引っ張る有能な子たちが多いグループ。そのうち今よりももっと忙しくなる。
そうなれば、余計自分とのこの関係は足枷になるんじゃないだろうか。
少なくともプラスにはならない……と思う。

(やっぱり別れたほうがお互いのためか……)

カチャカチャとスプーンでカップを鳴らしながら雅は決意をした。
はずだったが、電話で話を済ませるか、礼儀として会って話すべきかを考えたらやっぱり気が重くなってくる。

はっきりしない。イライラする。

そんな感情が指先にまで伝わって、カップを混ぜる手つきすら乱暴になってくる。
すると、くるくると余計なほどかき混ぜたコーヒーは波打ってマグカップから零れ落ち、雅の手を濡らした。

「熱っ!!」と小さく声をあげると、雅は瞬時に手を引いた。
空中に置き去りにされたマグカップは、そのまま下へ転げ落ちてゴトッと鈍い音をたてるとホテルのフローリングがじわじわと茶色く染まっていく。

「あー、もうサイアク……」

そう独り言を零して小さく舌打ちをすると、雅は転がるマグカップに手を伸ばす。
ぐるぐると考えるのに夢中になってかき混ぜすぎた。こんなドジするなんて、桃じゃあるまいし……

次の瞬間、雅は自分のとった行動にはっとして、拾い上げようとする手をカップの数センチ手前で止めた。
ぐるぐると考え込むと、暇になった手を遊ばせるように、余計に飲み物をかき混ぜる。
それは紛れもなく、桃子の癖だった。


562 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2016/11/06(日) 03:15:07.79 0



どちらかといえば、桃子は思ったことはすぐ口にするタイプなのだが、どうにも自分では答えを出せない時、またうまく言葉に出来ない時に桃子は手を遊ばせる癖があった。
そして、そういう時に雅は必ず桃子に飲み物を出してやる。夏には冷たいレモネードやソーダ、冬には温かいココアやミルクたっぷりのカフェオレ。

珍しく悩む彼女の、少しでも手助けになればと思って……

そして、それらに必ず添えられるストローやティースプーンは本人のように落ち着きのない桃子の小さな手にはうってつけだったようで。
何かを思い悩む度、その思考回路を表すかのように、その手はくるくると水面に渦をつくるのだった。

知らない間に桃子の癖がうつっていた。そんな事実に雅の顔には困ったような、どこか悲しげな苦笑いが浮かぶ。
それだけ、一緒に居たのだと痛いほどに実感する。


渋々、布巾で床を擦りながら、そういえば、色んな事があったなと自分たちの今までを久しぶりに思い返してみる。
二人で旅行にハマった時があった。
オフの合間を見つけて、いろいろなところを巡った。
どこにいっても桃子は子供のように大袈裟に騒ぐものだから本当に恥ずかしかったけど、その喜ぶ顔が見たくて段取りは念入りにしてたっけな。

それだけじゃなく、唐突に「桃もみやに何かしてあげる!」なんて言い出して、桃子がお菓子作りに没頭した時もあった。
桃子の作る、お菓子とは到底思えない代物を毎日毎日食すのは、今思えば罰ゲームだった……
初めて上手く出来た時は、二人でうるさい位に盛り上がって……その後、クリームまみれにして桃までおいしくいただいたんだよねー……うん、あの頃は本当に若かったわ……

家事はできないくせに、なんだかんだ仕事は器用になんでもこなすんだよね。本当、桃子の頭の中はどういう造りをしているのか検討もつかない。
ハマるとしつこいから、もうお菓子作りも大分上達したけど。
お菓子作りのついでに、コーヒー淹れるのも上手くなったんだよね……

走馬灯のように回り流れる思い出たちに囲まれて、雅はふと、単調に動かしていた手を止める。



566 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2016/11/06(日) 03:19:19.66 0


(そういえば、最後に会った時はずっとカップをかき混ぜてた……)

最後に会った二ヶ月程前。二人で過ごす時間さえも仕事の電話をして、徹夜明けだからと禄に会話もしないでうとうとする雅に、「みやも頑張ってるんだねぇ」って桃子はなんでもない様に笑って言っていた。

――くるくるとカップをかき回す手は止まらずに。



汚れたフローリングもマグカップもそのままに、雅は唐突に立ち上がった。鍵と財布をポケットへと突っ込んで、かけてある上着を乱暴に取り去る。
ドアノブに手をかけたあたりで、チッ、と下打ちをすると、もう一度部屋へ戻り、放り投げられていた携帯を拾い上げて雅は全速力で部屋を飛び出した。




冬の空気がチクチクと刺すように頬を冷やしては通り過ぎていく。
ホテルから出てすぐに、運良く道路を走るタクシーへと向かって腕を大きく上げた。

タクシーは雅の前で音もなくスッと止まると、勝手に入れとでも言うようにドアが自動で開かれる。車内からは暖房で温められた空気が勿体無い位に外へと漏れ出してくる。
どうしてタクシーというものは、無駄に冷暖房を効かせるのだろう?
逆に居心地の悪くなる温度に対して、雅は毎回憂鬱な気分を持ち合わせていた。

しかし、今ばかりはそんな事を感じる余裕もないほどに、雅の頭はただひとりの人でいっぱいになっていた。




「どこまでですか?」
「東京まで!!」



574 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2016/11/06(日) 03:27:41.53



クラクラしそうなほどに暖房の効いた車内の空気を大きく吸い込んで、雅ははぁ、と重い息を吐いた。
袖を通すことなく手にしたままだった上着を脇へと置くと、俯いたまま視線だけをあげて自分ではないもう一人の人物の表情を覗こうと試みる。
だが、ただただ前を向いて、おそらく誠実に仕事に取り組んでいるのであろう運転手の表情は、深く被ったタクシー運転手お馴染の帽子のせいで窺い見ることはできなかった。

狭い狭い車内には、なんとも言えない、沈黙と緊迫した空気が充満していた。
ラジオからは、ノイズ混じりの途切れ途切れの会話が聞こえてきては、この空気を緩和するでもなく無意味に垂れ流されている。
漸く、外の気温と同じ様に冷えてきた頭で雅は今の状況をゆっくりかみしめて、渋顔を浮かべた。

(気まずい……)

こんな夜中にいきなり東京までとか……たぶん、家族が危篤だとかそんな風に思われてるに違いない。
運転手の後ろ姿からは今の雅にとって余計となっている気遣いが、嫌というほどに滲みてていた。

気を紛らわそうと窓の外へ目をやれば、猛スピードで流れ去る風景はただ真っ暗な闇が広がるだけで何も面白みがなかった。
町の明かりはぽつぽつと幾つかが光るだけで、他の全てはタクシーのスピードに吹き消されてしまったかの様だった。


まぁしかし、普通ならば誰もがそう思うであろう。こんな真夜中に人の命が懸かっている程の用事でもなければ、何時間かかるかもわからないこの距離を人様に運転させる人などそうはいない。
しかし、事の真相はそんな大層なものではなく……
これからの長い長い道中を想像すると、雅のお世辞にもあまり多くはない良心がチクリと傷んだ。



575 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2016/11/06(日) 03:32:02.26 0



「…あの、別に急いではいないんで、ゆっくり行ってもらって大丈夫ですから」
「あっ、そうなんですか? なんだ、お嬢ちゃんめっちゃ焦ってたから、家族が危篤なんかと思いましたよ!」

「いやぁ、変に気ぃ遣ったわ!」と運転手は肩の力を抜くと当時に大きく笑った。唐突にうち破られた空気に驚いて、雅は眉間にしわを寄せた。
少しでも気をつかわないでくれたらと、少しの罪滅ぼしの意味も含めて声をかければ、予想の斜め上をいく反応がかえされ、即座に雅の脳裏には良くない疑惑が浮上した。
この感じは、どうも自分の苦手とする部類の人間な気がする…そんな嫌な予感は顕著に雅の顔に嫌悪の色を浮かべた。

「大丈夫、大丈夫、そんな顔しなくても変に理由探ったりしませんから!」

白い手袋をつけた手を雅に見せるようにひらひらと振ると、またしても運転手はわはは、と笑った。
どうせ見えないからと油断をしていたが、雅の表情はばっちりバックミラーに映っていたようで、予想外の指摘に雅はギクッとした。
慌てて「あぁ、はい」と素っ気のない返事を返す。そして、直ぐ様、誰にも気づかれない様に心の中で盛大に舌打ちをした。

馴れ馴れしすぎるでしょ……
ペラペラと運転手の口から次々に生まれるタメ口のような敬語に急激に不安が募っていく。

「すいません、こんな夜中に無理いって……」
「あー、いいのいいの!気にしないで!おっちゃん、運転好きだから」

出来る限り取り繕って社交辞令を言えば、敬語なんて何処へやら、まるで知人同士のような返答が返ってくる。



578 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2016/11/06(日) 03:35:10.00 0


(何こいつ、どんどん馴れ馴れしくなっていくんだけど)

変なヤツに当たってしまった、と雅は自分の運の無さを嘆いた。なんだか中学時代から、妙なヤツに纏わりつかれることが多い。
なんていうかこう、人のスペースに遠慮するでもなくズカズカと入ってくるというか、距離感がゼロというか……
次々と歴代の距離感が掴めないやつらの顔が思い浮かんでは消えていく。

顔に出さないように雅はげんなりとしたあとに口の隅だけで小さく笑った。
そんな妙な縁が、自分の礎になっているのは確かなのだけれど。

とにもかくにも、小学生の頃から今に至るまで、変人に囲まれて生活をしてきたのだ、別に今更どうこう慌てる事もない。適当に流して、ほっとけばいいのだ。
雅は慣れたように早々にこの状況に諦めをつけて、シートへと凭れかかる。
よく考えれば初めからわかっていたことなのだ。いきなり夜中に東京までと言われて、何も言わずに乗せてくれるやつなんて、普通なわけがない。

「まぁ、若い時は夜中に突然遠くに行きたくなるときあるよなぁ!わかるよ!あるある!あっ、お菓子食べる?」
「はぁ…」

「食べろ食べろ!」と前を向いたまま差し出されたピンクの包みを「…どうも」と流されるままに受け取る。
小さなリボンで可愛らしく結ばれた包みが、雅の手の中でカサっと音をたてる。おそらく、クッキーか何かだろうか。

「これな、娘の手作り!ガキの作ったもんだから、味は保証しないけどな!カワイイからなんでも許せちゃう!」

味が保証できないものを、他人に渡すなよ。
勢いに流されて受け取ったことを、雅はひどく後悔した。なんともまぁ、人を巻き込むのが上手い人だ。
無視してほっておく予定が、いつの間にか相手のペースに巻き込まれている。今はそれが腹立たしい、実に、腹立たしい。


582 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2016/11/06(日) 03:39:14.51 0



「娘はいいぞ〜!かわいい!目に入れても痛くないって本当だぞ! まぁ、お嬢ちゃんもいずれわかるさ…」

猛スピードで走る車と同じ様に、思い込みで突っ走り喋りまくるオッサン。
タクシーとおっさんのふたつのスピードが相まって、雅は目眩を覚えた。頭が痛い気がする……これがあと何時間続くワケ……
おっさんの話にどんどんと目眩が酷くなっていく気がして瞼を伏せれば、今まさに雅が東京にいく理由となっている人物の顔が浮かんでくる。

すごく、すごく嫌なんだけれど、このおっさんの思い込みが激しいところと、すぐに人を巻き込むところ、ちょっと桃に似てるな……と思った。
本当にちょっとだけ!あたしの恋人はこんなに図々しくないし、もっと可愛げがある!
でも、桃も年をとったらこんな風になるのかな……何それ、スッゴク嫌なんだけど……

今より幾分か歳を重ねて、大人になった自分達。
もう、立派な大人なはずなのに相変わらずに突っ走る桃とそれを制止しながらも悪ふざけでそれに乗っかる自分が思い浮かんで、雅はくすりと笑った。

(そんな風なのも、悪くないなぁ)

そう結論づけた後、雅の胸にひとつの不安が過った。
ポケットの中で、いつまでも鳴らない携帯電話。その無機質な硬い端末が、雅の心に硬いしこりをつくる。

(桃はどう思ってるんだろ……)

連絡もない二か月間、桃子は何を思って過ごしているのだろう。いつもなら遅くても一週間後位には桃子から仲直りの電話がくるのに、今回はもう1ヶ月にもなる。まだ、怒っているのだろうか?
まさか、もう自分のことなんて、どうでもよくなっていたりして……



喉がひゅっ、と鳴って、息が詰まる感じがした。
血の気が引いていくのがわかる。絶望的な冷たさが、雅の体をゆっくりと這い上がる。頭も心も、じわじわと冷えていく。
そうだ、なんで気が付かなかったのだろう。

こんなあからさまに目の前に叩きつけられている現実が、どうして見えなかったのだろう。
それ程まで、自分は桃子を思いやることを、彼女の事を考えることを、忘れていたのか。
繋がらない二人の二ヶ月間が作り出す、大きな可能性。


桃がいなくなるかもしれない――



585 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2016/11/06(日) 03:44:34.75 0


さっきまで、自分から別れを考えていたにもかかわらず、突如リアルになったその可能性により、目の前に果てしない暗闇が広がっていく。
そしてそうなって初めて、自分の言う“別れる”なんて、そんなの本気ではなかったことに気がつく。
雅の中にあった別れとは、現状に慣れただけの、ただ我儘だった。

しかし、今、ほんとうに桃子がいなくなるかもしれない。
首元に手をかけられる状態になって初めて、その事の意味を思い知る。

頭に浮かんでくる最悪の結末を打ち消すために、別れることのない可能性を探して雅は必死に頭をフル回転させた。
しかし、幾ら考えようとも雅の頭は望む結末をはじきだすことはなかった。


ここ最近の自分といえば、自分から電話もしなければ、会いにいくこともしない。恋人と向かい合うことも忘れて仕事に明け暮れて、桃子の出している助けてのサインに気が付かなかった。
そして、それでもただただ笑って隣に居てくれる桃を当たり前に思い、毎日を過ごす。

そんなやつと、付き合っていたいって誰が思うのかな?
そんなやつを、誰がいつまでも好きでいてくれるんだろ?


タイムマシーンがあるのなら、桃に甘えて好き勝手して、そうさせてくれることに慣れていた自分を力いっぱい殴ってやりたい。
そんな現実には到底あり得ない事にすがるしか、桃子と自分の未来を紡ぐ可能性を見出だすことはできなかった。

馬鹿だ、ホントに、あたしはバカだ。




桃がくれる幸せに

何、甘えてんだよ








「―――で、そこでうちの女房が、ってお嬢ちゃん聞いてるか?」

バックミラーをちらっと覗きこんで、すぐに運転手は前を向いた。ラジオではテンション高々だったパーソナリティが、打って変わって少し落ち着いた声で曲紹介を始めていた。
女の子に人気のこの曲です、と流れてきたのは、手に余るほどの幸せをどこか切なく歌ったバラードソング。
相手を痛いほど想うその言葉たちはそれはどこか、雅の過ちを叱咤するかのようだった。

しかし、運転手も、勿論雅だって、そんな曲は知らないし、言葉は一つとして雅の耳には届かないのだけど。

「あるある、そういう時もある!」

それだけ言って、運転手はラジオのボリュームを上げた。
車内に流れるラブソングに雅の小さな声がかき消されていく。
下を向いて雅は両手を握りしめた。涙は手で受け止めきれなくなるほどに溢れて、頬や膝に雨のように降り注いでいた。



588 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2016/11/06(日) 03:47:48.77 0





(……どうしよう)

東の空が薄っすらと色づき始める。気がつけば街灯はひとつ、ふたつと消えて、それに代わるように誰もが待ち望む太陽の足音が近づいてくる。
日が昇る時間帯というのは一日のうちに一番冷え込むらしく、これでもかという寒さが町全体を包む。
冷たく乾いた大気は朝の始まる様々な音を遠くまで響かせるが、それは反対に早朝の静寂さを一層引き立てているようだった。

いつもならば、布団を名残惜しく思いながら目覚まし時計を止めるその頃、雅は桃子の家のドアの前に立ち尽くして、朝を迎えてからもう何度目かのため息を吐いた。
あたたかい息は雅の口から吐き出されると白く色付き、そして溶けるように寒さの中に消えていった。

(電話……しよっかな……)

そう思って携帯の画面を覗けば、画面の右上には6%という、たよりのない数字が警告するように赤く表示されていた。
予想外の小さな数字にたじろぐと、何もすることなくまたポケットへと戻す。
桃が出る前に電池がなくなるかもしれないし…と言い訳をしては、あと一歩踏み出せない理由があることに、正直胸を撫で下ろした。
いつまでも、こうしてここに突っ立っていてもしょうがないことは、頭ではわかっているけれど。

少し前なら、恋人に会える喜びを抱えて、そして当たり前のように開けていたドアが、今では自分と恋人の距離を固く固く隔てている。
今では他人の部屋のものに見える分厚い扉が、触ってもいないのにどっしりと重く感じた。

――もし、もうすでにあたしは桃に必要とされていなかったら。


そんな最悪の想像が雅の足を、手を、冬の寒さの中に縫いつける。爪の跡が残るほどに握りしめた手のひらには、この寒さにも関わらずじわり、と汗が滲んでいた。
桃子の手が恋しかった。寒くなった雅の手を、いつも握って暖めてくれる桃子の小さい手が……



590 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2016/11/06(日) 03:53:06.29 0


消えかけそうな勇気を奮い立たせようと、下唇を噛みしめた。
次の瞬間、突然開いた鉄のドアが勢い良く雅の頭へぶつかってきて、雅は早朝なのも忘れて「イタッ!!」と大きな声をあげた。
すると、扉の内側から「ぇえ!!?」と、ぶつけられた雅よりも、より一層驚いた大きな声が聞こえてくる。


「みっ、みや!?」

頭を抑える雅を覗き込みながら、桃子は目を大きくした。ゆっくりと額を擦りながら、雅はその顔を瞳に映す。
二ヶ月ぶりに見るの恋人の顔は、まるで妖怪でも見たかのように驚いた表情だった。

「……な、何でここにいるの?」
「……なんでって」

そこまで言って雅は一度開いた口を閉じた。何故だか、言葉がみつからない。
ここにいる理由が、まるで言葉を何処かに忘れてきてしまった様に、どうしてもうまく声にできない。
そんな雅の様子を見て、桃子が別の質問を投げかける。

「えっーと、いつからいたの?」
「……今来たばっかりだよ。神戸からここまでは、タクシーで来た」
「えっ!?神戸から!!?」

ほんとは、もうここに立ち尽くして30分ほどは経つんだけど……雅は小さな嘘をついた。
目の前の桃子は真実を言おうがものならば、驚き、慌てふためき、今より更に大声をあげることは明確だから。
まだ、眠りについているかも知れない近所の人々と、桃のためにも我ながら的確な対処だと思う。

595 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2016/11/06(日) 03:57:34.01 0

「うそ……いくらかかったの?」
「怖いから金額聞いてない」
「ひぇぇ……」

明らかにされない、恐らく途方もないのであろう金額を想像して桃子は顔を青くした。当の雅も、運転手から金額を告げられる前に「カードで」と、クレジットカードを差し出して、現実から目を背けたのだった。
いつもは事務所に領収書を請求できるため、何も考えずにタクシーに乗り込んでしまった。
後で、明細確認しておかないと……と雅は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。

「って、唇真っ青だよみや!何してんのもう!」

「早く入りなよ」と桃子に手をひかれて、されるがままに部屋へと足を進める。
何十分と入ることを躊躇した室内は、夜が明けたばかりとは思えない程に、柔らかい陽だまりの匂いで満たされていた。
たちまち全身を桃子の匂いに包まれて、雅は目頭がツンとする感覚を覚えた。懐かしい匂いが鼻を掠めて、切なさが胸を占める。

数カ月ぶりの恋人の部屋。


「勝手に入ればいいのに……合い鍵忘れちゃったの?」
「いや、持ってるけど……」

重いドアがガチャンと音をたててゆっくりと閉まると、玄関の中程で雅は足を止めた。


「入って、いいの?」


そう一言、口から零れ落ちるように言葉を吐いて、まるで全身の力が奪われたかのように、雅はその場にしゃがみこんだ。


596 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2016/11/06(日) 04:00:47.05 0


「みやどうしたの?具合悪いの?」
「…てたら、どうしようって」
「えっ?」
しゃがんで俯いたまま話す声はくぐもっていて、桃子にはあと少し届かない。
すがるように繋がれた手を強くぎゅっと握ると、雅は掠れた声でもう一度言葉を紡いだ。

「きらわれてたら、どうしようって思って」
ただ、桃に会いたくなった。

どうしようもなく、会いたくて衝動のままにタクシーに飛び乗って、夜も越えて会いにきた。

それなのに、それを拒まれたらと思うと怖くて、ドアを開けたらあたしのいない時間が当たり前にそこにあったらと思うと怖くて、正直な気持ちを言葉にすることが出来なかった。

だけど桃子は当たり前のように手をとり、招き入れてくれた。

大丈夫だよと、ここはみやの居場所だよと、示してくれるように。


「……きらいになるわけないでしょ?」
「……うん」

雅の中の真っ暗な絶望的な想像は、朝を迎えると共に夜の彼方へ消えていった。
心底安心した雅の口から正直な気持ちがポロポロと零れる。
それを優しく受け止めるかのように、桃子はしゃがみこんで雅の冷えた手をそっと包む。するとようやく雅も顔をあげると、伺うような視線が交差した。


599 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2016/11/06(日) 04:05:15.55 0

二人の間に、穏やかな、そして少しどこか緊張の入り交じった沈黙が流れる。

数ヵ月ぶりの恋人の真っ直ぐの視線というのはなんだか照れくさい。
気恥ずかしさを紛らわすように桃子が雅の指で遊べば、雅の長い指は甘えるように桃子の手のひらに擦りよってくる。

あぁ、やっぱり好きだなぁ、と思った。

それなのに、なんでこんなにも長い時間離れていたのだろうと思うと、雅の心が、桃子の心が、同じようにぎゅうっとしめつけられる。

「みぇ、みや!ももね、」
「謝んないで!」

雅は冷たい手で小さな愛らしい口を塞ぐと、桃子の言葉を遮った。突然声の行き場を失って、桃子が「ふぐっ!?」と小さな悲鳴をあげる。
桃子が何を言おうとしてるのかがすぐにわかった。だって、雅も同じことを言おうとしてたからーー

「桃が謝ることないから。悪いのはみやだから」

今回ばかりは、全ての非は自分にある。それを桃子に許してもらって、挙げ句の果てに謝まってもらうなんて、そんなカッコワルくて甘ったれたマネはしたくない。
大切な人をもう二度と見失わないように、この間違いをしっかりとこの胸に刻みつけたい。

「自分のことしか考えてなかった。ごめん」

声を出すことを封じられたままの桃子が、ふるふると大きく頭を振る。
声が出せない分を目一杯ジェスチャーで表そうとする姿は何とも可愛らしくて、真剣にけじめを着けたいと思っているのに、ついついほだされそうになる。
抱きしめたい衝動を抑えて、雅は一度目をつぶるとゆっくりとまぶたをあげて、桃子を見据える。


「ホントごめん」


真剣な、全く揺らぐことのないその瞳は、短いその台詞が雅の心の底からの言葉であることを、これでもかと言うほど伝えていた。



601 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2016/11/06(日) 04:11:57.65 0



飾らない真っ直ぐな言葉は桃子の瞳に少量の雫を溜め込む。

「…ほんふぉうは、」

そっと手をどけてやると、「ぷはぁっ!」と一息ついで、桃子は雅の手を握る両手に力を込める。

「ほんとは、桃もすぐに電話してあやまろうっておもったの」
「そうなの?」
「でも、しつこくしてみやに、嫌われたらどうしようっておもったら、電話しにくくなっちゃって……桃のほうこそ、ごめんね」

桃の言葉に、雅がキョトンとする。

「何それ……遠慮するとか、桃らしくない」
「だって、しつこいと嫌われるって言われたから……」
「誰に?」

「千奈美に……」

は? なんでそこで千奈美の名前がでてくんの。
そういえば「千奈美とテレビ電話で連絡とってるんだー」なんて、前に暖か時に桃子が言っていた事を思い出す。自分達がすれ違っている時に、なんてタイミングの悪い配役だろう。

なんだか急に頭痛がした気がして雅はこめかみを押さえた。

「別に、桃がしつこいなんて前からだし! 今更そんなことで嫌いにならないから!」
「うっ」
「ってかむしろ、こういう時こそ思ってることとか、みやに文句とか言っていいから! いつもは人のことお構いなしになんだって喋るのに、変なところで無口にならないでよ」
「ご、ごめん」

眉を八の字に下げて、子供が親に叱られるように桃子がしょんぼりとすれば、しまった……結局二度も謝らせてしまった、と雅は自分の幼稚さに項垂れた。
そんな事を言わせたい訳じゃないのに、いつもなぜか本心と違うことを言ってしまう自分がホント、嫌になる。

こういうとき、桃子のほうが大人なんだと実感する。悔しいから、絶対に口には出さないけど。


625 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2016/11/06(日) 05:30:29.51 0


「でも、よかったぁ」

桃子はほぅ、と心底安心したように息を吐いた。
まるで蓄積した不安や寂しさを吐き出すかのように温かい息を吐いた後、桃子は柔らかく目を細めた。

「このまま、みやとダメになったらどうしようって思ってた」
「……あたしも」

えへへと照れくさそうに笑う桃子。
そういえば、気の抜けきった顔を見たのも随分と久しぶりな気がした。
そう気づいた瞬間、胸がぎゅっと苦しくなった。


今回の事で、わかったことがある。

先なんて、どうなるのかわからないということ。

少し先の未来さえ、どう変わっていくかわからない。いくら互いが想い合っていても、喧嘩をして、すれ違って、傷つけることも何度だってあるだろう。


だけど、あんな想いだけはもう二度としたくない。

桃を失うなんて、そんな怖い思いはもう懲り懲りだ。
だから何度間違えようとも、必ずここへ戻って来れるような、そんな目印が欲しい。

喧嘩したっていい、すれ違ったっていい、傷つけられたっていい。



「もも、」

「ん?」



それでも、桃と、一緒にいたいから。





「結婚しよ」


627 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2016/11/06(日) 05:35:23.33 0



突然の言葉に、桃子は唖然とした表情を浮かべた。

想像もしてないまさかの言葉に、自分の耳がおかしくなったのかと疑う。
しかし、ドア1枚向こう側からは、朝が始まって漸く動き始めた世界の音が聞こえてくる。どうやら、耳が悪くなったわけではないらしい。
自分を見つめる雅の一点の曇りもないその瞳をみれば、からかわれているわけでも、ふざけているわけでもないことがよくわかる。

そして、桃子は何処か悲しげに、困ったように笑った。

「みやぁ、桃たち女の子同士だよ?」
「……言っておくけど、法律的にはできないことぐらい知ってるからね!」

なら、と続けようとした桃子の言葉を遮る。

「……でもそれ以外の、出来ること全部すればいいじゃん。親に挨拶して、挙式あげて、新婚旅行もいこうよ。桃がしたいなら披露宴もしたっていいし」

しゃみこんだまま、桃子の方へと半歩だけ歩み寄れば、真剣な空気に水を指すかのように上着のポケットからガサッと音がする。
すっかり忘れていた旅の土産を思い出して、雅はゆっくりとそれをポケットから取り出す。
真っ赤なリボンを解けば、まあるい可愛らしいクッキーがコロコロと包み紙の上を楽しげに転がる。



630 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2016/11/06(日) 05:40:35.06 0



「クッキー?」と桃子が不思議そうに顔をかしげるのをよそに、そっとそれを脇へと置いて今度は雅が両手で桃子の片手をとる。

赤いリボンが桃子の左手の指の周りで4、5回くるくると円を描いていく。
きゅっ、と小さく布擦れの音をたてると、桃子の左薬指は蝶々結びで飾られた。

「はい。これで桃はみやのもの」

きょとんと目を丸くした後、桃子は自分の指に止まる可愛らしい蝶々を高く掲げて、それを見上げた。

ゆらゆらと、蝶が舞う。
赤い羽根は小さく揺れて、二人の元へと一足早く訪れた春を知らせる。


「……自分勝手すぎない?」


結ばれた薬指を見つめたままに桃子はぽつりと呟いて、そして、春の優しい太陽は花が咲きこぼれるように笑った。

「もー!みやは桃のことがほんとに好きなんだからぁ……しょうがないから結婚してあげよっかなー」




東京から神戸まで、約600辧
どちらからともなく、互いの頬へそっと触れれば、二人の距離は30僉
愛しい小さな体を引き寄せれば、10僉
大好きな背中へ腕を回せば、0僉
きつくきつく抱きしめれば、同じように心にも距離なんてなくなった――――

雅は無償に泣きたくなった。
悲しくもなんともないのに、心が、感情が、これでもかというほどに涙腺を刺激する。
幸せを感じると何故か涙が溢れてくるのは、体の隅々まで幸せが占領してしまって、涙の居場所が無くなるからなのだろか。

そんなことを考えながら、居場所をなくした一粒の涙を誰にも気づかれないように拭った。


――桃がいるから、あたしも幸せなんだ


634 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2016/11/06(日) 05:49:00.43 0

時間も忘れて暫く抱き合った後に、何かを思い立ったように桃子は雅の腕から離れた。
離れることに不服そうに少しだけ口を歪める雅に、少し心配そうに眉を寄せながら桃子は社会人として至極真っ当な事を尋ねた。

「……そういえば、みや今日仕事休みなの?」
「……休み、じゃない」
「え!? どうすんの!? 今からじゃ新幹線でも間に合わなくない!? マネージャーさんに怒られるよ!?」

二人が二人だけの世界を作り上げている最中も、時計は止まることなく時を刻み、世話しなく朝は流れていた。ポケットの携帯を取り出して確認してみれば、もうすぐ8時になろうとしていた。
唇へ手を添えて、少しだけ考える仕草をした後、雅は口を開いた。

「桃は今日はオフなの?」
「え、あぁそうだよー。外から音がするから新聞かなって思って取りに行こうとしてたんだけど」

「ドア開けたらみやがいたから……」と告げれば、雅は「そう」とだけ相槌を打つ。
そして、手にした携帯でおもむろにどこかへ電話をかける。
プルルル……という電子音が5回ほど鳴ると、聞きなれた低い声が雅の耳元から漏れてくる。


『……どうした、こんな時間に』

マネージャーさん、朝だからちょっとフキゲンかも?

「おはようございまぁーす。忙しい時間にすいません。突然なんですけど今日、ちょっと遅れます」
『は? 何? 具合でも悪いのか?』
「そういうわけじゃないんですけど……まぁ、強いて言うなら恋煩いですかねー」
『はぁ!? ちょっ、えっおま、』

電話越しの相手が話しているにも関わらず、携帯電話は短いメロディを奏でると画面を黒くした。



636 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2016/11/06(日) 05:54:59.20 0


「みや…それで大丈夫なの?」
「大丈夫だって!今日の収録は夜からだから。ちゃんとギリギリには間に合わせるよ」

「まぁ、あとは帰ってからちゃんと叱られることにする」と雅が笑う。
邪魔をすることがなくなった小さな端末をポケットへねじ込むと、雅は広げたままだった包み紙を拾い上げる。
不格好なクッキーが手のなかでコロコロと転がる。
決して完璧ではない、まるで二人の今までとこれから様にちょっとまだ未熟なクッキーを、美味しく食べるには何が必要だろう。



「ねぇ、桃」


無駄な時間なんてなにもない。
会わない時間も、すれ違う時間も、泣いた時間も、全てが未来へ続く糧となる。
そのためには、ただ一人、隣に桃が必要。



「コーヒー淹れて」



もう、桃の手を離さないよ。



「あれ?みや、なんか目赤くない?」

「……気のせいでしょ」



おわり

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