朝鮮学校無償化についてのウィキです。

1973年の6月11日と12日、東京の新宿駅と高田馬場駅で国士舘大学の学生による朝鮮学校生徒に対する集団暴行事件が発生しました。当時、雑誌『朝日ジャーナル』が特集記事を掲載しています。ここではその中から『朝日ジャーナル』6月29日号に掲載された編集部によるレポートと小沢勇作氏による論考を紹介します(本文中の太字による強調は引用者による)。


「衝突」の実態とその背景


国士館生の朝鮮中高級学校(東京都北区十条)生に対する集団暴行が頂点に達したのは、六月一一日の新宿駅と、翌一二日の高田馬場駅でだった。新宿駅では、下校途中の朝鮮高校生約二○人が乗換えのため電車を降りたところを、国士館大生五、六十人が襲い、手にした鉄パイプ、木刀、五寸クギを打ちつけたこん棒などをふりまわして、リ・メンシク君(一六)など五人に重軽傷をおわせた。
リ君は、すべってころんだところを数人の国士館学生にとりかこまれ、鉄製のゴミ箱三個のほか、灰皿を上から気合もろともたたきつけられ、頭から血をふきだした。さらに、全身をけとばされ、頭部を一七ハリもぬうという重傷をおった。また、三年生のオ・リソウ君(一七)も、投げつけられた牛乳ビンの破片が目にはいり、角膜裂傷の負傷をした。
「いまでも悪い夢をみているようです。冷静になろうとしても、いかりと腹立ちで体がふるえてくる」。リ君の母親バク・チュジャさん(四○)は、声をたかぶらせた。
「小さいときから体が弱い子で、ケンカをしたことなどなかった。それが、なんの理由もなく、こんなひどい目にあわせられたんです」。本人のリ君は、現在、国立市の自宅から近所の病院に通っているが、「日本人も外国で暮していて、同じ目にあわされたら、どう感じるだろうか。なぜいまだにぼくたちを敵視するのかまったく理解できない」と、母親とは対照的に、拍子抜けするほど冷静な口調で、言葉少なに訴えた。
このとき、腕にけがをしたチャン・ドングン君(一六)も、「朝鮮人だというだけで、バカにされ、動物扱いされるのは、がまんできない」と、顔をこわばらせ低く声をのんだ。

車中にまで乱入


翌日、高田馬場駅では、電車に乗っている朝高生めがけて、ホームから国士館学生がなだれこみ、暴れまわった。そのため、二年生のリン・チャンシク君(一六)ら七人が負傷した。襲われたのは約一五人。ホン・ギュン先生(二五)の指導に従って、集団下校している途中であった。
学校側では、登下校時には、教員約一○○人を都内の主要な駅に配置し、さらに生徒を地域別にわけて、集団で登下校させるなど自衛策を講じていたところである。ホン先生は、「まさか、電車の中にまで乱入してくるとは思わなかった」という。締まりかけたドアを国士館大生がむりにおしあけて、数人がとびこんできた。いったんは朝高生が押しかえしたがこんどは、ホームから、コウモリガサで電車の窓ガラスをたたきわり、そこからこんどはカサを一○本ほど、朝高生にねらいうちで思いきり投げつけてきた。
さらに、国士館大生は、手にハンカチをまき、ガラスの破片をひろって、シュリケンのように、連続的に投げつけてきた。このため、先のとがったカサがわき腹につきささる者や、ガラス片がのどにつきささる者などがでた。
二年生のチェイ・ヒョウソン君(一六)やソン・ヨンジョン君(一七)は、口をそろえて「なぜ、ぼくたちだけがやられるのかわからない」という。チェイ君は、五月にも、新宿駅で、四、五人の友人と下校中、電車にのっているところを、国士館大生三○人ほどに見つけられ、窓ごしに、いっせいにタンやつばをはきつけられ、顔や制服全部をベトベトによごされたりもした。
「昔は、朝高生がしかえしをしたこともあったらしいが、いまは絶対に挑発にのらない。親や先生も、暴力をふるわれても、ただ逃げろ、と教えている。それにしても、お前らはやく朝鮮へ帰れなどといわれるのは、本当にくやしい。ぼくらは、来たくて日本に来たのではない」と抗議する。

「弾圧の口実をつくる」


ところで、この二つの駅の「衝突」を、警察当局はどうとらえているのか。警察庁の星野鉄次郎・保安部少年調査官は、「調査が終らなければはっきりいえないが、前者は偶発的なもの、後者は一一日の事件に対する国士館側の報復のようだ」と述べている。つまり、これまでの一連の「衝突事件」の性格については、どちらかが一方的に襲撃してきたというようなものでなく、ささいなことからのケンカから相互の報復が繰返されてエスカレートしてきたという見方である。
だが、はたしてそうか。朝鮮中高級学校当局や朝鮮総連は、こうした事件に共通する特徴として、①登下校時に待伏せしている、②人が大勢いるところで白昼公然とさわぎをおこす、③集団で襲う、④凶器を準備している、などの点をあげ、こうした理由からも、単なる学生同士のケンカといったものではなく、ましてや「偶発的なもの」ではありえない、とみている。それどころか、事前に周到に仕組まれた計画的で、組織的な暴行だ、と断定する。
また、六月一一日、一二日の新宿、高田馬場駅事件では、これまでと違って、はじめて、大学生が前面に出てきたことに注目している。これまでは、大学生は、うしろで指揮はとるが、“実戦”は国士館高校生があたるというケースがほとんどだった、という。朝鮮総連のハ・チャンオク社会局長は、そのねらいを「朝高生を挑発し、大乱闘をおこさせ、世間一般に朝鮮人への恐怖や憎悪をあおり、朝鮮人弾圧の口実をつくることだろう」とみる。

食違う被害件数


朝鮮中高級学校の調べでは、ことし同校生が被害にあった暴行などの事件は、六月一四日現在ですでに三一件にのぼり、そのうち、国士館生が関係しているのは二七件になる。警察庁の調べでは、日本の高校生と朝高生との「衝突事件」は、今年に入ってから、全部で五六件、国士館が関係したものは二七件となっている。
両者の数字をみると、全体の発生件数が食違っている。この点について朝鮮総連は、警察当局の数字の出し方に疑問があるという。
たとえば、国士館側は、朝高生のバッジ、ボタン、帽子、教科書、ときには制服まで奪い、擬装して日本人高校生を襲ったりするという。その場合、それは「衝突事件」になるが、朝高生の被害として朝鮮中高級学校の数字に上がってこないわけである。「衝突」があったときは連絡するよう警察に申入れているが、警察が明らかにしているだけの件数の連絡はないともいう。
また、警察庁は、国士館が関係した事件のうち、どちらが加害者であり、被害者であるかについては「一方だけを悪者にするのは問題がある」という理由で内訳は明らかにしなかった。編集部は警視庁にも取材を申入れたが、担当の少年二課から広報課を通じ「新宿、高田馬場駅での衝突は捜査が終っていないので内容は公表できない。過去の事件についても、未成年の高校生のことでもあり、数字を出すことは適当でない」として取材を拒否された。ところが、警視庁詰めの記者に対して内訳の数字を内々にもらしている。
それによると、今年に入ってからの国士館の関係した衝突事件二六件(六月一一日まで)のうち、国士館側の被害一六件、朝鮮中高級学校側の被害七件、双方が被害三件となっている。この数字でみる限り、双方が仕掛け合い、しかも国士館側の方が被害が多いという印象を与えかねないものになっている。
しかし、擬装襲撃があるという朝鮮総連の指摘や、これまでの衝突事件が起きた場所が朝高生の下校ルートであり、国士館の下校ルートとはずれたところが多いなどからみても、「衝突事件」全体とその背景をひとつの流れの中でとらえずに、個々の事件が起きた時点での現象面で見る見方には問題がありそうである。そうした点をはっきりさせずに、国士館の被害を多いことを強調するような情報を流すことは一種の数字の魔術であり、「なんだ朝高生の方が悪いのか」というイメージを市民のあいだに植えつけかねない危険性をもっていると思われる。
今度の国士館問題で、警察当局は、この問題が高校生同士のケンカといった次元を越えて、「在日朝鮮人への差別」という受止め方がひろがることを強く警戒しているフシがうかがえる。「この問題が政治的に利用されては困る」という認識である、在日朝鮮人、とくに朝鮮総連がからんでいるから問題が政治的になるという認識が、警察当局の動きを及び腰にさせている原因のひとつのようにみえるが、そうした問題を避けて通ろうとする態度が、逆にある意味で政治的なものになり得るということも見逃せない。
朝高生に対する暴行、殺傷は、なにもいまに始ったことではない。六二年一一月に、法政二高の校舎内で、朝高生が殺害されたころから、集団暴行が目立つようになった。
とくに、六五年に日韓条約が強行批准されるまでの二、三年間には、事件が連続的に発生している。その後も、毎年暴行事件は起きているが、六六年外国人学校規制の法案が問題になった時期や、六九年、七一年、七二年に出入国管理法案が国会に提出されたころにも、やはり、暴行事件が多発した、という。現在朝鮮に自主的平和統一の機運が高まり、日本と朝鮮民主主義人民共和国とのあいだの関係改善を求める声があがっている折りでもある。その一方で、出入国法案が今国会に提出されている。
そうした背景を考えれば、つぎつぎに起る暴行事件は、こうした動きとからみあい、政治的意図をふくんだ“裏面工作”の役割をはたしている、と考えざるをえないのではないか。
(編集部)

「二つの差別に根ざす暴力」 小沢勇作


いまや「国士館暴力」という造語さえみられ、国士館教育の右翼的な体質にたいして社会の批判がそそがれるようになった。たしかに、政治的批判者を暴力で始末をつけるということが、そこでの重要な特色となっている。
「国士館暴力」の対象は、外においてはおもに朝鮮高校生にむけられ、内においてら国士館民主化闘争をすすめている教師・学生にむけられている。当然のことながら、これら二様の暴力は相互に補完しあうものであり、特定のイデオロギーによって導かれている。
一九六二年秋に朝高生暴行がはじまって以来今日まで、たしかに国士館の学生がその主役を演じてきた。暴行事件のたびに、たとえば「朝高生なんか自分の国に帰ればよいのだ。よその国で大きな顔をするな」とか、「俺は朝鮮人狩をやっているんだ」とかの発言をはいている。そこには、「天皇を尊ぶ」教育と「赤毛虫退治」の教育とを基調にしたうえで、「朝鮮人が神国日本を汚している。朝鮮人は実力で日本からたたき出せ」(柴田徳次郎館長訓話)というような朝鮮敵視の教育があって、その影響をうけていることがうかがえる、ということであろう。
しかし、若者は反共と反朝鮮の思想にそまっただけで暴行におもむくのであろうか。国士館においてら、朝高生に暴行をふるうものは、同時に学内の差別秩序の頂点にあって、「秩序」反乱者への制圧を常にしている少数のものにかぎられている(この点は朝高生暴行に加わる他の私立高校生とことなろう)。一九六四年秋から六六年冬にかけて一一人の教師が解雇されているが、それを契機に学園民主化運動がおきた。それも、実践倫理をやめ、教授会・職員会議を確立し、学生自治会をつくろうという、いわば身分制の思想と秩序の廃止を求めたにすぎない。そのメンバー約四○人が校門でビラまきをしたら(七二年四月一五日)、空手部等の学生から白刃をつきつけられ、袋だたきにあっている。
国士館教育の支配的形態は国粋主義教育と身分的差別秩序にある、とみてよいであろう。その経営者の傭兵になって学内で暴力支配をおこなう学生が、外にでて朝高生暴行の指図をする、という構図になっている。しかし、その対極に国士館改革の胎動が新しい観点を獲得したことも見落としてはならないであろう。暴行を体験した教師桑田博氏は、その痛みを介して、「朝鮮高校の生徒諸君は、毎日の登校・下校のつど、それ以上の恐怖にさらされているのだ。その少年たちの心情を想像し、胸をしめつけられる」と記し(『道』七二年八月号)、学園民主化と朝高生暴行根絶を統一的な課題とするにいたっている。
まだ片隅の肥に封じこめられているこの声をさらに大きくすることは、民族排外主義教育の克服を早くから望んでいる朝鮮人の期待にこたえることにつながってくるであろう。

大震災の朝鮮人虐殺


たしかに国士館の右翼教育体制が、連続する朝高生暴行事件をうみだす直接の原因である。大方のひともそうみて、そこに非難のまなざしを集中している。国士館教育の体質が改まれば、暴行事件が大幅に減少するであろうことはまちがいあるまい。しかし、「右翼」教育がなくなれば、暴行事件が根絶し、さらには朝鮮人にたいする排外主義が払拭されるであろうか。それだけでは不十分であろう。朝高生暴行事件は日本社会の差別構造に深く根ざすものであり、「国士館暴力」はむしろそれを集約するものとみる必要もあるのではないか。国士館だけの特殊な状況とみ、それにだけ責任をかぶせることは、かえって問題解決へのみちをせまくさせてしまうように思うのである。
朝高生暴行事件では、加害者にとっても被害者にとっても、関東大震災における朝鮮人虐殺の構造が再現されている。加害者である日本人高校生側の意識と行動のパターンはつぎのようにみてよいであろう。
現在「朝高生はこわい」という作られた偏見が、公私立を問わず、高校生のあいだに定着している。これは六○年代に生じた新しい朝鮮偏見である。朝高生とトラブルをおこしたさい、学校には朝高生にやられたという被害届をだしても、やっつけたという加害届はけっして出ないから、教師のなかにも同じ偏見にとらわれる者も結構おおい。
そこに生徒なり警察なりから「朝高生が待伏せしている」という未確認情報がはいると、学校は授業を午前中でカットし、生徒は騒然としたパニック状態におちいり、教師は二人一組になって街頭補導に出向く、という「自警団」的な発想と対応がとられる。この情報がデマかどうかをたしかめる最低限の事実確認の手続きをとることさえ忘れさられがちである。七○年六月に総武線沿線の各公私立高校で、七一年六月にも中央線沿線の私立高校で、警察情報にもとづいてこうした事態がおきている。
こういう状況は、総武線事件の折りの総連の指摘にみるとおり、「まさに関東大震災の時に日本帝国主義が『朝鮮人が襲撃する』というデマを流布しながら大量虐殺したのとまったく同じ手口」であり、それが有効に働いたことは、在日朝鮮人にたいする日本の権力と教育の政治的・心理的配置構造が昔とあまり変っていないことを意味する。
朝鮮高校や朝高生にかんする具体的知識はないのに、事実とはなれてただ「朝高生はこわい」という偏見がひろまっており、こうした偏見が正される教育が乏しいまま、むしろ社会に根づよい朝鮮差別の構造と癒着していってしまっている。
朝高生暴行事件を許し持続させる根のひとつがここにあるのであり、したがって、それをなくすことは民族差別の現実と意識を克服する根深い課題とむすびつかなければならないのである。

差別・選別教育の犠牲者


そこでつぎに、同じような「朝高偏見」をもちながらも、つまり民族差別意識の根はひとつであるのに、そこから暴行にはしる生徒と傍観する生徒が分れてくるのは何によるのか、という問題がでてくる。加害者の高校生には都立高校や私立名門校の生徒はいない。国士館を中心に、そうでない私立高校生であり、そのなかでもいわゆる「非行少年」グループがおもに暴行を加えている。いわば差別・選別の教育体制の犠牲者たちにほかならない。
これらの私立高校は学校格差の底辺におしこまれ、その生徒たちは学力がたりないということを大きな理由にして、中学校で選別の指導をうけ、「進学コース」、したがってまた「出世コース」からはずされた境遇にある。
そのような学校のなかでさらに差別される生徒がつくりだされる。学校のしめつけのきびしさやわからない授業などは、たえず「問題生徒」をうみだし、これらの生徒を学校から精神的に追放していく。そうすると疎外された生徒にとって頼れるのは自分あるいはグループの腕力だけである。
このような高校教育のなかでもっとも差別をされ、学校と教師につよい反抗と不信の気持をもち、はけ口のない不満を充満させている、そういう非行ないし非行化しやすい部分が、朝高生暴行事件の直接のにない手になっているのである。
「朝高偏見」をもった「非行少年」たちの行動力に、政治的な「使命」観を注入してこれを組織することは、比較的容易なことであろう。
その役目を国士館の大学生の一部がはたし、そのことによって、偶発的なものであった日朝高校生間の少部分のもののトラブルが、計画的・政治的な迫害事件に転じさせられ、別の意味合いをこめることになったのである。教育で差別されるものが朝高生迫害におもむく、といった関連が生じている。
このように考えてみると、朝高生暴行事件の発生のきっかけは別にしても、発生の原因は根深く民族差別と教育差別の二つの構造に由来している、といえるであろう。
したがって、これを根絶するみちとしては、日本人生徒から朝鮮人差別・偏見をなくすだけでなく、非行少年をつくりださない、という日常的なたゆみない実践こそが期待されてくる。
そうなると、これはひとり国士館だけの問題にしておくことはできず、日本の学校・教師すべての課題になってこざるをえないのである。

張りさけそうな胸の中


迫害におもむくものや朝鮮偏見にとらわれたものは、その視野から朝鮮人が人間であることをふりすててしまう。相手の痛さを気づかう姿勢をなくしてしまう。だからこそ迫害の行動に移れるし、迫害を傍観しうる。これは侵略者の意識である。他方、在日朝鮮人は、政治的信条にかかわりなく、みな関東大震災における朝鮮人虐殺と朝高生暴行事件を重ねあわせ、その痛みの淵から、日本人にむかって朝高生にたいする人間的な関心を回復するよう呼びかけている。朝高生およびそれをとりまく在日朝鮮人がどのような気持でこの一○年すごしてきているか、ということを知らなければ、朝高生暴行事件の非人間的な行いの真意がつかめないであろう。
迫害される側がどれほど深く傷つけられているのか、その内面を知っていこうとする姿勢が、私たちにとってほかならぬ人間的な関心の回復を意味するのであり、こうした人間の目が国士館批判の政治の目と並んで、いま必要とされているのではなかろうか。
六二年一一月三日に一人の朝高生が撲殺されてから、その後の一○年間にいったい何人の重傷者を数えることができるのであろうか。軽傷者の数は述べ数百人に達するであろう。一方の側だけにこう負傷者がかたよるのであろ、これはたんなるケンカとしてみようとしても、そうみることはできまい。こうした生命への危険をともなう日々の登下校のさいの恐怖のなかで、朝高生はここ一○年来生活しつづけている。二人の生徒の発言からその心情を察してみたい(「朝鮮高校生は訴える」『たいまつ』七○年八月号より)。
二年生の男生徒権彰鉉君は、「網の目のように目を光らせている彼らの組織は、本当に恐ろしいです。電車がホームにつくと、各車輛の戸口に配置されている連中同士と、ホームにたまっているリーダーグループなんかが緊密に連絡しあって、ぼくら朝高生を一人ものがすまいとしている。こんな恐ろしさ……」と絶句する。
これをうけて、三年生の康貞姫さんは、「私たち女子の高校生が、直接男子と同じように打たれたりすることはないんです。けれど、私たちが登校や下校の途中で、朝高の男子学生がやられているところを見たり、日本高校生に追われて、必死になって逃げていくところを見たりするわけです。そのたびに、胸がはりさけるように痛むんです。……中略……私は、私たちの、この、張りさけてしまいそうな胸のなかまでを、(日本の方に)わかってもらうことはできないように思うんです」と語っている。
二人の「張りさけるような悲しみと恐ろしさ」は、親の世代の心情そのものとなり、関東大震災の朝鮮人虐殺をほうふつさせるという歴史的体験にさかのぼっていく。迫害される生活は迫害の歴史を忘れさせてくれない。歴史はたえずよみがえらざるをえない。在日朝鮮人のことごとくにとって、朝高生暴行事件のもつ迫害の質の深さ、衝撃的な意味の大きさは、私たちに測り知ることができない。しかし、そうであればあるだけ、そこに近づく努力を重ね、侵略・迫害をくりかえさないという歴史の教訓を身にきざみつけなければならない。一見平穏な日常生活のなかで関東大震災の朝鮮人虐殺と同じ構造が再現されているとは、むしろ日本人にとってこそ衝撃的な事柄としてうけとめられなければならないことであろうから。

事態を変えていくもの


朝高生暴行事件は、一面では政府の反朝鮮政策や警察の朝鮮人敵視の態度とかかわり、せれが右翼を「およがせている」から、やまないものであろう。したがって、そこに「右翼」取締りを求めることによって、政策や管理をチェックしていくことは大事である。しかし、それは現象を沈潜させ隠してはいっても、根底からの解決は保障しまい。この事件は、他面、日本の社会・教育における差別構造に根ざしているから、根深い問題に根深く対応していくことが、どうしてもおろそかにはできないのである。その根深く対応することのひとつに教師による教育実践の変革と展開である。
かつて豊島実業の生徒は朝高生暴行事件の常連であった。それが七二年、七三年とバッタリやんで、朝高側でも豊島実業はしないというように考えてきた。どうして変ったか。警備体制を完備したからではなくて、生身の人間と交流して朝高生の実像を知り、認識を変えたからである。
服装をやかましくいうような形式的なしつけの押しつけは生徒の反発をかう。日本の朝鮮侵略史を講義するだけでは、肝心のトラブルをおこす生徒から「俺たちには関係ない」といなされる。生徒をテストの点数だけで評価し序列化しておいて、「朝鮮人差別はいけない」といくらいっても、生徒は納得しない。生徒を変えるには教師がまず変らなければならない。
朝鮮学習を重ねたが、百聞は一見にしかずで、勇を鼓して朝高の先生と交流し、そのなかで教師自身の朝高観が変った。その体験をもとに生徒同士の多面的な交流を組織、そこでの変化を文集化して生徒にひろめると同時に、映画『日本海の歌』の鑑賞と文集化から朝鮮にかんする自主教材の編成にまですすんだ。この過程で生徒の朝高生観が変り、教師と生徒の関係にも親密なものが芽生えた。国士館からの誘いを断るようになり、逆に「今まで一緒に朝高生をやっつけていたのに最近になって仲良くするとはなにごとだ」といわれて、国士館の生徒からやられるようにさえなった。
駆足の紹介になったが(詳しくは石垣敏夫氏の『朝鮮研究』一○八号および『経済評論』別冊七二年秋季号所収の記録を参照してほしい)、この実践のポイントは、朝高生との交流というふれあいが日本人生徒を変える決め手になったということであり、それを全校的な規模ですすめえたことが効力を早めたということである。
迂遠なようでも、「取締り」ではなく「教育」し認識を変えることが、事態を根元から変えていくのである。しかし、まだ国士館にはこうできる校内条件が備わっていない。
(おざわ ゆうさく・東京都立大学助教授)
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