躓き、勢いよく転んだ。
からんと小さな音が闇に響き、わずかに遅れてごつりと鈍い音が頭に響く。
「う……」
 無意識のうちに漏れる小さな呻き声。
それに追従するように、額に温かな感触と鋭い痛みが生まれた。
じわじわとその熱と痛みが広がっていき、瞳から涙が溢れ始める。
ろくに明かりのない暗闇。滲んだ瞳は目の前の地面すらも確かに映さなくなってしまった。
「ふぇ、ふぁぁぁ……」
 すでに自分の体には限界が訪れている。それを悟って、彼女は大きく息を吐いた。
やや肌寒いダンジョンの中ではあったが、息が白くなるほど寒いわけではない。
それでも吐き出した息を視線で追うように眼を動かしながら、彼女は右手に力を入れた。
 何もかもが、それこそ体中に走る痛みでさえも不確かな状態の中で、
右手で握りしめている温かい手だけは、異常なほどに存在感がある――――そして、
それがあるからこそ、今のエリは動くことができた。
 ゆっくりと、鼻と口から肺が痛むほどに息を吸う。まず感じたのは、湿った土の匂いだった。
 それはどこか眠ってしまいたくなるような優しさを抱擁する匂いだったが、
次に感じた緊張感を呼ぶ鉄錆の匂いが、途切れようとしていた意識を鮮明にする。
 息を吐き出す。同時に、ぽたり。地面に黒い雫が吸い込まれて行くのが見えた。
恐る恐る雫が生まれた場所――自らの額に向けて左手を伸ばすと、
濡れた肉の感触が指に触れて、痛みで目の裏に火花が飛んだ。
 どうやら、転んだときに石か何かにぶつけて裂けてしまったらしい。
さらさらとした血液をふき取るように右手で傷口を撫でた後、彼女はその手を地面へと押しつけた。
全身の力を振り絞り、上体を起こそうとする。
 ぎし、ぎし、と、骨の軋む音が聞こえた。
「うぅ……ん、っしょ」
 なかなか起き上がらない身体を動かすために放った掛け声は、
力なく、疲れ切ったものだったが、なんとか渾身の力を左手に込めることに成功して、
ふらつきながらも上半身が起き上がる――――その勢いを利用するように、彼女はゆっくりと立ち上がった。
 彼の手を握り締めたまま、離さないように注意しつつ前を向く。
当面の問題は山ほどあるが、一番重要なのはどこへ進めばいいのかがはっきりとわからないことだった。
地面に転がっている懐中電灯を手に取って辺りを照らせば、もしかしたらヒントぐらいはつかめるかもしれない。
そう思ったのだが、実行には移すことはできなかった。
 半身をかがめて、物を拾う。そんな簡単な動作でさえ、今の自分には荷が重すぎる。そう思ったからだ。
 とりあえず視界を確保しようと、彼女はぱちり、ぱちりとまばたきをして、左手の指で目を擦った。
涙をぬぐい終わったところで、満足できるほど視界が晴れたわけではなかったが、
顔を向けていた方角のやや右に、微かな明かりが見えた――――おそらく、脱出口の光。
 進むべき場所が分かった幸運に感謝しつつ、そちらへ方向を修正して手に力を加える。
健康な中学三年生男子の体重を引きずることは、エリにとって非常に辛いことだった。
さらに今は汗と血で手が滑って、力をうまく伝えることができない。
 息を吐く。息を吸う。足を前に進める。
一つ一つの動作を組み合わせて進む彼女の体は、すでに限界を超えていると言っても過言ではない状態だった。
まともな部分など、皆無に等しい――特にひどいのは、右足に負った傷だろう。
獣の爪でえぐられ、炎で焼かれたその傷は、もはや痛みすら感じない。地面を踏む感触すら不確かだった。
 動かせないわけではない。何とか体を支え、前に進むことができる。
だが、動かせなくなるのも時間の問題だ――――それを悟って、彼女は絶望に身を震わせた。
「うぅ…………」
 しかし、そんなひどい傷でも、それでも彼女はまだマシな方なのだ。
目指している脱出口に横たわっている彼女の仲間――自称元スパイである椿の右胸には、
小さな穴が空いている。強大な獣の鋭く長い爪で穿たれたその傷は、
応急処置を終えて、きちんと止血されているとはいえ、かなりの重症であることは間違いない。
放っておけば命を落とすことになるのは確実だ。
「…………ぐすっ」
 命を落とす。それを想像したことで、彼女は吐き気を催すほどの恐怖を感じた。
拭ったはずの涙が再び溢れだし、頬へと伝う。
 頬にできた小さな傷に、涙がしみこんだ。
「いたい…………ぐすっ、ひっく。もう、やだぁ」
 ぐじぐじと泣きながら、弱音を吐きながら、それでも足を踏み出す。
腕にかかる重み――今すぐにでも投げだしてしまいたいほど重い、彼の身体。
つい先ほど、ドラゴンのブレスをまともに浴びた彼――――我らがリーダーである小波は、
ぴくりとも体を動かす様子さえない。温かい手と、時折聞こえる微かな呼吸音。手に伝わる脈拍。
 その三つだけが、彼が生きている証だ。

 生きている。つまり死んでいない。だから、だから、助けなきゃ。

 つぶれそうな身体と心をどうにか奮い立たせ、足をさらに一歩踏み出す。
 ――がたり。
「……ひっ!?」
 彼の体を引きずる音にまぎれて、小さな音が聞こえた。
彼女は立ち止まり、顔を引きつらせながら視線を横に向ける。
何も動いている様子はない。敵が近づいている気配もない、のだが。
 ――――――怖い。
 恐怖に目頭がさらに熱くなる。泣きたい、泣きたい、泣きたい、泣きたい――――
「ふぇぇぇぇ……」
 耐え切れずこっそりと静かに泣き始める――――濡れた頬の熱が、何故か心地よい。
(……今まで、どれぐらい泣いたんだろ。あたし)
 大きいペットボトル一本分ぐらいかな。それよりもっと多いかな。
ぼんやりとそんなことを考えながら、涙をこぼす。

 ――子供のころから、よく泣いた。
 それを男の子にからかわれて、とても嫌な思いをした。
ずっと嫌な思いをし続けて、それでも泣き続ける自分をどこか嫌に思いながらも、
泣くことをやめることはできなかった。
 こんなんだから。馬鹿にされるのも、蔑んだ目で見られることも、仕方ないと思ってた。
 思っていたのだ。
 ……今の友達の女の子は、みんな優しい。いつもあたしを助けてくれる。
 クラスメイトの男の子とも、この一年でほんの少しは仲良くなれた。みんな、そんなに悪い人じゃない。
 なによりたぶん、誰もあたしを蔑んでいない。
 だから、がんばらないと。がんばって、がんばらないと。彼に――

 きらわれちゃう。

「がんばる、から」
 かすれた喉が勝手に声を紡いだ。
呼吸のリズムが乱れたせいか、視界が大きくぐらりと揺れる。
揺れる視界には、微かに赤が混じってきたような気がする。血が目に入ったせいだろうか?
もう、どこが痛いのかさえもわからない、今すぐにも倒れてしまいたい。
 けれど、握る手に鼓動を確かに感じるから。
動脈の脈動と、ぬるりとした感触の中にある確かな熱が伝わるから。
 だから。
 歯を食いしばって、涙を流しながら。

 白木恵理は前に進む。







――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――






 一つ目の失敗は、暗闇の対策をしてこなかったことだ。
とは言っても闇を見通すことのできる仲間を連れていくことができなかったのは仕方がないだろう。
白瀬芙喜子は生理中で万全の体調ではなく、昨日の探索で有田修吾は怪我をしてしまっていた。
小野映子にも素質があったのだが――彼女はあまり探索に乗り気でもなかったため、未だその技能は開花していない。
 もちろん、仲間を連れていくことが出来なくとも、ヘッドライトを持っていけば問題はないはずだった。
小波もいつもはそうしていたのだが、今日に限って、仲間の一人に持たせたままだったのだ。
「まあ、なんとかなるだろ」
 そんな小波の言葉。実際、パーティメンバーは万全とまでは言わないが悪くはなかった。
リーダーである小波。体力と火力を併せ持った青野。時折さぼるが優秀な椿。
 そして――エリ。
 彼女は明らかに足手まといではあったが、他の三人で十分にカバーできるはずだった。
もちろんエリとしても――彼の足を引っ張りたくないという気持ちから――敵を目前にして、
一人逃げ出すようなことはしなかったし、誰かが彼女の前に立っている限り、泣き出すようなこともなかった。
 だが、青野がハッパの叫び声にやられてしまったことから、不幸が始まった。
すぐに脱出しようとした彼らに、連続して訪れた暗闇の階層。
青野が倒れただけなら敵に応じて武器を変えればどうにか効率よく進むことはできたのだが、
闇の中では武器を変更する暇がなかったため、余計に体力を消耗してしまったのだ。
 命を奪うわけにはいかないハタ兵士と、水鉄砲なしで戦うこと三度。
傷だらけになりながらも脱出口のある階層にたどり着いたところで、宇宙ドラゴンの不意打ち。
闇にまぎれてもなお巨大な身体から吐き出される炎の息を、小波たちは止めることができなかった。
 都合よく、椿の撃ちだした弾丸が急所を貫き、誰も倒れることなく敵を倒すことができたのは幸いだと言えるだろう。
 だが、その後がまずかった。回復薬が残っていたにもかかわらず、怪我の治療をしなかったのだ。
もちろんそれには理由がある――――ドラゴンの炎で全身を焼かれた小波と椿は、まともな判断力が残っていなかったのだ。
 ――――だが、比較的炎による傷が浅かったエリは、それがまずいことだと気づいていた。
 気づいていながら、何も言わなかった。生来の臆病さから、何も言えなかったのだ。
 そしてそれが二つ目の、最大の失敗だった。







――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 先ほど転んだ時に、どうやら口の中を切ってしまっていたらしい。
いつの間にか、口内に強い塩気のある温みが満ちている――吐き捨ててしまいたかったのだが、
食いしばっている歯を緩めることはできなかった。力を抜いた瞬間、倒れてしまいそうだったから。
「うぅー……」
 いつもなら大声を出して泣き始めるところだが、
どこに敵がいるかわからないダンジョンの中。絶対に大声を出すわけにはいかない。
 それも自分たちが弱っているなれば尚更だ。
「……ぐすっ。…………死なないで、ね」
 どうにか嗚咽を堪えて、祈りをこめて歯の隙間から声をこぼす。
 死なないでね。そうは言ったものの、例えこの場で倒れてしまったとしても、ハタを刺されるだけとはわかっていた。
今まで何度か仲間が倒れたことはあるが、今のところ全て無事に救出されている。
 だが、エリは生きて帰還したかった。
自分がハタを立てられるのももちろん嫌だが、彼がハタを立てられるのも、嫌だったからだ。
「あ……」
 こうこうと輝く明りが目に差し込んできて、エリは足を止めた。
気づけば、ほんの数メートル先の地面に、光輝く円の輪がある。
 脱出口だ。
「あああ、あああ……」
 もう少し、もう少しで――

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――




 ぶんっ。ちょうどエリが竜の死骸を踏み越えた瞬間。
空気を裂く音ともに、小波の身体が前方に勢いよくはじき飛んでいった。
「……え?」
 何が起こったかを理解できずに、エリは固まった。
小波の持っていたライトが彼女の足元にたたきつけられ、
べき。というプラスチックが割れる音ともに――――吹き飛んだ小波を見てか――――エリの数歩先にいた椿が振り返る。
そしてそのまま、彼女の背後に向けてライフルを構えた。 
「……全力攻撃!」
 二メートルほどはじき飛ばされ、地面に強く叩きつけられた小波だったが、
まだ立ち上がる力は残っていたようだった――――怒声とも取れる声で命令を叫んですぐに、
黒光りする刃の切っ先をエリの後ろに指し示しながら駆け寄ってくる。
「エリ!」
 ぼんやりとしていたエリだったが、小波がエリの横を通り過ぎ、
彼女の名前を呼んでようやく、自分たちが敵に襲われているという事実に気づくことができた。
 振り返る。その直後に見えたのは、天井にまで届くほどの巨大な獣――宇宙ビースト。
 圧倒的な大きさに気押されながらも、エリはゆっくりとハンドガンを構えた。

 ――――エリは武器の扱いが苦手であった。
刀や拳で攻撃するのは勿論、手が小さいためかハンドガンもあまり上手に使えない。
 ライフルやキャノンに分類される銃器は、
手だけでなく体全体で支えるためかそう苦手ではなかったものの……得意と言うほども出ない。
 ともあれその日エリが苦手なハンドガンを持っていた理由は、単にそれが最良の選択だったからだ。
ライフルやキャノンは――扱うのが苦手でなくとも――強い反動によって敵に狙いを定めるのが難しかった。
 それならば多少扱いづらくとも、手先の器用さでカバーできるハンドガンを選ぶのが一番マシ。
その結論を出したのは、このハンドガンの持ち主、エリの大切な友人の一人である、白瀬芙喜子だった。


 そのままトリガーを起こし、震える手で銃身の横にあるスイッチを押す。
特殊な攻撃方法を持つそのハンドガンは、そのスイッチにより攻撃性を増すことができたのだ。
(お願い――)
 次々と思い浮かぶ友人たちの顔に、祈るように願う。
 だが。
「……ぐっ」
 まず、狙い撃ちの構えを取っていた椿の胸に深々と獣の爪が食い込んだ。
肺から無理やりに空気を絞り出したような音とともに、椿の体が持ち上げられる。
 ――――その時エリが注視していたのは間違いなく宇宙ビーストではあったが、
それを予想外と言った表情で小波が見ていたのを、エリは視界の端でとらえていた。
 前衛に立っていた自分に攻撃が来るものだと思っていたのだろう――――そしてその攻撃を耐える自信があったのだ。
 だが現実は無慈悲にその予測を裏切った。
「…………くそがっ!」
 椿の悪意にまみれた叫び声と同時に、ずだん。静かに響く銃声が聞こえた。
その直後。野獣が椿を地面に叩きつける。
 一度小さく跳ねた後、椿はそのまま動かなくなった。
「椿!」
 驚愕の声を上げて、小波が動き出した。
手にした宇宙の名を冠する名刀を、上段に構えて跳躍する……が、
それを読んでいたとでも言うのか、獣が先制して爪を小波の体に振るった。
 小波はその攻撃を、身体をひねって回避しようとしたようだったが、
すでに刃を振り下ろしかけていた彼に回避動作はとれず。
 ぐさり。爪が肉に食い込み、深い傷を作る音がエリの耳に嫌なぐらいはっきりと届いた。
 小波の身体が、嫌にゆっくりと地面に投げ出される。
 そして。
「――当たってぇ!」
 裂帛の叫びと同時に、八つの爆音が闇に響いた。
闇を切り裂く赤い光線――一度に撃てる全てを発射する銃技。
『フルオート』
 倒れて。
 一つ目の光線は小波の身体を吹き飛ばした右腕に。
 倒れて!
 二つ目の光線は闇の中で一段と輝く赤い右眼に。
 倒れて倒れて倒れて倒れて倒れて!!!
 三つ、四つ、五つ、六つ、七つ。
 幸運にも全ての銃弾が獣の体に命中し、
ほぼ同じ場所に着弾した六つ目と七つ目の銃弾が獣の頭蓋を撃ち抜いた。
「あ……当たった?」
 血液を勢いよく噴出しながら、小波とは反対方子にゆっくりと倒れていく獣。
それを最後まで見届けることなく。
「……こ、小波君!」
 うつ伏せに倒れている小波のもとへ、エリは腰のホルスターに銃をしまいながら足早に駆け寄った。
辿り着くと同時に、慌てて彼の身体を起こす――――爪で切り裂かれた右頬は、見たことのない色の肉が露出していた。
それだけではない。シャツが引っ掛かっている右肩からは、地面に滴るほどの血液が流れ落ちている。
「あ、あ、ああああ!!! 血、血が……いっぱい」
 見たことのない大量の血に動転しつつも、エリは小波のリュックサックから
回復薬を取り出し、彼に振りかけようとした。
 彼に死んでほしくなかったから。絶対に死んでほしくなかったから。
 だが小波がエリの手を掴んだとことで、彼女の動きが止まる。
重傷を負っているとは思えないほど強く、エリの指が白くなるほどに強く握りしめてきた小波が、かすれた声を口にした。
「……俺より、椿を!」
 その真剣なまなざしに押されて、エリは先ほど椿が崩れ落ちた方向を見た。
明かり一つないため、何か塊があるということぐらいしか分からない。
 視線を戻す――――小波が小さく笑った。蒼白になりかけた顔で、朗らかに笑っていた。
 俺は大丈夫。そう言いたげに。
(……大丈夫、なのかな)
「う、うん……」
 転がるように。エリは少し離れたところにある塊へと移動した。
距離にして五歩ほどだろうか。塊がはっきりと人の形をとる。
 仰向けに倒れている椿。彼の上着には黒く、大きなシミができていた。
 月に一度は見ているとはいえ、大量に血を見るのはあまり気分のいいものではない。
一年ほど前なら失神してしまっていただろう。だが。
「うぅ……」
 そこで、彼女の友人である南雲瑠璃花と共に、仲間たちの傷を何度も治療した経験が役に立った。
震える手で血に汚れたシャツを破り、胸に空いていた黒い三つの穴に向けて最後の回復薬を降り注ぐ。
小さな花が原料であるその薬は、強力な治癒効果と、痛みを麻痺させる効果があったのだ。
「よい……しょ!」
 とはいえ、もちろん万能でもない。エリは急いで背中のリュックサックから、
ダンジョンで拾った布を取り出して、傷口に強く押し当てた。
 強く、強く。男性の体を触っているという恐怖に負けないように。強く。
『たくさん血が出た時でも、しっかりと傷口を押さえなさい。
縛りつけたりする止血方法もあるみたいだけど……すこし、難しいみたいだから』
 去年の夏に、神条紫杏がそう言っていたことを、エリは思い出していた。
それが本当に正しい治療なのかどうか、エリにはわからなかったが。
 しばらくして、掌に伝わる温かい感覚が微妙に変化した。
「……つ、椿さん! 椿さん!」
「うるせえな……」
 手を放し、流血が止まったことを確認して、エリは大声で男の名前を叫んだ。
間を置くことなく、椿がうめき声を上げながら目を開く――普段かぶっている帽子が
どこかに飛んで行ってしまったため、ぼさぼさの髪の毛が揺れていた。
 ふわっ、と、妙な匂いが鼻に届いた。
(カブトムシみたい……)
 どこか間の抜けたことを考えながら、エリは椿から少し離れる。
「……つぅっ……」
 自らの傷を押さえながら、小さく椿がうめく。
混乱している様子がないところを見ると、信じられないほどの重症だったにもかかわらず意識を保っていたのかもしれない。
「ドジった、か」
 呟きとともに、椿がゆっくりと体を起こす。ひどくふらついていたし、
立ち上がるとまではいかなかったものの。一筋の光明が見えた気がして、
エリは安堵の吐息を漏らした。
 だが。
「……おい。坊主は、どうなんだ? あそこ、のは…………動いてねえぞ」
「え!?」
 椿の言葉に慌てて振り返る。
光がなく、場所も離れてしまっているため、小波も今や黒い塊にしか見えない。
 再び転がるように駆け寄る――小波はうつ伏せに寝転がっていた。
 ぴくりとも体を動かさずに。
「あ…………」
 倒れるように彼の頬を掴み、顔を横向ける。
閉じた瞳、固く締められた唇。血の気がない頬。
 震える手を唇の上にかざす。
 呼吸をしていなかった。
「小波君! 小波君! 死んじゃダメ! ダメだよお!」
 肩をつかんでがくがくと揺さぶる。まだ温かかった。生きている、そんな気がしたのだ。
 そうであってほしかったのだ。
 さらに激しく揺さぶろうとした所で、誰かの声。
『大怪我をした人は、揺さぶったりしたら駄目ですよ。エリ』
「え……?」
(るり、ちゃん?)
 もちろんそれは幻聴だ。以前彼女から教えてもらったことが、混乱した頭に浮かんだだけだ。
 だが、その幻聴がエリを少しだけ冷静にした。
首筋に手を当てて、脈を確認する。弱弱しいが、確かに動いていた。
傷を布で縛らないと。思い浮かんでリュックサックを逆さまにして何かないかと急いで探し始める。
(あれ……そういえば、メガネ君はどうしたんだろう? ついさっきまでそこにいたはずなのに)
 ふと思い浮かんだ疑問を払いのけて、エリは地面に転がった雑貨から、
丈夫な布を拾って小波の肩に巻きつけた。巻きつけるだけでは出血が止まらず、
同時に転がり落ちていた糸も使って、きつく縛る。頬の傷はどこを抑えればいいのかよくわからなかったものの、
布を押し当て、目隠しするようにぐるぐると縛り付けて、しっかりと抑えつける。
 おそらく先ほどの声の主――南雲瑠璃花ならもっと適切な処置ができただろう。
 だが、エリにとってはそれが精一杯だった。



――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 ――焦りが、彼女の体のバランスを崩す。
「あぅ!」
 こけた。手で地面をつく暇もなく、顔面を地面にしたたかにぶつける。
「ふぇ、ふぇ…………」
 痛い。痛くて、痛い。
 ……もう、駄目だ。
「ふぇ、ふぇぇぇ……うわあぁぁぁぁ……」
 耐え切れずに、大きな嗚咽がこぼれ始めた。
今泣いたら確実に悪い結果につながるとはわかっていたのだが、
 どうすることもできなかった。
「わぁぁぁぁぁん!!」
 子供のように甲高い大きな泣き声が、ダンジョンに響き始める。
この階層に入ってから戦闘した回数は四度、ほとんどの敵を倒したはずだった。
だが、すぐにでも敵は押し寄せてくるのだろう――自分たちに、ハタを立てるために。
「うわぁぁあああああ…………うわああああぁぁぁん!!」
 泣き叫びながら、エリは前に進もうとした。光り輝く脱出口とは、一メートルの距離もない。
あとほんの少し前に這いずることができれば、帰ることができる。それなのに。
 手が動かない。足も動かない。念じても、祈っても、何も動かない。
「うわああああああああああああああん」





――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――







 処置を終えても、出血が止まったかどうかはわからなかった。
闇の中では、正確な傷の状態を掴むことはできない。
回復薬を使えば確実に出血を止めることはできたのかもしれないが――ないものをねだっても仕方がない。
 そしてそれよりも気にするべきことがあった。小波が口を開く様子がなかったのだ。
「つ、椿さん! ……あうっ!」
「……どいてろ」
 何をすればいいかわからずに椿を頼ろうとしたところで、
いつの間にか近寄っていた椿に、エリは突き飛ばされた。ごろんと一回転して地面を転がる。
 叩きつけられた方に走る痛み。涙が再び眼に滲む。
 視界いっぱいに広がる地面に向けて、エリは口に入った苦い味のする土を唾液とともに吐き出した。
暗い赤が、その液体に混じっていた。
「ふぇぇぇ」
 じくじくと痛む体。こぼれる涙が地面を汚す。泣いていたかった。泣き続けていたかったが、
なんとか起き上がって、再び小波のもとへ歩を進める。
ちょうど椿が小波の顎を上に持ち上げて、小波の指で口を開いているところだった。
 ちらりとこちらを見て、告げる。
「止血は、上出来だ。……最低限は、できてる」
「ほ、ほんとに? ……よかったぁ」
 かすれた小さな椿の声を妙だと思ったものの、それよりは安堵感が勝った。
ぺたりと地面に女の子座りをして、エリは涙をぬぐい始める。
あまりにも動転していて、敬語を使ってないことも忘れていた。
「……馬鹿が。まだ、助かったわけじゃねえぞ。……呼吸が、止まったままだ」
「――え?」
 椿の言葉に、安堵感が消えて顔面から血の気が引くのをエリは感じ取った。
だが、それだけではまだ終わらない。
「……急いで人工呼吸……といきたいところ、なんだが。……俺には、無理そうだ」
「え!?」
 どさり、そんな音を立てて椿が再び地面に倒れた。
力無く四肢を投げだす大の大人――いつものようにさぼっているというわけではなく、本当に動けないようだった。
 どこかぼんやりとした目つきで、つぶやく。
「肺に穴が、空いた……かもしれねえな。……実際はどうだか、わからんが。上手く、呼吸……できねえんだよ」
 自らの右胸を強く押さえつけている椿。
顔色は相当悪い。暗闇の中では、宇宙人みたいに青白く見えた。
「…………」
 椿の傷が入った唇から紡がれた言葉をエリが理解するには、十数秒の時が必要だった。
 ――じんこう、こきゅう。そういえば、るりちゃんに教えてもらったような。
「だ、だったらあたしがする!」
「そうしろ……いっとくが、躊躇なんて、したら、こいつは死ぬぞ」
「……!!」
 椿から眼を逸らして、エリは小波の唇に顔を寄せた。
生気のない顔。いつものカッコよさは、半減してしまっている。
今更ながらこれがキスと呼ばれる行為であることに気づき、少しだけ顔が熱くなる。
 だが。
「ん……」
 血で赤く染まった唇に、エリは躊躇することなく唇をぶつけた。
 いつもなら、恥ずかしがっていただろう。
 それどころか、逃げだしてしまったかもしれない。
だが、彼をどうしても助けたかったから、エリは逃げることはしなかった。
「……ぷぅ! ……ぷはぁ」
 一度大きく息を送りんだところで、エリの肺が空になる。
慌て過ぎて、大きく息を吸うことを忘れていたのだ。
 だが唇を離した瞬間、彼の口から空気が漏れだした――どうやら、一応成功しているらしい。
 ……次は、どうすればいいんだっけ?
混乱して何をすればいいのかわからなくなったエリに、かすれた声。
「……鼻をつまんで、五秒に一度、二回吹きこめ。まあ……意味がない、かもしれねえけどな」
「ふぅ! ふぅ! ……すぅ、はぁ」
 かすれた声に従って、エリは息を送り続けた。
口づけをしているということを意識する余裕もない。
椿の言葉を否定したくて、ただひたすらに息を送り込む。
 血と泥と涙の味がする、ファーストキスだった。



――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



 エリにはもう、気力が残っていなかった。
 あと少しで基地に帰ることができるのに。
『ほら! 泣いちゃダメだって! もうちょっとだから、ね?』
 神木唯なら、そう言って励ましてくれるだろう。
『泣けるぐらいなら、まだ体力が余ってるでしょ? 頑張りなさいよ』
 白瀬芙喜子なら、そんなことを言うだろう。
『あなただけしかいないのよ。……動きなさい』
 神条紫杏なら、銃を向け冷たく命令してくるだろう。
『すぐに治療してあげますから、ほら、ね?』
 南雲瑠璃花なら、そう諭すだろう。
 それらの言葉は正しい――――正しいのだが。
(……無理だよ。あたしには、無理だもん)
 諦めてしまった。一度諦めてしまったら、もう立ち上がることはできない。
 ごめんね。ごめんね。ごめんなさい。
 胸の内で謝り続ける。何度も何度も謝りながら泣き続けて。
 ――そして。
「ぐすっ……ふぇぇぇぇ……」
 何かの気配をすぐそばに感じて、エリは泣くのを止めた。
現われたのが何であれ、もう何もすることができない。
無残に痛めつけられて、頭にハタを立てられるのだろう。
(どうせなら、痛くない方がいいな。気絶させてくれるといいな)
 恐怖に震えながら、目を閉じて待っていると――





――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――






「げほっ!」
 十数度目の息を吹き込んだところで、彼が自発的な呼吸を始めた。
唾が顔に飛び散って、エリは思わず小波から離れる――体温が、少しだけ名残惜しかった。
「はぁ……ごほっ……はぁ……」
 苦しそうに息を吐きながら、肩を上下する小波――意識は戻っていないようだが、
それでもしっかりと呼吸をしている。
 彼が助かりそうだという安心感に、身体の力が抜けていった。
「ふぇぇぇ……よ、よかったぁ〜……ふぇ、ふぇぇぇ……」
「……上出来、だ。……さて、どうする? ……状況は、絶望的だ」
 泣き始めたエリに向かって、椿が地面に倒れたまま声をかけてくる。
エリとてそれに反応しなくてはいけないとわかっていたのだが、涙を止めることができない。
「……泣きながら、聞いとけ。……恐らく、脱出口があるのは、向こうだ」
「ふぇぇぇぇぇ……ぐすっ?」
 どうにか椿の方を見たエリに、椿は視線で一方を指示して小さく笑った。
 それは引きつった、どうしようもなく不器用な笑顔。
それが椿が子供に向ける精一杯の優しさだということを、エリは知らない。
「そう、遠くない。だが、ガキの力じゃ、俺を、運ぶのは、無理だろうな」
「ふぇぇ……あ! メ、メガネ君に手伝ってもらって…………あれ?」
「……あのメガネの坊主なら。ハタ人間に、連れ去られてたぞ」
 投げやりに吐かれた言葉。それが嘘だということに、エリは気づかなかった。
 椿がエリについた、最初で最後の嘘だった。
「そ、そんなぁ……」
「まあ……この坊主だけなら、なんとか、運べるだろ。……俺は、後で、迎えに、来ればいい」
「だ、駄目だよぉ! つ、椿さんも、い、一緒に帰らないと!」
 男が苦手なエリにとって、椿は恐怖の対象だった。
ぶっきらぼうで、優しくなくて、怖い。それなのに助けようとした理由はいくつかある。
『椿を仲間だと思っているから』恐らくその答えがもっとも奇麗な理由だ。
 だが、それは一番の理由ではない――この時点では彼女自身さえ気づいていない、醜い理由がある。
「帰る? ……どこに、帰るんだ?」
「……え?」
 近寄って、椿の身体を揺さぶって――――瑠璃花の忠告を忘れ――――いると、
唐突に椿の声色が変わった。目を閉じて、耳を澄まさないと聞こえないほどの言葉をつぶやき始める。
「どうせ、なくなっちまったんだ。帰る場所、なんてのは、どこにも、ない」
「つ、椿……さん?」
 ぶつぶつと意味のわからない言葉を口にしだした椿に、エリは恐れを感じた。
あまりの重傷で意識が朦朧としているのだろうか? 疑念を抱くが、答える人間はいない。
「……馬鹿らしい、話だ。結局、なにも、残ってない」
 椿の視線は空中を見つめながらも、どこも見ていなかった。
高熱にうなされる病人のように、あるいは死の淵で錯乱する老人のように、
エリには決して理解できない言葉をたんたんと呟き続ける。
 錯乱しているのだ。痛みに。出血に。
 ぞわぞわと背筋が寒くなるのを感じながら、エリは語りかけた。
「か、帰ったら。夏菜が美味しいご飯が、作ってる、から。
お風呂にも入れるし、怪我も、るりちゃんが治してくれる。
……みんな、待ってる、から。かえら、かえら、ないと……ふぇぇぇ……」
 それは椿のための言葉ではなく、自分を鼓舞するための言葉だった。
早く誰かに甘えたい。誰かに。ユイ、フッキー、るりちゃん、委員長、夏菜、リコ……
友人たちの姿を思い浮かべながら、エリは椿に手をさしのばした。
 その手を掴んでほしかった。椿のことは怖いけれど、それでも掴んでほしかったのだ。
「……はっ」
 椿は目の前に差し出された手に、少し驚いたようだった。
同時に正気を取り戻したのだろう――再び不器用に笑って。
「どうせ、ハタが、立つだけだ。死にはしねえ。……さっさと、坊主と、逃げちまえ」
 囁き、椿は瞳を閉じた。
「つばき……さん……」
 エリの望みをかなえることなく、椿が意識を失う。
 静寂に包まれるダンジョン。エリを助けてくれる人間は、誰もいなくなった。
「ふぇ……」

 誰もいない。ユイもフッキーも委員長も夏菜もリコもるりちゃんも。誰もいない。
 誰もいない。寂しい。怖い。痛い。泣きたい……
 ……泣きたい、けど。
 あたしが、がんばらないと。

 そう思えたのは、奇跡だとすら呼べたかもしれない。
普段なら間違いなく大声を出して泣いていた。泣いて、そこで終わっていたからだ。
だが、彼女は覚悟を決めた。頑張ろうと決意して、動き始めた。
 その覚悟が新たな災いを呼ぶなどと、思いもしなかった。


 





「んっ……しょ。ん……しょ」
 ずる、ずる、と、椿の体を引きずりながら、エリは前に進んだ。
先に椿を移動させようとしたのは、彼女が自分の体力のなさを自覚していたからだ。
もし、先に小波を移動させて疲れ切ってしまったら、
椿を移動させるのは不可能になる――そうすれば自分はきっと、椿を見捨てて逃げることになるだろう。
 そしてその逆は、おそらくあり得ない。
 見捨てればいいじゃねえか。
 そんな声が聞こえた気がした。きっとそうすることが、最善の策なのだろう。けれどエリにはできなかった。
 できるはずも、なかった。
「ん〜!!!」
 椿の体は予想以上に重たかった。成人男性――それも、日々の訓練を欠かさない鍛え抜かれた身体。
普段のエリなら絶対に移動させることのできないが、それを可能にする手段があった。
 手に光る、三つの指輪――――一つはエリのリュックサックの底にあった青い石がはめられている指輪。
去年の夏に瑠璃花の母親を助けるために、彼女に渡したものだが、
運よく必要以上の石が集まったため、小波に指輪に加工してもらい、ゆずってもらった、エリの宝物だ。
 もう一つは椿が指にはめていた機械の指輪。最後の一つは小波の白く光る宝石がはめられた指輪。
よくわからない原理ではあるが、その三つすべてに筋力が増す効果があったのだ。
「んっしょ、んしょ……ふぅ」
 ずるずると椿の身体を引きずる――――自分でもよい知恵が浮かんだものだと、
エリは自分を褒めてあげたくなった。帰ったら、小波君に褒めてもらおう。
ユイも、みんなも、フッキーでさえきっと褒めてくれる。褒めてもらって、撫でてもらって……
(……あ、そうだ。みんなで遊んだりするのもいいかも)
 遊ぶのは、きっと楽しいだろう――――女の子だけではなく、男の子も一緒でもいい。
誰か一人ぐらいは誕生日が近そうだし、それを祝うとかそんな感じで、パーティをしちゃったり。
 きっとおいしい料理が出て、面白いことを誰かが言って、それで、それで……
「えへへ……」
 幸せな未来を想像して、エリの顔がほころぶ――そうでもしないと、泣き出してしまいそうだった。
暗闇の中、ひとり笑う自分は狂っているように見えるかもしれない。
そんな考えも浮かんだが、意識しないように足を動かす。
 一歩。一歩。小さな一歩を何度も重ねて、エリは前に進んだ。
 そして――
「……あ!」
 光が視界に飛び込んできた。幻ではないだろうか――眼を擦って確かめる。
「……や、った」
 頭が痛むほど眩しい光は、光源が近くにあることを示していた。
嬉しさに勢いよく、椿の身体を光る地面まで引きずる。
脱出口は、脇にあるスイッチを押さないと作動しないタイプだ。
 椿だけ先に送ることも考えたのだが。
(……もし、使えなくなったら困っちゃうな)
 誰かが脱出した後、出口が消えてしまう可能性に思い当たる。
可能性としては低いだろう――――だが、
この脱出口がどういった原理なのかが分からないため、零でないことも確かだ。
それに、どっちにしろ小波を助けないと、脱出する気はない。
 エリは踵を返し、足音を立てないように注意しながら小波のもとに向かう。
幸いなことに敵の気配はない――自分の勘を完全に信じているわけじゃないが、
すぐ近くにいるということは、たぶんないだろう。そう思った。
「小波君……」
 彼のもとにたどり着いたときには、もう大丈夫だと思った。
 大怪我を負っていた彼を、肩を貸すように持ち上げて。歩き始めて、数歩進んで。
「あぅ!」
 そこで場面は冒頭に戻る。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 ――頑張ったところで、エリには無理だった。
 彼女の友人たちのように、強くなどなれなかった。
 だが。
「……?」
 柔らかく、温かいものが頬にぶつかって、エリは眼を開いた。
ぼんやりとした視界の中、可愛らしいオレンジ色が見える。
「ふぇ?」
 ぬめぬめしてて、温かくて、いい匂い。
モンスター? そう思ったが、それにしてはあまりにも優しい匂いだった――――ぱちぱちとまばたきをする。
右目だけがはっきりと見えてきた。左目は、黒と赤が混じってよく見えないが、それはともかく。
「……」
 ぽん、ぽん、すり、すり。じゃれつくように体をエリに擦りつけてくる生き物、それは。
「ふえ? むぐ?! むーー……」
 驚いてエリが叫び声をあげようとしたところで、
その生き物――――しあわせオタマは、エリの口元にぶつかってきた。
まだ小さい、もしかしたら子供なのかもしれない。オタマが逃げようとも攻撃しようともしないのは不思議だったが、
モンスターであることは変わりがない。
「ひぇ、ふぇ、ふぇぇぇぇぇぇ!?!」
 慌てて振り払ったところで、エリは自分の身体が動くことに気づいた。
痛み、疲れているが、動かすことができる――――――こんな非常事態でも、まだ自分は怠けていたのだ!
 それを自己嫌悪する間もなく、エリは傍らの小波の手を掴んだ。
 握り締める。決して離さないように、強く。
「ん……しょ!」
 少し前、ちょうど倒れている椿の真上で、しあわせオタマはふよふよと浮いていた。
まるでエリを元気づけるかのように、何もせずにふよふよと。
 それを見ながら立ち上がる。寝ていたままでは、きちんと小波の身体を引っ張ることができないからだ。
両の足は震えて今にも折れてしまいそうだった。両の腕は感覚がないままだった。
 だが、掴んだままの彼の手の暖かさだけは、確かに感じ取ることができる。
 それを力に変えて、エリは小波を引っ張り上げて、前に進んだ。
 足を踏み出すと、膝が揺れた。腕を引っ張ると、腕の傷が開き、再び血が流れ始めた。
 それでも前に進んだ。一歩、二歩、三歩。
「あ、う!」
 こけた。変な叫び声が喉から漏れる。
今日転んだのは何度目だったのか。疑問に思うが、そんなことを考える暇はない。
 なんとか立ち上がろうとしたところで――スイッチが目の前にあることに気づく。
辺りを見回すと、エリの身体も、小波の身体も、椿の身体も光の円の中にあった。
 助かる、のだ。
「あ……」
 安堵のため息をつくと同時に、視界の端にひょこひょこと動くオレンジ色の塊が見えた。
目で追うと、ちょうど小さなしあわせオタマの背中が暗闇に消えていくところだった。
 それを見つめたまま、手探りでスイッチを押して、エリは。
「……ありがとう」
 小さな声でつぶやいた。その瞬間。三人の体は光に包まれた。





「小波君! 白木さん! ……椿さん!」
 エリの身を包んでいた光が消えると同時に、聞こえてきたのは小野映子の声だった。
緊急時のため、脱出口から出てすぐのところにはいつも誰かが待機している。
今日の当番は彼女のだったようだ――――視線を声のほうにむけると、
椅子に座って彼女は、白いハードカバーの本を投げ出して立ち上がり、エリたちに近寄ってきた。
「小野……さん……」
「エリさん、大丈夫ですか?」
 回復スプレーが噴き出される音がして、ゆっくりと傷の痛みが消えていく。
不安になるぐらい高性能な治療方法――さすがにふらふらする全身に力が入るようにはならないが、
安堵感が体中に満ちていく。
「えっと……」
 喋る気力は何とか残っていた、粘つく口を必死に開く。
「小波君はね……右腕がひどいの。椿さんは……えっとぉ……」
 二人の傷の状態を懸命に喋るエリに、小野が微笑んで手を伸ばしてきた。
頭を優しく撫でられる。ぬくもりに包まれ、品の良い甘い香水の匂いが鼻孔に満ちていく。
「喋らなくても大丈夫ですよ。後は任せてください」
「うん……」
「すぐに人を呼んで、担架を持ってきますから、少し待っててください」
 ぬくもりが離れて、小さな足音が遠ざかっていく――数分もしないうちに、
自分たちはちゃんとした治療を受けることができるのだろう。
「ん……ふぁぁ……」
 大きく欠伸をして、エリは眼を閉じた。
まぶたの裏を見つめがら、握ったままの彼の手の感触に集中する。
温かい。少しかさかさするのは、血が渇いた感触だろうか。
男の子と手をつないでいるということに、気恥かしさはなかった。ただ、幸せだった。
 ――せめて運ばれるまではこの手を離さないでいよう。
そう決心して、もう一度強く握る。指と指を絡めることはできなかったけれど、しっかりと強く握る。そして。
 小さな音が聞こえた。
(…………おと?)
 何かを擦るような小さな音。
例えるのならば、慎重に足音をたてないようにスリッパを引きずっている音。
 音の主が自分のすぐそばにきたような気がして、エリはゆっくりと薄目を開ける。
 手を伸ばしあえば届くほど近くに、よれよれの白衣を着た白髪頭の老人がいた。
(唐沢教授?)
 教授はエリが目を開いたことには気づいていないらしく、
ゆったりとした動きでその手に握るものをこちらにむけた。
 かちり。小さな金属音が耳に入り込み、
「!」
 その瞬間、エリの身体が自らの意思に関係なく動いた。
状況を理解したわけでは決して無い、何をすればいいのかがわかっていたわけでもない。
ただ反射的にとしか言いようがないのだ。小波と教授を結ぶ直線に、エリが身を投げ出したのは。
 ずだん。
 最初の音とともに身体に走った衝撃で、繋いでいた手と手が離れた。
(はなしたく、なかったなぁ)
 ずだん。ずだん。
 銃声は三発。エリの体にあたったのは二発。
 魔獣の革でできたジャケットを貫いて、エリの右胸と左肩に熱線が食い込む。
「あ…………」
 擦れた、意味を持たない音が喉からこぼれおちる。
 肉が焼ける激痛とともに、エリは意識を失った。

















 白木恵理は良く夢を見る。正確には、見た夢を覚えていると言うべきだろうか?
空を飛んだり、海で泳いだり、……何かに追いかけられたり。
真夜中に悪夢で目が覚めてしまうこともあったため、小学校高学年まで母親と一緒に寝ていたことは、
誰にも話せないエリの秘密である――――ともあれ、その日もエリは夢を見ていた。
 幸せな夢だ。小波と恋人同士になって、映画館に行く夢。
大きなスクリーンに映し出された恋人たちの真似をして、口付けをしたその瞬間。
 目が覚めた。


「んー……」
 エリにとって、寝起きの状態は常に気分の良くないものだった。
低血圧なのかどうかはよくわからないが、いつも頭がぼんやりとして体中がだるい。
 何もかも面倒はあったのだが、なんとか緩慢に目を擦って上体を起こす。
布団が身体からはらりと滑り落ち、身にまとっている衣服が目に入った。
ダンジョンに潜っていた時に着ていた服ではなく、白い簡素な服だ。
 だんだんと意識が冴えていく中で、最初に感じたのは病院の匂いだった。
薬臭くて、やだな。胸の内でそうつぶやいて、なんとなく左を向く――――白い壁、
白いベッド、白い床、白い時計、白い花瓶――つまるところ、いかにも病室といった雰囲気の部屋。
部屋を照らすやわらかな明かりは、電球の光によく似たタイプの蛍光灯というやつなのだろう。
 三度瞬きをして、エリは時計を注視して時刻を確認した。
八月三日の午後十一時。ダンジョンに潜ったのが、同じ日の午後二時ごろだったことを思い出す。
「ふぁぁぁ……」
 眠気を払うために、小さなあくびをしたとことで、すぅ、すぅと、
小さくてかわいらしい寝息が聞こえるのに気付いて、エリは視線を下向けた。
 見えたのは、女の子にしては短めに切りそろえられたやや癖のある短髪。
「るりちゃん?」
 エリの友人である南雲瑠璃花――彼女は椅子に座り、
上半身をエリの隣のベッドに預けて緩やかに身体を上下させていた。
 彼女が眠っていることに気づき、慌てて口元を押さえる――――と、
彼女が身を預けているベッドの上に、誰かがいることに気づく。
(あ…………)
 誰か。とはいったのだが、誰であるのかは、すぐに予想がついた。
南雲瑠璃花が安心して身をよせ、眠りにつくことのできる人物など、そう多くはない。
「……よかったぁ」
 エリが死に物狂いで助けた、われらがリーダーの小波。
彼もまた、南雲瑠璃花と同じように、静かに寝息を立てていた。
その寝顔が、少しだけしかめられているのは瑠璃花によりかかられているせいなのだろう。
 静かに眠る二人は、まるで兄妹のように仲が良く見えた。
「……あれ?」
 小波の寝顔をぼんやりとみているうちに、エリはなんとなく違和感を覚えた。
 何か、変な感じがする。なんでだろう? 疑問にすぐに答えを出そうとせずに、
ゆっくりと、エリは自分の額に手をあてた。
少しだけ発熱しているような気がしたのだ。傷を負ったせいかもしれない。
(……傷?)
「いたっ!」
 左肩に手を伸ばして触れた瞬間、ずきりと痛みが走る。
続いて右胸に触れるようとは思わなかった――傷の状態を確認するのが、怖かったのだ。
「夢じゃ……なかったのかな?」
 教授に撃たれた。それを思い出して一人ごちる
何故か怒りは沸いてこない。戸惑いが強く、悲しいのが二番目だろうか。
 まあ、生きていただけでも良かったのかな。小波君も助けることができたし。
 楽観的な考えを浮かべて、エリはもう一度隣のベッドの小波を見た。
 傷一つない、奇麗な顔の小波を。
「っ!」
 違和感の正体に気づき、心臓が大きく跳ねる。
怪我をして、まだ一日もたっていないはず。治療したとしても、傷跡は残っているはずなのだ。
 なのに彼はなぜ、頬に傷が残っていないのだろうか?
「うぅ……」
 吐き気が胸の中に渦巻いて、エリは口元に手をあてた。
混乱した頭ではうまく物事を考えることができず、激しい頭痛が彼女を襲う。
 とりあえずこの部屋から出よう。そう思って、エリはベッドから起き上がった。
瑠璃花を起こすことも考えたが実行は移さずに、そのまま地面に置いてあったスリッパを履く。
 と、コナミが寝ているベッドの向こう側に、もう一つベッドがあることに気づいた。
 なんとはなしにその上を見る。
「……え?」
 いるはずのない人物が、そこにいた。







 針に刺されたような細かい痛みを耐えながら、エリは病室を出た。
頭の中身がミキサーでかき回されたかのように混乱している。
ベッドの上にいた彼――――小波の傷がないだけなら、彼女もどうにか混乱せずにいられただろう。
何か勘違いしたとか、治療の際に傷が消えたとか、適当に答えを出すことができる。
 だが、ベッドの上にいた人物は――――
「……?」
 微かな喧噪が聞こえて、エリは右の前方に意識を向けた。
普段は使われていないはずの扉から、甲高い声が寝起きの頭に届いてくる――――足を引きずりながらゆっくりと近寄ると、
ごく普通の木製の扉に小さな紙が張り付けられていた。乱暴な筆跡で書かれている文字。
『拷問中』
 驚きながら小さく息を飲んで、エリはその扉に寄り添い、ぴったりと耳をくっつけた。
壁の向こうの会話がなんとか聞き取れるようになる。
『年を考えてさ、あんまりひどいのはやめといた方がいいんじゃない?』
『大丈夫、大丈夫! 案外人間って頑丈だから』
『うーん……まあ、いっか』
『そこで諦めてほしくないんじゃが……』
『教授は黙ってて! ふ、ふふふふふふ……』
 エリのクラスメイトである、神木唯と石川梨子。
さらに先ほど彼女を撃った張本人である、唐沢博士。
 おどろおどろしいリコの笑い声に困惑しつつ、エリは扉から離れた。
何となく状況は把握したのだが、どうすればいいのかがわからない。
 迷い、悩み、数十秒思案した結果。彼女は小さく扉をノックした。
我ながらあまりに小さな音しかしなかったと思ったのだが、耳ざとく反応した人物が一人。
『うん? フッキー? 入っていいよ!』
 自分のではない友人の名が聞こえてきて、エリは戸惑いつつゆっくりと扉を開いた。
恐る恐る扉の隙間からのぞき込む。小さな部屋には三つの人影があった。
 椅子に座り、テーブルの上のコップに何かを注いでいるリコ。
 テーブルに肘をつき、少し呆れた表情でリコを見ているユイ。
今日はダンジョンに潜らない日であったためか、二人とも私服を身にまとっている。
ユイは肩が丸出しのノースリーブ、リコは派手な赤と黄の柄で彩られたTシャツ。
 どっちもあたしじゃ着れないかな。そんなことをエリは思った。
「エリ!」
 何を言おうか迷っているうちに、ユイが振り返ってエリの名を呼んだ。
彼女は勢いよく立ち上がり、椅子を蹴飛ばしてエリのもとに駆けつけ、
全力ではないかと思うぐらいに強く抱きしめてきた。
「んむっ」
 彼女がエリの頭を胸に押し付けるように抱きしめたことで、
服の上からでも柔らかいと感じる膨らみがエリの口をふさぎ、呼吸が困難になる。
「ああもう! 本当に心配したんだから! 怪我はもう大丈夫?
まだ休んでた方がよくない? あ、何か飲みたかったりする?」
「むっ……ふぁ、ゆ、ユイ……大丈夫、だから」
 矢継ぎ早に繰り出された質問の大半を無視して、エリは小さく大丈夫だとつぶやき、
ユイの背中を三度叩いた。苦しがっていることに気づいたのか、彼女はすぐに腕の力を緩めてくる。
「その顔色じゃ説得力無いって。ほら、そこの椅子に座った座った!
……あ、やっぱ部屋に戻って寝た方がいいんじゃない?」
「ほ、ほんと大丈夫だから……」
 酸欠になった頭を右手で軽く撫でて、エリは再び大丈夫だと口にした。
ユイが倒れている椅子を元に戻し、手で指示したのを見てくる――座れということだろう。
 遠慮はせずに腰かけて、一息ついたところで、部屋の隅にもう一つ椅子があることに気づいた。
 手入れのされている様子のない、ぼさぼさの白髪頭に、よれよれの白衣を着こんだ――
「教授?」
 唐沢教授。つまりエリを撃った張本人。
彼は異常ほどまでに多い縄で、椅子に縛りつけられていた。
ほぼ、頭だけが縄に覆われていない教授は、まるで蓑虫のように見える――――と、
教授がこちらに視線を向けたのに気付いて、エリはそれとなく視線を逸らして対面にいるリコの顔を見た。
 胸をふんぞり返らせて、リコが喋りだす。
「エリ。よく来たね。無事みたいで何よりだよ。……さて、とりあえずこれを見てほしいんだけど」
「え?」
 妙に楽しそうなリコが指さす先には、ガラスのコップが並んでいた。
彼女が先ほどまで、それに何かを注いでいたことを思い出し、机の上全体を見渡す。
 七味トウガラシの小瓶。牛乳パック。トマトジュースの缶。輪切りにしたレモン。
台所にあったものをそのまま持ってきたのだろう。その他にもさまざまな調味料やなんやらが置いてある。
 タッパーに入った白い結晶が砂糖なのか塩なのか疑問に思ったものの、
それに答えを出すことなくエリはリコに視線を戻した。
「さすがに肉体的苦痛は老人にきつそうだし、超ドギツイドリンクを教授に飲んでもらおうと思って。どう?」
「どう? って言われても……」
 リコの言葉にただ困ることしかできず、エリは困ってユイを見た。
苦笑いをしながら、彼女は小さく両手を上げる。
『お手上げ』
 そういいたいのだと、何となく見当がついた。
「とりあえず豆板醤と七味唐辛子と激辛スナックを粉にして砕いたのを混ぜて水で薄めてみたのがこれ。
こっちにあるのが二倍、こっちのが三倍」
「ど、どっちでも死んじゃいそうなんだけど」
「うーん。だったらこのトマトジュースが主成分なのは?」
「……なんで蛍光色の緑色なの?」
 たんたんとツッコミを入れるのだが、リコは次々にコップを指し示してくる。
十は軽く超えているコップ、そのどれもが人が飲むような色をしていない。
「あ、ところでエリ」
 ため息をつこうかつくまいか迷ったエリに、割り込むような形でユイが話しかけてきた。
いつまでたっても話が進まない。そう思ったのだろう。
「なんで教授がエリを撃ったの?」
 小波君なら直球ど真ん中のストレートって表現するのかな。
 そんなことを思うほどまっすぐに質問されて、エリは息をのみこんだ。
「……え?」
「え? じゃなくて。小波君と小野さんが担架を持ってくる間に、
教授がエリを撃ったって聞いたけど?」
「…………」
 意味がわからずに、エリはぽかんと口を開けた。
そんな彼女を見て、心配そうにユイが声をかけてくる。
「エリ?」
「あ、うん。……そ、そうだったんだ」
「あ、気絶してたとか? ……椿さんもエリもボロボロだったもんねぇ、小波君と違って」
「…………」
 おかしい。そう思ったものの、エリは声を出せずにいた。
ユイの口ぶりは、明らかに小波が怪我を――少なくとも大きな怪我を負っていないものだった。
 そんなはずはない。そんなはずはないのに。
「でもさ。いくら教授がどうしようもなく胡散くさくて、
いつも危ないこと考えてそうで、いかにも怪しい物ばっかり作ってて、
『わしの時代が来る!』 なんてことを吐く危ない人だからと言って、
いきなりエリを撃つって気はしないと思うんだけど。どう?」
「いや、それだけあれば十分じゃん?」
「…………」
 すらすらと述べた口上をリコに一瞬で肯定されて、ユイがキョトンとした顔を浮かべた。
ゆっくりと頷いて、手をポンと鳴らし、爽やかな笑顔を浮かべる。
「そういえばそうだね!」
「な、納得しちゃだめだよ……」」
 全身を覆う謎の倦怠感に、エリは小さくため息をついた。
そのまま教授の方に視線を向ける。
いつものように。こちらを見ているようで見ていない。そんな瞳で教授が口を開く。
「……もしかして、と思うんじゃが」
「?」
「わし、ピンチ?」
「今更?!」
「三十分も縛りつけられてたのに!?」
 ユイとリコの驚いた声が部屋に響いたのだが、それを気にする余裕もなく、エリは素早く考えをまとめ始めた。
 まずは――――全てを知っているであろう教授と、二人で話をしたかった。
(今は、ユイたちに部屋から出て行ってもらったほうがいいかな)
 そう想い、教授をかばうような言葉を吟味する…………答えは右肩に走る痛みとともに、エリの頭に浮かんだ。
「…………えっとね」
 エリが小さくつぶやいたことを、ユイとリコが見逃すことはなかった。視線をエリに向けてくる。
「あたしたちが出口に入ったとき、いっぱい変なのがおっかけて来てたから……
も、もしかしたら、その、地上にまで敵がおっかけてきてたの……かも」
「えっと。つまり、モンスターを撃とうとして間違えてエリを撃った?」
「う、うん……」
 困惑したようなユイの声に、小さく頷く。
それは丸っきり嘘ではあったのだが、それなりに説得力があるはずの言葉だった。
「うーん……」
 少し困ったように、ユイとリコが眉を傾ける。
エリが嘘をついていることに、二人とも感づいているのだろう。
ユイはこの二年半で培ったエリとの絆で。リコは生来の勘の鋭さで。と言ったところか。
 もっとも、二人とも確証を持つまでには至らなかったようだが。
「……納得はできるけど、納得できない感じだね」
「ユイ、それ同じ同じ」
 会話を交わして、二人は教授を見る。
「まあ、だいたいそんな感じじゃ。さすがに天才のワシでも銃を撃つのはなれてなくてのぉ」
「じゃあ、なんでさっきまで何も言わなかったの?」
「言ったところでお主たちは信用せんかったじゃろ? 殺気だっとったし」
「それはまあ、そうだね」
「…………」
 すぐさまリコが指摘した言葉を軽く受け流し、教授が不敵に笑う。
場の空気は穏やかなものではなかったが、
なんとかごまかせそうだと、エリは小さく安堵の吐息を吐きだした。

 その吐息を目にして、ユイは口を開きかけた。
嘘をつかれた明らかな証拠を目の前にしたため、追求しようと思ったのだ。
 だが、彼女はそのまま口を閉じた。
 胸に浮かんだ考えが、口を閉じさせた。

「あ、あのね。ちょっと教授に聞きたいことがあるから……その」
 吐息を吐いてすぐ、エリはユイとリコに交渉を持ちかけようとした。
できるだけ早く、教授と話をしておきたかったからだ。
「……私たちには聞かれたくないこと?」
「う、うん……」
「…………」
 訪れた沈黙はわずかなものだった。まずかぶりを振ってリコが椅子から立ち上がる。
「ま、小波もそろそろ起きそうだし。これぐらいにしとこっか」
 踏みならすような足音をたてながら無言で去っていく彼女は、
控え目に表現したとしても、とてつもなく激怒しているように
見えた――――蝶番が壊れそうなほど激しく扉が開いて、閉じる。
それと同時にユイが立ち上がった。彼女はいつものように太陽のような明るい笑顔をエリに向けてくる。
「外で待ってるから、無理しちゃダメだからね?」
 声を出すことなく頷いて、エリはユイが部屋を出ていくのを見守った。
再び扉が開いて、閉じた後、エリはゆっくりと教授を見た。
 少しだけ困ったように、教授は喋り始めた。
「とりあえずこの縄を外してもらえんかのう。ワシ、そろそろトイレに行きたいんじゃが」
「…………話しながらでも、いいですか?」
「うむ」
 椅子から立ち上がろうとして、激痛が身を襲う。
完全に癒えたわけではない傷が、筋肉が動くたびに痛みを発して、エリの身体を苛んでいた。
 手のひらが汗ばむのを感じながら、どうにか教授が縛りつけられている椅子に近寄って、
エリは紐の結び目を探し始めた――――男性という存在が苦手なエリではあるが、
さすがに老人に恐れを抱くということはあまり無い。
「お主が聞きたいことは分かるんじゃが、答えたくないのう」
 ちょうど結び目を見つけたところで、教授が言う。
ベッドの上にいた、今はまだここにいるはずのない人物について尋ねようと思っていたエリの出鼻がくじかれた。
「どうしてですか?」
 疑問を返しながらも、エリは人差し指の爪を紐と紐の間に押し込み、結び目を緩めようとした。
縛り方が適当なうえに力をかなり加えているせいか、結び目は全く緩む様子がない。
「面倒だからじゃ。……いろいろとな」
 ため息とともに声を出した老人は、ひどく疲れているように見えた。
面倒というのは本当なのだろう。もっとも、エリは引くつもりなどない。
「えっと……」
 交渉に慣れていないエリには、どう出ればいいのかさっぱりわからなかった。
結局、素直に持っているカードを出すことしかできない。
「お、教えてくれないなら……みんなに、さっきのが嘘だって、ばらしちゃいます」
 それは愚策といえたのかもしれないが、今回に限っては正解のようだった。
肩まで縛られているというのに器用に肩をすくめ、教授が喋る。
「しょうがないのぅ。聞くといい」
「え、えっと……どうして」
 息を飲む。血液がどくどくと流れる音が頭に響くのを感じながら、問いを投げた。
「どうして、メガネ君が帰ってきてるんですか?」
 先ほど、ベッドの上にいた人物――それは、メガネことオチタだった。
彼はまだ、ダンジョンにいるはずなのだ。一緒に帰還はしなかったし、
エリらがダンジョンから帰還してまだ一日もたってないため、救助隊が彼を助けて帰還したとも考えられない。
「お前さんたちとは別に、に一人だけ帰ってきた、ってのは考えられんのかの? それならおかしくないじゃろ」
「そ、そんなはずはないです! ……だって、椿さんがハタを立てられたのを見たって言ってたし」
「ふむ? ……それはそれでおかしな話じゃが」
「え?」
 教授がもごもごと口の中でつぶやいた言葉を、エリは聞き取ることができなかった。
 だが、そんなことを気にすることなく教授は言葉を続ける。
「まあ、いいじゃろう。実のところ、お前さんももうわかっとるんじゃないか?」
「…………そ、それは」
 確かに、そうだ。いやいやながら認めて、エリはため息をついた。
爪を結び目の隙間に押し込み、広げようとしながら囁く。
「……オートリピートシステム」
「うむ」
 消え入りそうな自分の声に間髪いれずに反応されて、エリは動揺し、手元を狂わせた。
 人差し指の爪に、ひびが入った。

 オートリピートシステム。
 たとえダンジョンの奥深くでモンスターやハタ人間にやられたとしても、
自動的に基地に戻ってくることができるという画期的なシステム――――それは、
非常に便利に聞こえるシステムなのだが、大きな問題点があった。
 正確には戻ってくるのではなく、あらかじめ作っておいたクローンを起動させ、記憶を移し替える。
そう言ったシステムなのだ――――つまり、自分が一度死んだあと、そっくり同じ人間が後釜に座ると言うこと。
 『ほとんど一緒なんじゃから、何も問題はないじゃろ?』
 そんな教授の誘い文句に、頷く者などいるはずがない。
エリはそう思っていたし、彼女の友人たちも残らず断ったと聞いていた。

「あ、あんなの、みんな断るにきまって――――」
「それはまあ、そうだったんじゃが。仕方ないじゃろ?
万が一のことを考えたら、最低でも一人はあのシステムを使う必要がある」
「そ、それは……そうかも、しれないけど」
 反論することができずに、エリはしぶしぶと肯定した。
胸に湧く苛立ち――教授に対してと、反論できない自分に対しての。
 その両方を握りつぶすかのように、汗まみれの手を握り締める。
「その中でも一番適任なのはリーダーに決まっておるからのう。
誰も承諾せんかった場合、強制的になるのも仕方あるまい」
「強制…………え? む、無理やりだったんですか?」
「無理やり、と言うのは少し違うのう。ただ、何も説明せんかっただけじゃ」
「そ、そんな……」
「まあ、今、病室で寝とるあの小僧には説明したが、
受け入れてはいるようじゃったぞ? たいして変わらんのだし」
「…………」
 絶句して、エリは右手を胸に押し当てた。
心臓の激しい鼓動が手に伝わり、耳鳴りが聞こえそうなほど不安定な気分が胸に渦巻く。
 少しずつ断崖絶壁に追い詰められているような焦燥感――それを飲み込むように唾を喉に流し、エリは言葉を紡いだ。
「そ、それで、どうして……その、今日は――」
「『爆発しなかったか』かの? 理由はわしにも分からん。誤作動としか言いようがない。
……いや、作動せんかったんじゃから、誤作動とは言えんじゃろうが」
「…………」
「小僧の反応が途絶えたもんじゃから、ワシもてっきり作動したもんじゃと思っての。
すぐにあの小僧のクローンを目覚めさせたんじゃが……本当に、面倒なことになったわい」
 教授の話はそう難しいものではなかったが、
寝起きのエリにとっては少々理解するのに時間がかかる内容でもあった。
 無言で縄をいじり続けること数分、ようやく状況を理解して、エリは口を開く。
「つまり、今は」
「あの小僧が、この世に二人いるということになるの」
「…………」
 言おうとした言葉を先に言われて、エリは小さく嘆息した。
 しかし、まだわからないこともある――――そしてそれはおそらく、もっとも重要なことだ。
「そ、それで……あたしが、あたしが助けた小波君は……どうなったんですか?」
 身を切るような寒気に耐えながら、エリは口を開く。
唾が足りないのか、かすれて、消えてしまいそうな声しか出ない。
 それでも教授が聞き逃すことはないだろうと、エリは確信していた。
「それを知ってどうする気じゃ?」
「え?」
 事実、教授は即答してきた。どこかいやらしい――さげすみの感情がこめられている――笑いを含んだ声に、
エリは眼を見開いた。背筋に冷たいものが走り、だんだんと体中が冷たくなっていく。
 そんな感触に耐えることができずに、エリの目頭が熱くなっていった。
「あ、あたしは……あたしは、ただ……ぐすっ、ふぇ、ふえ……」
 口を開いたところで答えを言うことはできずに、エリは瞳から涙をこぼし始めた。
ぽたぽたと床に落ちる雫を見つめることしかできずに、口を閉じる。
「ふーむ……」
 エリが泣き始めたことに、教授が動揺する様子は全くなかった。
疲れのこもった言葉を口にしてくる。
「まあ……ワシとしても中途半端に知られるよりかは、全部知られた方がいいような気はするのう」
「ぐすっ?」
 聞こえてきた想定外の言葉に、エリは嗚咽を止めた。涙を袖で拭いて、教授の後頭部に視線を向ける。
「わしの研究室の奥にある部屋に行くといい。そこにあの小僧がおる」
「…………いいんですか?」
「うむ。まあ、その前に一つだけ守ってもらうことがあるがの」
 身体を大きく揺らして――おそらく、ずっと同じ体勢で体が強張ったのだろう。
教授が、少しだけ声色を真剣なものにした。
 白髪が揺れて、老人特有の匂いが鼻に届く。
「このことはわしと、ヒナコと、あの給食員とやらの……ええっと」
「小野さん?」
 ボケが始まっているのだろうか。そんな失礼なことを思いながら口をはさむ。
「そう、そいつ、小野じゃ。それと、椿とかいうホームレス」
「ほ、ホームレスじゃあ、ない……ような……気も……」
 教授の無遠慮な言葉に一応否定はしたものの、椿がホームレスではないという確証は持てず、
エリの言葉はだんだんと小さくなって、消えてしまった。
「それはどうでもいいんじゃが……とりあえず、いま言った四人以外にはあの小僧のことを言ってはならんぞ」
「……?」
 意図が分からずに、エリは小さく首をかしげた。
困惑を感じ取ったのか、ふぅ。と教授が大きく息を吐き出す。
出来の悪い生徒にいら立ちを覚えたかのような溜息――まさしく、その通りなのだろうが。
「どうして、秘密なんですか?」
「このことを知って、前と同じようにあの小僧に接することができるか?」
「え? そ、それは……」
 口に出した問いに即答されて、戸惑いながらも考える――――気にしない方が、どうかしているだろう。
もしかしたら、普段と変わらない態度をとることができる人物もいるかもしれないし、
ゆくゆくは皆がそうなるかもしれないが……
「まあ、時間がたてばその辺は解決するかもしれんが。
わざわざ無用な混乱を起こすわけにもいかんじゃろ? 隠せるうちは、隠しておいた方が妥当じゃて」
「でも……」
 納得はできない。そう思ったものの、反論を口に出すことはできなかった。
彼女の友人である白瀬芙喜子、あるいは神条紫杏なら気の利いた反論――それも皮肉の
たっぷり利いた――を口に出せたのかもしれないが、エリはあまり口げんかの強い方ではなかったのだ。
「あれ?」
 ふと、疑問を思いついて、ぱちくりとエリは瞬きをした。
そのまま口元に手を伸ばし、眉をひそめて、考え込むようなポーズをとる。
 椿とヒナコについては、小波のことを言っても大丈夫な理由はなんとなくわかっていた。
椿はまさしく生き証人だ――そのうえ、余計なことは口外しないだろう。
さらに、クラスメイト達とは違って、情に流されることもないはずだ。
 ヒナコは教授の最も近しい人間であるし、唯一といってもよい弱点もある。
事情をあらかじめ説明しておいたほうが、都合のよいこともあるかもしれない。
 しかし。小野映子についてはさっぱりわからなかった。手を縄へと戻しながら、質問する。
「椿さんとヒナちゃんはなんとなくわかるんだけど……小野さんはどうしてなんですか?」
「ん? どうしても何も、あの女がこの状況を作った原因じゃろうに」
「え?」
 意味が分からずに、エリは小首を傾げる。
教授は何の感情も声には込めずに、たんたんと言葉を紡いできた。
「帰ってきたほうの小僧を始末して、お主とあの男の記憶をいじろうと思っとったのに、
あの女が邪魔したおかげで、全部台無しになったんじゃよ」
「…………」
 あんまりと言えばあんまりな言葉だったのだが、やはり怒りはわかなかった。
教授がこういった人間であるということは、去年の夏と、今年の夏で嫌というほど分かっている。
 それに、よくよく考えると、間違っていると言い切れない部分もあるのだ――もっとも、
それはエリが決して受け入れることのできないものでもあったが。
「…………」
 会話が途切れる――――だからというわけでもないが、唇を噛みしめながらエリは手の動作を止めた。
幸か不幸か、紐は緩む気配が全くない。
「はぁ……」
 ゆっくりと、深々と、エリは溜息をついて縄から手を放し、教授から離れた。
そのまま背を向けて部屋のドアへと向かう――背後から少し慌てたような声が届いた。
「む? 紐がまだほどけておらんようじゃが?」
「そのまま」
 無感情に、
「漏らしちゃってください」
 つぶやいた。教授がぽかんと口を開いた気配を感じながら、
エリは扉を開いて廊下に出た。溜息と同時に後ろ手に扉を閉める。
 教授の恨み声が聞こえたが、聞こえなかったふりをした。







 部屋から出て数メートルほど離れた窓際の廊下に、ユイは所在無くぽつんと立っていた。
扉に耳をつけて立ち聞きしていたかもしれない。部屋を出るときに、一瞬だけそう思ったのだが、その心配もないらしい。
あたりを軽く見まわすが、リコの姿はない。恐らく病室に小波の様子を見に行ったのだろう。
ふと、エリは病室で小波に寄り添うように眠っていた瑠璃花のことを思い出した。
(……ちょっと大変なことになりそう)
 陰鬱な気持ちがさらに強くなり、熱のこもった吐息が漏れる。
「はぁ」
「ん? ……あ、エリ!」
 その吐息でエリの存在に気づいたらしく、ユイが盛大に足音を立てながら近寄ってきた。
「エリ。大丈夫?」
 けだるげな様子を見て――あるいは先ほどの吐息を疲れによるものだと判断したのか、
彼女は心配そうに声をかけてくる。
「うん……もう大丈夫。病室に戻るね」
「つきそおうか?」
「い、いいよ。向こうにはるりちゃんもいるし」
 おそらく、自分ははた目から見て相当に具合が悪く見えるのだろう。
それを自覚しつつ、エリはユイの提案をやんわりと断る。
「……うーん」
 ユイは少々迷ったようだった。小さく唸った後、腕を腰に当ててエリをじっと見つめてくる。
気恥ずかしさと、後ろめたさに、エリはそれとなく目をそらそうとしたが……どうにか耐えて、ユイを見つめ返した。
 ここで目をそらしたら、変に疑われてしまう。そう思ったからだ。
ユイとエリの付き合いは濃い――下手に隠し事ができる関係ではない。
「まっ、エリが大丈夫だって言うなら大丈夫かな。あははっ」
 真剣な表情をしていたユイだったが、一瞬で明るい表情になり、かんらかんらと笑った。
自然とエリのほほも緩む。ユイが笑った。というだけで、ずいぶんと心が軽くなったような気がした。
「じゃあそろそろ、教授を解放してあげないとね。縛られてるだけでも、結構つらいだろうだし」
「そ、そうだね。……あ、ハサミがないと、教授の縄解けないかも。結構堅かったから」
 わざわざひもが固いことを伝えたのには、もちろん理由がある。
教授に対する恨みはもちろんあるものの、仕返しをするのは正しくないと思えたのだ。
 そして。
(結局、片付けをするのはヒナちゃんだろうし)
 そんなことに気づいたからでもある。
「そう? じゃあ、ゆっくりハサミとってこようかな。一時間ぐらいかけて」
 エリの葛藤を知ってか知らずか、ユイが少し意地悪く笑ってそんなことをいってきた。
――彼女が自分のために怒っていることを、うれしく思う自分は少し意地が悪いのだろうか?
自然な感情なのだと、思いたいのだが。
「ふふふ……でも、それはやめといたほうがいいかも。教授、トイレ行きたがってたし」
「うわ、それはまずいね。じゃ、ちょっとハサミとりに行ってくるよ。エリはちゃんと身体休めといてね」
 大きく目を開いて驚きを表現したユイは、視線を一度教授が閉じ込められている部屋に向けた後、
エリの肩に手を伸ばし、とんとんと叩いた。気遣ってはいるのだろうが、痛みにエリの顔がゆがむ。
「う、うん。じゃあ、また明日」
「うん、また明日。ちゃんと身体を休めなよっ!」
 別れの言葉を交わすと、すぐにユイは踵を返して歩いていく――と思いきや、
数歩も進まないうちに半身だけ振り返った。二人の視線が絡む。
「エリ」
「……?」
 名を呼ばれて、戸惑いの表情を浮かべながらエリはユイの顔を見つめる。
「…………やっぱなんでもない、じゃっ!」
 ユイは何か言いたげな表情でしばらく迷っていたものの、
手を上げて再び方向転換し、全速力で立ち去っていった。
一瞬で小さくなった背中に手を振る――姿が見えなくなって約十秒後、エリは大きく息を吐きだした。
全身は相変わらず痛いんでいたものの、休んでいる暇などあるはずもない。
(まず、研究室にいかないと……)
 足を引きずりながら、エリは歩き出した。







「し、失礼します……」
 研究室に入ると同時に、独特の匂いがエリの鼻腔を満たした。
病院の匂いとはまた違った匂いだ――頭痛がしてくるシンナーの匂いと、焼けた金物の匂い。
匂いに耐えきれずに、思わず鼻を押さえると、微かな痛みが走った。
こけた時にぶつけた切り傷が残っているのだろう、肌の感触も少しおかしい。
あまり触らないほうがよさそうだと手を離し、エリは部屋を見渡した。
 研究室はいくつかの部屋から成り立っている。廊下から入って最初の部屋は、
完成した道具や細かな素材、エリが一生使い方を理解しないであろう大小様々の工具が置かれている。
 たこ足配線のコンセントから伸びる、触手のような線を踏み越えつつ、エリは部屋の奥に進み、
大量のメモが張り付けられた白い扉を開いた。
「失礼します……」
 もう一度小さく声を出し、二つ目の部屋に入る。
二つ目の部屋は素材を加工したり、組み合わせるための部屋のようだった。
さまざまな機械が作動しているためか、部屋の隅でクーラーが稼働しているにもかかわらず少々暑い。
鼻につく匂いも強くなったため、再び手を顔にかざしたところで、声。
「……エリさん?」
 見やると、部屋の奥――三つ目の扉の前に、小野映子が椅子に座っていた。
きょとんとこちらを見つめながら、手にしていた本を閉じる――――ほんの数時間前に読んでいた本と同じものようだった。
「もう大丈夫なんですか?」
「は、はい」
「そうですか。本当に……よかった」
 満面の笑みを浮かべて、小野はゆっくりと立ち上がった。
今度は本を投げ出すようなことをせずに、椅子の上に置いてエリの元に歩いてくる。
「えいっ♪」
 唐突に抱きしめられ、エリの顔にユイよりもかなり大きくて柔らかいものが押しつけられた。
「んぎゅっ」
 暖かくて気持ち良くはあるのだが、非常に息苦しい――――妙な声を上げながら、
エリはじたばたともがいて、脱出しようと試みる。
「あら、ごめんなさい……」
 謝罪とともに、小野が手の力を緩める。
大きく息を吸いながら顔をあげると、抱きしめられながら見つめあう形となった。
「……あの、小野さん」
「どうしました?」
 まっすぐな視線が少々気恥かしく、エリはやんわりと小野の胸元を押した。
抵抗されることはなく少しだけ距離が離れる。そのままエリは、小野の背後にある扉を見つめた。
「この部屋に……その、いるんですよね? 小波君が」
 その言葉は、小野にとっては想定外ではなかったようだった――――もっとも、
この部屋にエリが来たという時点で、推測できることではあるだろう。
 首をひねって、小野がエリと同じように扉を見る。
「……はい」
 肯定の言葉が、少し悲しげな横顔とともに紡がれた。
「えっと、会ってもいいですか?」
「……あまり、お勧めはしません」
「え?」
 小野がエリのほうを見る、が、エリと視線を合わせることはなかった。
普段の柔らかな物腰は変わっていないのだが、瞳にはどこか暗い雰囲気が漂っていた。
「現状を伝えたら、小波君が少し錯乱してしまったんです」
「さ、錯乱?」
「はい。少し、暴れて……」
「そんな……」
 小野の言葉は、エリにとって信じられないことだった。
小波と会話ができるようになって約一年――エリも小波のことをそれなりに知ったつもりだった。
男の子らしく、少々荒っぽいところもないわけではないが、彼は基本的に優しい性格の持ち主だと、そう思っていたのだ。
 少なくとも、『暴れた』などと表現されるような行動をとる人物ではない。はずなのに。
「無理もないことだとは思います。自分がもう一人いるということだけでも、
受け入れるのは難しいでしょうし、最悪の場合――――」
「…………」
 困ったように眉を傾けながら口ごもった小野に、エリは追及しようかと半歩だけ近寄った。
だが、言葉を出すことができずにすぐに離れる。
最悪の場合――――それは、エリにも想像できないことではなかった。
教授が彼にしようとしたことを考えれば、答えは一つしかない。
 沈黙が場を支配したが、それは長いものではなかった。
小野がようやくエリに視線を合わせて、口を開く。
「会いたい、ですか?」
「はい」
 シンプルなその問いに即答して、エリは扉を見た。
よく見れば、古めかしい錠前がついている――まるで、牢獄のようだ。
「わかりました。……どうぞ」
 小野がポケットに手を入れ、扉に近寄った。
エリもそれに続きながら、大きく深呼吸する。
 小野がトントンと扉をノックする。
 ぎしぎしと音を立てながら、扉は開かれた。




「し、失礼しまーす……」
 今日三度目となるセリフを呟きながら、エリは部屋に入った。
その途端、どこかどんよりとした空気が身体にまとわりついてくるのを感じる。
負のエネルギーに包まれた、とでもいえるかもしれない――もちろん、そんなことがありえるはずもないのだが。
 ともあれ、やや視線を下向けていたエリが最初に目にしたのは、大きなベッドだった。
狭い部屋の三分の一ほどの面積を占めているそれは、意外なことに清潔感あふれる純白のシーツに覆われている。
おそらくヒナコがこまめに洗濯しているのだろう――なんとなく、微笑ましい気持ちになる。
 少しだけ視線を上げると、小さな扉がベッドの向こうに見えた。
エリたちと同じように、シャワールームとトイレを兼ねているものなのだろう。
「…………エリ?」
 そしてもちろん、そのベッドの上にはエリの目当ての人物がいた。
エリが死に物狂いで連れて帰ってきた人。エリが淡い恋心を寄せている人。
頬に醜い傷跡が残っている――――小波だ。
 消え反りそうなほどの小さな声でつぶやく彼を、エリは少しだけ戸惑いながら見つめた。
「そ、その。怪我……だいじょうぶ?」
 ベッドには近寄らずに、問いかける。
異常事態であり、相手が好意を抱いている人物とはいえ、
密室に男性と二人きりということは――何故か小野は部屋に入ってこなかった――、
エリには少々恐怖を感じることだったのだ。
「ああ。もう動けるぐらいにはなったよ。エリはどうなんだ?」
「あ。あたしも大丈夫。全然平気だよ」
 ぶんぶんと、顔の前で手を振る。
「その割には動きが硬いな、とりあえず座ったら?」
「う、うん……」
 ベッドの端を指ししめられて、エリはおずおずと近寄って、腰をおろした。
筋肉が悲鳴を上げ、思わず小さなうめき声が口から洩れる。
「エリ」
「え?」
 エリが座った直後に、小波が深刻な声色で名を呼んできた。
「とりあえず、助けてくれてありがとう。本当に感謝してる」
「う、ううん……お礼はその、……つ、椿さんに言ってあげて」
「ん?」
 素直に礼を受け取ることができなかったのは、小波の表情がどうにも気になったからだ。
真剣な表情をしている小波は、傷跡さえ気にならないほどかっこよく見えたのは確かだったのだが、
 それと同時に、
「あ、あたしはただ……ちょっとだけ、その、ちょっとだけだったから」
 怖い。何故か、そう思ったのだ。
「……さっきさ。椿が来たよ。エリに礼を言っておけって」
「え?! あ、あんなに大怪我してたのに……」
「ああ。小野さんに軽く小突かれて、悶絶してた。ははっ」
「あ、あははは……」
 右手で頬の傷をなぞり、小波が小さく笑った。
つられてエリも笑うが、どうしてもひきつったぎこちない笑顔にしかならない――――それを見てか、
小波が表情を曇らせる。呆れ、怒り、不満、恐怖――さまざまな感情をこめた、悲しい顔。
「ところでさ、エリ、聞いてくれよ」
「え?」
 見るだけで胸が締め付けられるような表情の小波の口から飛び出した言葉は、
「なんかさ、俺がもう一人いるらしいんだ」
 語気が荒く、妙に早口だった。
「……」
 何も言えずに目をそらす。
それを小波は見ているのかいないのか、さらに声を荒げながら喋り続ける。
「しかも今は、俺じゃなくて向こうが本物らしい。
『向こうが先に目が覚めたんじゃし、仕方ないじゃろ?』……そう、言われた」
「…………」
「なあ、冗談なんだろ? こんな、理不尽な!」
「冗談じゃ!」
 知らないうちに、大きな声を出したことを彼の顔を見て悟る。
ばつの悪さをかみしめるように目をそらし、エリは小声で続きを囁いた。
「……ないの」
「…………」
 沈黙が部屋を支配する――とはいっても、あまり長くは続かなかった。
部屋から逃げ出してしまいたいのをぎりぎりで踏みとどまったエリは、
再び彼に視線を戻し、口を開く。
「その、あたしももう一人小波君がいるの見たから……るりちゃんと、一緒にいた」
「…………そんな」
「あ、あたしもあんまり言いたくないんだけど……嘘じゃ、ないの」
 小波の顔があまりにも深い、淀んだ絶望に染まったのを見て、
 この部屋に来なきゃよかった。
 そう、エリは思ってしまった。
「悪いエリ。一人にしてくれないか? ……八つ当たりしそうだ」
「……こ、小波君」
「頼む」
 憔悴しきった声。それに従うべきだわかっていたが、できなかった。
何か声をかけなくてはいけない。そう思ったのだ。
「……わ、わかった。その、部屋に戻るけど」
「けど?」
「明日、来るから。……その、えっと、だから……えっと」
 必死になって言葉を紡いだはいいが、それ以上何もいえずに口を閉じる――
「……ああ。ありがとう。エリ」
 予想外の感謝の言葉に、エリははっとして小波を見た。
 少しだけ、小波の表情は柔らかくなっていた。わずかながらも光明が見えた気がして、
エリは立ち上がって、扉へと向かった。
「えっと……おやすみなさい」
 扉を開けて、部屋を出ていく直前、エリはもう一度小波のほうを見て言葉をかけた。
「ああ、おやすみ」
 小波がちゃんと返事をしたことで、エリは安堵を覚えた。
これならきっとすぐに元気になってくれる。そう思ったのだ。

 そんなはず、なかったのに。

続く

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