大学水準の西洋哲学として知っておくべきことのすべて


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---------------------------------------------------------------------------- A イエス

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 ユダヤなど、古代ギリシア・ローマの華々しい文明にとって較べれば、ただただ荒涼たる辺境の荒野にすぎなかった。しかし、この辺境の地から生れた新たなる精神が大ローマ帝国を覆い、中世ヨーロッパ文明を形成していくのである。それは、多神教と多くのポリス(都市国家)とをもつ多元的世界から、唯一神と唯一のローマ教皇庁としかない中央集権的な一元的世界への改編であり、この一元化への原動力は地中海的のものではなく、オリエント的なものだったのである。
 しかし、逆に、当時のユダヤの状況と言えば、むしろ多元的な状況にあった。すなわち、サドカイ派やファリサイ派の他にもさまざまな宗教集団が活躍し、ユダヤ教の統一的解釈など成立たなくなっていた。また、政治的にも、衆議会ばかりでなく、大祭司たちもまた格別の実権を握り、そのうえに、ローマから派遣されたユダヤ総督やローマから支配権を認められた分国王などもいて、これらの微妙な力関係の上に数々の問題が山積していたからである。このような状況は選民としてのユダヤ民族のアイデンティティの危機に基づくものであった。というのは、彼らは神から与えられた律法を厳格に守ることでこの異民族支配から脱しユダヤ民族の栄光の国が約束されているはずなのだが、ローマ的生活様式はいやおうなく日々のなかに浸透し、地中海的世界に暮してヘブライ語のできない人々(ディアスポラ)も数多くいたのである。また、政治的にも、その上層ほどユダヤ民族の選民性を固く信じながらも、現実的には、強大なローマの支配の前には妥協していくしか道はなく、またその妥協ゆえに一般民衆から批判されるという矛盾に立たされていた。
 このような状況の中で、エッセネ派の影響を受けた洗礼者ヨハネはまっこうからユダヤ民族の選民性を否定し、最後の審判の近いことを告げ知らせ、悔い改めを求めた。つまり、彼は聖書にある旧約(ユダヤ民族に約束された栄光の国)を反故にしたのである。そして、このヨハネの破壊的宣教の上に、イエスの福音という創造的宣教が行なわれる。すなわち、ユダヤ民族に限らず、神の信仰者にはすべて新たな栄光の国が約束されるのである。ここをもって、ユダヤ教は世界宗教へと飛躍する。しかし、キリスト教がユダヤの民族宗教の殻を脱ぎ捨て、また、世界に受入れられるようになるにはさまざまな紆余曲折を経る必要があったのである。

洗礼者ヨハネ(Joannes Baptista AD1C初頭)
 ユダヤの宗教者。前1C末、すでに年老いた祭司夫婦の子に生れ、成人して、AD26年ころから、エッセネ派と近い立場をとりつつも、ヨルダン川一帯で独自の宣教活動を始めた。すなわち、もはやこの世の最後の審判の近いことを告げ知らせ、ユダヤ人たちの選民としての慢心を戒めて悔い改めを求め、このしるしとして、ヨルダン川で人々に洗礼をほどこした。しかし、彼は、自分は神の啓示を受け、神の名で語る預言者などではなく、より偉大な方のたんなる先ぶれにすぎない、と言っていた。また、彼はローマにおもねるイェルサレム派(衆議会やサドカイ派、ファリサイ派)を批判していたため、その教団には反ローマ的民族意識が充満し、なかには過激な政治的革命を志している連中も含まれていた。
 イエスもまた、この教団の評判を聞いて、仕事も家族をほうり出して入信するが(27)、数ヶ月の後には、この教団との思想的な違いを意識するようになって、一部の人々を引き連れて分派となっていく。というのは、ひとつには、洗礼者ヨハネの宣教はあらぶる神の怒りを説いての信仰への脅迫であり、イエスが考えたような、人々を許し、いつくしむ神の救済の福音(喜ばしき知らせ)とは異なるものであった。また、もうひとつには、ヨハネの周辺の武力闘争によって反ローマ的政治的権力を掌握しようとしている現世主義的な連中の考えと、イエスの逆説的な現世肯定主義(苦しむ人こそ幸せである、その人にこそやがて訪れる天の国への救済が約束されているから)ともあいいれないものであったからである。
 それでも、イエスは後々まで洗礼者ヨハネを預言者以上の者として尊重していた。しかしながら、イエスもまた独自の宣教を始め、洗礼を行なうようになると、人々もまたイエス派の方に流れはじめ、ヨハネ派の方は衰退し始めた。
 ガリラヤの領主(ローマ領内の分国王)ヘロデ王は、この洗礼者ヨハネを評価し、彼の言葉に深く耳を傾けていたのだが、しかし、王が兄弟の妻と結婚したことを彼が諌めたため、城内の牢屋にとじ込めていた。とくに問題の王妃は自分の身分を危うくする彼を憎み、殺してしまおうとまで考えていた。29年、王の誕生日の祝宴で、王妃の娘サロメが見事な踊りを披露したので、王は喜んでそのほうびにどんなものでもやろうと誓ったところ、王妃とその娘サロメは、ヨハネの首を望んだ。王は多くの客人の前で誓ってしまっていたためにひっこみがつかず、やむなく彼の首をはね、盆にのせてこの母子に渡した。
 ヨハネの支持者たちは、この後、イエス派に合流した。イエスはヨハネの生まれ変りとして、この後、民族の期待を一身に担うことになる。

ナザレトのイエス(Iesus BC4c-DC30c)
 伝承のイエスと史的イエスとはわけて考えなければならない。しかしながら、史料があまりに少ないためにどうしても推測の域をでない。また、史的イエスの生涯、イエス自身の思想を問題とすることは、ときには伝承を含めて形成されてきた教会の歴史的正統教義と対立することになり、学問的な困難さを伴っている。そして、それは、福音書などの教会内部史料に関しても言えることであり、ローマ関係や教会の内部対立などいくつかの事件はわざと隠蔽して記述していると思われる節がある。以下、推測ながら、できるだけ史的な姿を整理してみよう。
 彼が生れる年には、皇帝アウグストゥスの命によって住民登録が行なわれた。このため、養父と母マリアとがガリラヤ(ユダヤの北の地方)のナザレトからイェルサレムの南の町、ベトレヘムを訪れている間に彼は生れ、ナザレで育った。養父は家具大工であり、近くの町々を巡回して仕事をしていたらしく、また、彼も養父について同じ職の修業をしていただろう。しかし、彼が十九の時に養父は亡くなり、以後、彼が生計を担わなければならなくなったらしい。
 ところが、彼が三十才のころ、ヨハネという男がユダの荒野から、選民としての慢心を戒め、悔い改めを叫び、ヨルダン川一帯で洗礼という儀式を始めた。彼も、この男の評判を聞き、突然に、仕事も家族もほっぽりだして、この男の教団に身を投じてしまうのである。親戚たちは、彼はどうかしてしまったのだとあきれるばかりであった。そして、この洗礼者ヨハネは領主にも批判的であり、この教団は反ローマ、反イェルサレム的感情に満ちており、危険集団としてイェルサレム派(衆議会やサドカイ派、ファリサイ派)から目をつけられていた。そして、やがてイエスはヨハネに評価されるようになり、この教団の中でナンバー2に祭り上げられていくのである。教団周辺の急進革命主義者たちもまた、彼に革命成功後の権力と栄光とを約束して、その指導者となることを数十日に渡って説得し続けたらしい。だが、彼は、この教団との思想的な違いを意識するようになり、この誘惑を振り切った。折しも、洗礼者ヨハネは、ヘロデ王に逮捕されてしまった。そこで、のちの使徒アンドレ他とともに教団からその年のうちに別れ、ガリラヤに帰った(27)。
 しかしながら、彼もまた教団のナンバー2として当局からは当然ながら危険視されており、イェルサレム派の目を避けるように、各地を転々し、ナザレトにも戻るが、母マリアはともかく、親戚にはいい顔をされるわけもなく、町の人々からも崖からつき落とされそうになった。それでも、彼は各地で、救いの神の国は近いという福音を宣べ伝えて歩いた。これは、人々には、彼が近々、反ローマ革命を起こす意志表示として誤解され、次第に評判と期待と人気が高まり、弟子たちは日増しにふえていった。そして、さらに、彼は各地に弟子たちを派遣し、教えを広めた。こうなってくると、かつては彼を蔑んでいた彼の親戚たちもその教団の中核に入り込んでしまうようになった。一方、洗礼者ヨハネは領主ヘロデ王によって殺害されてしまい(29)、彼はユダヤの反ローマ革命の夢を一身に担わされることになる。また、弟子たちの他に、彼の名をかってに語って活動する集団も現れ、福音の運動は彼の手を離れてひとり歩きをはじめてしまう。
 しかし、彼を愛を説く温和な人物としてばかり思い浮べるのはどうかと思われる。というのは、彼は、病人や卑しき人々を慈しむ優しき心とともに、また、自分のためには弟子たちに家族も命も捨てるように求め、福音を受入れない町々に呪いの言葉をはきすて、サドカイ派やファリサイ派を形式的教条主義として真正面から侮蔑し、鞭で商人たちを追い払って店々をぶち壊す狂暴な激しさも持っているのである。この激しさこそ、彼が反ローマの闘士に祭り上げられる理由なのであり、30年、彼が過越祭(民族のエジプト脱出を記念する祭、3月末に相当する)のためにイェルサレムに上京するにあたっては、熱狂的な騒ぎとなった。というのは、その直前にバラバという男とその一味が反ローマ反乱を起こしたからである。この反乱はすぐに鎮圧されたが、ただでさえ祭で高ぶっているユダヤの民族的感情は、この事件によってさらにふくれあがった。それゆえ、この祭に各地から集まる誰もが、評判の彼が上京する以上、ここで何か事を起こすにちがいない、と思っていた。そして、イェルサレム派もこれにそなえてイエスの暗殺を企てた。しかし、彼の激しさはけっして政治的なものではなく、むしろ、内面的な厳格さであったのである。
 政治的な危険はとどまるところを知らず増大し、彼は神殿から商人たちを追い出し、堂々とサドカイ派やファリサイ派に対する批判を祭に集まった人々に説教をしている。これを見て、イェルサレム派は彼を、祭が終り次第、始末してしまおうと決断した。ところが、そこへ使徒のひとりのイスカリオトのユダの方から相談にやってきた。その理由は不明だが、もしかすると、イエス自身の指示にもとづくイェルサレム派との和解の下交渉かもしれない。というのは、反ローマ運動はイエスの本意ではないにもかかわらず、もはやこの点に関する民衆の熱狂的期待は彼の手にも負えなくなっていたからである。ところが、イェルサレム派こそ、表面ではローマにおもねりつつも、内心はプライド高い民族意識を持ち、ローマへの嫌悪を鬱屈させていた人々だったのだ。
 ユダはイェルサレム派とイエスとが夜、ひそかに会う機会を設定した。しかし、イェルサレム派もまた大勢の武装した人々でやってきたので、イエス派も武器をふりかざして争乱になりそうになったため、イエスは大祭司の屋敷に行くことになった。弟子たちは外で待っていたが、明け方になっても会談は終らなかった。次第に様子の変化を察して、弟子たちは姿を消していった。
 イエスは、イェルサレム派にとっては飛んで火に入る夏の虫であり、さんざん痛めつけて、神殿冒涜と反乱の扇動者として裁判にかけた。そしてまた、この時点では、民衆にとっては、イエスこそ、人々に反ローマ革命の期待をつのらさせておきながら、あと一歩というところでおじけづいて自分の支持者をローマに売ろうとした許しがたい裏切者だったのであり、それまでの信頼はそれだけ深い憎しみに変った。
 ローマ側のユダヤ総督も、ガリラヤを支配し、洗礼者ヨハネを殺害し、ちょうどイェルサレム滞在中だったヘロデ王も、評判だった彼をなぶりものにしたものの、申立てのような罪状を見つけることはできなかった。しかし、それでも、民衆もイェルサレム派も彼を死刑にすることを求めた。というのは、民衆は、彼が民族の裏切者であるがゆえに憎み、また、彼の口から反ローマの仲間や作戦などがもれることを恐れたからであり、手のひらをかえしたように、ローマ皇帝こそ我々の王と、心にもないことを叫んで、ただイエスひとりをローマにさからう反逆者に仕立てて殺そうとした。また、祭には一人の罪人を釈放することになっていたので、イェルサレム派も、自分たちの批判者で、反ローマとしては無力なイエスを反乱の首謀者にでっちあげることで、現実的な革命家バラバの方を釈放する計略だったのである。ローマ側のユダヤ総督もこの茶番を充分に理解していたが、しかし、イエスに対するユダヤ人たちのあまりの宗教的憎悪にけおされ、すぐ逮捕されたようなバラバ程度のおもちゃをユダヤ人たちに与えても、むしろその方が連中を懐柔できると考えたのかもしれない。かくして、バラバは釈放され、イエスは死刑にされた。


 彼の思想は、ひどく集約的に言えば、《福音の逆説》《律法の本質の徹底》《神と人とのアナロジー》の3つのパターンにまとめることができるだろう。
 《福音の逆説》とは、[この世で不幸なものほど幸せである、なぜなら、神の国に救済されるから]というものであり、このヴァリエーションとして、隠れて祈れ、富を天に積め、家族より神に従え、等々の教えとなる。しかし、この教えは、現世的に誤解されるとき、現在の富みて満ち足り楽しむ人々を暴力的に追放し、貧しく飢え苦しんでいた人々の支配する新たな秩序をうみだそうという革命のきな臭さを伴い、革命志向の民衆を熱狂させるとともに、ローマやイェルサレム派の人々を不安におとしいれた。そして、また、この発想こそ、後に、原始教会が残酷な迫害を受けたにもかかわらず、むしろ逆に信仰をあつくしていった理由である。
 《律法の本質の徹底》とは、生活の細部まで規定して、形骸化し、形式的教条主義に堕してしまった律法を、その根本精神にまでたち戻って再生しようというものであり、このためには、安息日などのどうでもいい律法の細則など、無視してもかまわないことになる。したがって、ファリサイ派などのように律法を厳格に考える人々からすれば、まったくの不敬なやからということになる。まして、イエスがみずからかってに律法をたてるとなれば、それは神の名の僭称として断罪されるべき問題なのである。
 《神と人とのアナロジー》とは、[あなたがひとを許し、救えば、神もあなたを許し、救うだろう]というものであり、また、[ひとを許し、救う者は、神の意志の実行である]とされる。この論理こそ、彼の独創的なところであり、この、言わば「救済のねずみ講」によって神の国は実現するに至るのである。しかし、この救済のプログラムが起動するためには、その発起人である彼は、命を投げうって人を許し、救ってみせ、神と一体化しなければなければならなかったのである。

【律法 torah】
 選ばれたる民ユダヤ人に与えられた神の命令。モーゼの十戒はその典型。とくに、前5Cのバビロン捕囚以来、[民族の苦難は律法への不服従のせいである]と考えられ、律法は熱心に学習されるようになった。しかしながら、この結果、律法は途方もない量の細則を生み出し、日常生活のすみずみまで厳格に規定するに至った。そしてまた、このように律法に細心の注意が払われる一方、その根本精神は次第に忘れられ、形式的教条主義に陥ってしまっていた。

【サドカイ派】
 富裕な地主を中心とする社会階級的集団。大祭司の多くとその親戚などによって構成され、最高法院の議席をファリサイ派と二分していた。政治的にも優越し、支配的地位ではあったが、当時はすでにその影響力は衰えをみせていた。というのは、彼らは貴族的な少数派であって、民衆の支持が薄く、思想的にも保守主義に凝り固まっており、ユダヤ教内でも浮き上がっていたからである。すなわち、彼らは聖書の中でも古い『モーゼ五書』=『創世記』『出エジプト記』『レビ記』『民数記』『申命記』以外の啓示を認めず、異教の影響下に生じた天使・悪霊・復活・最期の審判などの新しい概念をすべて拒否し、この点では革新的なファリサイ派と争うこともしばしばであった。

【ファリサイ派】
 前2Cのハシデーム(神に忠実な人々)運動から生れた一派。政治性は薄く、律法や伝承を一言一句、忠実に守ることに専念する宗教的潔癖主義者であり、天使・悪霊・復活・最後の審判などの新しい概念を認める点では一般民衆の考えに近かったが、その冷酷で厳格な律法主義は、人々に尊敬されこそすれ、親しまれることはなかった。また、彼らの方でも、少しでも律法からはずれる人と接することは、律法に触れることとされ、人々を避け蔑み、尊大な態度をとっていたのである。しかし、彼らの思想はユダヤ教の正統として、その後、大きな影響力を持つにいたった。

【エッセネ派】
 死海近くの荒野で禁欲的な隠遁集団生活を営んでいた一派。前2Cに「義の師」によって創立され、自派のみを真の神の民とし、異教徒はもちろん他のユダヤ人すらも敵とみなして憎んだ。つまり、彼らは、選民の解釈をユダヤ人の中でも限定して考えており、ローマと妥協的なイェルサレム派(サドカイ派・ファリサイ派)などは、堕落したユダヤ人であって、神の救済の対象とはならないのである。そして、彼らは、聖書(旧約)に精密な注解をほどこして預言的に解釈し、自分たち「光の子」の「闇の子」に対する戦いと勝利、さらには、世界の支配を期待するという、オリエント二元論的な黙示的(神秘主義的)傾向を持っていた。
 洗礼者ヨハネもまた、この一派の影響を受けていたと考えられ、ユダヤ人ならだれでも救済されるという慢心を戒める宣教をした。
 彼らの存在は、1947年の「死海文書」の発見によって明らかになった。この「死海文書」は、彼らと関連するクムラン教団の図書館のものである。彼らの存在は、ユダヤ教内にサドカイ派、ファリサイ派以外にも複数の宗教的分派、秘密結社があったことを暗示するものであり、当時の宗教的状況の複雑さを明らかにしている。

【熱心党(ゼロデ)】
 直接的手段によってユダヤの解放をめざす政治的過激派。ユダヤの一般民衆は、さまざまな宗教教団とは違って、もっと現実的な救済を求めており、そして、とくに熱狂的な愛国者たちは、ローマに支配され、ローマにこびへつらうこともまた、ユダヤの真の王たる神への不服従である、と考え、革命的反乱を試みるようになった。ただし、どの程度、組織されていたかは不明である。
 このような傾向の者は、荒野のエッセネ派や洗礼者ヨハネ教団などの中にも数多く存在し、イエスの弟子シモンもそうであった。
 おそらく、イエスのイェルサレム入り直前に反乱を起こし、イエスが身代りになって釈放されたバラバもこの関連の者と思われ、また、AD70年のイェルサレム陥落にいたる原因となった反乱を起こしたのも彼らである。小規模のものまで含めれば、彼らは、各地でいくつもの反乱を起こしていたらしい。しかしながら、圧倒的なローマ軍の前には、そのすべてが失敗に終ったのである。

【旧約 Old Testament / 新約 New Testament】
 キリスト教における聖書の区分。すなわち、ユダヤ民族は、エジプト脱出の際に、シナイ山でモーゼを介して、神と、律法への服従と選民としての救済という契約をしたのだが、キリスト教徒にとって、それまでのユダヤ教の聖書に預言されていたメシア(救世主)はイエスの出現をもって成就され終ったのであり、これに対して、イエスが伝えた神の国の福音と、イエスへの信仰こそが、救済の新たな約束、神との新たな契約として意味を持つようになる。つまり、キリスト教においては、律法によってではなく、信仰によってこそ神の救済の約束にあずかることができるようになったのである。
 ユダヤ教は、イエスを聖書に預言されたメシアとは考えず、とくにイェルサレム陥落以来、各地に散在しつつも旧来からの律法をより強固にまもって、それまでの聖書の約束の実現をその後も信じ続けている。それゆえ、当然、聖書は旧約に相当するもののみを用い、新約・旧約の区別もない。
 原始キリスト教会でも、当初はユダヤ教と同じ聖書を異なる解釈の下に用い続けていたが、この旧来からの聖書とともに、しだいにイエスの伝記や語録、教会中心者の書簡等が各地の教会で回覧され、重視されるようになって、新約聖書となり、ローマが東西に分裂して古代が終る4C末に、現在の内容に確定された。
 「旧約」「新約」の名は、新約聖書の中の「コリント後書」3:14に基づき、 200年ころのティルトリアヌスやオリゲネスらによって区別されるようになったらしい。
 また、『旧約』に関して、カトリック教会は4Cのラテン語訳(『ヴルガタ』)を基本に用いているが、プロテスタント教会はその範囲をヘブライ原典に集録されているものに限定し、その他は外典として除外している。

【福音 euaggelion】
 「時は満てり、
   神の国は近づけり、
    汝、悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1:15)
   というイエスの述べ伝えた教えのこと。
 これは、洗礼者ヨハネの宣教「悔い改めよ、神の国は近づけり」と似ているが、だが、ヨハネの場合は、選民であることに慢心するユダヤ人に対する神の怒りと裁きの警告であった。
 しかしながら、これに対して、イエスは、同じ〈神の国〉の到来を「福音」、すなわち、喜ばしき知らせとして人々に述べ伝えた。つまり、彼の言う〈神の国〉とは、悪しき者を断罪するような恐ろしきものではなく、罪を許し、苦しみから解放する救済なのである。そして、この福音は[この世で貧しき者、飢える者、苦しむ者こそ幸いである、神の国では、富み、満ち足り、楽しむようになるから]と逆説的に表現される。また、彼は、このような〈神の国〉の実現のためには、ただ律法を形式的、教条的に守ることよりも、各々が自らもまた人の罪を許し、人を苦しみから救うよう努めなければならないと教えたのである。
 さらに、原始教会のパウロにおいては、〈福音〉とは、メシア(救世主)であるイエスの受難によって人々の罪があがなわれたこと、また、そのイエスが復活したこと、すなわち、〈贖罪〉と〈復活〉とを意味するようになる。そして、この福音を信じることによって、神の救済の約束にあずかることができるようになるとされる。
 したがって、「福音」はまた、イエスの受難と復活とを綴った、『新約聖書』の中の4つの伝記をも意味する。
『マタイ伝』=イェルサレム陥落以降に、マルコ伝などを元に、十二使徒の一人である徴税人マタイに名を借りて、ユダヤ人を対象として書かれた。このために、イエスが旧約に預言されたメシアであることの立証に重点がおかれ、イエスの系図なども整えられ、また、ユダヤ人へのメッセージが「山上の垂訓」としてまとめられている。
『マルコ伝』=4つの福音のうち最古のものであり、65年ころ、十二使徒の代表者ペテロの口述を弟子マルコがローマで書取ったとも言われる。非ユダヤ人向けに書かれており、ユダヤの習慣の説明などにも注意が払われている。内容は記録的であり、イエスの業とその場所に中心がおかれてはいるが、その記述は行動するイエスの姿を生き生きと伝えている。
『ルカ伝』=80年代はじめ、パウロに同行していた医者ルカが、パウロの殉教後、小アジアにおいてマルコ伝を中心に各種の史料を整理・選択してまとめたとされるもの。『使徒行伝』と対になって、イエスの生涯と原始教会の歴史的展開の様子を伝えている。ただし、成立がイェルサレム陥落後であるためか、反ローマ的内容は注意深く削られており、殉教した使徒たちの最期なども書かれていない。
『ヨハネ伝』=独自の史料に基づき、十二使徒一人、ヨハネの名を借りて書かれた黙示的伝記。成立は、90年ごろの小アジアであり、すでにイエスの出来事を知っていることを前提としており、他の福音の補足や神学的解釈を中心として、イエスの行なった奇跡などから彼がメシア(救世主)であることを立証し、読者を信仰に導くことを目的としている。
 これらのうち、『マタイ伝』『マルコ伝』『ルカ伝』の3つは内容的に類似しているため、「共観福音書」と呼ばれる。3つのうち、『マルコ伝』が最古であり、これと、別伝承のイエス語録『Q』との2つの資料に基づいて、『マタイ伝』『ルカ伝』が成立したらしい。しかし、イエス語録『Q』はその存在が推定されるだけで、確認はされていない。
 いずれの福音書もイエスの事件の後、数十年以上たってまとめられたものであり、このために、原始教会の祈祷や教戒、解釈がイエスの言葉の中にまで入り込み、また、伝記の内容も旧約の預言に合うように捏造されている部分もあり、これを歴史的史料として、ここから史的イエス自身の言葉と行ないを再構成するのは容易なことではない。しかし、これ以外の史料はほとんど存在していない。

【山上の垂訓】
 『マタイ伝』5〜6章(『ルカ伝』6章)のイエスの説教のこと。おそらく、断片的な説教の集成であると思われる。しかし、ここに、イエスの基本的な思想内容が簡約的にまとめられていると言うことができるだろう。
 まず、彼は福音の逆説を語る。すなわち、[この世で貧しき者、飢える者、苦しむ者こそ幸いである、神の国では、富み、満ち足り、楽しむようになるから]と述べる。
 つぎに、自分が律法の破壊者ではなく、完成者であることを宣言し、神の国に入るためには、次のように律法の本質を徹底しなければならないことを述べる。すなわち、殺人はもちろん、怒ってもならない、姦淫はもちろん、情欲・離婚してもならない、偽りはもちろん、誓ってもならない、隣人はもちろん、敵すらも愛さなければならない、とされる。
 さらに、信仰は隠れて行なうべき事が教えられる。というのは、人前で信仰をひけらかす偽善者はこの世で評価されこそすれ、神の国では、隠れて人に施し、隠れて祈った人こそ、評価されるからである。また、この世の利益よりも、神の国での幸福こそ求めるべきであることが説かれる。
 また、神と人とのアナロジーが語られる。すなわち、あなたが人を裁くことなく許してこそ、神もあなたを裁くことなく許すのであり、あなたが自分の子供に望む物を与えるように、神もあなたに望む物を与えるにちがいない、とされる。だから、神の恩恵を受けようとするものは、口先だけの信仰ではなく、みずからもまた人に恩恵を施す実行が伴わなければならないのだ。

【受難週】
 イエスの磔刑までの一週間。
  日:エルサレム入城
  月:宮きよめ(神殿から商人たちを追出す)
  火:イエルサレム派との論争、問答、終末預言
  水:イエス殺害計略、香油事件、ユダの裏切
  木:最後の晩餐、ゲッセマネの祈り、逮捕、裁判
  金:ピラトの尋問、死刑判決、磔刑、埋葬
  土:(安息日)
  日:イエスの復活と出現
 各教会ではそれぞれ、毎年この週には受難を記念する行事が行なわれる。

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