---------------------------------------------------------------------------- C フランス啓蒙主義(illumination)
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十八世紀はフランスでは「理性の時代」とも呼ばれ、前世紀に登場したさまざまな思想や科学が一般の人々に理解されるようになった時代である。この時代の思想家たちの意義は、他の哲学者たちのようなその思想の独創性にあるのではなく、彼らが生涯をかけて社会に対して行ってきた実践の中にある。そして、ここにおいては、「哲学」という言葉も、単なる空論の体系ではなく、むしろ、現実の情報に対する博学とそれに基づく行動力を意味した。
カントは、《啓蒙》を定義して、[人間がみずから招いた、他人の指導がなくては自分の理解を用いえない未成年状態を脱すること]とした。つまり、日常の生活において依存しているできあいの思想、制度を破壊して、みずから積極的に合理的なものを再建することである。
このモティーフは、知ってのとおり、デカルトの哲学の根本ではあるが、これを二つの市民革命という形で現実の社会・政治に行ったのは、十七世紀のイギリスだった。とくに、ロックは、宗教的には《信仰の自由》、哲学的には《経験主義》、政治的には《悪政革命権》と、啓蒙思想家の範を示した。
しかし、フランスにおいては、貴族と僧侶が特権を独占する〈アンシャン・レジーム(旧制度)〉下にあって、デカルトのような神学的形而上学を捨て去り、ロックに代表される現実的なイギリス思想を取入れるべきだ、という思潮が高まっていた。
十八世紀前半には、モンテスキューとヴォルテールがあいついでイギリスを訪れ、その思想、社会、政治、宗教、科学に感銘を受け、体制内からフランスの現状批判し、また、イギリス的な思想の普及を始めた。
十八世紀半ば、ディドゥロー、ダランベールらは、明確に市民の側に立ち、積極的に一般市民を啓発すべく、当時の最新の思想・科学を集大成する『百科全書』を編集した。ここにおいて、《フランス啓蒙主義》の特徴である《合理主義》《唯物論》《自由主義》《進歩主義》《理神論》等の特徴が明確になった。
しかしながら、十八世紀後半には、一般市民は、恐怖政治という形で破綻していく革命に失望して、むしろ、秩序の安定を望み、また、同じ《自由主義》でも、ルソー本人の生き方に代表されるような、社会的な〈理性〉の自由よりも、個人的な〈感性〉の自由を重視する《ロマン主義》が起こり、社会・政治問題への関心は急速に薄らいでいった。
ドイツにおいても、《啓蒙主義》の影響はあったが、それはむしろ絶対主義の体制内に取込まれ、〈啓蒙専制君主〉という独特の形態をとるにいたった。というのも、ドイツはあいつぐ戦争に疲弊し、
啓蒙されるべき市民階級はおろか、そもそも統一国家も成立していない状態だったからである。ここにおいて、啓蒙思想を理解するだけの水準に達していたのは、わずかに専制君主たちくらいであったのであり、彼らはみずから啓蒙専制君主となり、「君主は国家第一の下僕なり」と称して、自らの手で制度や社会の改革を行い、産業や学芸を振興して、英仏に劣らぬ近代国家の建設をめざした。しかし、彼らが普及を許した啓蒙主義は、まったく毒のないものだけで、実体は単なる合理化運動であり、むしろ、これによってドイツは、後には英仏とは異なる、ひきしまった強力な国家主義的軍事国家建設の道を歩むことになった。
a)18世紀前半
ヴォルテール(Voltaire 1694-1778)
ヴォルテールは、F・M・アルエのペンネーム。アルエは、パリの公証人の家庭に生まれ、貴族のクラブに出入りし、パリの才気、古典的教養、自由主義思想、ブルジョワ的感性、法律的実務能力を若くして身につけた。二十代では、文学に傾倒し、風刺詩のために一年近く投獄されるが、獄中で悲劇『エディプス王』を書き、出獄とともに上演して、一躍、名声を獲得し、社交界の花形となった。だが、ある貴族との口論のために、ふたたび投獄されることとなり、三十代ではイギリスに亡命し、すすんだイギリス文化に感化され、帰国後、詩や劇作で成功するとともに、『哲学書簡』で、イギリス文化をジャーナリスティックに紹介し、旧態依然たるフランスを批判した。しかし、このため、ふたたび隠棲を強いられ、その後も、各地で、才能ゆえの登用と、しかしまた、その才能ゆえの転進を強いられることを繰り返すこととなる。六十代になってようやく安定した領地を確保し、ここにおいて勢力的に啓蒙活動を展開し、また、不正裁判や社会的偏見などの犠牲者の人権擁護と名誉回復に努力した。晩年の彼の名声は全ヨーロッパに及び、パリでの自作の劇のあまりの熱狂的歓迎に興奮して死んだ。
彼の思想は、形而上学を排した寛容な自由主義に基づく実践的道徳を中心とするものであり、それほど独創的なものはないが、その表現のジャーナリスティックな切り口と、論理明快な批判、文才あふれる風刺は、近代の代表的知識人と呼ぶにふさわしく、また、市民レベルの近代マスコミ文化の基礎を形成したその啓蒙的役割ははかりしれない。
モンテスキュー(Montesquieu 1689-1755)
モンテスキューは、フランスにの軍人貴族の家庭に生まれ、伯父からモンテスキュー男爵位、および、その領地と、法官職を相続し、法服貴族となった。しかし、彼は人文学はもちろん、自然科学に関しても大きな関心をもっていた。また、二人のペルシア人がヨーロッパ、とくにフランスの政治、社会、文化について批判と風刺を交えながら故国の友人に報告するというフィクションで書かれた『ペルシア人の手紙』は、当時の東洋趣味の流行もあって、絶大な人気をはくした。司法官を辞して後は、イギリスその他の国々を歴訪し、社交と学究の生活を送った。革命によって現実化することとなった彼の政治思想は、数十年もの準備のすえに書かれた主著『法の精神』に代表される。独創より実践が特徴である啓蒙思想家の中にあって、彼の構想は独創性をも伴っている。つまり、経験主義者の代表的な哲学者であるロックですら、〈法〉というものをきわめて抽象普遍的にしかとらえられておらず、また、その論証はきわめて思弁的で《合理論》的であったのに対し、彼は法学を《経験論》的に位置づけなおし、世界各国の各時代にさまざまな法が存在するという事実をふまえた上で、現実のそれぞれの社会の状況、生活習慣等から具体個別的に説明し、これによって、それらのすべてをつらぬく〈法〉の精神というものを理解する必要があるとしたのである。つまり、〈法〉というものを、事物の必然的関係とし、自然科学における〈法(法則)〉と同じ地平から眺めようとしたのである。これは〈社会科学〉の方法論的端緒であると言えよう。また、内容においても、〈立法〉〈司法〉〈行政〉の〈3権分立〉論などは、その後のさまざまな国々の政治組織に広く採用され、おおきな影響力を持った。
【『哲学書簡 Lettres philosophiques』 1734】
ヴォルテール
イギリス文化のさまざまな側面を紹介する25通の書簡形式の著作で、『イギリス便り』とも呼ばれる。これは、イギリスを紹介する形をとってはいるが、その内実は〈アンシャンレジーム(旧制度)〉のフランス文化に対する激しい批判であった。表題に哲学とあるが、これは狭義の哲学に限定されるものではなく、啓蒙的な百科全書的知識一般をさすものである。狭義の哲学に関しては、ベーコン、ロック、ニュートンらを引いて、科学と経験とに基づく経験主義を紹介し、また、宗教との峻別、経験を越える問題に対する懐疑的態度を主張する。
b)18世紀半ば
ディドゥロー(Denis Diderot 1713-84)
ディドゥローは、刃物師の家庭に生まれ、パリに出て、哲学、文学、自然学を学び、著述活動に専念する。三十代はじめで『哲学断想』を出版し、《理神論》、《唯物論》の立場を明らかにし、さらに、盲人が触れえない神の存在を否定するという『盲人書簡』では、《無神論》へと変っていった。四十代、五十代はそのすべてを『百科全書』の刊行のために費やし、とくに、その哲学、技術関係の項目はみずから調べて執筆した。また、文学の分野においても、一人称告白体など、近代小説のさまざまな形式を生み出し、これらによって、社会に鋭い批判をくわえた。ダランベール(Jean le Rond D'Alembert 1717-83)は、私生児で、捨て子となったが、市民に拾われて教育をうけ、自ら「ダランベール」という名をつけた。いったんは弁護士となるが、その後、数学や力学を研究し、解析力学の創始者となった。また、ディドゥローらと『百科全書』の刊行に努力し、その総序文や数学関係の項目を執筆したが、ディドゥローらの《唯物論》についていけず、途中で手を引いてしまった。
【『哲学断想 Pense゚es philosophiques』 1746,62】
ディドゥロー
迷信や奇蹟などに依存する宗教に対して、一貫して理性を擁護し、理神論を主張する62の小論と72の追補。宗教において禁欲こそ善とされているが、情念こそ理性の偉大な仕事に導くものである。また、宗教は迷信によって神への恐怖心を植付けて影響力を持っているが、迷信こそ、無神論以上に神を傷つけるものであり、我々は理性を基準に経験に基づいて論理的に考えなければならない。いまだ問題とされたことのないものは証明もされてはいないのであり、懐疑を真理の試金石として、確証のために理性に導かれることこそ重要である。
【『百科全書 Encyclope゚die』1751-80】
正式には、『一群の文筆家によって執筆された百科全書、あるいは、科学や芸術、工芸の合理的辞典』といい、本文17巻、図版11巻、補遺5巻、索引2巻、計35巻ある。これは、ディドゥローとダランベールを中心に、二百数十人の百科全書派(アンシクロペディスト)と呼ばれる人々によって、当時の最新の知識を集大成すべく、政府の弾圧の中で三十年かかって、およそ四千人の購読者のために作られたものである。大百科事典という形式は、すでに十八世紀前半にドイツで作られているが、この『百科全書』の意義は、革命を前にするフランスにおいて果した啓蒙的役割にある。
【理神論 deism】
世界創造主としての〈神〉の存在だけは認めるが、その〈神〉の人格性や、不合理な奇跡等はすべて否定する立場。つまり、その後は、神は法則維持機能としてのみ存在するにすぎない。さらには、世界は、創造神の定めた一定の目的へと発展するように仕組まれた完璧な機械であって、途中での神の介入はまったくない、ともされる。ここにいたっては、〈自然の合目的性〉を認める以外は、かぎりなく《無神論》に近いものとなる。
これは、当然、《有神論 theism 》、すなわち、〈神〉の人格性や奇跡を認めるキリスト教教義と対立し、宗教的権威は、これを弾圧しようとする。だが、それゆえ、逆に《理神論》は、さまざまな体制的権威への反抗の際の思想的支柱として、とくに啓蒙期のフランスにおいて、ひろく受入れられるところとなった。
【唯物論 materialism / 観念論 idealism】
《唯物論》とは、精神的なものより、物体的なものの方を根源的とする、もしくは、物体的なものしか実在を認めない立場。逆に、《観念論》とは、物体的なものより、精神的なものの方を根源的とする、もしくは、精神的なものしか実在を認めない立場。
両者の対立を、古代のエピクロスとプラトンとの対比に見出そうとする見方もあるが、明確になったのは、あくまで近代においてデカルトが〈精神〉と〈物体〉とを峻別して以降のことであり、当初、両論は各哲学体系の2面として並存していたが、〈精神〉と〈物質〉の連関の説明の困難が明らかになってからは、対立するようになる。
《観念論》は、《汎在神論》の発展した形として、はやくも十七世紀には、マールブランシュやバークリーに登場する。つまり、「我々は万物を神において見る」のであり、「存在するとは(神に)知覚されることである」とされる。そして、これが本格的に開花するのは、[観念こそ存在の論理である]と考えたフィヒテ、シェリンク、ヘーゲルという《ドイツ観念論》によってである。
これに対し、《唯物論》は、近代はじめから古代自然哲学の復興とともに知られつつあったものの、十七世紀の《科学革命》を経て、神学的世界観の崩壊による《無神論》と、《自然科学》万能の過信が成立することによって盛んになった。ディドゥロー、ラ・メトリー、ドルバックらがその代表者である。身体を機械とみる発想は、デカルトの中にも含まれていたが、ラ・メトリーは『人間機械論』において、思想は単に脳髄の一状態にすぎないとした。また、世界そのものが法則に支配された巨大な自動機械と考える発想も流行した。このように、身体や世界までを無機的な機械ととらえる発想は、現代科学にまでいたるものであり、医療や環境保護などの分野において、さまざまな問題をひきおこしている。
なお、十九世紀のマルクス、エンゲルスに代表されるいわゆる《唯物論》は、《ドイツ観念論》を吸収し、むしろ、このような《機械論的唯物論》を否定しようとしており、実際はひどく《観念論》的色彩も伴っている。
c)18世紀後半
ルソー(Jean Jacques Rousseau 1712-78)
ルソーは、スイスの貧しい時計屋の家庭に生まれ、母を幼くしてなくし、十二の時からさまざまな徒弟奉公に出されるが、早くも、十六のときにはフランスへ逃げ出し、司祭はだます、奉公先からものは盗む、女はたらしこむ、病気の友達は見捨てる、身分をいつわって金はまきあげる、と、さんざんの悪行を重ねながら放浪とヒモの生活を繰り返していた。また、音楽家をめざしたり、社交界をうろついたり、政治家になろうとしたりしたが、さまざまな理由からことごとく失敗している。当時の啓蒙学者たちとも交流を作ろうとしたが、独学しかないルソーとはあまり話が合わなかった。だが、四十才近くして、このような疎外感を逆手に、お高くとまった社会を徹底的に批判攻撃する『学問芸術論』が地方のあるアカデミーの懸賞論文に当選し賞金をせしめ、にわかに名声を得た。そこで、次の年も、より過激に人間文明を蔑視する『人間不平等起源論』を書いて応募するが、しかし、これは落選してしまった。それでも、この論文を、人間の味方を自称し、その実行でヨーロッパ中の尊敬を集めているヴォルテールに送りつけ、また、彼の劇の上演を妨害するなど、くだらないけんかをしかけたりしている。
このような行動を通じて、ルソーの名はさらに悪名高くなったが、当然、啓蒙学者たちとの対立も明確となり、また、その後の著作によって、政府からも追われる身となって、各地を再び放浪し、人のよいヒュームを頼ってイギリスに亡命したりもしているが、ここでもさまざまなもめごとを起こし、最後にはヒュームにも恩をあだで返すようなけんかをしかけた。その後は、さらに放浪を続けたが、晩年はパリで隠棲しつつ、被害妄想と露悪趣味と反省のかけらもない自己弁護的文章をいくつか残し、孤独のうちに死んだ。
このように、彼自身はおよそ救われ難い人間であるが、にもかかわらず、ここには現代にまで至る〈近代小市民〉の発想法と行動様式が典型的に表れていると言えよう。実際、彼は〈感性〉だけで生きてきたらしい。ものを盗もうと、女をだまそうと、友人を裏切ろうと、[どうしてもそうせずにはいられない、だから仕方ない、やってしまおう、でも私は少しも悪くない、悪いのは、私をそうせずにはいられなくした社会やその場の状況だ]というようなとんでもない自己正当化をやってのけ、すべてに自分は被害者だと思い込むのである。これが社会論、教育論となれば、[人間は本性としては少しも悪くない]という《性善説》と、[間違った社会や教育がすべて悪い]という社会批判、教育批判となり、また、政治思想では、自分自身にしか服従しない《自由主義》となる。
〈感性〉を盾に、無責任に行動するトラブルメーカーとしての〈近代小市民〉たちは、その後、革命を恐怖政治という単なる狂乱へと移行させ、また、今世紀にも、虐殺を平然と繰り返すファシズムを生み出した。そして、現代も、このような〈近代小市民〉たちによってつねに〈集愚〉の危機におびやかされているのではないだろうか。
【「自然に帰れ!」 retour a゚ la nature!】
(『学問芸術論』『人間不平等起源論』など)
〈自然〉と〈文明〉とを対比させ、後者を憎悪し、前者を賛美するルソーの根本思想を表した標語。 人間がそのためにこそ生まれた根源的〈自由〉は、富や権力にしばられ、人為である学問や芸術もまた、美徳の外観を持つだけで、実は、その鎖に加担するものにすぎない。つまり、人為による人の進歩改良にこそ、不平等をはじめとする不幸の原因があり、これを解消するには、自然に帰ることが必要である。
しかし、それは未開に戻ることではなく、生得の善良なる本性を回復することであり、社会や教育もこのことをめざすべきである。
【『エミール』1762】
[人間は本来は善なるものであるが、文明はこれを堕落させてしまう]というルソーの根本思想を教育論として展開したものであり、家庭教師が少年エミールを理想的に教育していく過程を小説風に描いている。
つまり、そもそも人間の共通の天職は人間であることであり、先を急ぐことなく、自然に従って、それぞれの時期にそれぞれの時期を成熟させることが必要である、とされる。
【一般意志】
(『社会契約論』)
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