---------------------------------------------------------------------------- E 初期キリスト教の護教家たち
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a) 使徒教父
キリスト教においては、イエスの時代、使徒の時代に継いで、90〜 140年ころ、使徒(使徒後)教父の時代が訪れる。この時代は、さまざまな教父がキリスト教に関してあくまで個人的意見を自由に述べたにすぎなかったが、しかし、当時の教会にあっては大きな影響を与えた。彼らの時代はいまだ原始教会の延長線上にあり、また、迫害などの苦難を受けて、終末を今日明日のこととして感じられたのであり、その教父たちの教えの内容は、教義ではなく、むしろ明日にも神の国に迎え入れられるキリスト者としての生活態度がちゅうしんであった。それゆえ、もちろん、この中では、唯一神論、キリストの神性と人性、三位なども主張されてはいるものの、しかしながら、パウロ的な信仰義認よりも、イエスによって与えられた新たな律法の順守という業績義認を強調する態度が見られる。また、彼らは教会を重視し、これは、町ごとの各個別の会堂のことではなく、超歴史的、全世界的な組織とみなされるようになっていき、「カトリック(普遍)」と呼ばれるに至った。また、まだ新約聖書は成立しておらず、旧約中心ではあったが、しかし、すでに新約の諸書なども知られてはいた。しかし、それぞれがそれぞれの主張に基づいてかってにそのいくつかのみを重視することとなり、混乱を生じた。そこで、使徒ないし使徒関係者の書で、霊的な品位をもつものを選び、正典とされた。また、教義も、信仰基準も非ユダヤ人が増えるにつれて、当初からの贖罪と復活とを中心とする救済主論に、次第に父と子と聖霊という三位一体論が追加されるようになっていった。
ローマのクレメンス
アンティオケアのイグナティオス
【カトリック(公同)】
「普遍的」というギリシア語。原始教会においては、各地の教会は個々独立であり、それぞれの地の教会の長老を中心に運営されていたのだが、さまざまな教義によるキリスト教四散の危機に際して、アンティオケの司教イグナティオスらはパウロの「体は1つ、霊は1つ、希望は1つ、………、主は唯一、信仰は1つ、洗礼は1つ」という教会観を重視し、言葉が異なろうと、伝統が異なろうと、すべての地の教会は同一であるという大同団結をはかった。さらに、このような正統教会への従属は信仰内容の中にももりこまれるようになり、万物に先立って神は教会を創造したなどという、教会そのものの神話化も行なわれていった。そして、そこでは「教会外に救いなし Extra ecclesiam nulla salus」「教会を母とせぬ者、神を父とせず」とまで言われた。
それは、言わば教会のフランチャイズ(特許)化でもあり、かってな聖霊の僭称を防ぐべく、司教の承認制や、教会内での教義の統一がはかられた。もっとも当初は主要教会、とくに五本山と呼ばれるローマ、コンスタンティノープル、アンティオケア、イェルサレム、アレクサンドリアの総大司教座教会は横並びであったのだが、東方教会のいくかはローマ帝国の版図縮小にともなって異教圏に入り、衰退してしまう一方、帝国におけるキリスト教の国教化をとりつけ、ローマ教会とコンスタンティノープル教会が二大中心となった。しかしながら、ローマ帝国そのものも、4C末には東西に分裂し、ローマ教会がゲルマン布教で多大な成果をあげ、8Cの聖像崇拝論争でコンスタンティノープルを中心とする東方教会と決裂するにいたり、ローマ教会はその総大司教が教皇として決定的な主導権を獲得する。この背後には、ローマは、使徒の長にして全教会の創立者であり、救済の〈鍵権〉を持つペテロ自身が初代司教であったという伝承への信仰もローマ教会に有利にはたらいた。そして、この集権化の過程において、教皇を中心とする巨大なヒエラルキー(階層制)を形成した。
【ヒエラルキア hierachia】
「聖なる者による管理」というギリシア語。カトリックの階層的宗教・人事・行政組織。この言葉そのものは6Cの偽ディオニシオス・アレオパギタの著書からのものである。それによれば、天上界の天使に3序列があるように、地上界の聖職者にも頂点の教皇から、底辺の教会門番まで9序列があるのであり、神の栄光と啓示はこの階層にしたがって段階的に顕現するとされる。しかし、より重要なのは、この階層制が宗教教義上の問題のみならず、信者を含む信仰の発展維持、さらには、教会の持つ領地・領民・軍隊などのまったくの世俗的権益の発展維持のための強力な人事・行政組織として機能したということである。そして、この巨大にして強力な組織は、ゲルマン諸民族内でもさらに細分化されていた諸小国の世俗権力をも統合し、支配・管理するものであり、ヨーロッパの中世は、ローマ教皇を頂点とするヒエラルキーの形成と、世俗権力によるその超克の歴史と言うことができる。
【使徒信条 Symbolum Apostolicum】
広くキリスト教諸教会で用いられる信仰告白文。カトリックでは基本信条中、最初におかれる。カトリック、プロテスタントを通じて、キリスト教の正統的立場の中核をなす教義である。2C後半ころから用いられたローマ信条に基づき、異端説を排すべく加筆され、以下のようになったものだが、後に、これが使徒の権威に帰されるようになり、ミサ典礼に採用されて重視されるようになっていった。
「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリアより生れ、ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に降り、3日目に死人の中よりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来りて生ける者と死ねる者とを審きたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。アーメン。」
【千年説 Chiliasm】
ヨハネ黙示録に基づく神の王国と最後の審判に関する学説。すなわち、世界の終末において、最後の審判に先立つ千年間、地上に至福の神の王国が出現するとされる。神は悪魔を千年間閉じ込め、その間、聖徒たちだけがよみがえって、キリストとともに統治する。この後、悪魔はしばし解放され、異教徒たちをかり集め、聖徒たちを包囲攻撃しようとするが、彼らは天の火で焼きつくされ、悪魔は火の池で永遠に責めさいなまれる。そして、ふたたび、すべての死者がよみがえって、生命の書に名のない者は火の池に投込まれ、生命の書に名のある者は新たになった天地で神とともに不死にして無苦の生活をおくるのである。
このような思想は、神から与えられるべき約束の国というユダヤ教の思想と、最後の審判というペルシア的終末観とが結びついて成立したものであり、また、当時のキリスト教徒迫害やイェルサレム包囲戦(ユダヤ戦争)のイメージなども背景となっている。
いずれにしても、終末だというのに、その最初にさんざん奇怪なものどもが出現した後、千年もの中だるみがあって最後の審判に至るというのは、そしてまた、聖徒たちの至福の国はこの千年だけではなく、最後の審判の後にもふたたび出現するというのは、不思議な時間構成である。
b) ギリシア弁証家
2世紀半ばにおいて、キリスト教は、外なるローマと内なる異端という両面の課題をかかえていた。これに対して、キリスト教は、明確精緻な教義を確立することで、たんなるあやしげな宗教的生活集団から脱し、弁明と反撃とを始めるのである。
すなわち、彼らは、異教異端に対して、唯一神の無からの創造を主張し、神と被造物とを峻別して神に関する不可知的態度をつらぬくことで、かえって合理的哲学の体面を確保した。そして、ストア派やフィロンらの哲学・神学を背景として、〈ロゴス〉を中心概念として用いた。すなわち、神が内なるロゴスを発し、これが世界として創造され、真理として語られ、キリストとして受肉したのである。三位が明確に語られるようになったのもこの時代ではあるが、もっとも、このようにロゴスがいたるところで活躍してしまう以上、聖霊の役割ははっきりしなくなっていた。一方また、ローマに対しては、キリスト者こそ、皇帝の成功を神に祈り、国家の統一を願う人々であると弁明した。
殉教者ユスティノス
アンティオケアのテオフィルス
【思い並べられた/表明されたロゴス logos endiathetos/prophorikos】 テオフィルス
神の内なるロゴスと外なるロゴス
【無からの創造】
テオフィルス(『アド・アウトリュクム』)
c) 異端諸派
以上のカトリック公同教会に対して、それ以外にもいくつかのキリスト教的系流が存在した。これらは勝ち残った後世のカトリックからこそ異端なのであって、当初から異端として成立したものばかりではない。場合によっては、むしろ、使徒やパウロの神学を介するカトリック以上にイエスの教えの直系であるかもしれないのであり、注意を要する。
エビオン派は、エビオンによって創立されたとされる一派であり、ユダヤ教色の強く残っているキリスト教を主張し、律法を無視するパウロ神学を排し、律法の順守を異邦人にも求めるものである。しかし、これも、そのユダヤ教的神話性から、後にはグノーシス派に吸収されてしまった。
マルキオン派は、マルキオンによって創立されたとされる一派であり、旧約的な、義にして創造者なる怒りの神と、新約的な、善にして救済者なる愛の神を分け、また、キリストの受肉を否定した。つまり、彼らはキリスト教からユダヤ教的なるものを徹底して排除し、新約的なるものだけに基づく独自の教義を形成しようとしたのである。しかし、これも、その新旧の神の二元論性から、後にはグノーシス派に吸収されてしまった。
グノーシス派は、ヘレニズム(ギリシア語世界)色に染ったキリスト教であり、啓示の知恵の認識(グノーシス)を重視する諸学・諸宗教混交的な神学体系を形成した。彼らは当初は異端ではなく、むしろ公同教会の中心に位置し、ヘレニズム世界にキリスト教を理解させる大きな力となったのであるが、しかし、言わばその急ぎすぎた神学化は、神の不可知論をとる教会内反動勢力によって言わば背後から徹底的に攻撃されるにいたった。不可知論というのは、いつもおよそ議論の建設性がないくせにその破壊力は無敵なものなのである。こうしてグノーシス派は異端として排除されてしまったが、しかし、実際のところは、その後のゆっくりとしたカトリック神学体系の熟成においては、中にはそこに再び取込まれている発想もあるのである。
なおまた、教義的にはまことに正統的であったモンタノス派もあった。これは、モンタノスによって創立されたとされる一派で、テルトゥリアヌスらもこれに参加していた。彼らは、人々にきわめて厳格な生活を求め、そしてまた、そのような厳格な生活を行なう自派教会のみが救済されるとした。つまり、彼らは、一般教会の世俗的制度化に対する反動であり、また、原始教会当初の終末的危機意識を取戻そうとするものである。この一派は2C末には早くも衰えたが、しかし同種の思想は、その後もさまざまな修道会運動として復興を繰返し、カトリック教会に対する監査的機能を果した。一方、カトリック教会の側は、このような過度に厳格な一派を排除することによって、ますます妥協的なカトリック(普遍)性を強め、それと同時に、霊的交流の場からたんなる世俗的救済保証制度へと変質し、ローマ教皇を頂点とする巨大なヒエラルキーを形成していったのである。
ウァレンティヌス()
エジプトに生れ、アレキサンドリアにおいてヘレニズム風の教育を受け、また、グノーシス主義キリスト教ニ入信し、布教を行ない、エジプト各地で信徒を得た。その後、2C半ばに、ローマ教会へ行って大いに活躍した。そして、司教の地位をめざすが、殉教を拒否したため挫折し、異端とされて教会からは追放されたものの、その後もローマでの布教を続け、ますます人気を勝ち得た。彼は 160年ころ死んだが、しかし、彼のグノーシス主義の教説は、その後1世紀にわたって、エジプトやローマばかりでなく、シリアやガリアにおいても広く信奉された。こうして形成されたウァレンティヌス派において、彼の神学はより精緻に再構成され、神話思弁的になっていった。また、父と子と聖霊という3位の概念を最初に提起したのも彼であるとされる。
【グノーシス主義】
「グノーシス」とはギリシア語で「認識」という意味であり、古代の護教神父たちが論駁の対象とした、信仰よりも神学を重視するキリスト教異端の思想。ところが、グノーシス主義の教義がいかなるであったかに関しては、今日もいまだ明確にはなっていない。というのも、グノーシス主義と呼ばれている分派は単一のものではなく、さまざま傾向の異端を総称していたからである。それゆえ、グノーシス主義は、一説には、ヘレニズム(ギリシア)化されたキリスト教とされ、また、一説には、オリエント(イラン)化されたキリスト教とされ、さらにまた、一説には、異端的ユダヤ教の影響を受けたキリスト教とされる。また、伝承では、ディアスポラ派逃散のころ活躍していたサマリアのシモンがグノーシス主義の祖とされる。彼もパウロと同じく勝手にイエスの名で語っていたらしいが、しかし使徒派に拒絶されたらしい。いずれにしても、それらの異端分派の基本はおおよそ次の3点にまとめられるだろう。
物事にはいずれも本質と非本質があるが、本質的なものは究極存在者と同一であり、非本質的なものは宇宙創造者によって造り出されたにすぎない。そして、この究極存在者と宇宙創造者は敵対している。(《反宇宙的2元論》)
しかし、人間の現実は本質と非本質とが転倒してしまっている。それゆえ、人間は、究極的存在者と同一である自己の本質を認識してこそ救済されるのである。(《救済的自己認識》)
ところが、本質と非本質の分断は絶対的であり、すでに非本質へと転落してしまっている人間は、もはやみずから自己の本質を認識することができない。そこで、外部から、究極存在者と同一であるこの人間の本質の啓示者が与えられなければならないのである。(《救済待望論》)
この発想は、ギリシアのオルフェウス教やイランのゾロアスター教、パレスティナのユダヤ教など、多くの宗教教義からの影響が認められ、ソクラテス・プラトン等のさまざまなギリシア哲学・文学、秘教的占星術・魔術などとの関連も考えられる。また、後には、キリスト教のみならず、他の伝統的宗教の中にも入り込んで、独自の神話解釈を作り出したのであり、国境のない世界帝国ローマが生み出した、全般的宗教傾向と言うことができるかもしれない。
キリスト教グノーシス主義においては、ウァレンティノスやマルキオンがその代表者とされ、彼らは、キリストの父なる神とユダヤ教伝統の創造神とを区別して、前者を後者の上に立て、この世界はこの下級神によるがゆえに不完全であるとした。また、人間の霊と肉とを区別し、霊の認識による肉からの解放をこそ救済と考え、この人間の救済のために父なる神から人間に遣わされたのがキリストであり、それは霊であって、その姿は仮りのものにすぎなかった(仮現説 docetism)とされる。
もちろん、これは、唯一神を立て、信仰を重視し、キリストの人格的受肉を考える正統派教義とはあいいれうるものではなかった。より正しくは、むしろ、このグノーシス主義を論駁することで、正統派教義というものが確立されていったのである。いずれにしても、このキリスト教グノーシス主義は、このような正統派からの論駁のために3Cころには衰退していった。
d) 古カトリック
アガペー型 イレナエウス
エロス型 オリゲネス
ノモス型 テルトゥリアヌス
小アジア派
イレナエウス
彼は、グノーティス派に対抗して、神は思弁によってではなく、啓示によってのみ知られるとし、多くの問題に不可知論的態度をとった。また、グノーティス派が創造の神の救済の神とを峻別したのに対して、両者の同一性を主張した。すなわち、創造の神は、神の似像として人間を作ったのだが、最初の人間アダムはその自由意志を誤用したため、彼とともに全人類は堕落してしまった。そこで、神は当初の計画の完成をとげるべく、みずからキリストにおいて人間になり、第二のアダムとして全人類の罪の責任をみずからに負い、人間が神の似像になる道を〈再復 anakephalaiosis〉したのである。彼は、最初の神学者とも言うべき人であり、彼によってその後のキリスト中心の正統派教義の方向づけがおこなわれた。
アレクサンドリア派
アレキサンドリアのクレメンス
異教徒の哲学者であったが、学究のためにアレクサントリアを訪れ、教師となった。
オリゲネス
クレメンスの弟子であり、アレクサンドリアで教師となるが、司教の嫉妬によって破門され、カイザリアで教えた。キリスト教をより高次の哲学と考え、聖書的啓示と哲学的思弁の統合をはかった。
テルトゥリアヌス(Quintus Septimius Florens Tertullianus c160-c220)
カルタゴに生れ、プラトンやストアの哲学を学び、後にキリスト教に改宗し、ユスティノスに学び、護教論を展開した。律法に従うユダヤ人キリスト教信徒を異端としてキリスト教側から排斥。
さまざまな文書に基づく他派の正当性の主張に対して、さまざまな著作から教会の伝承に合うものだけを選び出して、聖書とする必要があった。
【キリスト教徒の血は収穫の種である】 (『弁証論』50)
【「不合理ゆえに、我信ず Credo quia absurdum」】 テルトゥリアヌス(200)
反哲学主義、反理性主義のテーゼとされる。ただし、これは、不合理が真理の証拠である、というばかりではなく、理解を越えるがゆえに、信じるしかない、ともとれる。しかし、いずれにしても、彼は、信仰と理性とを分け、信仰は、その超合理性ゆえに理性より優越する、としたわけである。
【三一者 Trinitas】 テルトゥリアヌス
旧約の神、新約のキリスト、歴史を通じて人間に働きかける聖霊は、父と子と聖霊として、3つの位格(ペルソナ)を持つが、同一の実体 substantiaである。
タティアヌス()
【心 psyche / 魂 pneuma】
タティアヌス(『ギリシア人への反論』)
心が言語を除いては動物と異ならないものであるのに対し、魂は本性的に不死であり、これゆえにこそ人間は不死なのである。
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