世界はややこしい。そして、ややこしいままでは、始末に悪い。あれも、これも、どうなるかわからず、あっちにも、こっちにも、つねに気をつけていなければならない。でも、世界って、要するにこれだ、という核心のものを知ることができたなら、そして、それさえどうにかすれば、すべて解決。こんな都合のいい答えを探して問いを立てたところから哲学は始まりました。
古代の人々は、たいていどこの国でも、ものごとを神様で説明してきました。花が咲くのは花の神様が、雷が落ちるのは雷の神様が、というように。神様たちというのは、人間には計り知れない権能を持っていて、その力でこの世界にいろいろな物事を引き起こす。そして、じゃあ、なんでその神様は、この世界にそんな物事を引き起こしたのか、と問うことから、花の女神様は地底の神様と結婚したけれど、年一回、春に地上に里帰りするから、というような、やたら人間くさい神話ができてきます。いまの私たちからすれば、そんな神話なんてウソっぱちに決まってる、と思うかもしれませんが、古代の人々からすれば、現に年一回、春に花が咲く以上、そのことがまさにその神話が真実である確たる証拠であり、神話体系は疑う余地のない世界の真相でした。
しかし、あれやこれやの物事のそれぞれに神様をあてがって、その神様たちに複雑な婚姻関係、親子関係を想定し、その神様たちがいろいろな過去のいきさつで、いまだにずっと恩讐を引きずっている、となると、神話体系そのものが現実の世界以上にややこしくて面倒くさいものになってしまいます。
神様の中でも、原因の原因の原因になる、神様の中の神様、大元の神様が決まってきます。となると、いろいろ神様がいるにせよ、まあ、大元の神様に祈っておけばいいだろう、ということになりました。
しかし、祈ってどうにかなるのか。大元の神様が原因の原因の原因なのに、それに祈ってどうにかしてくれるなら、大元でもないんじゃないか。
どうにかこれをズバッと一発で簡単に片づける方法はないだろうか。
いつも遅刻してくる学生がいる。なんで、と聞くと、だって、いつもバスが渋滞で遅れるんです、と言う。いつも遅れるのがわかっているなら、最初からもう一本早いバスに乗ったらいいんじゃないかな、と言うと、だけど、それには、もっと早く起きなきゃいけないじゃないですか、と言う。うん、だから、もっと早く起きれば? 先生、簡単に言うけれど、それができるくらいなら、こんなに苦労していないですよ。なにか起きれない理由でもあるの? ええ、バイトが夜遅くまで入っているんです。そんなバイト、辞めちゃえば? え? なに言ってるんですか? 仕送りだって十分じゃないし、衣食住だって、けっこう大変なんですよ。そういえばきみ、たしかにずいぶんいい時計してるね。ええ、時計は一生ものですからね。これなら就職してからでも使えるでしょ。でもきみねぇ、就職以前に、これだと卒業できそうもないんだけど。ぐぬぬぬぬ……
あっちもこっちも、いつも気を配っていないといけない。たしかに大変です。あっちをどうにかすると、こっちから水が漏れ吹き出す。まるで老朽化した水道配管のよう。でも、それなら、まず元栓を探して締めて、順を追って直していった方がよくはありませんか。
ひとは、毎日、枝葉末節の物事の始末に奔走している。でも、問題が起こってからでは、すでに影響があちこちに飛び散ってしまっていて、よけい始末に手間がかかる。これを解決するには、その根本、大元を断つこと。ミミズの缶詰は、開く前に捨てろ。そうすれば、一発で、ぜんぶ片づきます。
物事には、原因と結果、因果関係がある。そして、その原因には、さらなる原因が。では、原因の原因の原因、と遡っていくと、その大元があるはず。その大元原因のことを、「アルケー」と言います。
哲学というと、宇宙の原理や人生の原理、つまりその根本となるべきものを探求する学問のように言われることがあります。専門的に言えば、それがアルケーです。カネが世界を支配する、とか、愛こそはすべて、とか、有名になったもん勝ち、とか、こういうのも、アルケーでしょう。
とはいえ、アルケーに関しては、哲学の歴史の中で、いろいろなものが登場してきました。いわゆる、XX主義、というやつです。経験主義や合理主義、観念主義や実存主義、さらには資本主義や社会主義までいろいろ。まあ、そういういろいろを勉強するのが哲学の講義みたいになってしまっています。しかし、言うまでもなく、そのそれぞれに根拠があるのか、というと、どうも怪しい。XX主義の中ではXXがアルケーで、XX主義の中ではXXがアルケーであることは当然自明のこと。けれども、それは、XX主義という枠組みの中での話。その枠組みの外側からすれば、なんのことやら。つまり、それは、一種の宗教です。
奇妙な話ですが、XX主義なんて言っている哲学の学説は、どれもこれも、じつはむしろ哲学からもっとも遠いところにあるものかもしれません。ソクラテスにしても、XXこそがアルケーだ、なんて言っているやつを捕まえてきて、ほんとかよ、とまぜっかえす。とはいえ、枠組み次第でなんでもアルケーになる、なんて言うのもまた、相対主義、という別のアルケーになってしまいます。結局、よくわからないんじゃん、っていうのですら、不可知主義、です。よくわからないかどうかもわからない、なんて言ってみても、これまたさらに、懐疑主義、と呼ばれています。
根本となるべきアルケーが何であるか、を論じるのは、なにをアルケーにしても、宗教めいてしまいます。そうではなく、そもそも人間にアルケーを探求できるのかどうか、できるとすれば、どんな方法がありうるのか、を探求するのが哲学なのかもしれません。実際、カントがやったのは、そういう哲学。まあ、軽々しく、これこそがアルケーだ、なんて言っているヤツ。哲学の中でも、XX主義なんていうのを研究しているヤツ。まあ、それこそ根本から哲学をわかっていない、およそ哲学とは関係の無いヤカラであると言うことになるでしょう。
哲学史を最初に書いたのは、「形而上学」のところに出てくるアリストテレスです。逆に言うと、形而上学を最初に始めた者が哲学を興した、ということになります。形而上学については、後に詳しく説明しますが、要するに、目に見える世界の背後にあるものについての学問です。この世にあるモノは、目に見えるものがすべてではなく、見えないけれども確固として存在しているものがあり、それこそがこの世界を動かし決定づけている。目に見えるものごとは、その枝葉末節の結果にすぎない。したがって、この世界を知ろう、理解しようと思うのであれば、枝葉末節の目に見える物事を追い回すのではなく、その背後にある、見えないけれども存在していて、この世界を動かし決定づけている原因、アルケーこそを知らなければならない。
そんな哲学観を打ち立てたアリストテレスに哲学の祖として挙げられたのが、ターレスです。それで、世界中の哲学の教科書は、ターレスに始まります。ターレスは、古代ギリシア、と言っても、その対岸、いまのトルコ西岸にあったギリシア人港湾都市ミレトスで活躍した人。だから、彼と彼の弟子たちを「ミレトス学派」と言います。
古代の人々は、たいていどこの国でも、ものごとを神様で説明してきました。花が咲くのは花の神様が、雷が落ちるのは雷の神様が、というように。神様たちというのは、人間には計り知れない権能を持っていて、その力でこの世界にいろいろな物事を引き起こす。そして、じゃあ、なんでその神様は、この世界にそんな物事を引き起こしたのか、と問うことから、花の女神様は地底の神様と結婚したけれど、年一回、春に地上に里帰りするから、というような、やたら人間くさい神話ができてきます。いまの私たちからすれば、そんな神話なんてウソっぱちに決まってる、と思うかもしれませんが、古代の人々からすれば、現に年一回、春に花が咲く以上、そのことがまさにその神話が真実である確たる証拠であり、神話体系は疑う余地のない世界の真相でした。
しかし、あれやこれやの物事のそれぞれに神様をあてがって、その神様たちに複雑な婚姻関係、親子関係を想定し、その神様たちがいろいろな過去のいきさつで、いまだにずっと恩讐を引きずっている、となると、神話体系そのものが現実の世界以上にややこしくて面倒くさいものになってしまいます。
神様の中でも、原因の原因の原因になる、神様の中の神様、大元の神様が決まってきます。となると、いろいろ神様がいるにせよ、まあ、大元の神様に祈っておけばいいだろう、ということになりました。
しかし、祈ってどうにかなるのか。大元の神様が原因の原因の原因なのに、それに祈ってどうにかしてくれるなら、大元でもないんじゃないか。
どうにかこれをズバッと一発で簡単に片づける方法はないだろうか。
いつも遅刻してくる学生がいる。なんで、と聞くと、だって、いつもバスが渋滞で遅れるんです、と言う。いつも遅れるのがわかっているなら、最初からもう一本早いバスに乗ったらいいんじゃないかな、と言うと、だけど、それには、もっと早く起きなきゃいけないじゃないですか、と言う。うん、だから、もっと早く起きれば? 先生、簡単に言うけれど、それができるくらいなら、こんなに苦労していないですよ。なにか起きれない理由でもあるの? ええ、バイトが夜遅くまで入っているんです。そんなバイト、辞めちゃえば? え? なに言ってるんですか? 仕送りだって十分じゃないし、衣食住だって、けっこう大変なんですよ。そういえばきみ、たしかにずいぶんいい時計してるね。ええ、時計は一生ものですからね。これなら就職してからでも使えるでしょ。でもきみねぇ、就職以前に、これだと卒業できそうもないんだけど。ぐぬぬぬぬ……
あっちもこっちも、いつも気を配っていないといけない。たしかに大変です。あっちをどうにかすると、こっちから水が漏れ吹き出す。まるで老朽化した水道配管のよう。でも、それなら、まず元栓を探して締めて、順を追って直していった方がよくはありませんか。
ひとは、毎日、枝葉末節の物事の始末に奔走している。でも、問題が起こってからでは、すでに影響があちこちに飛び散ってしまっていて、よけい始末に手間がかかる。これを解決するには、その根本、大元を断つこと。ミミズの缶詰は、開く前に捨てろ。そうすれば、一発で、ぜんぶ片づきます。
物事には、原因と結果、因果関係がある。そして、その原因には、さらなる原因が。では、原因の原因の原因、と遡っていくと、その大元があるはず。その大元原因のことを、「アルケー」と言います。
哲学というと、宇宙の原理や人生の原理、つまりその根本となるべきものを探求する学問のように言われることがあります。専門的に言えば、それがアルケーです。カネが世界を支配する、とか、愛こそはすべて、とか、有名になったもん勝ち、とか、こういうのも、アルケーでしょう。
とはいえ、アルケーに関しては、哲学の歴史の中で、いろいろなものが登場してきました。いわゆる、XX主義、というやつです。経験主義や合理主義、観念主義や実存主義、さらには資本主義や社会主義までいろいろ。まあ、そういういろいろを勉強するのが哲学の講義みたいになってしまっています。しかし、言うまでもなく、そのそれぞれに根拠があるのか、というと、どうも怪しい。XX主義の中ではXXがアルケーで、XX主義の中ではXXがアルケーであることは当然自明のこと。けれども、それは、XX主義という枠組みの中での話。その枠組みの外側からすれば、なんのことやら。つまり、それは、一種の宗教です。
奇妙な話ですが、XX主義なんて言っている哲学の学説は、どれもこれも、じつはむしろ哲学からもっとも遠いところにあるものかもしれません。ソクラテスにしても、XXこそがアルケーだ、なんて言っているやつを捕まえてきて、ほんとかよ、とまぜっかえす。とはいえ、枠組み次第でなんでもアルケーになる、なんて言うのもまた、相対主義、という別のアルケーになってしまいます。結局、よくわからないんじゃん、っていうのですら、不可知主義、です。よくわからないかどうかもわからない、なんて言ってみても、これまたさらに、懐疑主義、と呼ばれています。
根本となるべきアルケーが何であるか、を論じるのは、なにをアルケーにしても、宗教めいてしまいます。そうではなく、そもそも人間にアルケーを探求できるのかどうか、できるとすれば、どんな方法がありうるのか、を探求するのが哲学なのかもしれません。実際、カントがやったのは、そういう哲学。まあ、軽々しく、これこそがアルケーだ、なんて言っているヤツ。哲学の中でも、XX主義なんていうのを研究しているヤツ。まあ、それこそ根本から哲学をわかっていない、およそ哲学とは関係の無いヤカラであると言うことになるでしょう。
哲学史を最初に書いたのは、「形而上学」のところに出てくるアリストテレスです。逆に言うと、形而上学を最初に始めた者が哲学を興した、ということになります。形而上学については、後に詳しく説明しますが、要するに、目に見える世界の背後にあるものについての学問です。この世にあるモノは、目に見えるものがすべてではなく、見えないけれども確固として存在しているものがあり、それこそがこの世界を動かし決定づけている。目に見えるものごとは、その枝葉末節の結果にすぎない。したがって、この世界を知ろう、理解しようと思うのであれば、枝葉末節の目に見える物事を追い回すのではなく、その背後にある、見えないけれども存在していて、この世界を動かし決定づけている原因、アルケーこそを知らなければならない。
そんな哲学観を打ち立てたアリストテレスに哲学の祖として挙げられたのが、ターレスです。それで、世界中の哲学の教科書は、ターレスに始まります。ターレスは、古代ギリシア、と言っても、その対岸、いまのトルコ西岸にあったギリシア人港湾都市ミレトスで活躍した人。だから、彼と彼の弟子たちを「ミレトス学派」と言います。
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