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---------------------------------------------------------------------------- 中世1 帝制ローマ時代(1〜4C)
新プラトン主義と護教教父たち
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時 代 背 景
イエスの誕生と死とを経て西暦が始るとともに、同時にまた、ローマもカエサル(シーザー)とその養子オクタヴィアヌス(アウグストゥス)によって共和制から帝制へと変っていく。そして、「パクス・ロマーナ」と呼ばれるローマの最盛期がおとずれ、2世紀にわたって繁栄が続いた。とくに、後半の五賢帝時代には政治も安定し、領域も最大となり、交通路の整備、商業単位の統一、シルクロードや南海貿易などによって経済も活発となり、文化的にも一段と豊かさを増した。
しかしながら、この間も、1世紀半ばの暴君ネロをはじめとして、延々とキリスト教徒の迫害が繰返された。というのは、辺境の地イェルサレムから起ったこのユダヤ人の宗教は、当初から反ローマ性を持ち、また、服従に値するのはただ神のみとして、皇帝支配を頑強に拒絶し、ローマ統一の根幹を脅かしたからである。そして、この危険な宗教は、イェルサレム周辺のユダヤ人のみならず、ギリシア語圏のユダヤ人に、さらには、非ユダヤ人、ローマ市民にまで急速に広まっていったからである。だが、厳しい迫害にもかかわらず、ひそかに信者はなおも増え続け、各地に教会を形成した。ただし、それぞれの教会は独立で、いまだ組織されておらず、ただ伝道者が町々を説教して歩く、という型態であった。また、この時期に、新約聖書の基本的文典が成立し、各地の教会で回覧されるようになる。一方、重税に反ローマの忿懣うずまくイェルサレムは、70年、ユダヤ人の暴動をきっかけとしてローマ軍の徹底的な攻撃を受け、壊滅、玉砕させられてしまう。この事件によって、キリスト教もまた非ユダヤ人中心へと変質していくのである。
3世紀になると、北方からゲルマン、東方からパルティア(ペルシア)が帝国領内に侵入するようになり、また、これに応じて、国内でも、各地の軍隊がかってに皇帝を擁立して内乱を起こし、ローマは無政府状態に陥った。この混乱は、東方的な強大な軍隊と官僚組織を持つディオクレティアヌス帝によって収拾されるが、しかし、彼もまたこの広大な領土を押えきれず、4分統治を行う。しかし、政治はあいかわらず安定せず、4世紀始め、コンスタンティヌス帝は、事実上、すでに人心を掌握しているキリスト教と手を組むことでようやく秩序を回復することができた。一方、教会の方も次第に統一され、組織化されるようになってくると、今度は教会内で教義上の争いを生じるようになり、皇帝の召集によってニケア公会議( 325)が開かれ、正統と異端とが選別されるようになっていった。
4世紀半ば以降、ゲルマン民族の侵入が次第に激化する中、ふたたび帝国は内乱に陥ったが、しかし、4世紀後半にはテオドシウス帝が最後の統一をはたし、キリスト教を国教化、他の宗教の全面的禁止を行なった。それはまた、ユダヤ教を民族宗教とするユダヤ人排斥を意味した。また、彼は死に際して、帝国を東西に2分して2人の子供に伝えた( 395)。ここにギリシア・ローマの古代は終りを告げ、ゲルマン人たちの中世が始まるのである。
哲 学 概 観
歴史的に言えば、ローマの東西分裂までは、ギリシア・ローマの時代であり、古代に分類されるところであるが、思想的には、すでにキリスト教の問題を得て、中世に至っていると言うことができるだろう。もちろん、このキリスト教の萌芽とともに、古代の残存との言うべきストア派や、新プラトン主義もまた発展し、やがて、これらはキリスト教のなかに吸収されていき、キリスト教は単なる信仰のみならず、深い神学的教義を合せもつようになっていくのである。
この時代の主な思潮と哲学者たち
A イエス
B 原始教会
C 神学の端緒
D ストア哲学
E 初期キリスト教の護教家たち
F 新プラトン主義
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