ピュタゴラスは、ミレトスと近い島の名門に生まれ、エジプトその他に遊学した後、帰郷するが、ポリス僭主の独裁に幻滅し、イタリア半島南端のあるギリシア都市に移り、宗教的学術団体を組織した。この団体は、当時の宗教復興運動に乗じて南イタリア一帯の諸都市の上流社会をとりこみ、進む民主化に対する貴族主義的反動勢力を形成したが、後には、民主主義派に追われることとなった。彼は亡命先の南イタリアのある都市で死んだが、その後も神話的人物になり、奇跡や呪術を行ったとされる。また、彼の一派は、しだいに政治運動からは手を引き、宗教的色彩を深め、その神秘主義的な知識観によって、プラトンをはじめとして、中世や近世にまで延々と影響を与え続けた。
ピュタゴラス派は、独特の教義と生活上の戒律(アクスーマタ)を持つ団体であったが、教団員にのみ秘教的に伝授されたため、その活動や思想の詳細、および、どこまでがピュタゴラス本人によるものであったかは不明確である。しかしながら、彼らは、数や天文、音楽の調和に強い関心を持ち、その神秘主義的な理論に基づいて、魂の浄化を目的とする禁欲的実践を行ったらしい。もっとも、その戒律とは、たとえば、「豆を食べるな」とか、「白い雄鳥にはさわるな」とか、「あかりをつけて鏡を見るな」とか、理解し難いものが多い。
《実用算術》から《理論数学》への昇華、および、数学的諸発見に対する彼らの貢献はたしかに偉大なものであり、その後の諸学の発展に大きく貢献したが、しかしまた、それと表裏一体の数理論理に対する至上理想主義は、現実観察の蔑視、宗教的知識崇拝となって、さまざまな悪影響をも及ぼしている。これは、現代の科学至上主義、コンピューター崇拝にまでつながるものであると言えよう。