昭和に活躍した奇術師アダチ龍光さんの人生を時系列で追いかけます。




2002年の春ごろから「アダチ龍光さんのこと」という文章をここやここでちょこちょこと書いてきました。
昭和に活躍した手品師のアダチ龍光氏のことを追ったものです。

龍光さんは私の遠縁に当たります。
何とはなしに気軽に始めたルーツを巡る旅に、気が付いたら
 「いやいやこれはライフワークだ!」
と夢中になってしまったのであります。
さて。ずっとやりたいと思っていたのが、龍光さんの人生を時系列で追いかけることです。そんな「あちらを書き足しては、こちらを書き足し・・・」そんな作業にWikiはうって付けなのではと期待しています。
これまで書いてきたことと重複するところも多数出てくるかと思いますが、とにもかくにもはじめてみたいと思います。
遁生レコード アダチカツノリ


【龍光さんに関しての文章はここに書いてます。】
直近のコラム、検証、小ネタはここにアップしています。

【情報をお寄せ願います】
どんな情報でも結構です。アダチ龍光氏に関する情報をお寄せ下さい。
まずはメール(info@tonreco.com)でご連絡いただけましたら幸いです。

【Facebookページもやってます!】
https://www.facebook.com/adachiryukou

1896年(明治29年/0歳)

出生に関して


1896年(明治29年)7月20日、曹洞宗、妙法山 多宝寺(現・新潟県東蒲原郡阿賀町鹿瀬)の第19代住職、阿達天龍と妻サンとの間の長男として生まれる。
本名 一(ひとし)。


龍光の父、アダチ天竜*1


「あたしの生家は、多宝寺ってえお寺です。妙峯山多宝寺、鶴見にある総持寺が総本山、その末寺です。」(龍光談)*2

兄弟

サンとの子供
長女マサノ
長男一(ひとし)龍光
次女ミヨノ
次男操(ミサオ)→ 多宝寺20代住職 法名 天眞

(サンは5人目の出産時に子供とともに死去)

後妻リイとの子供
長女トキ→著者祖母。リイは晩年阿達トキ宅に同居
次女キミ
長男武男
三女ムツノ

「そこの総領に本当は生まれたんだけど、8人兄弟いる、あたしはだけど、お寺さんにする気はなかったらしいな、親父は。おれもなる気はなかった。」(龍光談)*3

幼少時代

  • 生まれてしばらくして、寺の檀家に里子に出される。4年後に引き取られた後、生母の死をきっかけに、今度は父親(天龍)の友人の家の養子に。伊藤姓になる。*4

1905年(明治38年/9歳)

  • 伊藤家との養子縁組解消。阿達姓に戻る。寺に戻ると新しい母(リイ)が来ていた。*5
「しかし、そういう境遇で育ちながら、私は別にひねくれもしなかった。里子先、養子先、どこの親たちもみんな私を大切にしてくれたからですかね」*6
「(寺に戻ってからの)私の分担はね。寺の境内の草とり。大人になってからはそれほどとも思わなかったが、小さな子供の頃には寺の境内は無限に広く」見えた。*7
しかし、それよりも辛いのは、冬、檀家の施しの米を集めて回る"斎米(ときまい)あつめ"で父の伴をする時だったという。「二米(メートル)もある雪の中を、僕が米袋を背負って歩くのです。父は手ブラでした。一寸おくれると、父に怒鳴りつけられました」「この頃の辛さは忘れません。今でも夢に見ます」*8

1909年(明治42年/13歳)

  • 農林学校に入学*9

1910年(明治43年/14歳)

  • 農林学校を一年修了と同時に退学。*10

奉公時代

中蒲原村松町(現:長岡市村松町)にいた母親の弟の椎野家へ奉公に。
「そこの家、そこは菜種屋だ、それとね、セメントだとか、なんとかいっぱいやってましたよ。(中略)奉公に行ってしばらくしてから、酒、酒造りね、それであたしが酒造りのほうにまわったんだ。あたしは作るほうじゃなく、あの、番頭だから売るほうや。」(龍光談)*11

5年の年期。*12

1914年(大正3年/18歳)

5年年期の奉公の4年目。何処かの駅で鉄道員を見た。これだ!と思った。*13

1回目の上京(家出)

「そんなくだらない酒売り仕事を19くらい(遁注・おそらく数え年)までやってましたか。どうも、こりゃね、あたしゃ、そういう商人というのは向かないね、田舎で叔父さんとこにいたってしょぅがねぇっていうんでね、そいで、その、いまでいう家出人だな、東京へ逃げてきちゃった。」(龍光談)*14

「田舎のこったから、どこの倅(せがれ)が東京までのキップ買ったっていっぺんにわかっちゃうでしょ、だから会津若松までのキップを買ってね、若松で降りて、いっぺん乗り換えて、それで東京へ出てきたわけだ。」(龍光談)*15

「(汽車賃の5円50銭は)姉(マサノ)があっちこっちから集めてきてくれたカネでしたけど、会津若松で時計買ってね、銀の時計、(中略)それ下げて東京へ着いた」(龍光談)*16

2回目の上京

この年に新津(新潟)−会津若松―郡山(福島)の開通した磐越西線の車掌の詰襟に白手袋という格好に憧れて、岩倉鉄道学校を志願し、上京。*17

1916年(大正5年/20歳)

本郷の区役所の屋上で徴兵検査を受ける。
身体が小さいため丙種(国民兵役に適するが、現役には適さない)とされ、徴兵免除。
当時の身長体重
 身長 5尺2寸5分(約160cm)/体重 11貫8百目(約44.25kg)
「その時は『ああ、残念だと』思ったけれども、区役所の2階を降りて外に出たら『ああよかった』と思った。」
「どうせ兵隊にもなれねぇんだったら、世の中面白おかしく自分の思うようなことをやって暮らしてやろうと思った。」 *18
  • 5月 新派俳優の見習生になる。
口入屋(職業紹介所)で「新派俳優見習生募集」という大きな看板を見て。
入会金5円を払って入会。この5円は当時持っていた銀時計(2年前に会津で買ったもの?)で工面した。 *19

俳優として所属したのは、梅野喜久哉(詳細不明)*20、井上正夫*21、小堀誠*22らの一座*23
梅野喜久哉っていう、ドサ回りですよ。25人ぐらいいた。そこで下っ端で働いていた。*24

1918年(大正7年/22歳)頃

20歳で新派俳優を志し1年か2年。新潟なまりがとれず、女方になる。
「おしろいつけて衣装着て、カツラかぶって、舞台上がってしゃべるとお客が笑う。」*25

1919年(大正8年/23歳)

  • 10月6日 木村マリニーに弟子入り*26
※役者時代、楽屋が相部屋であったの友人の女形、木村春夫(本名:木村荘七)に活動弁士になりたいと相談。春夫の兄貴が大阪千日前の映画館、敷島倶楽部(現・敷島シネポップ)で主任弁士をしていた木村紅葉(本名:木村荘六)。紹介状を書いてもらった。
しかし紅葉は、すでに木村マリニーと名を変えて弁士をやめ、魔術の道へ。龍光もこれにならう。12ヶ月稽古して、浜松の歌舞伎座で初興行。 *27

【木村紅葉→木村マリニー(本名:木村壮六)その1】

「近藤幸三・著『奇術 その魅力 その世界』には、奇術師・木村荘六について次のように書かれている。大正2、3年の頃、新富座で、ポーランド生まれのアメリカ人奇術師マックス・マリニーに会い、その興行の司会を引き受けることから、木村荘六と奇術とが結びついた」 *28
「荘六は、マリニーの公演の司会を続けるうちにマリニーの奇術をすっかり覚えてしまった。そして大正8年、プロ奇術師としてデビュー。芸名も木村マリニーとした。」 *29

【木村紅葉→木村マリニー(本名:木村壮六)その2】

弟に木村壮八(洋画家、随筆家)、異母弟に木村荘十二(映画監督)。
→木村荘十二(映画監督)の手掛けた作品には松旭斎天勝主演「魔術の女王」(1936年)、「エノケンの魔術師」(1934年)もある *30

【木村紅葉→木村マリニー(本名:木村壮六)その3】

身体は大柄「20何貫ありましたからね」(75kg以上) *31

【木村紅葉→木村マリニー(本名:木村壮六)その4】

木村荘六の父、木村荘平(1841年1906年)
※実業家にして、市議会議員をやったり、上野に競馬場を作ったり。正妻の他に多数の愛人を持ち、授かった子供が男13人の女17人の30人。
木村荘平(1841年1906年)チルドレン

【木村紅葉→木村マリニー(本名:木村壮六)その5】

荘六の父親の木村荘平(1841年〜1906年)の子供たち。*32
●息子
長男荘蔵(いろはチェーンを引き継ぐが、数年でダメにする)
二男
三男
四男荘太(作家)※荘八と同母兄弟※異母妹の四女清子と同棲
五男荘五(経済学者)
六男荘六(活動弁士:木村紅葉→奇術師:木村マリニー※アダチ龍光の師匠
七男荘七(女形の新派役者芸名;木村春夫)※同部屋だったアダチ龍光が活動弁士を志し相談した。
八男荘八(挿絵画家・洋画家・随筆家)※荘太と同母兄弟
九男
十男荘十(直木賞作家)
十一男
十二男荘十二(映画監督)手掛けた作品には松旭斎天勝主演「魔術の女王」(1936年)、「エノケンの魔術師」(1934年)もある
十三男荘十三
●娘
長女栄子(木村曙:作家)※愛人からのちに正妻となる岡本政との子
次女伸子
三女林子
四女清子(新劇女優)※異母兄の荘太と同棲
五女
六女六女
七女七女
八女八女
九女九女(クメ)
十女十女(トメ)
十一女士女(シメ)
十二女十二(トジ)
十三女十三(トミ)
十四女十四(トヨ)
十五女十五(トイ)
十六女十六(トム)
十七女十七(トナ)

【木村紅葉→木村マリニー(本名:木村壮六)その6】

 木村荘六は、体重二十余貫。美髯を蓄え、眼光するどく、荘平に一番似ていたという。父の歿後、家をとびだし、相撲の梅が谷部屋に入門し、四股名を木村山と称したが、じきに脱落。というあたりもそっくりである。その後一転して浅草大勝館の弁士となる。さらに一転して大阪に、奇術師木村マリニーとなって現れた。このマリニー一座の一の弟子がアダチ龍光である。また一転して御堂筋に木村写真館を開業する。空襲でそこを焼け出され、戦後は不遇にすごした。この奇才と気の多さは、あきらかに血筋だろう。兄弟中で父荘平を尊敬することの最右翼であったという。昭和四十年歿、享年七十四歳。 *33





・木村マリニーの弟子には、アダチ龍光、ドラゴン魔術団の保田春雄、薫陶を受けたメンバーには近藤勝、赤松誉義ら、多数がいた。また、昭和30年代には「荘六会」という名称のマジッククラブが奈良市(本部)、名古屋、草津、京都、大坂、東京、神戸、姫路にあった。*34

・龍光、最初の芸名は、アダチ荘一(荘六の一番弟子だから)。
・初舞台は23、4歳の時。浜松の歌舞伎座にて。
・出し物:ひもを2本持って輪を作って結んで、解く手品。
・衣装:フロックコート

「さぁ、と喜び勇んで舞台に上がったら緊張でぼーっとしてしまって、何にもわからなくなってしまったの」
「蜃気楼のごとく」
「で、手品のタネ忘れてしまったの」 *35

・木村マリニー一座、45人で奇術だけの興行。樺太、朝鮮、台湾にも。1回旅に出ると1年は掛かった。 *36

1921年(大正10年/25歳)

  • 9月15日から7日間 大阪は道頓堀の角座で興行。「特別大興行 世界的大魔法マリニー一行公演」「魔術王来る」と大書された公演ポスターには、木村マリニー、木村靖子(マリニーの妻)、アダチ荘一(当時の龍光の芸名)の顔写真が掲載。読心術を行うとある。
*37

1922年(大正11年/26歳)

木村マリニーから独立。

大阪から東京へ。
東京の深川「常盤亭」の席亭が元締めの東西会(東京の芸人と大阪の芸人合同の組織)に入る。当時26歳。「客に受けすぎて」10日でクビ。 *38

当時の奇術師は得意のネタひとつで商売していた中、龍光は20種類以上の持ちネタをとっかえひっかえ披露。
客からは大好評を得るものの、芸人仲間から「若造のクセに生意気だ」とねたまれた。

「世の中に芸人もずいぶんいるけれど、客に受けすぎてくびになった のは、俺くらい」(本人談)

高峰筑風(高峰三枝子の父)、神田伯山、都大夫、加賀大夫とで大阪で名人会開催。いろもので出演。筑風が「アダチ荘一なんて、名人の名前ではない」とアダチ龍光と名づける。 *39
  • 3月10日から7月31日(20日までという記述もあり) 東京・上野公園と不忍池で開催された平和記念東京博覧会*40で説明員を務める。
それから、平和博覧会か、大正10年だね(原文ママ)。上野の山で。そのときにアイヌ人が来てましたよ。アイヌの熊祭りやるんで。その説明してたよ、おれ。それから実写の映画があるんだ。その映画説明もしていたよ。博覧会に雇われていたわけや。*41
※龍光が説明員をしていたのは不忍池側の第2会場の北海道館、また樺太館か?*42

*43

1923年(大正12年/27歳)

  • 関東大震災(9月1日午前11時58分32秒発生の大地震による被害)により、新潟へ帰る*44
  • 9月1日 関東大震災(9月1日午前11時58分32秒発生の大地震による被害)にあう
「九月の一日に川崎の大正座で名人会をやるから来いっていう太夫元からあれが来て、震災の二、三日前に、台湾巡業から東京にへ先生と一緒に帰って来た。」

八丁堀の製薬会社ハクジンボウ(商品キャッチコピー「三日つけたら鏡をごらん色白くなるホーカー液」)の3階で、同社がスポンサーで名人会の全国巡業を行う打ち合わせ中、震災にあう。

「のぼりつくってあげましょう、舞台でまくカードこさえてあげましょうといろいろ相談しているときにガタッと来ちゃった」

「鉄筋だからつぶれなかったけれども、ゴーっと来たでしょう、陳列の棚がひっくり返りそうになったから押さえていたよ。ずいぶん大きいよ、この地震は、いうて。」

「そこから八丁堀から夕立の合間ぬっちゃァ歩いて宮城のお堀まのそばまで来た。」

その後火事の被害が広がる。

「火事になってからが阿鼻叫喚だよ。だれも火を消すやつがいなかったんだから。車坂の宿屋に泊まってたから、火の中をくぐって車坂まで奇術の道具やなんかとりに帰ってきたんだよ。」

「宿屋の浴衣着て奇術の道具持って、上野の駅へ行った」
「食うもの、飲むもの、一切なし。広小路あたりをうろうろ探して、森永のキャラメルと蜂印のぶどう酒を買っただけや。」

これらを飲んで食べたら胸やけがするが、外国人が井戸に毒を入れたのというデマがあった。

「谷中の墓地通って日暮里へおりてね、水が湧いてんだよ、モクモク。一升くらい飲んだね。」*45
  • 9月2日3日 故郷へ帰ることを決意
「よくる日また上野の山へ来たら、東京、野っ原になっちゃった。なにもない。浅草の観音様だけ残った。これではしょうがない、ひとまず故郷へ帰ろうと。」

赤羽の鉄橋が地震で落ち、赤羽まで歩く。
途中「20銭で川口まで(船で)渡す」というどさくさ紛れ商売人。

「手品のカバン二つしょって向こうへ渡ったよ。」

川口の駅の前は黒山の人だかり。
移動する罹災民(災害にあった人たち)を運ぶための貨物列車に乗る。

「三日も何も食っていないでしょう。めし食いたくてしょうがないんだよ。蕨あたりまで行ったら炊き出しが出ていた。うまかったよ。(道中の駅で)次から次に出ているんだよ。」

「それで会津の若松まで行って、手品の道具と洋服のカバン持っていたから、小汚い浴衣捨てちゃって、ちゃんと紺サージの服に着かえてそれでうちへ帰っていきましたよ。」*46
  • 10月 松本へ
 (「九月の一日に川崎の大正座で名人会をやるから来い」と連絡した太夫元から?)
「信州の松本座へ来いっていう手紙が来たわけや。」

・松本に出かけると、川崎の名人会はメンバーが変わっていた。
・さらに興行のビラには「猫八独演会」の文字が。

「下ビラや、こっちは」

(注)この猫八は初代 江戸家猫八だろう。
wikipediaより:初代 江戸家猫八(1868年3月 - 1932年4月6日)本名:岡田信吉。かつては歌舞伎役者片岡市之助(3代目片岡市蔵門の女形)。寄席芸人に転じ、3代目柳家小さんの預かり弟子。

「居直ったって行くところがねぇんだから。もう前金もらってるんだから。」
「いや応なしに行ったよ。いや、入ったの、入ったの。」

この時の一座のメンバー:7人
「私に猫八に、なんとかという噺家、それから前座がいて、セコ漫が一組いてさ、それだけなんだ。」
*47

1924年(大正13年/28歳)

・前年10月より引き続き「猫八独演会」の興行。信州を回る。
 月給100円。

「巡査なんかせいぜい五十円だろ。いい月給とりだよ。だから、月五十円くらい、まじめにやれば残るんだよ。おれはバクチで一銭も残んなかったけどな。」

・「猫八独演会」興行の内容
龍光:手品だけ50分(声帯模写はやらなかった。)
猫八:物まねと問答(「『尼さんがまたいでも金隠しとはこりゃどうじゃ』てなことを言うとワーッとくるわけや。」) 

・年末、猫八は会津若松で興行を行い、千円の賞与をもらって帰省。龍光はバクチですっからかん。*48

1925年(大正14年/29歳)

  • 1月7日に新年初日を迎える新潟劇場に出演 「故郷に錦を飾る」:新潟に6日間滞在。

「信州ずーっと回って、新潟へ行ったよ、十二年ぶりで新潟へ。」
→1923年(大正12年/27歳)の関東大震災で時帰省していた事実があるため、「十二年ぶりで」というのは文字起こしの誤りであろう。「二年ぶりで」が正しいはず。
  • 現地の新聞が「新潟県出身の木村荘一、手先のあざやかなること・・・。」「英米仏五ヶ月の歴遊」などと紹介。
→龍光が木村荘一から芸名を変えたのは1922年(大正11年/26歳) の時。「英米仏五ヶ月の歴遊」の事実はない。一体なぜそんなことが書かれたのか・・・?

「そうしたら真に受けたんだ、新潟県民が。これ、村松の酒屋(龍光が10代の奉公時代に身を寄せて働いていた中蒲原村松町・・・現:長岡市村松町・・・にいた母親の弟の椎野家の造り酒屋)にいた小僧や。いとこやらはとこやら、みんな来たよ。」

・一番驚いたのが村松の酒屋の叔父さん(椎野氏)。6日間毎晩飲みに連れまわした。

・村松の酒屋の叔父さん(椎野氏)は日本生命の代理店も行っていた。その関係で勧誘員の新年会で一席することに。
「三十円もらって、二等の切符もらって、行ったよ。」

※この時期大正13年、14年に東京楽燕(何の会社??)で事務員として勤務。
*49

1928年(昭和3年/32歳)

吉本で音曲をやっていた芸名、国野愛子(くにのやあいこ/本名:中川屋恵子(「八重子」説も?)と結婚。しばらく共稼ぎ。*50
屋重子との結婚の際、中川家に養子に入る。

1930年(昭和5年/34歳)

  • 10月 龍光の擬声漫談を収めたSPレコード「四季の風景」がオリエント(商品番号:60320)、リーガル(商品番号:65337)2つのレーベルからリリースされる。

*51

(オリエント盤の「四季の風景」)*52
オリエント盤、リーガル盤(同じ音源)とも国会図書館所蔵。館内で聴くことが出来る。3分29秒と3分30秒の2音源合わせて約7分の収録。*53
都家歌六・小島豊美 著「ご存じ古今東西噺家紳士録―思い出の楽我記手帳 CD-ROM book」(エーピーピーカンパニー・2005年)に音源収録。 
長く閉ざされた陰鬱なりし冬のとばりいつしか開かれ。早くも流るる春。和やかな光の乱舞の新山に、陽炎燃ゆる頃、南の小枝にふくらんだ梅の花ぱっと開く春の瞳。。。の口上からうぐいす、鶴、アヒル、七面鳥、セミ、ヒグラシ、カジカ、蛙、オス蛙、メス蛙、オスとメス2匹の蛙のケンカ、秋のムシ、ホトトギスの鳴き声を披露する。春夏秋冬の風景の口上と物まねが交互に。
若い時には映画説明をやったこともあり、また口笛が得意で、鳥や虫の鳴きまねも天下一品。この人のレコードは後にも先にもこの一枚しかない。ある日たまたま偶然に山手線の電車で奥様と一緒の先生とお会いしたことが(あ)る。そのときこのレコードの話をだしたところ、ご当人は戦災で焼いてしまってないそうで、早速テープにして差し上げたら、とても喜んでいただいた。(都家歌六)
*54

1932年(昭和7年/36歳)

12月、ある日の龍光の1日。吉本興業合名会社昭和7年12月11日出番表より。
「天五葵」「福島花月」「正宗館」をはしご。

吉本興業が経営していた全ての寄席の出演者と時間割を記した出番表(縦93僉濂38.5僉
掲載されている寄席は「南地花月」「花月倶楽部」「天満花月」「三光館」「天五葵」「福島花月」「芦辺館」「新世界花月」「正宗館」「角座」「三友館」「南陽館」「京都富貴亭」「長久亭」「中座」「京極花月」「笑福亭」「浅草昭和座」「浅草萬成座」「神田花月」「横浜花月」。 *55

1935年(昭和10年/39歳)

  • 吉本興業、浅草公園六区の一角に「浅草花月劇場」をオープン。
※この時期に林正之助(後の吉本興業 会長・社長)に会う。

「お、龍光君やねえか、どないしてんだ。」
「あすんでますよ。」
「あすんでるんだったらうちへ来いよ、今晩から。」

当時の浅草花月の大看板は花月亭九里丸、石田一松、柳家金語楼。

龍光、吉本興業に入り、横浜の花月→大阪へ

1938年(昭和13年/42歳)

  • 11〜12月 わらわし隊(吉本興業(吉本興業部)が朝日新聞と共同で、日中戦争勃発後中国大陸に派遣された兵士を慰問するために結成した演芸派遣団、慰問団。:Wikipedia より)1938年1月の第1回目に続く、第2回の中支那班に参加。同行者に、江戸川乱歩の生み出した名探偵、明智小五郎のモデルとされる講釈師、五代目神田伯龍がいた。他は秋山右楽・左楽、東五九童・松葉蝶子、松鶴家光晴・浮世亭夢若、荒川成三郎・玉枝、ミスワカナ・玉松一郎 、文の家久月・三遊亭柳枝、吉田奈良千代
談志 吉本の「笑わし隊」っていうのは、ちゃんと金くれるんですか。 龍光 月給百円出てた。軍から金が来るんだ。支那は6遍行きましたよ(←要:検証)。1回が1ヶ月くらい。伯竜先生に漫才の柳枝、ワカナ、それから五十九童・蝶子、光晴・夢若、それからわたし。きのうまで戦争があったようなところまで行ったよ。漢口落ちたときも、揚子江のぼるのに昼間航行できねえんだ。いつ鉄砲打ってくるかわからないんだから。(中略)兵隊喜びますよ、とても。おれが一番てっとり早いんだよ。無蓋列車に乗っていくでしょう。各駅に兵隊いるわね。漫才だって2人でなきゃいけない。おれは扇子一本持って出たらもうやるんだから。*56

1940年(昭和15年/44歳)

  • 腸チフスで3ヶ月間大阪の桃山病院に入院。この時、昭和天皇に手品を教えるという1971年(昭和46年)の天覧奇術を予知するような夢を見る。*57
  • 12月 日本奇術協会(現・公益社団法人化)第1回集会に参加(於・目黒雅叙園)*58

1941年(昭和16年/45歳)

●日本奇術協会 歴代会長
初代松旭斎 天洋
2代松旭斎 天右(初代)
3代松旭斎 天洋
4代アダチ 龍光
5代松旭斎 天晴
6代アダチ 龍光
7代松旭斎 広子
8代松旭斎すみえ
9代北見 マキ
10代渚 晴彦

1944年(昭和19年/48歳)

空襲で家を焼かれ郷里の新潟に疎開。村役場で戸籍主任として勤務。月給65円。*59

1945年(昭和20年/49歳)

1947年(昭和22年/51歳)

【課題】1月開催の「笑いの会」1回目出演と石田一松が衆議院議員に当選し、龍光が東京に呼び寄せられるタイミングの辻褄が合わず。要検証。
  • 1月 東京・滝野川の私設寄席「笑いの会」1回目(於・北区上中里の平塚神社 主催・新栄好)に出演。
出演:志ん生、文楽、柳枝、講談の貞山、貞丈、龍光 他*60

  • 吉本所属時代よく同じ舞台に立っていた「のんき節」で有名な石田一松に東京に呼び寄せられる(石田は1946年4月10日の戦後初の衆院選(第22回衆議院議員総選挙)に東京都第一区から立候補し、7位当選。*61*62)。
石田が手を回し、龍光は三木武夫元首相在籍の「国民協同党」(1947年3月〜1950年4月 *63 1947年3月8日結党*64)の党員という名目で上京し、落語協会に所属。当時円生、志ん生はまだ満州から復員しておらず(円生の帰国は1947年*65)、人手が足りないと寄席に駆りだされた。当時は客入りに応じたギャラ制度。3日で10円ということも。*66
そのうちに石田一松が代議士になったんだよ。新聞見て、あれ、これは「のんき節」の石田一松かいなと。それから、おれは、かみさん連れて東京に来て雑司が谷の石田一松のうちにたずねていったよ。どうした龍光君。おれいま田舎で役場の書記。ばかだな、東京へ来い、ちゅうわけや。来いって言ったって、あの時は転入できなかったんだから。そうしたら、おれは代議士になったんだぞ、国民協同党だ、すぐ来いっちゅうわけや。だから、おれ国民協同党員で入っちゃったんだよ。*67

1948年(昭和23年/52歳)

  • 日本奇術協会 永久会長に就任

1949年(昭和24年/53歳)

  • 静岡県島田市の企業の(豪華)慰安会に出演。
  司会 一竜斉貞丈
  唄のアルバム 武井津弥子
  東 満津子
  東 公 子
落語 三遊亭金馬
漫劇 東喜代駒一党
 特別加入 波多野栄一
浪曲 玉川勝太郎
御存知都々逸 柳家三亀松
奇術 アダチ竜光
俗曲 赤坂小梅
歌謡曲 霧島 昇
    奈良 光枝
    高峰麻梨子
伴奏 コロンビヤABC楽団
*68

1950か51か52年(昭和25か26か27年/54か55か56歳)

  • 12月29日 鈴本演芸場(上野)出演*69


*70

1950年(昭和25年/54歳)

  • 前年4月に開場した立花演芸場(神田)有名会、余一会(31日の催し)のビラに出演者として掲載。
*71

1953年(昭和28年/57歳)

  • 9月19日 第6回 三越落語会(於・東京・日本橋 三越劇場)出演
出演と演目:桂梅團治(のちの三遊亭百生)「景清」、三遊亭円家(二代目)「四段目」、三遊亭圓生(六代目)「大山詣り」、古今亭志ん生(五代目)「藁人形」、アダチ龍光(奇術)、柳家小さん(五代目)「宿屋の富」、桂文楽(八代目)「つるつる」
*72

1954年(昭和29年/58歳)

  • 4月「家庭よみうり」1954年4月11日号「わたくしの顔 57 奇術」掲載。他の掲載は松旭斎天勝、天洋、琴江、広子、天春、吉慶堂李彩、一徳斎美蝶。
昔はこれでも、沢山のロオマンスの花を咲かせてきたこの顔も、こう年をとっちゃっちゃ、ダメですわ。ぼくたち奇術師といえば、タイプがいいですからね。若いうちはロオマンスをもちかけられたり、楽しい日も多かったが・・・・今はもう固い一方。年を取りますとネ、ロオマンスよりマネーというぐあいに、人生観もかわりますよ。

1953か54年(昭和28か29年/57か58歳)

  • 福島県は会津の東長原にある昭和電工株式会社 東長原工場の従業員・家族慰安会に出演し、腹違いの妹である阿達トキの家に宿泊。写真は阿達家の庭で撮影。

※前列左から2番目の椅子に座った女性がトキ。左から4番目で椅子に座って龍光の方を見ているのが、トキの母親で龍光の義理の母親となるリイ。ちなみにトキの左に学生服で立っているのが著者父親。

1955年(昭和30年/59歳)

  • 1月 池袋演芸場 正月初席(1月1日〜10日) 昼の部出演 *73


  • 5月23日 人形町末広出演。日本テレビで19:30より寄席中継番組放送。

*74
  • 7月 松屋町松竹座7月下席に出演。出番は9〜10時頃。続くトリ2は夢路・河内家芳春、桂ざこば。*75
  • 8月 南地花月8月上席に出演。出番は8〜9時頃。ひとつ前の出番は桂春團治。トリ3は立花家小扇・クレバ栄治、横山エンタツ・花菱アチャコ、借家怪談*76
  • 8月 南陽館8月上席に1日3回出演(1時40分、5時40分、9時40分)トリは松鶴家八千代・千代八。*77
  • 8月 京都富貴席の8月中席、千本長久席の8月中席に掛け持ちで出演。京都富貴席の出番は出番は7〜8時頃。千本長久席の出番は出番は8〜9時頃。*78
  • 8月 松島花月の8月下席に出演。出番は7〜8時頃。他に出演者に横山エンタツ・花菱アチャコ(9時ごろ出演)。トリ2は東洋一郎、桂ざこば。*79
  • 9月 新世界芦邊館の9月上席昼に出演。出番は2〜3時頃。トリ4は荒川歌江・小山慶司、松旭斎一光、ボードビル、笑福亭福之助。*80
  • 9月 千日前三友倶楽部の9月上席昼の部に出演。出番は4〜5時頃。ほぼトリ前。以降櫻川花子・末子、桂小圓治の出演で終了。*81
  • 9月 京都富貴席の9月下席に出演。出番は7〜8時頃。トリ3は桂三木助・三升家紋十郎、松井源朝*82

1956年(昭和31年/60歳)

  • 7月21日 手品用品メーカー、テンヨーが年1回開催するマジックのイベント第1回目の開催「アマチュア奇術大会」の司会を務める。 於・三越劇場(日本橋)
テンヨーWebサイトより
テンヨーでは1956年から、毎年マジックフェスティバルを開催。会の名称は第7回大会までは「アマチュア奇術大会」18回までは「手品フェスティバル」40回以降は「マジックフェスティバル」。会場は、第24回から第26回の間、が渋谷の東横劇場、それ以外はすべて日本橋三越劇場。

1957年か1958年(昭和33か34年/61か62歳)

  • 1月 岡山で正月に3日間開催された名人会(場所は「岡山のデパートのホール」?)に出演
他の出演は三遊亭圓生、三遊亭百生、リーガル万吉・千太 他*83
 →1972年7月の項も参照

1957年(昭和32年/61歳)

  • 9月21〜22日 松旭斎天洋 舞台生活50周年記念公演 出演(於・東京・有楽町 読売ホール)
当日は小金馬、猫八、貞鳳の「お笑い三人組」の司会で初代天勝の愛弟子天春、雪子の日本手品、天旭、天麗のコミック、アダチ竜光の曲技、田村大三の指笛(伴奏 黒羽美都子)李彩の中華奇術、正楽の紙工術、荒巻規子の独唱などというプログラムのほか天洋は大魔術と、彼の苦心の作「宝珠の玉」を公演する。
*84
  • 監修した書籍「手品と奇術」(八千代書院)発刊
 

1959年(昭和34年/63歳)

  • 6月28日 松旭斎琴江改め2代目松旭斎天花襲名披露公演出演。於 三越劇場
他の出演 松旭斎天洋・天海、松旭斎天遊、松旭斎天雷、松旭斎天芳、松旭斎天暁、マギー信沢、引田天功、島田晴夫、松旭斎良子、松旭斎天春、松旭斎広子、松旭斎天若、ダーク大和*85
  • 9月21日〜30日 東宝演芸場(有楽町 東京宝塚劇場5階)「東宝名人会」(366回)出演。日曜祭日は昼夜2回公演。
*86

1960年(昭和35年/64歳)

  • 5月下席(5月21日〜30日)鈴本演芸場(上野)夜の部出演
  • 5月下席(5月21日〜30日)人形町末廣 夜の部出演

*87


  • 5月31日 三遊亭圓生独演会 出演(於・人形町末廣)*88
  • 8月11日〜20日 鈴本演芸場(上野)昼の部出演。夜の部は講談の一龍斎貞山(7代目)の怪談をメインとした企画「怪談の夕」。
*89
  • 寄席研究会編「かくし芸の覚え方」(三洋社)共著で発刊。
 各界の名人が、様々な芸をマスターするための解説を寄稿。
 龍光はP79〜106「奇術篇」を担当。
 *90
 *91
 *92
 *93

[奇術篇目次]
・易しく又難しい
 -奇術とは合理的なもの
 -奇術の世界に愛情を
 -人間の心理を掴むこと
 -手先の練習
 -練習中の危機
 -人真似より自分のものを
 -怯えずにどんどんと
 -失敗に驚いては不可ない
 -便利になつたこの頃

・奇術を演るための心得
・貨幣の奇術
・煙草の奇術
・ハンケチの奇術
・コップの奇術
・易しい水芸
・水に浮く文字
・白扇と五十円玉
・トランプの奇術

[収録と各著者]
 落語篇 三遊亭円馬
 声色篇 悠玄亭玉介
 浪曲篇 相模太郎
 奇術篇 アダチ龍光
 民謡篇 小唄市丸
 俗曲篇 西川たつ
 剣舞篇 雲井龍風
 舞踏篇 坂東古登枝


1961年(昭和36年/65歳)

  • 1月1日〜10日 第196回「東宝名人会」出演。於 東宝演芸場(東京都千代田区有楽町一丁目 旧・東京宝塚劇場の5階)
出演順:三遊亭金平、三遊亭小金馬、桜井長一郎、三遊亭圓生、林家三平、三遊亭円歌、アダチ龍光、古今亭志ん生、牧野周一、古今亭今輔、コロンビアトップ・ライト、三遊亭金馬

*94
  • 1月下席 人形町末広亭出演

[写真はネタ帳(撮影:金子桂三 1961年5月)]*95*96

1962年(昭和37年/66歳)

  • 12月29日 16:00開演 「忘年名人会」出演(於・東京・日本橋 三越劇場)
富士松魯遊の新内、ワタナベ正美の歌う声帯模写、アダチ竜光の奇術、内海桂子・芳江の漫才、博多淡海一座の仁輪加、徳川夢声の放談など。
*97

1963年(昭和38年/67歳)

  • 5月上席(5月1日〜10日)人形町末廣 出演*98
  • 5月12日 正午開演 柳家三亀松 芸能生活40周年の会出演(於・東京 サンケイホール)
当日のプログラムは三部構成にわかれ、第一部が「演芸」(小痴楽司会)で、大空ヒット・ますみ、林家三平、玉川勝太郎、牧伸二、宝井馬琴、アダチ竜光、柳家小さんらが出演。第二部の「ゲスト祝辞」(トップ・ライト司会)では発起人メンバーや、森光子のどどいつ、山田五十鈴の小うたのほか赤坂小梅、伴淳三郎、大宮敏光、益田喜頓、笠置シヅ子、宮田羊容、都上英二らがかけつけ、三亀松が江利チエミとかけ合いで「さのさ」を歌う。第三部「三亀松ショー」(米丸司会)は、三亀松が「明治一代女」など十八番の演題をたっぷり披露する趣向。
*99
  • 5月13〜15日の3日間昼夜公演「これが日本の奇術だ」(於・東京・渋谷 東横ホール)出演
松旭斎天一没後55年にその功績をたたえ、市川翠扇、アダチ龍光、坂本種芳、桜井珍奇人、長崎抜天、木村義雄、宮田重雄、松旭斎天洋、松旭斎天勝、平岩白風を選考委員に「天一賞」が設立。その披露も兼ねた奇術ショー。平岩白風構成、原浩一演出
第一部は「和づま(日本手品)の展望」で一徳斎美蝶の「一本傘」松旭斎天春の「夕涼み」帰天斎正一の「浮連の蝶」吉田菊五郎の「万倍傘」松旭斎天勝の「水芸」。第二部は「現代奇術特選」で島田晴夫の「鳩のプロダクション」マギー信沢の「メリケン・ハット」松旭斎良子の「十三本のリンキング・リング」松旭斎天暁の「コミカル・マジック」西尾天芳の「新構成奇術」アダチ竜光の「話術のある奇術」松旭斎スミエの「新奇術」松旭斎天洋・椿の「印度のバスケット・トリック」松旭斎広子の「人造人間」
*100


1964年(昭和39年/68歳)

  • 1964年11月下席(11月21日〜30日)鈴本演芸場(上野) 夜の部 出演  *101

1965年(昭和40年/69歳)

  • 12月18日 師匠、木村壮六(マリニー)死去 享年74歳

(撮影年不明)  *102

1966年(昭和41年/70歳)

  • 1月31日 新宿末広亭にて昭和40年度 第20回 芸術祭 芸術祭奨励賞の牧野周一(第4回大衆演芸特選会における漫談の成果に対し)と柳家三亀松(第4回大衆演芸特選会における都々逸粋団の成果に対し)の受賞記念演芸会で、龍光が司会を担当。*103 *104
  • 8月7日 手品用品メーカー、テンヨーが年1回開催するマジックのイベント10回目の開催「手品フェスティバル」出演。於・三越劇場(日本橋)
出演:アダチ龍光、ダーク大和、松旭斎天花、松旭斎天雷、松旭斎天暁、マギー信沢、松旭斎静洋
テンヨーWebサイトより
テンヨーでは1956年から、毎年マジックフェスティバルを開催。会の名称は第7回大会までは「アマチュア奇術大会」18回までは「手品フェスティバル」40回以降は「マジックフェスティバル」。会場は、第24回から第26回の間、が渋谷の東横劇場、それ以外はすべて日本橋三越劇場。


  • 10月11日〜20日 鈴本演芸場(上野)夜の部出演
*105

  • この年か次の年(「なんでもこちらに越して来て十一年になるそうで・・・」(昭和53年1月号「新評」)*106)に東京都北区十条(北区中十条3の20*107)から東久留米へ引っ越す。引越の理由は、龍光氏の「健康をおもんばって」。西武池袋線東久留米駅から徒歩12分。駅前商店街の真裏にあった建て売り住宅。階下6畳の居間には芸人が同居していたらしい。壁に三味線が飾ってあった。*108

  • アサダ二世、アダチ龍光の通い弟子になる。*109

1967年(昭和42年/71歳)

  • 1月20日 昭和41年度 第21回 文化庁芸術祭で「大衆芸能部門(1部) 芸術祭奨励賞」を竹田人形座、榎本健一、デン助劇団らとともに受賞。
龍光は「第6回 大衆演芸特選会における奇術」が受賞対象となった。龍光が手にした賞金は5万円。 *110 *111 *112
※出演と受賞は昭和41年(70歳)説も有り。*113
※ネタは「トランプの復活」。*114

  • 5月2日 紀伊國屋ホール(東京・新宿)で開催された桂米朝の初めての東京での独演会「上方落語の会 桂米朝独演会」に出演。主催は矢野誠一。
前座は桂小米、桂我太呂で色物はアダチ龍光。質疑応答の時間を間にはさみ、司会は永六輔が担当。*115*116
  • 7月2日昼 フジテレビ放送「日曜お好み寄席」出演
一時番組みの、いろんな演芸の中で、アダチ竜光の奇術が最も見ごたえがあったとは、なんという皮肉であろうか。もとから手先の軽妙な人であったが、この時は簡単な手品の種あかしを主にして笑わせていた。テレビの本質を見抜いての心にくさといえよう。戦争前、吉本におった大阪時代から知っているが、巧妙な話術、特異なステージ・マナーは、いよいよカドがとれて、大家の風格を備えるまでにレファインされていた。ほんとうのくろうとを見る感じ。奇術師は手先とネタだけでは、舞台に立てないことがわかるであろう。テレビに、いたずらに大仕掛けの、しろうと臭い奇術を登場させるのは、ディレクターの神経としては落第である。(中略)結局、五人の新進落語家が寄って、一人の奇術師が与えた印象も残さなかったということである。
*117
  • 7月下席 人形町末広出演
いかにも寄席らしい小手妻(こてづま)の芸もさることながら、この人の味はその話術にある。都民税をボヤいて「あたしゃ東京都のために手品をやっているようなもんだ」ここで客席がドッとくる。
*118
  • 8月中席(8月11日〜20日)鈴本演芸場(上野) 夜の部 出演*119

  • 11月20日 第37回 紀伊国屋寄席(於・東京・新宿 伊国屋ホール)出演
出演と演目:春風亭柳朝(五代目)「金明竹」、三遊亭圓生(六代目)「無精床」、金原亭馬生(十代目)「花筏」、アダチ龍光(擬声漫談)、桂文楽(八代目)「つるつる」、林家正蔵(八代目)「旅の里扶持」、柳家小さん(五代目)「堪忍袋」
*120



1968年(昭和43年/72歳)

  • 1月1日〜10日 上野鈴本演芸場初席 第1部出演*121

1969年(昭和44年/73歳)

  • 1月6日「立川談志 第30回ひとり会」に出演(於・新宿紀伊国屋ホール)。談志と対談。立川談志「ひとり会」落語CD全集 第20集(コロンビア COCJ33550)に「芸論列伝 其ノ参 対談・アダチ龍光」として収録されている。

  • 10月2日 芸能バリエテ'69(於・東京 虎ノ門ホール 18:00〜)に出演。
 過去の文化庁芸術祭の大衆演劇部門受賞者が中心に出演。
 出演:あやつり人形の竹田人形座、民謡踊りの天津竜子舞踏劇団、漫才の内海桂子・好江、龍光、講談の服部伸、金原亭馬生、越路吹雪。進行は小沢昭一。*122

1970年(昭和45年/74歳)

  • 「エポック社マジックシリーズ」を企画監修で発売。まず12種類
 ウルトラスティック 400円
 マジックボックス 550円
 ハンカチトリオ 300円
 ワンダーマット 350円
 カラーペイント 350円
 ふしぎな花びん 300円
 水の落ちないコップ 300円
 ミラクルエッグ 500円
 スタンダードセット(1) 350円
 スタンダードセット(2) 350円
 テクニカルセット(1) 300円
 テクニカルセット(2) 250円

追加で3種類
 われない風船 450円
 マジックミラー 450円
 カラーボール 350円

が発売された。
複数の手品グッズがセットになった「ゴールデンセット」「シルバーセット」も発売となり、かなりのヒット作であったことがうかがえる。





*123
  • 1月 人形町末廣初席(1月1日〜10日)昼の部出演
*124
  • 5月7日 第67回 紀伊国屋寄席(於・東京・新宿 伊国屋ホール)出演
出演と演目:入船亭扇橋(九代目)「人形買い」、桂文楽(八代目)「締め込み」、林家正蔵(八代目)「鴻池の犬」、アダチ龍光(奇術)、柳家小さん(五代目)「馬の田楽」、三遊亭圓生(六代目)「豊竹屋」、金原亭馬生(十代目)「幾代餅」
*125
  • 7月23日 実家の多宝寺に鐘を寄進し、迎鐘記念の式典と龍光の父親である天龍和尚の50回忌法要が行われる。ここに龍光も出席、お寺で行われた法要後の会食の席では、檀家の方などたくさんの人の前で奇術を披露。*126
昭和十八年太平洋戦争中梵鐘が徴身され、鐘楼堂のみ残っていたが、昭和四十五年に当山十九世巨海天龍大和尚の第一子元日本奇術協会々長アダチ龍光師が再鋳献納したものである。
*127




龍光が寄進した鐘と多宝寺境内*128


*129

1971年(昭和46年/75歳)

  • 4月8日 東京演芸協会公演「演芸フェステ'71春」(於・東京 新宿 厚生年金小ホール)出演

*130

4月14日 宮内庁から天覧奇術出演依頼を電話で受ける。*131

5月14日 天覧奇術出演

「文化庁から陛下の古希の祝いにとこの話を持ちこまれたときはうれしかったね。だって、奇術の芸人として認められたってえことなんだから。30万円でタキシードを新調してね、うん、靴から小物までね、そしていただいたご祝儀が2万円と紅白のまんじゅうに重ねの盃だったかな。」(龍光談)*132

「アタシは陛下と友達なんだ」
「17万円かけてタキシード新調して出掛けて、宮内庁のくれたギャラが2万円」
などと晩年までネタにしていて、一方でその話を聞かれると
 「あれは5月14日」
とすぐに答えられるくらい名誉にしていた。昭和天皇の古希(70歳)を祝う会で、奇術界からは龍光と引田天功が招聘された。

会場は皇居内の桃華楽堂。

(昭和41年(1966年)に香淳皇后(昭和皇后)のご還暦を記念して建てられた音楽堂で,建物の屋根は「テッセン」の花を模し,八角の外壁は華やかな陶片とタイルで彩られています。陶片には,有田焼,信楽焼などが用いられており,玄関正面の屋根の上には鬼瓦の代わりとして金色の雛人形が飾られています。)
*133

「一番驚いたのはね、じゅうたんがぜんぜん違うんだ、じゅうたんが。普通のじゅうたんてえのは歩いたって堅いでしょ、向こうはモクモクなんだよ、こう羽根布団のようにさ。(中略)そんなところ、おれ、歩いたことねえもん、よろけたんだよ」(龍光談)*134
  • 「天皇がタネ明かしを求めてきたらどうしよう」と悩んでいた。(アサダ二世コメント)*135

宮中に向かう道中

「池袋からタクシーに乗りました(中略)。
『宮中へいくんだ』と。若い運転手は知らねぇんだアダチ龍光というものを。そして坂上門へ入って右へいきますと宮内庁でしょう。『ここへ入りなさい』といったら、ビックリしましてね『こんなところ入れねえ』って(笑)。」(龍光談*136

出席者とステージの様子

「天皇陛下に皇后陛下に皇太子に美智子妃殿下に、それからあの常陸宮様に華子さんと親戚の皇族、宮内庁の役人170〜180人、それで、一番前のほうに、天皇陛下がずっと、こう、前にテーブル置いてね、そいで高いんだよ天皇陛下のおいでになる場所は。段々を3段作って、その上にいる。」(龍光談*137

当日のプログラム

吉行淳之介・・・(略)アダチさんだけですか、宮中へいったのは。
アダチ龍光・・・いや、引田天功もいった。
吉行淳之介・・・ほかにどういう方がいたんですか。
アダチ龍光・・・二人きり。奇術二題。二十五分間。
*138

披露した奇術1

・ハンカチを使ったマジック
小さなハンカチが大きな旗のような布に変わり、そこに「天皇陛下 古希奉祝」と天皇の誕生日を祝う文字が記されている。

※NHK様には是非フルバージョンの捜索と公開を望みます。
※著作権上差し支えありましたら(あるでしょう)速やかに削除いたします。

披露した奇術2

・パン時計
明治時代から寄席などでよく演じられていたマジックとされ、戦後は龍光が十八番として演じていた。

手品の解説 スライスしていない食パンが1斤、お盆に乗って、テーブルの上に置いてあります。観客から腕時計を借り、それを小さな木製の箱に入れ、終始、観客から見える場所に箱を置いておきます。 食パンを取り上げ、どこにも切れ目のない、完全な食パンであることをよく確認してもらいます。ナイフでパンを二つに切り、観客にどちらか好きなほうのパンを指定してもらいます。選ばれなかったパンは、さらにうすく切って、中には何もないことを見せます。 選ばれたほうのパンに、ナイフを突き刺したまま、もう一度お盆の上に戻します。時計の入っている箱を開けてみると、中から時計が消えています。ナイフの刺さっている食パンを取り上げ、ナイフを抜いてからパンをよく観客に示します。ナイフの切れ目以外、どこにも穴などははありません。 そのパンをむしって行くと、中から観客から借りた時計ができます。 http://plaza.harmonix.ne.jp/%7Ek-miwa/magic/someth... より

パン時計の道具は著名なマジックメーカー「ミカメクラフト」社から発売されていた。解説書は少ないと云われていて、このミカメクラフト社製の道具についているマニュアルは使い物にならないとか。真にこの手品を理解する解説書としては、高木重朗氏の『不思議』(マジックマガジン社発行 Vol.5 No.18:1989年夏)がある。


古い時代では、そういう左右を選ばせる手品をした時は、絶対に陛下は発言をされなかった。国民が、陛下の言った方に一斉に流れるからね。
でも、龍光がやった時は、宮内庁の変化もあったのか、元々奇術がお好きな陛下が「右!」って仰った。「それからアタシは陛下と友達なんだ」って営業でよく言ってた。(アサダ二世コメント)*139


「右から出しましょうか?左から出しましょうか?」
ところが会場はシーンと静まり返ったまま。天皇が返事しないのに、周りの侍従が声を出すわけにはいかない。
庶民が天皇と口をきくなどありえない時代。しかしそこで龍光「天皇様どちらにいたしましょうか?」と指名をした。
天皇はおもむろに立ち上がり、一言「右」。

龍光は右側のパンから時計を取り出した。
天皇は誰より率先して拍手をし、他の観客もそれに続き、それまでの重苦しい空気から、会場は拍手に包まれた。*140


「演芸場なんかだと(中略)右だ左だ、ワンワンガヤガヤいうやろう。ところが、ここじゃ天皇陛下がしゃべらなきゃ誰もしゃべらねえんだから。シーンとしてたよ、しばらく。(中略)それで、あたしが「天皇様、どちらにいたしましょうか」っていったら、陛下がお立ちになって「右!」いったよ、大将は「右!」って。」(龍光談*141

天皇の指定で右の方のパンに時計を仕込み、それから時計を貸してくれた侍従のの目の前に移動。
「この中に時計が入っておりますけれども、どっか無理に入れりゃ穴があきます、どっか時計が入ったような形跡がありますか、っていったら天皇陛下、またお立ちになったよ、見にくいから、上の方にいるから。」(龍光談*142

パンを持って客席へ上がっていく龍光。
「ただいまの時計が陛下ご指定のパンの中に入っておりますが、陛下どっかの時計の入りましたような形跡がありましょうか、っていったら『ありません』。では、ご覧下さい、こん中から時計が、といって陛下の目の前でお出ししてみせた『はあっ』っていってたな、パチパチと手をいただいた。」(龍光談*143

披露した奇術3

・トランプの奇術
トランプをよく切って客に1枚ずつ引かせ、そのカードを当てる手品と思われる。
龍光は天皇陛下には一番最後に引いてもらおうとしたのだが・・・・。

「宇佐見侍従のほうがね、どうぞ、天皇陛下のところへは、先生、一番終いに持っていくのはうまくねぇ、っていうんだよ。だから天皇陛下のところへは一番先に持っていってくれって、だから演芸場でやる順序と違うんだ。」
「天皇陛下のお持ちのトランプはダイヤに関係がありますが数字じゃありません、といってね、模造紙をたたんで王冠をこしらえて頭にかぶってね、ダイヤのキングってぇ形を演り『これでしょう』と当てる。」*144

天皇の反応、会場の反応

「とにかく大変だよ、天皇陛下が手をたたけなきゃ誰もたたかないよ、陛下が(手をたたくまね)こうやると、一斉に手をたたきますよ、パーッと、万雷の拍手、ねっ。とにかくちぐはぐだから、最初はどうしても演りづらかった、演るほうとと観るほうの呼吸が合わないんでね」(龍光談)*145

本番の終了後、侍従より「天皇からお言葉があるから待つように」と言われる。龍光はタネ明かしを求められるのかと思ったという。
天皇からかけられた言葉は、
「今日は色々たくさん面白いものを見せてくれてありがとう。これからも健康に注意をされ、芸術のために精進されることを望みます。」*146

「えっ、天皇陛下の反応? いや、驚かないですよ、感心して見てござる。あんた方みたいにね、その、ネタ見とどけてやろうなんて気はひとつもないんだからね。」(龍光談)*147

当日一緒に出演した引田天功(初代)に関して

「いっちゃ悪いが、一緒に行った引田天功は評判になんなかった。演目(だしもの)が悪かったんだよ。
 あの、上からな、ノコギリが、こう降りてきてな、あの、身をかわすようなこと、天皇陛下の前で演ることと違うと思うんだ。(中略)その、いわゆる、その場に合うようなことを演るのが商売人なんだね。(中略)いや、いけないっていう規則はないよ、だけど、そりゃあ奇術を演る芸人(ひと)の心得だよ、引田天功は、そういう芸人の細かい心くばりがなかったんだ。」(龍光談)*148

映像、音声

・天覧奇術の映像は、NHKの代表取材で独占的に撮影。しかし音声のみ。
・映像は4分ほどのものが残っている。
・同じく当日出演した初代引田天功の演技も少し収録されている。
・天覧奇術には弟子の龍一、光一が同伴してステージに立つ。
・その際、龍一がカセットを回していた。
・作家矢野誠一氏への取材では、カセットの中身は天皇の「み、みぎっ!」などという声までは聞き取れず、天皇が拍手→そしてみんなが拍手というシーンが理解できる程度の録音のよう。
(2004.9.28.NHKディレクター氏談)

・天覧奇術の際のパン時計の演技の映像は残っていないと思われるが、アサダ二世氏がフジテレビで「パン時計」を演技する龍光の映像を保有。2005年1月4日NHK放送「ものしり一夜づけ」でその映像が使われた。

(「アダチ龍光の奇術入門」フジテレビ/放送日不明 より。詳細は http://www.tonreco.com/archives/5815 )

1971年その他

  • 12月1日(水) NHKの音楽バラエティ「ステージ101」にゲスト出演。

1972年(昭和47年/76歳)

  • 著作「マジック入門」(ツル・ミニライブラリー/鶴書房)発刊

  • 1月17日 三味線漫談家、玉川スミの大衆芸能部門芸術祭優秀賞受賞を祝い、発起人のひとりとして「芸術祭優秀賞・受賞祝賀会」を催す。(於・新橋の第一ホテル。他の発起人は南部圭之助、玉川一郎、牧野周一、春風亭柳橋、古今亭今輔など

右から牧野周一、龍光、玉川スミ、春風亭柳橋、古今亭今輔、玉川一郎 *149
  • 3月31日(金) 昭和46年度芸術祭優秀賞受賞 桂小文枝独演会 特別出演
会場:上野鈴本演芸場(東京都台東区)
 

*150
  • 7月 「旅」1972年7月号(日本交通公社)連載「旅の秘蔵写真 第18回」に寄稿。
1957年か58年(本文中売春防止法施工に関する記述より:「いよいよなつかしのこの里も売春禁止法とやらでなくなる三月(みつき)前のことでした」→1957年とみるのが自然?)の正月に「岡山のデパートのホールで、三日間名人会の催しに出席」(他の出演は三遊亭圓生、三遊亭百生、リーガル万吉・千太 他)。
宿泊は岡山中央ホテル。中島遊廓に通い、3日間夜を(時に昼も)ともにした遊女との交流に関して。記事掲載写真は遊女との後楽園デートのもの?


  • 7月25日 浅草の萬隆寺に中川茂周(龍光夫妻が養子に取った子供)の墓を建立(後に龍光自身が入る墓)
  • 10月29日 第142回 東横落語会(於・東京・渋谷 東横劇場)出演
出演と演目:三遊亭圓窓(六代目)「牛ほめ」、三遊亭圓生(六代目)「能狂言」、柳家紫朝(音曲)、三遊亭圓生(六代目)「梅若礼三郎(全)」、アダチ龍光(奇術)、三遊亭圓生(六代目)「浮世風呂」
*151

  • 10月31日(火)「三遊亭圓生独演会」(昭和47年度芸術祭参加公演・第142回東横落語会)出演
会場:東横劇場(東京都渋谷区)
午後6時開演
他の出演:三遊亭圓生、三遊亭圓窓、柳家紫朝


*152
  • 11月3日 勲五等双光旭日章 叙勲

*153


(お孫さんに当たる龍一様(弟子だったアダチ龍一とは同名異人です)から拝見した勲章の現物 http://www.tonreco.com/archives/5691


「八十近くまで生きていりゃ、だれでももらえんのと違うか」(11月2日発言)

*154

1973年(昭和48年/77歳)

  • 「アサヒグラフ」2月16日号、連載「わが家の夕めし」に掲載。東久留米の自宅で屋恵子(本文:八重子の誤り?)夫人と。

「まあ、なんといっても、粗食が一番だね、アッハッハ。」(本文より)
この日の献立は、サバのうま煮、トリのうま煮、けんちん汁、アスパラガス、ブロッコリー
  • 5月10日 三遊亭円歌(3代目・当時44歳)夫妻と親子の縁組みを行う式を東京・品川パシフィックホテルで行う。(実際は戸籍上の養子縁組ではなく、芸の上での親子の縁組み)*155
同ホテルの支配人夫妻が"仲人役"で神前で厳粛に親子の誓いをしたのである。立会人は、両家の関係者。誓いのあとの披露パーティーには、北の富士、宝井馬琴、漫才の内海桂子・好江ら十数人が列席した。*156


披露パーティーの模様。中央は桂文治。*157
この親子、神前で誓いあった仲とはいえ、戸籍上では他人。芸の上だけの親子である。それならなにもこんな大がかりなパーティをやらなくたってよさそうなものだが、そこは酔狂なことの好きな芸人だけあって、使った費用もざっと計算して百四十万円也。*158

  • 6月2日(土) 炉ばた寄席(於・東京 新橋の北海道料理「炉ばた」) 100回記念に出演。
小料理屋のまん中にいろりがあって、その前で落語家が「エエ一席・・・」。外側のカウンターにすわった客が、チビリチビリやりながら熱心に聞いている。こんな変わった寄席が、二日にめでたく百回目を迎えた。

「炉ばた寄席」の主催者は北海道料理「炉ばた」の店主。三遊亭小円朝門下、三遊亭朝治の頼みを聞き入れて1970年11月にスタートした企画。はじめは月2回だったが、毎週土曜開催に。100回記念は当時落語協会会長の柳家小さん、日本奇術協会会長の龍光が特別出演するという豪華版。*159
※新橋の北海道料理「炉ばた」は現存し寄席企画も継続(2017年11月執筆当時)

  • 7月11日 第105回 紀伊国屋寄席「古典落語をきく会」(於・東京・新宿 伊国屋ホール)出演
出演と演目:柳家小もん(のちの二代目柳家菊五郎)「そば清」、柳家小さん(五代目)「三人旅」、金原亭馬生(十代目)「あくび指南」、アダチ龍光(奇術)、桂文治(九代目)「お化け女郎」、林家正蔵(八代目)「百人坊主」、三遊亭圓生(六代目)「大名房五郎」
*160


*161

1974年(昭和49年/78歳)

  • 1月1日TBS系 14:00-16:00「初笑いうるとら寄席」出演。他の出演は、三波伸介、伊東四郎、三遊亭円楽、Wけんじ、レッツゴー三匹、てんやわんや、米朝、唄子*162
  • 4月? 昭和天皇73歳の誕生日を祝う御前口演 出演。他に三遊亭円生、宝井馬琴、引田天功が招聘。
  • 8月24日放送「おーるど寄席」(朝日放送)出演。「和朗亭」での演技。司会は桂米朝

(以下演技の模様)

まずは、ステッキを使った芸とトランプネタを黙ぁって披露。客席に「どぉだ!」と言わんばかりの堂々とした態度。ひとしきり拍手が鳴りやむと、堰を切ったようにしゃべり出す龍光。
 「どうもどうも東京におりますもので。大阪は30年振りでしてね。 でもね、その前は20年位大阪にいたんですよ。当時は若かったで すなぁ」
と、先ほどの「どぉだ!」とは一転、朴訥とした新潟弁トーク。この緩急がたまらない。会場大爆笑。私も可笑しくってたまらない。
 「じゃあ、今日はご家庭で楽しめる簡単な手品を3つやります」


 ・赤白の色が入れ替わるひも
 ・先からお金が出てくるせんす
 ・はさみで切る度に大きくなる紙のわっか
を披露して、なんとひとつひとつタネ明かしをするアグレッシブさ。確かに「先からお金が出てくるせんす」なんてハンズでも売ってる面白グッズみたいなネタなんですけど。一般には「成金センス」って言うらしい(笑)。

 「これなんか明治時代からある手品ですけどね、先から出てくるお金 を50円玉にすると昭和の手品になるの」
なんてなMCもたまらない。約8分の演技を放送。
http://www.tonreco.com/ryukou/9.htm

※フルバージョンは大阪は難波にある「ワッハ上方」こと大阪府立上方演芸資料館の演芸ライブラリーで見ることができる。


  • 10月30日 第166回 東横落語会(於・東京・渋谷 東横劇場)出演
出演と演目:三遊亭ぬう生(のちの三遊亭圓丈)「三人旅」、三遊亭圓生(六代目)「中村仲蔵」、三遊亭圓生(六代目)「(質問コーナー)」、アダチ龍光(奇術)、三遊亭圓生(六代目)「居残り佐平次」
*163

  • 11月 鈴本演芸場(上野出演)。次の出番の三遊亭圓生(六代目)、「稲川」の枕で「エーようこそお運びでございます。エーいろいろご機嫌を伺っておりますが。エー前方は奇術でございます。アダチ龍光さんという。まぁどうも実に技は冴えております・・・。」*164
  • 小説宝石 連載対談「こんにちは、梶山です」(対談:梶山季之) 第18回:女道楽は命を縮めまっせ(アダチ龍光)

1975年(昭和50年/79歳)

  • 1月2日 第133回 紀伊国屋寄席(於・東京・新宿 伊国屋ホール)出演*165
  • 1月3日 第3回放送演芸大賞 奇術部門 受賞*166
  • 5月3日 漫談家の牧野周一(一番弟子に牧伸二がいる)死去。4日の葬儀告別式の葬儀委員長を務める。*167
「牧野さんと私は高座を通じて四十年近いつき合いになる。仕事については○○(判読できず)な人で、まじめの一語につきた。二日夜の楽屋では、なぜか亡くなった無声さん、ロッパさん、東海林太郎さんなどの話ばかりして、ふだん、歌などうたわない人が、苦しそうに、東海林さんの歌を口ずさんでいた。いま思えば、ムシが知らせたのではないかな」*168
  • 5月25日(日) 母校である鹿瀬小学校の創立100周年記念式典で手品を披露。(おそらく)最後の帰郷を果たす。(2004.10.5.多宝寺住職 阿達真任(まさと)氏談)



 *169
この辺りの話は地方紙「新潟日報」2004年6月20日付連載「幕下りるとき」の龍光さん特集でも真任さんが取材に答えている。
記念式典に出席、トランプ奇術などを披露した。 実家に泊まり、「おやじと一緒に喜んで、ねじりはちまきで肩を組んで飲んでた」
  • 5月26日 芸団協主催第1回芸能功労賞 受賞*170
  • 「婦人画報」7月号 連載「着道楽」 に掲載。浅草松竹演芸場にての取材。

「着道楽、ねェ・・・。ンまぁそうですなぁ。ただし、私のは経済的な道楽ですが・・・。一揃いの洋服を三通りに着ますから。まずベースは黒の上下。それに正装用のチョッキと普通のチョッキ、つまり四つ揃いを作るわけです。このチョッキと蝶ネクタイか普通のネクタイかで、舞台の時と普段とを着分けるわけで」(本文より)
  • 9月 東宝演芸場(東京丸の内) 開場20周年記念「東宝名人会まつり 9月上席『演芸特選会』」出演。
 出演は龍光、桜井長一郎、宮尾たか志、玉川スミ。大阪からチグハグ・コンビ。間で柳家小さんが25分の落語。*171

1976年(昭和51年/80歳)

  • 2月6日(金) テレビ朝日系「徹子の部屋」に藤村有弘とともに出演。番組放送開始5回目。タイトル「おや?おや?人生」。*172 *173 *174 *175 *176
  • 5月20日 第139回 紀伊国屋寄席(於・東京・新宿 伊国屋ホール)出演
出演と演目:古今亭八朝「道具屋」、林家正蔵(八代目)「廓の穴」、柳家小さん(五代目)「馬の田楽」、アダチ龍光(奇術)、三遊亭馬生(四代目)「景清」、三遊亭圓生(六代目)「能狂言」、金原亭馬生(十代目)「切られ与三 島抜け」
*177
  • 5月下席 東京・浅草演芸ホール、上野の鈴本演芸場のそれぞれ夜の部に出演*178
  • 11月1日午前放送 NHKテレビ「お達者ですか」に夫婦で出演。
五十年の夫婦の生活を淡々と語り、最後に奥さんの「結婚はみんなに反対されたが私は強行した。どんなに辛いことがあっても、妻が苦しみに耐え努力さえすれば、きっといい目が出てくるもんなんです。おかげで陛下の前に連れて行ってもらいました」はひどく印象的でした。(読者投稿欄「広告塔」より)
*179
  • 12月発売 「主婦の友」1977年1月号 に「みんなで楽しむお正月のトランプ手品」掲載
 

1977年(昭和52年/81歳)

  • 1972年に発刊された著作「マジック入門」(鶴書房)が表紙をリニューアルして再発。

  • 5月 上野・鈴本演芸場 五月上席 出演
 
*180
  • 5月4日 第150回 紀伊国屋寄席(於・東京・新宿 伊国屋ホール)出演
出演と演目:古今亭朝太(のちの古今亭志ん輔)「野ざらし」、柳家小さん(五代目)「無精床」、三遊亭圓生(六代目)「汲み立て」、アダチ龍光(奇術)、蝶花楼馬楽(六代目)「応挙の幽霊」、金原亭馬生(十代目)「さみだれ坊主」
*181

  • 10月上席 新宿末広亭出演*182
  • 11月20日 日本奇術協会主催「日本奇術協会創立40周年記念公演」出演。於・浅草公会堂
席 A1800円 B1500円 C1200円 *183

1978年(昭和53年/82歳)

  • 4月10日 寄席に出掛ける寸前、東京・東久留米の自宅で脳いっ血で倒れる。
幸い病状は軽かった。入院と自宅療養で、二ヵ月後には日常生活に支障のない程度に手足の機能は回復した。が、奇術をやるには、まだ手にしびれが残っていた。二人暮らしの屋重子夫人と、素直に"命拾い"を喜びあった。不思議にも、二人の念頭に"奇術"の二字はなかった。「このままひっそりと」。周囲にとりたてて休演、あるいは現役引退などの事情説明することもなく、穏やかな家庭生活が続いた。
*184

1979年(昭和54年/83歳)

  • 9月26日 午後8時頃 池袋演芸場に立川談志の招きで出演。病気後初の寄席出演。
十分足らずだったが、談志とのまるで漫才風のやりとりで、元気な近況を報告した。帰り道、付き添いの屋重子夫人は「いくら年だからといって、芸人はやっぱり舞台・・・。晴ればれとした(夫の)顔を見て胸がいっぱいになりました」。ご当人も「うん。いいもんだ」と言葉少なに"再起"への自信をのぞかせていた。
*185

*186
  • 11月27日 「明治240歳」出演(於・国立演芸場)
出演は浅草オペラの田谷力三(80歳)、寄席ばやしの橘つや(80歳)、龍光。*187
この模様は、花王名人劇場「談志が惚れた名人芸 明治320歳」(関西テレビ制作)として番組収録され、フジテレビ系で1980年3月2日に放送された。

龍光の舞台は「レコードとハンカチ」ネタの映像がソフト化されている。*188

1980年(昭和55年/84歳)

  • 1月6日(日):第13回特別企画公演 新春国立名人会(開催:1月3日〜6日開催)最終日出演
於・国立演芸場
開演 13:00
料金 1,800円(学生=1,600円)
出演
 箏曲:「尾上の松」藤井 久仁江 15分
 漫才:Wけんじ 20分
 奇術:アダチ 龍光 23分
 落語:「子別れ」三遊亭 圓歌 24分
 (仲入り)
 壽獅子:「鏡味小仙社中」 22分
 俗曲:日本橋 きみ栄 24分
 落語:「うどんや」金原亭 馬生 33分

※当日の模様は、カラー映像が残されており、国立劇場横の伝統芸能情報館で閲覧できる。龍光が披露した演技の詳細に関してはこちらにて。 http://www.tonreco.com/archives/4781
龍光登場前に、弟子のアダチ光一が演技をしている。
 奇術界の最長老名人、アダチ龍光。昨秋、ようやく病いえてボツボツ舞台へ。「一刻も早く昔どおりの口八丁手八丁に・・・」とファンレターがいっぱい。(「国立劇場演芸場 第9号」(昭和55年1月)P6より)
  • 3月2日 出演した花王名人劇場「談志が惚れた名人芸 明治320歳」(KTV)放送。収録は1979年11月。

  • 浅草公会堂前の数百人の芸能人、作曲家、噺家など有名人の手形が並ぶ「スターの広場」に手型顕彰。龍光の手形は伊東四朗と三波春夫の間に。
 
*189

この時「スターの広場」に手型顕彰したのは
アダチ龍光
上原謙(俳優)
榎本健一
片岡仁左衛門(十三代目)(歌舞伎)
勝新太郎(俳優)
河原崎国太郎(五代目)(歌舞伎)
島田正吾(俳優)
高峰三枝子(女優)
辰巳柳太郎(俳優)
鶴田浩二(俳優)
ディック・ミネ(歌手)
東野英治郎(俳優)
中村翫右衛門(二代目)(歌舞伎)
中村雁治郎(二代目)(歌舞伎)
服部良一(作曲家)
藤山寛美
三木のり平
三益愛子(女優)
ミヤコ蝶々
森光子
萬屋錦之介(俳優)
備考:榎本健一はサインのみ(手型なし)*190

1981年(昭和56年/85歳)

  • 正月に日本放送 芸術大賞「功労賞」受賞でフジテレビに出演したらしい。
  • 5月8日 東宝名人会 第913回公演 特別企画「明治三二〇歳」に出演(於・東京 日比谷 芸術座)。
林家彦六(85歳)を筆頭に、龍光、寄席ばやしの橘つや(82歳)、浪曲の木村松太郎(82歳)の4人がメイン。司会を立川談志がつとめ、橘つやのおはやしに合わせて、鈴々舎馬風と三遊亭楽太郎が落語家の形態模写を。木村松太郎と談志がトリで「慶安太平記」をリレーでつとめる。*191
  • 10月4日(日)国立劇場演芸場 第2回公演「マジック十八番アダチ龍光を励ます会」に出演。於・国立劇場演芸場

※全4部構成。第3部「アダチ龍光(を励ます)コーナー」で弟子のアダチ光一と連名で出演の記載あり。*192

1982年(昭和57年/86歳)

  • 10月13日 急性心不全にて東久留米病院で午前8時15分没。享年86歳。

戒名は龍光一道信士。
葬儀は、神田にある博善が担当。
  
墓は浅草の萬隆寺にある。
  • 10月30日 日本奇術協会葬(葬儀委員長 松旭斎広子、於 浅草萬隆寺)*193


10月13日掲載(と思われる)お悔やみ記事。掲載誌の確認はできていないが福島県の地方紙「福島民報」または「福島民友」からの切り抜き。

1983年(昭和58年/没後1年)

  • 1月22日 TBSラジオ「早起き名人会」(第122回)でアダチ龍光「漫談」を放送。司会:川戸貞吉 ゲスト:立川談志

1995年(平成7年/没後12年)

  • 10月13日放送、日本テレビ「おもいっきりテレビ」のコーナー「今日は何の日」で『アダチ龍光の命日』として取り上げられる。天覧奇術、和朗亭、奥さん。

2002年(平成14年/没後19年)

  • 7月1日 「笑芸人」 vol.7:特集真夏の夜のイリュージョン&ものまね(白夜書房)発刊。「アサダ2世 我が恩師、アダチ龍光を語る」掲載

2005年(平成17年/没後23年)

  • 1月4日放送、NHK「ものしり一夜づけ:新春スペシャル・マジックの世界舞台裏」で、天覧奇術に関して。過去フジテレビで放送されたアサダ2世氏所有の「パン時計」がちらっと使われる。(「映像提供 フジテレビ」のテロップもあり)

2010年(平成22年/没後28年)

  • 1月1日 NHK BS2「昭和なつかし亭」でNHK保有の映像が放送。(収録年等不明)
*194
  • 9月18日 「タネも仕掛けもございません〜昭和の奇術師たち〜」 (著:藤山新太郎 / 角川選書)発刊。第3章で「『芸とは諦めること』トークマジックの名人、アダチ龍光」として芸風、人柄、生涯に関して章が割かれている。

2016年(平成28年/没後34年)

  • 6月18日(土) 午後7時30分〜 NHK BSプレミアム放送「たけしのこれがホントのニッポン芸能史」(第7回:マジック)で、過去フジテレビで放送されたアサダ2世氏所有のリングの演技が放映される。

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