最終更新: kyo_shimai 2011年02月04日(金) 22:17:13履歴
概要トップ > 真如苑の教え > 大般涅槃経 > 純陀
仏教の祖である釈迦牟尼世尊がご入滅された二月十五日は、真如み教えの根本経典である大般涅槃経が説かれた日でもあり、毎年涅槃会の法要が厳(おごそ)かに営まれます、ことに本年は、真如教主様のお唱えくださる純陀品に全員で唱和することができました。
真如教主様は道ひとすじに立たれると、出家得度して真言密教の悉(ことごと)くを修め、多くの人々に救いを渡していかれました。しかし、衆生済度に心血を注ぐなか、出家仏教の限界を感じられていたのです。
伝統的出家仏教の在り方はどうしても、すがる信徒と、救いを与える僧侶という形になりがちです。それでは悩みの一時的な解決に終わってしまい、根本的な救済には至りません。やはり、一人ひとりが自らの因縁を切って向上していく実践が必要なのです。
ところが、信徒の全員が出家の修行を修めることは不可能なことです。
すべての人々が真に救われる道を求めて、教主様は仏典の研鑚(けんさん)に取り組まれました。一切経をくまなく読破して、ついに出家も在家も救われる究極の経典、大般涅槃経を発見されたのです。
釈尊は、仏陀と成られてより四十五年に渡って教えを説かれましたが、その晩年、釈迦族殲滅(せんめつ)という悲劇が起きたとされます。むろん出家の弟子たちは、俗世の争いには無縁であり、超然と修行を続けることができましたが、釈迦族の在家の人々は惨禍(さんか)を免(まぬが)れることはできなかったのです。釈尊にとって大悲痛事であったに違いありません。
出家のみならず在家の弟子までも、悟りが得られ、真に救われる道とは何か? この命題に答えてくれるのが、遺言として説かれた大般涅槃経であるとされます。
ですから、涅槃経では、教えの受け手として、在家信者の純陀尊師が非常に重要な役割を果たしているのです。
純陀は、み仏に最後の供養を捧げたことで有名ですが、釈尊の晩年の事跡(じせき)を伝える南伝仏教の『大般涅槃経』によれば原名をチュンダと言い、パーバーという町の鍛冶(かじ)屋の子でした。最後の旅の途上、釈尊はここで純陀の供養を受けられた後、激しい腹痛、病苦に耐えてクシナガラヘ進み、沙羅双樹(さらそうじゅ)の下で最後のみ教えを説かれたのです。しかし出家を中心とした南伝の経典には、純陀の発言は載(の)せられておりません。
ところが、大乗経典の『大般涅槃経』では、事跡よりも、み仏が遺言として真に伝えたかったことは何か、という仏陀の真意を前面に打ち出しているのです、
最後の供養の場面も少し変わり、沙羅林の釈尊の元へ純陀が訪れる設定になっています。あらゆる人々が捧げる供養のなかから、み仏は十五人を導いて来た純陀の供養を受けられるのです。ここで純陀は雄弁に発言し、文殊(もんじゅ)菩薩を圧倒しているのです。
これを聞かれた釈尊は「善いかな純陀よ、汝は已(すで)に微妙の大智を成就し、善く甚深(じんじん)の大乗経典に入る」と賞賛しております。
この大般涅槃経を修めれば、在家の身でも、文殊菩薩に匹敵する悟りを得られることが証(あか)されているわけです。そこに個人の救いから、民衆の救い、社会全体の救いへと、み仏が未来に向けてつけられた、大いなる救いの道があると言えましょう。
在家青年純陀の、大乗の実践に基づいた智慧が、出家をも凌駕(りょうが)したことに着目された真如教主様は「仏様はやはり偉大です。きちんと未来の世を見そなわし、最後に遺言として、在家仏教をお遺しくださったのです。この涅槃経、純陀品を読んで私は、大涅槃像を造ると共に、この白髪頭の毛を伸ばしたのです、そうして今まで脱ぎ捨てていた世俗の衣を改めて着て、純然たる在家仏教徒として、自らも在家の生活をしながら、出家の者までも導いていこうという希望に燃えたわけです」と、涅槃の教えを所依とする意義を明かされています。
純陀品の読誦(どくじゅ)について、真如継主様は、「み仏が在家の純陀に、悲しむことはないよ――と、お経を残してくださったように、教主様も毎回毎回の法要に、一切の衆生をご自分の子供のように思いながら、ずっと純陀品を読まれていたんだなと思いました。だから、自分は教主様、摂受院様の子なんだ。仏性があるんだ。だから霊位向上できるんだ。そう思って一生懸命精進して欲しいと思います」とご瑞教くださいます。
まことなる真の救いは最後にぞ
純陀に遺(のこ)せしみ法なりけり
仏教の祖である釈迦牟尼世尊がご入滅された二月十五日は、真如み教えの根本経典である大般涅槃経が説かれた日でもあり、毎年涅槃会の法要が厳(おごそ)かに営まれます、ことに本年は、真如教主様のお唱えくださる純陀品に全員で唱和することができました。
真如教主様は道ひとすじに立たれると、出家得度して真言密教の悉(ことごと)くを修め、多くの人々に救いを渡していかれました。しかし、衆生済度に心血を注ぐなか、出家仏教の限界を感じられていたのです。
伝統的出家仏教の在り方はどうしても、すがる信徒と、救いを与える僧侶という形になりがちです。それでは悩みの一時的な解決に終わってしまい、根本的な救済には至りません。やはり、一人ひとりが自らの因縁を切って向上していく実践が必要なのです。
ところが、信徒の全員が出家の修行を修めることは不可能なことです。
すべての人々が真に救われる道を求めて、教主様は仏典の研鑚(けんさん)に取り組まれました。一切経をくまなく読破して、ついに出家も在家も救われる究極の経典、大般涅槃経を発見されたのです。
釈尊は、仏陀と成られてより四十五年に渡って教えを説かれましたが、その晩年、釈迦族殲滅(せんめつ)という悲劇が起きたとされます。むろん出家の弟子たちは、俗世の争いには無縁であり、超然と修行を続けることができましたが、釈迦族の在家の人々は惨禍(さんか)を免(まぬが)れることはできなかったのです。釈尊にとって大悲痛事であったに違いありません。
出家のみならず在家の弟子までも、悟りが得られ、真に救われる道とは何か? この命題に答えてくれるのが、遺言として説かれた大般涅槃経であるとされます。
ですから、涅槃経では、教えの受け手として、在家信者の純陀尊師が非常に重要な役割を果たしているのです。
純陀は、み仏に最後の供養を捧げたことで有名ですが、釈尊の晩年の事跡(じせき)を伝える南伝仏教の『大般涅槃経』によれば原名をチュンダと言い、パーバーという町の鍛冶(かじ)屋の子でした。最後の旅の途上、釈尊はここで純陀の供養を受けられた後、激しい腹痛、病苦に耐えてクシナガラヘ進み、沙羅双樹(さらそうじゅ)の下で最後のみ教えを説かれたのです。しかし出家を中心とした南伝の経典には、純陀の発言は載(の)せられておりません。
ところが、大乗経典の『大般涅槃経』では、事跡よりも、み仏が遺言として真に伝えたかったことは何か、という仏陀の真意を前面に打ち出しているのです、
最後の供養の場面も少し変わり、沙羅林の釈尊の元へ純陀が訪れる設定になっています。あらゆる人々が捧げる供養のなかから、み仏は十五人を導いて来た純陀の供養を受けられるのです。ここで純陀は雄弁に発言し、文殊(もんじゅ)菩薩を圧倒しているのです。
これを聞かれた釈尊は「善いかな純陀よ、汝は已(すで)に微妙の大智を成就し、善く甚深(じんじん)の大乗経典に入る」と賞賛しております。
この大般涅槃経を修めれば、在家の身でも、文殊菩薩に匹敵する悟りを得られることが証(あか)されているわけです。そこに個人の救いから、民衆の救い、社会全体の救いへと、み仏が未来に向けてつけられた、大いなる救いの道があると言えましょう。
在家青年純陀の、大乗の実践に基づいた智慧が、出家をも凌駕(りょうが)したことに着目された真如教主様は「仏様はやはり偉大です。きちんと未来の世を見そなわし、最後に遺言として、在家仏教をお遺しくださったのです。この涅槃経、純陀品を読んで私は、大涅槃像を造ると共に、この白髪頭の毛を伸ばしたのです、そうして今まで脱ぎ捨てていた世俗の衣を改めて着て、純然たる在家仏教徒として、自らも在家の生活をしながら、出家の者までも導いていこうという希望に燃えたわけです」と、涅槃の教えを所依とする意義を明かされています。
純陀品の読誦(どくじゅ)について、真如継主様は、「み仏が在家の純陀に、悲しむことはないよ――と、お経を残してくださったように、教主様も毎回毎回の法要に、一切の衆生をご自分の子供のように思いながら、ずっと純陀品を読まれていたんだなと思いました。だから、自分は教主様、摂受院様の子なんだ。仏性があるんだ。だから霊位向上できるんだ。そう思って一生懸命精進して欲しいと思います」とご瑞教くださいます。
まことなる真の救いは最後にぞ
純陀に遺(のこ)せしみ法なりけり
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