フリーライター、戸田敏博とは

■フリーライター 戸田敏博氏について

・略歴

198X年 東京都中央区に生まれる
2000年代 都内高校を卒業
2000年代 都内大学で文学を学ぶ
現在 某雑誌の編集を経て、フリーライターに転身

・仕事内容

主に教育に関するコラムを執筆している。
以前働いていた雑誌が教育関連だったため、その取材の経験を活かして現在のライター業へとつなげている。
現代の教育問題や最新教育事情、さらにクイズ形式のテレビ番組に関する知識なども活かしている。

・ライターになったきっかけ

父親が文筆業、母親が国語の教師だったこともあり、幼いころから文学と近い関係だった。物心がつく頃にはすでに文字の読み書きをマスターしており、父親に漢字を教えてもらいながら新聞を読むこともあったという。
ライターになぜなったかは、単に分を読むことや書くことが好きだったからというだけでなく、自分の文章を世間に公表する事でそこから何か感じ取る人が一人でも多くいればうれしいからという理由も含まれている。

・尊敬する人物

人生のすべてをマンガにささげた手塚治虫氏を尊敬している。自分も文筆業という広い世界ではあるものの、その中に身を投じるということは人生をささげるということに等しいと思い、手塚治虫氏のように一貫して勤め続けることを目標としている。
現在は新聞、雑誌、各種業界で様々な形式で自分の書いたものを発信している。個人的なブログも運営しているそうだが、サイトの詳細は公表されていない。

・戸田敏博 が「フリーライター」になるまでに影響を受けた作品

戸田敏博 は文字に親しみはじめた幼少期より様々なジャンルの作品に触れ、それが現在でも商品のコピーを考えるのにヒントとして活用されることがあるという。「物心つく以前に感じた、あの何とも言えない感情は大人になっても忘れることはない」と以前インタビューで語り、またその感情が仕事において重要な材料のひとつとなるからこそ「基本的には家で遊ぶことが好きだった自分を”外に行け”と叱らなかった両親には感謝をしたい」と自身で締めくくったそうだ。
また前述したように、実際に影響をうけた作品について、具体的には「手塚治虫」をあげている。元々医学生でありながらマンガ家という全く正反対のジャンルに足を踏みいれた手塚治虫の「勇気には本当に尊敬する」と語るのと同時に、独自の死生観や人間の身体と精神のつながりを意識した作品については「ある意味若いころ医学に通じていた者だからこそのアイディアだろう」と考え、そこからひとつの物事にのみこだわるのではなく、あえて複雑な存在に挑んでみた後に得られる「答え」を重要視しながら独自のプロセスを経てコピーをつくるそうだ。(そのため、ときにはひとつの仕事に集中し過ぎるあまり、気づくと締め切りの日時を超えているという緊急事態が起こるそうだが、改善策として数々のメモや目覚まし時計をセットするようになった。)
ちなみに他に尊敬する作家は水木しげる。

・戸田敏博が仕事をする際によく読む本 

戸田敏博は仕事中、どうしてもアイディアに行き詰まると、散歩や長時間の入浴、ネットサーフィンなどにより気分転換をするが、最もよく行うのは「読書」だそうだ。戸田氏は周囲から無類の読書好きとして知られているが、手に取るジャンルは実にさまざま。例えば上記した手塚治虫や水木しげる等、時代を作り上げたとされている偉大な漫画作品はもちろんのこと、昨今人気の作品や何度も繰り返し読む作品もいくつか手元にあるという。
時には人気少年漫画のあるセリフをヒントにコピーを思いつくこともあり、「普段絶対に日常にないものこそ実は人間が大事にすべきものかもしれない」と語る。
現在は仕事机のすぐ脇に本棚にしまいきれない程の書籍が積まれているそうで、締め切り間近だというのに慌てている時にかぎってつい物語に没頭してしまうそうだ。
また、漫画と文章共によく読む作者に「杉浦日向子」をあげている。ここ数年は杉浦日向子の作品を追いかけており、古本屋で安さにつられてついつい数冊購入してしまうそうだ。現在戸田氏の手元にあるのは『百日紅』、『百物語』、『合葬』、『とんでもねぇ野郎』、『うつくしく、やさしく、おろかなり 私の惚れた「江戸」』。江戸風俗研究科としてさまざまな作品を世に送り出した杉浦日向子を戸田氏は心から尊敬しており、「”ひとつのことに徹底して愛をつらぬけば、人間なんでも出来るようになる”と教えてくれた人」と述べている。

・杉浦日向子について

これまで様々な人物に影響を受けてきたフリーライター戸田敏博 だが、ここでは杉浦日向子について紹介をしてみたい。
杉浦日向子はマンガ家であり江戸風俗研究科であり、エッセイストでもある。本名鈴木順子。1958年11月30日に日本橋の呉服屋で誕生し、そして2005年7月22日、千葉県柏市で亡くなった。享年46歳。
幼い頃から年上の兄の影響でサブカルチャーに興味を示すようになり、その後日本大学鶴ヶ丘高等学校に所属していた時分には相撲に夢中になったという。それからエスカレーター式で日本大学芸術学部に入学を果たしたが、2年で中退し、家業を手伝いながら手描きの友禅の勉強中、独学で学べる「時代考証」に関心をいだき、当時朝日カルチャーセンターで行なわれていた稲垣史生の「時代考証教室」に通いはじめる。そこで熱意を認められた杉浦は正式に稲垣の弟子となり、川越の自宅に3年間通ったそうだ。
杉浦がマンガ家としてデビューしたのは1980年11月号の『ガロ』にて、22歳のときだ。作品の内容は吉原を題材とした『通言・室之梅』(つうげん・むろのうめ)。正確な時代考証と江戸ブームが追い風となり、杉浦の作品はやがて「文芸マンガ」と呼ばれるようになっていったという。
杉浦は浮世絵を下地にした独特な画風で作品を描きつづけたが、1993年、マンガ家引退による「隠居生活」を宣言。引退後は江戸風俗、浮世絵の研究科として本格的な活動を開始したそうだ。
またエッセイストとして著作の発表を行ったりテレビのコメンテーターとしても活躍していたが、2005年7月22日、下咽頭癌のためこの世を去った。杉浦は生前自身の病のことをあまり多く語らなかったという。上記した隠居生活もそもそも血液の免疫系の病を患ったことが大きな要因であり、そのため体力に無理が利かずマンガ家という職業にピリオドを打たざるを得なかったそうだ。(ちなみにこれらの事実は死後明らかにされた。)エッセイでも自身の病には一切触れず、「次に生まれ変わるなら微生物がいい」など、死生観に対する記述が時折みられることもあった。杉浦が担当していたNHKの番組を降板した理由について本人は「念願だった豪華客船で世界一周旅行をする」と言っていたが、じっさいは当時から闘病をしていたらしい。         

☆代表的な作品 
『合葬』
上野戦争で戦った彰義隊の少年たちの姿を瑞々しく描いた作品。実写映画化もされた。 
『百日紅』
鬼才の絵師北斎と娘のお栄、弟子の善次郎との人情味溢れる日常が描かれている。お栄を主役としたアニメーションが制作、公開され、数々の賞を受賞した。お栄の声を担当したのは女優の杏。   

☆人物 
・呉服屋の孫娘として誕生。そのため普段から着物を身につける機会が多かったという。 
・大変な銭湯、落語好き。その関係で「路上観察学会」に参加をしていた。 
・周囲からはグルメとしても知られている。無類の蕎麦好きで、1991年のソビエト連邦崩壊時に仲間たちと「ソ連」(ソバ好き連)を立ち上げ、その中心として活動したそうだ。それ以外にも日本酒好きという一面もあり、『コメディーお江戸でござる』内でもそれが窺える発言をしばしばしていたという。 
・デビュー直後、明治時代の雑誌『風俗画報』の全巻を70万円で揃えたという逸話がある。
・デビュー後しばらくは近藤ようことともにやまだ紫のアシスタントをしていたらしい。
・他人からは「おっとりしている」と評されることが多いそうだがじつは内面は男性的で、一時はバイクに乗っていた。1988年には作家で博物学者の荒俣宏と結婚したが、わずか半年で離婚。このふたりが結婚をした際、世間は「男性的な杉浦と女性的な荒俣はまさに似合いの夫婦になるのでは」といわれていたという。
・「江戸東京博物館」が開館する5年前からプロジェクトチームの一員として関わっていた。ただし、江戸ゾーンではなく、明治初期の銀座を再現した「明治のレンガ街」というミニチュアのデザインを担当したらしい。 

・手塚治虫について

ここでは戸田敏博 が「”書く”ことを一生の仕事にしていこう」と決意を固くするキッカケとなった手塚治虫についてご紹介していきたいと思う。ちなみにメインは手塚治虫が重要視していた「テーマ」だ。
手塚の描く漫画すべてに共通しているのは「生命」だと戸田氏は考えている。それは自身の戦争体験が大きく影響しているのだろう。
その証拠に、手塚治虫は自身が描く作品のテーマが「生命の尊厳」であることを明言しており、そこが戸田氏が最も気に入っているところだという。
また手塚治虫は「マンガにおいて世相に合わせ転向を繰り返す転向者である」とした上で、「ただ一つ、これだけは断じて殺されても翻せない主義がある。それは戦争はご免だということだ。だから反戦テーマだけは描き続けたい」と語ったそうだ。
また、手塚は子供を「未来人」と呼び、彼らに向け以下のように語りかけたものが残っている。「私は、暗い時代といわれた昭和初期のなかでも、実に恵まれた環境で子ども時代をすごせたと思っています。しかしそれも、青春期には、空襲と窮乏生活によってほとんど失ってしまいました。(一部省略)だから戦争の終わった日、空襲の心配がなくなって、いっせいに町の灯がパッとついたとき、私は思わずバンザイをし、涙をこぼしました。(一部省略)これは、当時の日本人のほとんどの感慨だと思います。もう二度と、戦争なんか起こすまい、もう二度と、武器なんか持つまい、孫子の代までこの体験を伝えよう。 あの日、あの時代、生き延びた人々は、だれだってそういう感慨をもったものです。ことに家や家族を失い、また戦争孤児になった子どもたちは、とりわけそう誓ったはずです。 (一部省略)子どもに生きるということの喜びと、大切さ、そして生命の尊厳、これを教えるほかないと思うのです。率先して、生命の尊厳から教えていくという姿勢が大事なのではないでしょうか。」
手塚は作品の中で天使と悪魔の二面性や、異民族間、異文化間の対立や抗争などを繰り返しテーマにしていた。手塚は戦後間もない頃、酔っ払ったアメリカ兵にわけもわからず殴られ強いショックを受けたことがあり、これがこのテーマの原体験になっているのだとか。また、漫画を描く際にプロ、アマ、処女作であろうがベテランであろうが描き手が絶対に遵守しなければならない禁則として、「基本的人権を茶化さない事」を挙げ、どんな痛烈且つどぎつい描写をしてもいいが、「戦争や災害の犠牲者をからかう」「特定の職業を見下す」「民族、国民、そして大衆を馬鹿にする」だけはしてはならない、「これをおかすような漫画がもしあったときは、描き手側からも、読者からも、注意しあうようにしたいものです」と述べている。
夏目房之介は、手塚が追い求めたテーマを「生命」というキーワードに見出している。漫画批評家である夏目は手塚が見たという以下の夢の内容が作品の基盤になっているのではと語ったそうだ。
「子供のときの僕の夢は空飛ぶ夢とかそういうのはあまりなくて、(一部省略)常に形が一定しないで、いろいろなものに変わる。たとえば僕と一緒に歩いている相手がいるんだけど、それは何かわからないが常に形が変わっている。僕に対して仕掛けることが常に違う。(一部省略)本当に異次元的なものですね。宇宙人なのか女どもなのかわからないが、僕の周りにとにかくそれがいるんです。それが常に変わる。」
「僕は宝塚に住んでいたんですが、学校の帰り道にちょっと寂しい沼があって、そこを通って家に帰るんです。小学生とか中学生のころそこを通る夢をよく見ました。沼地の横で得体の知れないものがブルブルふるえながら僕を待っている。それをつかまえて自分の家へ連れてくる。逃げ出すと困るから雨戸を閉めて、ふすまを閉めて絶対に出られないようにして、僕と物体が向かいあったところでたいてい夢がさめてしまう。その間も僕がそいつを見つけ、そいつが僕のところに寄ってきて、つかまえて家に帰るまでに、何だかわからないけどそいつがいつも変わるんです。(一部省略)つまり、常に動いている楽しさみたいなものがある。動いているのが生きているのだという実感があるわけです。つまり、しょっちゅう変化していることによって、変化しながら進化しているとか、何かに働きかけようとしているとか、つまり、一つのアクティブな感じを受けるんです。で自分はどうかというと常にパッシブでそれを見て感じるとか受け入れるとかいう形で、それを見ているだけなんですが、相手は何かの形で次々に流動しているんです。」
夏目によれば「1950年頃の手塚はこのような”不定形で変身をし続ける生命の原型”を、描線に込めて漫画の全世界に拡張したことで密度の高い作品を生んだ」という。しかし劇画の影響などから描線の自由度が失われると、描線では実現できなくなった生命観を理念として作品のテーマとしていき、『火の鳥』に現れるような汎生命思想が描かれることになったのだそうだ。

☆年表
・1928年11月3日 → 大阪府豊能郡豊中町(現・豊中市)に生まれる。
・1933年 → 5歳のとき兵庫県川辺郡小浜村(現・宝塚市)の川面の高台のふもとの元祖父の屋敷に一家で引っ越し、この時期から母と共に宝塚歌劇に親しむ。
・1935年 → 池田師範学校附属小学校(現・大阪教育大学附属池田小学校)入学。
・1939年 →本名である「治」に虫を付けて「治虫」をペンネームとする。
・1941年 → 大阪府立北野中学校(現・大阪府立北野高等学校)入学。
・1945年3月 → 北野中学を卒業。
・1945年7月→大阪帝国大学附属医学専門部に入学。
・1946年1月4日 →プロデビュー作の四コマ漫画『マァチャンの日記帳』の連載スタート。
・1947年 → 酒井七馬がもちかけた企画による長編漫画単行本『新寳島』が刊行された。
・1950年→ 上京中に学童社に立ち寄って持っていた単行本用の原稿を見せたところ連載が決まり、『ジャングル大帝』の連載開始。
・1951年 →大阪大学附属医学専門部卒業。その後毎日放送開局時のアナウンサー採用試験に合格。偶然通りかかって受験してみたところ合格した、と後年同局の番組『あどりぶランド』で語っている。光文社の月刊誌にて『アトム大使』を連載開始。
・1952年 → 医師免許取得。『アトム大使』から路線変更した『鉄腕アトム』を引き続き連載。東京都新宿区四谷に約1年半下宿する。
・1953年→ 当時25歳。東京都豊島区椎名町5丁目(現在は豊島区南長崎3丁目)のトキワ荘に入居。『リボンの騎士』を講談社の月刊誌少女クラブに連載開始。
・1954年 → 10月に豊島区雑司が谷の並木ハウスに下宿をしはじめる。
・1957年 → 東京都渋谷区代々木初台に借家する。
・1958年→当時30歳。 第3回小学館漫画賞を受賞。練馬区東大泉町(現在は東大泉)の東映動画から漫画『ぼくのそんごくう』を元にした劇場用長編総天然色漫画映画『西遊記』の制作を持ちかけられて嘱託社員になったそうだ。
・1959年 - 松下井知夫(まつしたいちお)氏が中心となって結成した「ストーリー漫画研究会」に参加(同氏に結婚式の媒酌人を依頼。また、10月には岡田悦子と結婚。『週刊少年サンデー』創刊号から『スリル博士』を連載する。
・1960年 → 練馬区谷原町(現在は練馬区富士見台)に自らデザインした自宅を建設。
・1961年 → 奈良県立医科大学から医学博士の学位を授与される。主に東映動画から引き抜いた人材を中心とする6名で手塚治虫プロダクション動画部を設立し、自宅の庭の一角に作った建物で非商用アニメーション作品『ある街角の物語』の制作を開始。ちなみにこの部は12月になると「株式会社虫プロダクション」として登用されたらしい。長男・眞(本名:真)が誕生。
・1963年→当時35歳。自ら創設して社長も務めた虫プロダクション制作の日本初毎週30分枠のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』がフジテレビにて1月1日から放送を開始する。
・1965年 → 日本初の1時間枠テレビアニメ『新宝島』を1月3日に放送。その後、日本初のカラーテレビアニメシリーズ『ジャングル大帝』がフジテレビで10月6日から放送。また、長女るみ子の誕生や、毎日新聞社の特派員記者としてニューヨーク世界博覧会を取材するために渡米した際に偶然に同博覧会場のペプシコーラ館前に於いて生涯で一度だけとなったウォルト・ディズニーとの対面を果たす、などの出来事がこの年にあったそうだ。それ以外には「W3事件」を経て、虫プロの版権部門を独立させた会社「虫プロ商事」を発足する。
・1967年 → 虫プロ商事にて月刊誌『COM』を刊行スタート。同誌に『火の鳥』の連載を開始。
・1968年→当時40歳。 虫プロ商事制作のテレビ番組『バンパイヤ』がフジテレビ系で放送開始。漫画制作のための手塚プロダクションを設立した。
・1969年 → 大人向け劇場用長編アニメーション『千夜一夜物語』を公開。
・1970年 → 『火の鳥』で第1回講談社出版文化賞の児童まんが部門で受賞。日本万国博覧会(大阪万博)にて「フジパンロボット館」をプロデュースしたそうだ。
・1971年 →虫プロ社長を退任。手塚プロダクション動画部を作り、テレビアニメシリーズ『ふしぎなメルモ』を制作。朝日放送(TBS系列)で放送した。
・1972年→『ブッダ』を連載開始。
・1973年→当時45歳。 虫プロ商事と虫プロダクションが倒産。
・1974年 → 練馬区から杉並区下井草に引っ越す。
・1975年 → 漫画『ブッダ』、『動物つれづれ草』が第21回文藝春秋漫画賞を受賞。次いで『ブラック・ジャック』が第4回日本漫画家協会賞特別優秀賞を受賞。
・1977年 → 漫画『三つ目がとおる』、『ブラック・ジャック』が第1回講談社漫画賞少年部門受賞。講談社『手塚治虫漫画全集』を刊行開始。
・1978年→当時50歳。 日本アニメーション協会の初代会長となったそうだ。
・1978年 → 日本テレビにて夏に放送された「24時間テレビ」の中で、日本初の単発2時間枠のスペシャルアニメ番組「100万年地球の旅 バンダーブック」が放送したそうだ。
・1979年 → 児童漫画の開拓と業績により巌谷小波(いわやさざなみ)文芸賞受賞。
・1980年 → 東宝洋画系で劇場用長編アニメーション「火の鳥2772」を公開した。また、サンディエゴ・コミック・コンベンション・インクポット賞受賞。国際交流基金のマンガ大使として国連本部、米国の大学で現代日本のマンガ文化について講演。
・1983年→当時55歳。 漫画『陽だまりの樹』により第29回小学館漫画賞を受賞した。
・1984年 → 実験アニメーション『ジャンピング』がザグレブ国際アニメーション映画祭グランプリおよびユネスコ賞を受賞。
・1985年 →実験アニメーション『おんぼろフィルム』が第1回国際アニメーション映画祭広島大会グランプリ受賞。共に東京都民栄誉賞受賞。またこの年は漫画家生活40周年であり、『講談社 手塚治虫漫画全集』の完結により、講談社漫画賞特別賞受賞。同年7月にフランスで開催された「日仏文化サミット85」に参加した。
・1986年→漫画作品『アドルフに告ぐ』が第10回講談社漫画賞一般部門受賞。
・1987年→愛知県岡崎市で開催の地方博覧会「葵博」の総合プロデューサーを務めた。
・1988年→この年に60歳になった。2月13日、朝日賞受賞記念講演にて議題「アニメーションと私」について話をしたとか。 戦後マンガとアニメーション界における創造的な業績により朝日賞受賞。実験アニメーション「森の伝説」で毎日映画コンクール大藤賞受賞。ザグレフ国際アニメーション映画祭CIFEJ賞を受賞。体調悪化により急遽入院。その後、11月1日に大阪教育大学附属池田小学校で生涯最後の講演を行う。
・1989年→2月9日、胃癌により入院中の半蔵門病院にて逝去、享年60。戒名は伯藝院殿覚圓蟲聖大居士。没後に日本政府から勲三等瑞宝章叙勲、日本SF作家クラブ主催第10回日本SF大賞特別賞受賞。

戸田敏博 にとって「教育」とは?

現代の「教育」に関連した文章を書く機会が多い戸田敏博 だが、上記した手塚治虫が独自の未来の子供たちへのメッセージを送ったことに強く影響を受けたそうだ。そこから以下より「教育の定義」について記載していきたい。

☆「教育」とは
教育は教え育てることで、ある人間を望ましい状態にさせるために、心身に意図的に働きかけることである。教育を受ける人の知識を増やしたり、技能を身につけさせたり、人間性を養ったりしつつ、当人が持つ能力を引き出そうとする行為とそのプロセスを指す。
教育の効果については政治面では「民主化の推進」、経済面では「生産面の向上」など様々な要素が挙げられているそうだ。
なお、教育が当人にとってむしろ否定的な効果・機能を果している場合には「教育の逆機能」と呼ばれることがある。
また、教育そのものを研究する「教育学」という学問が存在する。教育学では、哲学・心理学・社会学・歴史学などの方法を用いる。これらは様々な目的で細分化されており、基本的なものでは教育哲学・教育社会学・教育心理学・教育史学などがあり、実践的なものとして領域教育方法論・臨床教育学・教科教育学などの多数があるとされている。
対象が乳児の場合には「乳児教育(保育)」と呼ばれ、幼児の場合は「幼児教育」、児童の場合には「児童教育」、成人である場合は「成人教育」と呼ばれる。

☆定義
定義については以下のように諸説存在している。
・英語、フランス語、ラテン語の「教育」という意味の言葉が「外に連れだす」に由来していることから、今日では「教育とは、本人の能力を外に引きだすこと」とされている。
・リチャード・ピーターズの定義*
*リチャード・ピーターズは、「教育を受けた者」という概念の内在的な意味を探求し、自由教育(教養教育)の立場から「教育」を次の3つの基準を満たす活動として限定的に定義した。
【教育内容  価値あるものの伝達】
【教育効果  ものの見方が広がる】
【教育方法  学習者の理解を伴う】

☆歴史
教育に関する歴史を「教育史」と呼ぶ。「教育」に当てはまる教科、例えば家庭教育や社会教育も含めていくと、教育は人類の有史以来存在してきたものだといえる。
教育が制度化されたのが確認できるのは古代ギリシア。高等教育機関は古代より世界各地に存在してきたが、現代の大学に繋がる機関が成立したのはヨーロッパの中世とされている。11世紀末にはイタリアのボローニャでボローニャ大学が成立したそうだ。近代教育につながる教育学の祖形は、17世紀にコメニウスによって作られた。18世紀に入るとジャン=ジャック・ルソーが「エミール」を著し、この影響を受けたヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチによって学校教育の方法論が確立されていった。ペスタロッチは初等教育分野に貢献したのに対し、彼の影響を受けたフリードリヒ・フレーベルは幼児教育に、ヨハン・フリードリヒ・ヘルバルトは高等教育に大きな足跡を残した。19世紀に入ると、産業革命以降の労働者の必要性から、民衆に対する教育の必要性が強く叫ばれるようになり、多くの国で公教育が導入され、初等教育については義務化される傾向が強くなっていった。この義務教育化の流れは産業化された国々を中心に広がっていったものの、多くの国で国民に対する一般教育が公教育として施行されるようになったのは、20世紀に入ってからである。特にヨーロッパや南アメリカのカトリック圏諸国においては、初等教育を国家ではなく教会が担うべきとの意見が根強く、19世紀における主要な政治の争点のひとつとなった。この論争は20世紀に入った途端国家側の勝利という事で決着がついた。その後ほとんどの国で初等教育は基本的に国家が担うものとなっていったそうだ。
第二次世界大戦後に独立したアジアやアフリカの新独立国においても教育は重視され、各国政府は積極的に学校を建設していった。これにより、世界の識字率は20世紀を通じて上昇を続け、より多くの人々に公教育が与えられる大きなキッカケとなったという。

日本で初めて教育制度が作られたのは、701年の大宝律令とされる。その後も貴族や武士を教育する場が存在し、江戸時代に入ると一般庶民が学ぶ寺子屋が設けられるようになったそうだ。初等教育から高等教育までの近代的な学校制度が確立するのは明治時代になってからである。第二次世界大戦後から現代に至るまでの教育は、日本国憲法と教育基本法により基礎が形作られている。

☆教育の種類について
・フォーマル教育→「学生に教育を施す」という明確な目的をひとつの場所で実行する教育。
・職業教育→将来商業や工業に関わる仕事に就くという目的に向けて直接的な訓練教育を実行する事。
・特別支援教育→障害があり公教育を受ける事が難しい人間に対して実行される教育の事。
・オルタナティブ教育→主流や伝統とは異なる形の学習方法、またその選択肢。
日本ではフリースクールやインターナショナルスクールなどの無認可校が当てはまるが、学習塾はオルタナティブ教育とはいわないそうだ。
・ノン・フォーマル教育→基本的な学校教育方針とは異なる、固定されたカリキュラム、シラバス、教育機関認証、卒業認定などが存在せず様々な学習状況についての定義が緩く、
例えば、幼児スイミングクラブ、地域スポーツクラブ、カンファレンス形式セミナー、ボーイスカウト・ガールスカウト運動、地域成人教育、スポーツクラブなどが当てはまる。
・自己教育→独学ともいう。能力開発や学習方法のひとつで、目上の人間の指導を仰がずに目標を立て知識を身に付けていくこと。
・オープン教育→居住地域が離れているなどの個人的事情により教室に行けないという生徒に向けた通信教育や遠隔教育のこと。

☆以上にとり上げた「教育の種類」について具体的な内容を以下に書いていく。
【フォーマル教育】
「教室」という場で行われる一般的な教育概念のこと。
ここでの学習法は最も理想とする教育選択肢(カリキュラム・教室設計・教師と生徒の関係性・評価基準・クラスのサイズetc)を中心に決定されているそうだ。
フォーマル教育は初等・中等・高等の3段階に分けられ、それぞれに適した目的や内容、方法をまとめた教育課程=カリキュラムが存在する。
また、小学校に入学する以前の年齢の者が受ける教育を就学前教育=幼児教育という。
フォーマル教育=学校教育は、様々な国でそれぞれの法令に則って実施されている。例えば日本の場合は、「学校教育法」が存在する。

【職業訓練】
即戦力になる職業に就く人材に必須となる教養を身につけさせるための学習法。それぞれの国ごとに制度や施設が存在する。日本では明治初期に職業訓練が行われており、「実業教育」や「技芸教育」と呼ばれていたそうだが、1899年には実業教育に統一された。第二次世界大戦後には、実業教育を「職業教育」と訳されたため、一時的にこの言葉が使用されるようになったが、1951年になると「産業教育」に変化をしが、最終的に「職業教育」が一般に定着していった。

【特別支援教育】
日本における定義は以下のとおりである。
・特別支援学校において
視覚障害者・聴覚障害者・知的障害者・肢体不自由者または病弱者(身体虚弱者)に対し、幼稚園・小学校・中学校・高等学校に準ずる教育を施すとともに、障害による学習上、生活上の困難を克服し自立を図るために必要な知識・技能を授ける。
・幼稚園〜義務教育課程において
知的障害者・肢体不自由者・身体虚弱者・弱視者・難聴者・その他障害のある者で、特別支援学級において教育を行うことが適当な者、その他教育上特別の支援を必要とする児童・生徒・幼児に対し、障害による学習上または生活上の困難を克服し自立を図るために必要な教育を行うこと。この中にはアスペルガー症候群・自閉症・学習障害・AD/HDといった発達障害の子供が含まれる。

【オルタナティブ教育】
「オルタナティブ」とは「代わり」という意味であり、つまりフォーマルな教育の「代わりに用いられる」方法を指す。現在これに当てはまる学習法は、フリースクール、サポート校、ホームスクーリング、シュタイナー教育だ。
日本におけるオルタナティブ教育(代替教育)の定義とは、学校教育法に基づかない非正規の機関で行われる教育が含まれている。具体的には、フリースクール、デモクラティック・スクール、サポート校、インターナショナル・スクール、ホームスクーリング等だ。ちなみに学習塾がここに当てはまらない理由は、学校教育法に則った学習を基準としているからだそうだ。
また、日本においてはオルタナティブ教育は以下のふたつに区別されることが多い。
・幼児教育及び学校教育における新しい教育思想(モンテッソーリ教育やシュタイナー教育)
・不登校児童生徒の救済のためのフリースクール、サポート校、ホームスクーリング

【ノンフォーマル教育】
ノンフォーマル教育の目的は、知識や技術にのみ偏らず、生徒が獲得した新しい経験から自身の感情をどのように育てるかにフォーカスされたものだとされている。基本的な定義は以下の通りだ。
・フォーマル教育→典型的には教育機関や訓練機関によって提供され、対象・学習時間・支援などの面で構造化されており、認証取得のための課程である。フォーマル教育は学習者の視点からは意図的な学習である。

【自己学習(独学)】
自己学習により能力を身に付ける人間には以下のようなタイプが存在する。
・発展途上の土地に住み学習に携わる機関が身近に存在しない。
・生まれつきの障害や、その他様々な理由により教育機関に馴染めない。
・語学を学ぼうとする者。
・経済的に不安定であり教育機関に所属する上で納入しなければならない授業料を払い続けられない。

日本においては、近代学校教育制度が一般に広まる明治時代まで、農民などが学問に目覚め、農業のかたわら積極的に書を読み同じ境遇の者と文通し、師匠を欲することはあったという。
現代に名を残す著名な研究者のなかにもじつは自己学習者だったという者は多い。たとえば牧野富太郎もそのひとりで、彼は元々裕福な家庭で生まれ育ったため、出世の必要性を感じずにいたが、東京帝国大学を研究の場とした頃には、既に学歴が高いjavascript:editor.wide_area_mode.toggle();void(0);者が優位な状況がひろまっていた。
このように、独力で知識を深めた研究者は世界中に存在するが、以下で日本人のみ紹介していく。
・二宮尊徳 1787年生まれ。農業家、思想家。
・牧野富太郎 1867年生まれ。植物学者。
・鳥居龍蔵 1870年生まれ。考古学者、民俗学者、人類学者。
・山田孝雄 1875年生まれ。国語学者。
・竹久夢二 1884年生まれ。画家。
・吉川英治 1892年生まれ。作家、小説家。
・金子みすゞ 1903年生まれ。詩人。
・伊福部昭 1914年生まれ。作曲家。
・高峰秀子 女優。1924年生まれ。
・佐藤忠男 評論家。1930年生まれ。
・池田満寿夫 画家、作家、映画監督など「マルチタレント」。1934年生まれ。
・安藤忠雄 建築家。1941年生まれ。
・柳川範之 経済学。1963年生まれ。
・大平光代 弁護士。1965年生まれ。

【オープン教育】
オープン教育には「通信教育」と「遠隔教育」の2種類の呼び名があり、以下でそれぞれの意味合いを具体的に記していきたいと思う。

・遠隔教育
身近に教育機関のない環境や働きながらの教育など、事情のある人間に向けて便宜を図る方法のこと。以前までは「通信教育」と呼ばれていたが、現在はテレビ・ラジオ・インターネットなど様々なツールが登場したため、この呼び方がそぐわなくなったそうだ。
・通信教育
以上のような理由と同時に、大学通信教育、習字・ペン・漢字など趣味を兼ねたもの、不登校の生徒に適した措置など、その種類は様々である。

☆文部科学省のホームページには「教育」に関する内容に言及したページが存在します。http://www.mext.go.jp/a_menu/a002.htmを参考にしつつ、気になった部分を以下に抜粋していくことにする。
「家庭は、子供たちの健やかな育ちの基盤であり、家庭教育は、すべての教育の出発点です。一方、地域とのつながりの希薄化や、親が身近な人から子育てを学んだり助け合う機会の減少など、子育てや家庭教育を支える地域環境が大きく変化しています。
そこで、文部科学省では、すべての親が安心して子育てや家庭教育を行うことができるよう、様々な取組を行っております。」

コピーライターとは

コピーライターとは、商品や企業を宣伝するため、新聞・雑誌・ポスターなどのグラフィック広告、テレビCM、ラジオCM、ウェブサイトやバナー広告などに使用する文言(コピー)を書くことを職業とする人のこと。

ただ近年では、表現に到達するまでのロジックを構築する作業も、コピーライターの重要なスキルとして見られるようになってきており、特にトップクラスのフリーランサーや広告会社のコピーライターに関しては、この能力の優劣を評価される傾向が強くなっている。

企業にとっては、コピーライターは会社売り上げの鍵となる人物で、コピーライターの作業そのものが企業秘密になるケースが多く、守秘義務契約によって情報公開に制限をかけるケースが多い。コピーライターが競合会社に雇われるとノウハウが流出する可能性があるため、契約の際はコピーライターが競合他社の作業に関与できないようにするのが業界の常識である。

コピーライターになるための資格制度等はないため、広告代理店、広告制作プロダクションに就職することでコピーライターになる場合がほとんどである。日本においてはCMプランナーとの分業がなされているケースが多いが、海外においてはCMプランナーという職種は存在せず、キャッチコピー制作者もCMの企画者もすべて「コピーライター」と呼ばれる。また、近年ではネット広告の出稿量増加に伴いWEBコンテンツなどのデジタル領域に関しても深く関わるケースが増えている。専門の教育機関としては設立58年で約5万人の修了生を輩出する宣伝会議のコピーライター養成講座の存在はよく知られている。

キャッチコピーとは


キャッチコピー、キャッチフレーズとは、主に商品や作品の広告など、何らかの告知や宣伝に用いられ、謳い文句や煽り文句となる文章である。惹句とも呼ばれる。
1文、1行程度のものから、数行に亘る物まで形式は様々である。広告や宣伝においては、キャッチコピーで商品の印象が決まると言え、その出来如何によっては商品自体の売れ行きが大きく左右される事になるため、重要視される。職業としてキャッチコピーを創作する者をコピーライターという。
キャッチコピーは和製英語であり、英語圏では単にコピー、或いはアドヴァタイジングスローガンと言う。いずれも、主に消費者に向けた商品の宣伝文句を指すものであり、キャッチフレーズ と言う場合には特定の人物・集団が掲げる標語や、フィクションに於ける名台詞などを指す事が多い。また、フィクション作品のキャッチコピー(特定の人物の台詞の引用ではなく、ストーリー全体を象徴する惹句)を指す場合は、タグラインと言う。

・国内での歴史
江戸時代には既に「引札」と呼ばれるチラシがあったが、そこに独創的な戯文を書く事で耳目を集めるという手法を始めたのは、平賀源内であると言われる。後に多くの戯作者や狂歌師によって、こうした宣伝文句が使われていくようになった。

現代社会に於いては、高度経済成長が果たされ消費社会が成熟するにつれて、広告は値段や性能などの製品の具体的特長を語る為だけでなく、もっと漠然としたイメージや時代の空気を表現することで消費者の共感を得ることを目指すようになった。開高健をはじめとし、糸井重里や川崎徹、仲畑貴志といった新しい世代が活躍し、コピーライターは人気の職業になった。

著作物としてのキャッチコピー


一般に、キャッチコピーは短文であるため、他の宣伝文句と同一ないし酷似した表現が使われる可能性も低くない。その場合、当該キャッチコピーが充分に短く、且つ日常的に使われる言葉を偶発的に使用したと認められるケースでは、創作性には欠けるものとして著作物に該当しないとされる。しかし、短文の範疇に含まれるものでも、ある程度の長さを持つ場合には著作物性を帯びると判断される事もある。或いは、短くとも著作物性は認められるが、著作権を主張できる幅が狭まるとする見解もある。実際の判例では、五・七・五調の交通安全標語が著作物であるとされた例もあり、キャッチコピー、キャッチフレーズ、スローガンと称するものが全て著作物に該当しないということではなく、ケースバイケースで著作物性を問われるものであることには注意しなければならない。

戸田敏博が影響を受けた人物

・糸井重里
知人に薦められて「宣伝会議」のコピーライター養成講座に通っているうち、1968年にデザイン事務所「サムシング」に就職。1969年に栗田工業主宰のTVCFアイディア賞で銀賞を、1971年には金賞を受賞するが、1973年に「サムシング」が倒産、そのままフリーとなる。同年、宣伝会議賞受賞。

1975年、トーメンアパレルから発売されていたジーンズブランド「WELDGIN」の「このジャンパーの良さがわからないなんて、とうさん、あなたは不幸な人だ!」のコピーで、東京コピーライターズクラブ新人賞受賞。同年、イラストレーター湯村輝彦に出会い、彼の主宰のORIGINAL FLAMINGO STUDIOの創設に参加。

1976年、湯村と共に制作した、「WELDGIN」の広告で、東京アートディレクターズクラブ賞(ADC賞)を受賞。同年、漫画雑誌『ガロ』の編集者の南伸坊からの依頼で、糸井が原作、湯村が画の「情熱のペンギンごはん」シリーズの発表を始める。また、『ガロ』の編集部にいた南伸坊、渡辺和博らを介して、「赤瀬川原平人脈」との親交が始まる。同年7月、糸井原作、湯村画で「さよならペンギン」を刊行。

1978年、矢沢永吉の自伝本『成りあがり』の構成、編集を手掛ける。同書はベストセラーを記録した。

会社設立後

1979年、沢田研二の「TOKIO」の作詞を担当。また、スナック等でちり紙やマッチなどで行う、気の効いた「芸」をまとめた著作『スナック芸大全』を刊行。自身の名義での処女出版となると共に、この年「東京糸井重里事務所」を設立。この事務所に、当時美大生でスタッフの友人であったみうらじゅんが盛んに出入りするようになり、糸井がみうらを『ガロ』編集部に紹介。みうらの漫画家デビューのきっかけを作った。

1980年9月から、サブカルチャー雑誌『ビックリハウス』において、読書投稿ページ「ヘンタイよいこ新聞」を担当。その「意味のない面白さ」で読者を熱狂させ、若者たちの教祖的存在となる。また、『ビックリハウス』に関係していた、新進気鋭のミュージシャン、アーティストとの交際も始まる。

1982年5月、新聞終刊記念イベントとして「ヘンタイよいこ白昼堂々秘密の大集会」を糸井と鈴木慶一らで企画。

また、1982年4月から1985年3月まで、NHKの若者向け番組「YOU」の司会も担当。

その後、西武百貨店の「不思議、大好き。」(1982)「おいしい生活」(1983)などのキャッチコピーでコピーライターとしても脚光を浴びる。仲畑貴志や川崎徹らと共に注目を集め、「コピーライター・ブーム」を呼んだ。

1983年からは『週刊文春』において「家元」と名乗り、読者投稿型のコピー講評「糸井重里の萬流コピー塾」の連載を開始。

1984年、有楽町マリオンの完成記念イベントとして「夕刊イトイ」を企画。

1989年、ゲーム製作のための会社「APE(エイプ)」を設立。制作した『MOTHERシリーズ』はカルト的なファンを生んだ。

1993年、女優の樋口可南子と再婚。

1998年、「ほぼ日刊イトイ新聞」を開設。

2001年、雑誌「インパク」の編集長を務めて話題となった。

編集者とは

編集者は、本(書籍・雑誌)や新聞などの刊行物や論文などの内容を編集する者。歴史書や教科書を発行する出版社(例えば三省堂)では、「編集」ではなく「編修」と表記する場合もある。

実際は、「編集者」と呼ばれる役職は2つある。1つは、著作的な編集を行う人である。著者表示で「著」などと並んで「編」「edited by」「ed.」などとなっている人物である。編纂者・編者(編著者)に同じ。

・編集実務の担当者
もう1つは、出版社や編集プロダクションなどの職場あるいはフリーなどの職業形態における編集実務担当者である。

書籍の編集者の場合、著者が本の「あとがき」などで謝意を表するような場合を除いて、一般的に自分が編集した本に自身の名前が記されることはなく(ただし、徳間書店のように編集者名を必ず記載する方針の出版社も、少数ながら存在する[1])、たとえ著者からの謝意をあらわす文章で編集者の姓名が「あとがき」等に記載されていたとしても、本の書誌事項として登録される公的なものではない。いわば匿名性のなかで仕事をすすめていくのが、編集者の仕事の特質のひとつである。しかし、編集者のなかには、「スーパーエディター」を標榜した安原顕のように、書籍の奥付に自身の名前をクレジットする者もいる。

映像編集


フィルム時代の編集では、フィルムそのものを切って貼る形の編集が用いられていた。しかし、VTRの時代になり、黎明期をのぞく多くのVTRが「切り貼りが困難」だったため、素材テープを編集先テープにコピーする形が主流になった。最近ではノンリニア編集といい、ハードディスクに映像データをコピーしたあと、そのデータを演出意図に合わせて出力する形の編集方法も多く使われるようになってきている。

まず、収録した全ての素材から明らかな失敗や不要な収録単位(テイク)を除き、番組を構成する部分を整理して、番組で用いる映像部分を大雑把に切り出す作業を行う。(粗編集(あらへんしゅう)などという)。この段階では映像を特に加工せず、切り出してVTRテープなどの記録媒体にまとめていく。

次に、選ばれた素材を番組制作意図に従ってつなぎ合わせる。この段階では素材の調子を整えたり、特殊効果を施したり、場面転換の効果を与えるなど様々な技法が用いられる。また、この段階でタイトル・クレジット入れも行われる。

映像の編集が終わると、MA(マルチオーディオ:Multi Audio:但し和製英語)という音声編集作業を行う。背景音楽や効果音の選定、台詞のアフレコ等を行い、演出意図に合わせて挿入する。その他、編集後の映像素材のノイズ除去なども行うことがある。

様々な作業を経て制作者のOKが出ると、記録媒体(標準テレビ放送の場合にはDVCPRO-HDやHDCAM等のビデオテープが一般的)に収録し、完成となる。出来上がったテープは「完パケ」と呼ばれる。この工程は通常放送局外の編集専門のポストプロダクション(事業者)の貸し編集室を用いて行う事が多い。

テレビ放送の場合
テレビ放送開始当時、VTRはまだ開発されていなかった。そのため、映画技術であるフィルム編集が用いられた。その後、VTRが開発され、価格的にも使いやすくなるとともに、そのまま映像信号を扱うことの出来るVTR編集やノンリニア編集に移行した。
テレビ番組の場合
近年ではバラエティ番組を中心に、文字スーパーによる補足が頻繁に付加することが増えてきている。
ニュース素材の場合
「ENG_(放送)」も参照 ニュースの取材映像はドラマなどと異なり、取材後すみやかに放送する必要があるため、報道意図に沿った場面を選択して数十秒から数分程度の映像にまとめる点で大きな違いがある。このため、編集作業は放送局の報道部門が持つ編集室で行われるのが普通である。編集機材も迅速な編集を第一とするため、取材用カメラ一体型VTRのテープを直接再生して編集作業ができるような機材構成としている。最近では後述するノンリニア編集技術を用いたニュース編集システムも利用されている。

アフレコ

アフレコとはアフター・レコーディングの略で、映画やテレビドラマ等で撮影後に俳優の台詞(声)だけを別途録音する事。

アフレコを行う理由は様々だが「撮影時に音声収録をしていない」、「音声収録をしたが、不鮮明だった」、「収録した台詞の演技が意図したものとずれていた」、「撮影後に台詞が変更された」などがある。

日本では別人による台詞の差し替えを区別して、吹き替えや特撮の音声収録ではアテレコという語が用いられる場合もある。

アフレコとは逆に台詞や音楽を先に収録して、それに合わせて絵を描いたりキャラを動かすことのはプレスコ(pre-scoring:プレスコアリング)といい、主に人形劇、着ぐるみショー、アメリカのアニメーション、ミュージカル、演奏シーンなどがこの方法で製作されている。

和製英語で、英語圏ではダビング(Dubbing)、ポストレコーディング(英: postrecording)、ルーピング(英: looping)、ADR(英: Automated Dialogue Replacement/Additional Dialogue Recording)、ポストシンク(英: post-synch)などといい、撮影終了後の仕上げ作業(ポストプロダクション)中に行われる。

事前に吹替作品の場合は翻訳家が台本を作成、アニメでは脚本とは別にアフレコ用の台本が作成され、アフレコ用映像と共に演者に渡される。
録音当日はまず録音スタジオに出演する俳優が集合し、収録前にプロデューサーや監督、音響監督が演出方針の説明を行う。その後リハーサルを2回通して行ない全体の流れを掴む、演技のすり合わせなどをしてから本番となる。
収録は映写やモニター画面を見ながら何本かのマイクを共有して行われ、スタッフは声優がいる収録ブースとは区切って防音されたコントロールルーム(調整ブース)から指示を与える。台本通りに収録するとは限らず、収録の段階でアドリブが飛び出したり演技者が台詞を演じやすいように言い回しを変える事もある。
本番の収録が終わった後、NGや演者・スタッフが演技に納得いかなかった部分を各々録音し、一通り収録が終わる。

外国作品の吹替の場合は、イヤホンで原音を聞きながら行なわれる。また演者には事前に演技の参考として原版のビデオが渡されている。一方、アニメの場合は事前に台本を渡されるもののアフレコ時は無音の状態であり、映像も未完成である事が多い。

録音の工程はデジタル化されており、ハードディスク録音のため、ミスがあってやり直しになってもその台詞だけをリテイクするだけで済むようになっている。しかし、かつて、録音テープの編集ができなかった時代にはやり直し(NG)を出すと最初から収録をすべてやり直す必要があり、本番では大変な緊張感があったと云う。更に溯って、テープ収録がなかった時代には生放送でアフレコを行なっていた。

録音の媒体

古くはアナログレコードによる物理構造への変換が行われていたが、物理接触を伴う媒体では磨耗が発生し、また記録から音声を再生した際の出力が小さい事から、電気的に増幅するようになり、次いで電気的信号を磁気媒体に記録する方法へ、更には電気信号をデジタル化して磁気的ないし光学的な媒体へ記録するように変化していった。近年では電子的媒体(メモリーカード等)への記録装置も見られる。

記録様式の多様化により、CDやMDなどの音楽専用メディアの制作・販売用途以外にも、日常会話や会議・公演などの記録といったものや、映画・放送といったマスメディアでの音声収録やインターネット上のコンテンツに至るまで応用分野の幅は広い。

録音の歴史

落語・詩吟・民話といった音声を伴う情報について、古くは語り部や徒弟関係による口伝や声帯模写といった行為により音声は伝えられていた。しかし時代の変化などによる正確な再現という面で難があった。音楽はもっぱら、楽譜を頼りに演奏者が作曲者の意図を解釈したものを聴衆が楽しんでいた。

録音の歴史は、1877年にトーマス・エジソンが円柱型アナログレコードを開発した事に始まる。なお1857年にはエドアード・レオン・ スコットによるフォノトグラフと呼ばれる装置もあったが、フォノトグラフは音声を波形図に変換する地震計のような装置で、当時は音声を再生する事は出来なかった。

実際にはフランス人シャルル・クロスが、円盤を使ったほぼ同機構の録音装置に関する論文を、エジソンの録音装置発表の約4ヶ月前に発表していた。しかし実際に利用できる実物を完成させたのはエジソンが先であったため、「録音装置の発明はエジソン」といわれるようになっている。

1889年、ブラームスはエジソンの依頼により、自曲「ハンガリー舞曲第一番」を自ら演奏して録音した。これは史上初のレコーディングとされている。

また、1927年にはそれまで無声映画であった映画に音声を記録するトーキーが発明された。これは映像を記録するフィルムの余白部分に音声信号を光学的に記録したものである。

その後、1世紀近くはアナログレコードの天下が続いた。1938年にはドイツで磁気テープが開発され、1963年にはオランダフィリップス社が磁気テープをカートリッジ化したコンパクトカセットを発表、一般の録音記録需要ではこれが利用されるようになっていった。ただ当時の磁気テープはテープ素材の関係で伸びやすく、繰り返しの録音・再生で劣化しやすかった。このため繰り返しの再生が求められるメディアは、専らレコードが優位とされていた。

この磁気テープとレコードの時代を激変させたのが1979年のフィリップス社とソニーの共同開発によるコンパクトディスク(CD)の発表である。ソニーが早々とアナログレコードの生産を打ち切ったこともあり、傷や埃に極めて弱く、また繰り返し使えば磨耗するレコードは10年と経たずにCDに取って代わった。しかしディスクジョッキーやオーディオマニアといったアナログレコードの支持層がいるため、レコード盤、プレーヤー、レコード針の生産は現在でも細々と続いている。

録音の種類

アコースティック録音 - 音楽・音響の録音において、機械的振動のままレコード原盤に刻み込む方式。 電気録音 - 楽器や歌手の演奏をマイクロフォンにより電気信号に変換した上でハードディスクや磁気テープなど媒体に記録する方式。 光学録音 - 映画のフィルムに電気信号を光学的なパターンに変換して記録する方式。 ハードディスク録音 - 電気録音の一例で、録音媒体として計算機のハードディスクを使うものをいう。アナログ音声信号をADCでデジタル化し、パーソナルコンピュータや単体MTR等に設置されているハードディスク装置にデータとして記録する。編集機能とミキシング・コンソールを一体化したシステムはデジタルオーディオワークステーション(DAW)と呼ばれる。 バイノーラル録音

マスタリングとの違い


レコーディングは、ヴォーカルやギターなどの素材となる音をひとつずつ録音し、各々に対してエフェクトやEQ(イコライジング)などの加工を行ったあと、すべての音をミキシングするまでの作業である。それに対し、マスタリングは、すでに出来上がった音源に対する最終的な音量調整や音質調整、フェードイン・フェードアウト処理、曲順決定をして、CDカッティング用のマスターテープをつくる作業であり、レコーディングとマスタリングは、同じようだがまるで違うものである。そのため、レコーディングとマスタリングには専用のスタジオが使用され、同じ場所で行われることはまずないと言える。

マスタリング

原盤製作においても、広義のマスタリングと狭義のマスタリングの二つの用法が存在する。原盤製作作業における狭義のマスタリングとは、量産プレスのために、プリマスタリング(後述)によって作成された内容で原盤(スタンパ)を作成する工程を指す。原盤製作作業における広義のマスタリングには、プリマスタリングとスタンパ作成の両方の行程が含まれる。

原盤製作作業において一般的にマスタリングと言えばプリマスタリングのこと、もしくは広義のマスタリングを指すことが多い[1]。
プリマスタリング

通常、収録内容、収録順序の決定、内容編集などの工程がマスタリングの前に必要となる。これはプリマスタリング(pre-mastering)と呼ばれる。

音楽メディアのプリマスタリング
音楽CD、DVD-AUDIOなどの音楽メディアの場合はミキシング(ミックスダウン)して作られたマスターテープから、曲順の決定や、フェードイン・フェードアウトなどのクロスフェード作業、最終的な曲のレベルや音質、音圧調整、曲間の編集等[2]を経て、CDカッティング用マスターテープ(現在はプリマスターCD-RやDisc Description Protocolファイル)をつくる作業を指し、通常、マスタリングスタジオで行われる。音楽メディアにおけるプリマスタリングは、楽曲やアルバム全体の最終的な印象を決める重要な作業である。
音楽メディア以外のプリマスタリング
その他のCD-ROM、DVD-ROMなどの媒体の場合は、内容を編集し、マスターを製作するための原盤の原盤を製作する作業をプリマスタリングと呼ぶ。プリマスタリングされた内容はCD-Rなどに記録される。

脚本家


脚本家とは、主に映画・テレビドラマ・アニメ・ゲーム・舞台・ラジオドラマなどの脚本を書く人のことを指す。シナリオライターとも言う。
テレビ番組やラジオ番組の進行台本を書く放送作家の事も脚本家と呼ぶ場合もある。ただし、職業上の自称や業界内部としては、これらは放送作家とする場合がほとんどであるため、一般に脚本家と言えば、狭義に「映画、テレビドラマ、アニメーションの脚本を書く人」を意味している場合が多い。日本映画においては、伝統的に映画監督が脚本を執筆する場合が少なくない。テレビドラマにおいては映画同様に監督が兼任することもあるが脚本家は独立した職能として扱われる場合が多い。テレビアニメーション、特撮においては基本的にテレビドラマと同じであるが長期シリーズになることが多いためシリーズ構成というポジションが作られている。

テレビドラマにおいては、担当する脚本家は通常は1名のみである。これは、複数の目を通して書き直している時間的余裕がないことのほかに、脚本家が書き上げた脚本がそのまま現場に持ち込まれることは少なく、通常はプロデューサーやディレクター、広告代理店の担当者等の目を通すことで、事実上の共同執筆状態になっているためでもあるといわれる。
これに対し、映画においては複数の脚本家による共同執筆の形が取られることも多い。

Seesaa Wiki関連リンク

コメントをかく


ユーザーIDでかく場合はこちら

画像に記載されている文字を下のフォームに入力してください。

「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

×

この広告は60日間更新がないwikiに表示されております。

Menu

メニューサンプル1

メニューサンプル2

開くメニュー

閉じるメニュー

  • アイテム
  • アイテム
  • アイテム
【メニュー編集】

管理人のみ編集できます