「行ってきます!」
ガラリと勢いよく開かれた玄関扉の音とともに、やけに朗らかな梅子の声が通りへ響いた。
「おっ、梅子」
それと同時に、ちょうど居合わせたとでも言いたげな表情の信郎が、長い両腕をブラブラと前後に揺すりながら梅子の方へ歩み寄る。
「あ、ノブ。おはよう!」
朝日のようにまぶしい笑顔を向けられて、自然と鼻の下が伸びてしまった信郎は、息継ぎを忘れた空っぽの肺で小さくおっと返事をした。
何しろ結婚の約束をした雨の晩から休みを挟んで、初めて迎える朝だ。
見慣れているはずの梅子の顔が不思議といつも以上に可愛く見えて、どうにもこうにも落ち着かない。
梅子を待っている間も胸の辺りがモゾモゾしていたが、今やそれが腹の底を抜けて尻にまで達しているような気がする。
自分の方へ近寄ってきた梅子の顔をちらりと見ると、ブラつかせていた手で腰のあたりをさすりながら明後日の方向を向いて言った。
「あー……。どうだ、調子は」
「うん。すっごくいいの」
期待以上の好感触を得て、「そうかー」と思わず能天気な声を出し梅子を見ると、梅子が畳みかけるように話し始めた。
「あのね、昨日、竹夫兄さんや松子姉さんと被害者の方の家へお金を返して回ったの。そうしたら、誰も訴えないって。
 おじさん、刑務所に入らなくても済みそうなの」
ああ、そっちの事かと少し落胆しながらも、心の底から嬉しそうに話す梅子の顔を見ると、何だか心が落ち着いてくる。
梅子はそうやって人の心配してるのが似合うよ、と、先日自分で話した言葉がそのまま信郎の頭の中へ浮かんだ。
いつしか信郎の顔から浮ついた部分が消えると、穏やかに笑いながらウンウンと梅子の話に耳を傾けていた。
「ありがとう。ノブのおかげよ」と言う梅子に「よかったな」と声をかけ、信郎が梅子の肩へ手を伸ばしかけた時――。
「おはようございます」
二人の間へ割って入るように現れたのは、看護婦の相沢だった。
「あ、相沢さん。おはようございます」
相沢にも同じようにニコリと微笑んで、じゃあねと診療所へ入っていく梅子。その残像を、信郎はしばらく見送っていた。

『まぁ、約束はしたんだし。そんなに焦ることもないだろう』
足取りも軽く、幸せそうな顔をした信郎が裏口から自宅の庭へ回ろうとすると、幸吉と和子の話し声が聞こえてきて何気なく足を止めた。
「うーん。どれも、帯に短し、たすきに長しって感じだなぁ」
「こないだの人がべっぴんさんだったから、比べるとねぇ」
茶の間に座って、何かを見比べている両親の姿が見える。
もう見合いなんかすんなと言っていた舌の根の乾かぬ内に、どうやら二人して次の見合い相手を考えているようだ。
『こりゃ、呑気に構えてらんねぇな』
信郎の顔が一瞬にして梅干を頬張ったような表情に変わり、腕を組むと、暫く物陰から二人の様子を眺めていた。

「それでは先生、行ってまいります」
昼食をとるために出かけていく相沢のピンと伸びた背中が、安岡製作所の角を曲がって消えていく。
表に出て、数時間ぶりの日光をいっぱいに浴びて両手を上げると、梅子はうーんと言って大きく伸びをした。
「おい、梅子」
「きゃっ」
下村家の母屋と診療所の間にある井戸の陰から突然声をかけられ、思わず梅子の口から悲鳴が上がる。信郎の声だ。
信郎はキョロキョロと通りの様子をうかがいながら、ゆっくりと大きな体を現す。
「もぉ、なぁに?」
梅子はドキドキと鳴る胸を押えて驚かされたことへの抗議をすると、立ち上がって傍へ寄ってきた信郎の顔を見上げた。
見上げるのはいつもの事だけれど、いつもより首の角度が急なのは、信郎の位置がいつもより近いせいだろう。
「どうしたの?ノブ」
抗議もそこそこに、いつもと様子が違う信郎の心配をすると、信郎は初めて見せるような真面目な様子で話し始めた。
「どうしたじゃねぇよ。……梅子、俺たちのこと親に話したか?」
信郎に言われた瞬間、梅子は両手を口に当てて「あ」と大きな声を漏らした。
そう言えば……。陽造の事で忙しかったとはいえ、あんな人生の一大決心を忘れてしまうなんて……。あの夜の……。
「まだ……。陽造おじさんの事で頭がいっぱいだったから」
梅子が頬を赤く染め、恥ずかしそうに答えると、信郎は耳打ちをするようにかがんできた。
信郎の顔がやけに近い。信郎の瞳の中に映る自分の姿を見て、梅子の心臓は改めてドキドキと高鳴った。
「いつ話す?うちのオヤジとオフクロ、懲りずにまた見合い相手を探し始めてんだよ」
「えっ!?」と驚く梅子に、信郎は黙ってコクリと頷く。
「大変!早く話さないと」
「ああ、けど、いざとなると……。なんか、照れくさくてな」
信郎が頭の後ろを掻きながら、顔をクシャクシャにしかめた。面倒くさいことがある時の、いつものノブだ。
もぉ、と口を尖らせて言ってみたけれど、確かにみんなに言うのは照れくさい。ノブと……、結婚だなんて。
「うん……。でも、早く話さないとね」
もじもじと揺れていた梅子の体が、ピタリと止まった。小さな両肩には、信郎の大きな手が添えられていた。
信郎の両手に、グッと力がこめられる。
「よし。みんな集めて、ちゃんと話そう」
「うん」
まっすぐ、真摯に向けられた信郎の視線の中に、梅子は幸せそうに微笑む自分の姿を見た。

――終――

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