「ちょっと、帰りにくくなったね」
「そうだね」
光男がすっかり伸びた元いがぐり頭をグリグリと撫でまわし、「いやぁ」と言って参っている横で、千恵子は何やら嬉しそうな顔をした。
月の明るい、ある夜の事。みかみの前には、深刻そうな顔で縁台に座る梅子と、そんな梅子へ話をする一人の女性がいた。
信郎との浮気が疑われている、雑誌記者の山川だ。
仲睦まじいことで有名な安岡夫婦に立った、ちょっとした波風を、今や狭い町内で知らない者はいないだろう。
その波風の最先端を目の当たりにしては、知らない顔で通り過ぎることなど出来るはずもない。
光男と千恵子は、遠目にも見つからないよう、なるべく他家の軒へくっついて身をかくした。
話し声の聞こえるような距離ではないので、身振りなどから様子を探ろうと、光男は梅子たちの方を注意深く見つめる。
「こんな時に、こんな事言っちゃダメだとは思うんだけど……」
どうしたものかと思案する光男へ、千恵子が語りかけた。振り返ると、千恵子は自分の事を見つめていたようだった。
「光男君と一緒にいられる時間が少しでも増えて、ちょっと嬉しい」
自分へ寄り添って微笑む千恵子の心中を察し、光男もふと微笑み返した。

光男と千恵子は、元々仲が良かったものの、付き合っていたというわけではない。
安岡家の波風に巻き込まれ、少しの間だけ二人で映画に行ったことにされていたが、それまで実際に二人で出かけることなども無かった。
千恵子が工場に顔を出し、二人でその話になって、「ならば」と実際に出かけてみたのが前の日曜の出来事である。
蒲田の駅前で映画を見て、その後喫茶店で話をしただけの事だったが、行ってみると予想以上に楽しい時間を持つことが出来た。
店の子だけあって、千恵子はいろいろ気働きも出来るし、光男はそんな千恵子を可愛いと思ったりもした。
その後、昨日今日と、光男が夜学から帰ってくる頃になると千恵子が近くまで迎えに来ていて、二人で話しながら歩いた。
『もしかして……』と、若い二人が互いを意識するのに、長い時間は必要ないようであった。

「あっ……」
互いに見入りそうになっていた光男と千恵子が、揃って小さな声を漏らす。
山川が突然走ってその場を去り、それを見送るようにしてから、梅子が自宅の方へと歩き出したのだ。
二人は黙って頷き合うと、みかみの前まで歩を進めた。今まで梅子と山川のやり取りがあった縁台が、ポツリと月に照らされている。
千恵子が、ハアッと大きな息をついた。
ようやく思い切り息ができるように感じたのだろう。その事は、光男にも理解できた。何しろ、今の今まで息の詰まる場面を見ていたのだ。
「梅子先生、どうしたかな……」千恵子は、急な展開の、その先を気にしているようだった。
「うん……」光男の頭の中には、信郎の姿があった。
光男は、信郎を社長や旋盤工の先輩として尊敬しているだけでなく、兄のように慕ってもいた。そんな信郎にかけられた疑惑である。
もちろん信郎は否定をしているが、嘘の片棒を担がされた上に、町の噂では信郎が浮気をしたと決まったような話になっている。
真相が知りたい。言葉にする事こそないものの、いつしか光男はそう思うようになっていた。

安岡製作所が見える、映画館の看板がある角まで来て、二人は足を止めた。
工場の引き戸が開いたままで、中の明かりが入口の前を明るく照らしているのだ。
工場の横にある窓も開いていて、中の様子が少しだけ窺える。梅子も信郎も、中にいる姿がチラリと見えた。
中の様子は気になるが、梅子や信郎に見つかってはいけないし、まだ人通りが無いわけでもない時間だ。
「無理に近くまで行かなくても、これくらいの距離から見ていようか」と問おうとして、光男は千恵子の方を見た。
視線を合わせてきた千恵子の顔が、興奮しているのか緊張しているのか、昂っているようでいつもと違う。
光男の心臓はドキリと高鳴った。そう言えば、さっきからずいぶん千恵子との距離が近い。
「ここで、いいかな」緊張した面持ちになった光男が聞き、光男を見つめたまま千恵子が頷く。
その姿は、もはや街灯の下で語らうアベックにしか見えず、たまに通る人たちも一瞥するがさして気にも留めずに通り過ぎて行った。
「あのね、家の両親って、あんなでしょ。だから、梅子先生たちって、私の理想っていうか、憧れなの……」
光男の方へ体を向けたまま、千恵子が言う。その表情の中に不安の色が見て取れて、光男は千恵子の継ぐ二の句に耳を傾けた。
「だから、もし何かあったらと思うと……。ちょっと怖くなってきた……」
「大丈夫だよ」光男は自分にも言い聞かせるようにして、千恵子の肩に手を置くと、その体を工場の方へと向けさせる。
二人は縦に頭を並べ、窓から見える工場の中で何が起こるのか見極めようと、そろって目を凝らした。
梅子と信郎は、先ほどからくっついて話をしているようだが、何をしているかまではよく見えない。
ちょうど工場の方へ向かう通行人にくっついて、直接中を覗こうか、と考えた時である。
梅子が信郎に抱き付いて、信郎が梅子を抱え上げた。梅子を下ろした後もなお、二人は抱き合ったまま離れないでいる。
それを見た光男の頭の中へ、いつも工場で聞く信郎の声が聞こえてきた。
「こんなもの、直しゃまだ使えるだろ」
信郎も、その父の幸吉も、大概の物は壊れても直して、再び使えるようにしてしまうのだ。
きっと何事もそうなのだろう。普段の生活も、長い人生も、直しながら大切に重ねていって、きっと本当に壊してしまう事はないのだ。
そんな二人の仲を他人がどうのと言う筋合いはないし、そもそもあの二人の間には噂のように他人の入る隙などないのではないか。
「やっぱり、いいな」梅子と信郎の繋がりの深さを改めて確認し、こみ上げるものを感じて視線を向ける。
そんな光男の視線を受ける梅子と信郎は、運悪く抱きあう現場を目撃され、野次馬となった通行人から囃し立てられていた。
「よかった!」千恵子が、心底嬉しそうな笑顔を向けてくる。光男は、そんな千恵子へ軽く屈んで口をつけた。
唇が触れた一瞬と、見つめ合う静寂の間。光男たちのいる街灯の光の中は、工場の前の喧騒から切り離された別の空間のように静かだった。
「何か、強引……」
言葉とは裏腹に、何やら嬉しそうな様子の千恵子へ、光男が右手を差し出す。
「帰ろうか?」
「うん」
二人はそっと手をつなぎ、道を歩き始めた。

――終――

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