3-215 『甘えによる親密度変化』

 ある研究所のある研究室、新藤ラボ。
 突然の甘え実験から数日。新藤博士は何も甘える行動を起こしてはいない。パソコンのキーボードをカタカタと鳴らして論文を書いている。
 勿論、内容は「上野君に対して最も効果的かつ効率的な好意の伝達方法」ではない。
 仕事に勤しむ博士を見て上野助手は少し複雑だ。
 例の実験の次の日、上野は彼女にまた抱きつかれるのではないか、と不安半分、期待半分だった。
 だが、そんなドキドキも、新藤博士の「おはよう。この前の変な解が出ると言っていた解析、あれは君の入力ミスだぞ」の一言で消えた。
 あれは博士のいたずらだった。そう上野は考えておく事にする。
「でもなぁ〜」
 新藤博士は研究はしても、いたずらはしない。そういう人だと上野は助手として思う。
「あれは本気なのかなぁ」
 だとすれば、先日の実験で「上(略)法」は甘える事に帰着したことになる。ならば、さらなる研究ためと称して、博士は必ず甘えてくるはずだ。しかし、新藤は甘えてこない。
「やっぱ、違うよなぁ。はぁ……」
 ボヤキと一緒にため息をつく。好意を持っているのは博士だけでなく、実は助手も同じだったりする。
「上野君、何をぶつぶつ言ってるんだ?」
「うおぉっ!!」
 上野が思考に耽っている間に、後ろに新藤がいた。コーヒーでも淹れようと席を立っていたらしい。
「何か問題でもあったのか?」
「いえ!なんでもありません!」
 慌てて答える上野。博士の事を考えていましたとは恥ずかしくて、口が裂けても言えない。
「そう、ならいいんだけど。無理はしないように」
 一瞬不審がるも、くるりと背を向けて新藤は歩いていった。
 新藤の小さな後ろ姿を見ながら上野はまた悶々と考えた。例の研究は今も継続しているのか、と。
「ん?」
 ふと、上野は異変に気付く。新藤の頭、ちょうどつむじあたりに糸くずが付いている。
「新藤博士、頭に何か付いてますよ」
 頭の異変に気付いた時にはもう彼の体は動いていて、ぱっと新藤の頭を払う。彼女のショートカットの髪がさらりと揺れた。


「ひゃぁ!」
 いきなり意識の外から触れられた事に驚いて、新藤はびくっと体を震わせる。
「えっ!な、なんかスイマセン!」
 上野の方も予想外の反応に戸惑う。
 もしかしたら、彼女の頭を強く叩いてしまったのかもしれない。いや、そうに違いない。
 と、上野は思ったらしく、何故か新藤の頭をわしゃわしゃ撫でる。
「あ、上野君……もっと優しく」
「あ、はい」
 混乱している上野は、言われたとおりに少し力を弱めて新藤の頭を撫でる。
「ダメ、もっと」
 この時、上野助手がもっと冷静ならわかるはず。今の状況が。新藤博士が。
「上野君、もっとゆっくりなでて、欲しい……かな」
 甘えモードになっていることに。
 そうとは知らず、上野は一生懸命に優しく、ゆっくりに、頭を撫でる。なでなでされて新藤は、目をとろりとさせ、ぽーっとしている。
「んぅ、上野君……」
 いつの間にか、新藤はしっかりと抱きついている。ここでようやく上野は気付いた。
「はっ、博士!なんで!?」
「上野君、わかったぞ。甘えには能動性と受動性がある」
 新藤はきりっとした博士の顔になって言った。いきなりなものだから上野は「はぁ、そうですか」としか言えない。
「わかりやすく言うとだな、この間、私が上野君に抱きついたように、自ら積極的にいくのが能動性甘え。今、君がなでなでしてくれているように、君が私に応えて甘えさせてくれる。これが受動性甘え、だ」
 新藤は新たな発見に、やったぞと言わんばかりの表情で嬉しそうに笑う。
「あの、まだ、やってたんですか?えっと、研究、を」
「何を言うんだ。『上(略)法』の研究は終わってないぞ」
 助手の質問に、当たり前だとばかりに博士は目をほそめる。
「そっか、これは良い事……なのか?」
 上野はそっと呟いて自問する。博士が研究を続ける事は、嬉しくもあるが、困惑もまだある。
 まぁ、少し恥ずかしいけど、これはこれでいっか。
 そう思いながら、彼は新藤の頭にぽん、と置いてそっと、丁寧に撫でた。


 彼女は幸せそうな表情を浮かべて上野を見つめる。
「んん、気持ちいいぞ……うー君」
 頭を撫でる手がピタリ止まった。
「博士、今何て?」
 上野は抱きついている新藤を離す。新藤はいきなりの質問にきょとんとしている。
「うー君」
 それが何か問題があるのか。と言うかのように首を傾げる。
「上野君だから、うー君」
「いいですか博士、それ、絶対、絶対ですよ。絶対言わないで下さいね。絶対にですよ」
 上野は真剣に、絶対を強調して繰り返す。
「え、う、あ、あの……?」
 言葉の意味がわからずに博士はおろおろ。
「えっと、どうかしたのか?顔が赤く……それに」
「さあ!論文を仕上げないといけませんねっ!」
 上野は照れている。この前抱きつかれた時よりもはるかに。いや、今まで生きてきた中でも最高に。
 それ程うー君と呼ばれたのが恥ずかしがったのだろう。お前はトマトか、と言いたくなる程の赤い顔がそれを証明している。
「はいはい!さっさとしましょうっ!」
 上野は照れをごまかすためにしっしっと彼女を追い払う。
「もう、私の方がエライんだけどなぁ」
 不満をもらしながら、新藤はしぶしぶ自分のパソコンに向かう。
「何故だ、上野君は研究の邪魔をしたいのだろうか。うむぅ……いじわる」
 博士の研究が終わるのには、まだちょっとだけ、時間がかかりそうである。



おわり
2008年12月07日(日) 00:02:54 Modified by amae_girl




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