委嘱前年の1960年、畑中良輔を常任指揮においたワグネルの「ジプシーの歌」などの演奏を聴いた多田は、翌年の委嘱作にそのハーモニーを生かすべく、草野心平の詩から東洋的絵画的な五編へ詩を抽出した。
絵画家
モネが好きだった多田はまず『金魚』の詩に辿り着く。「あをみどろの水槽の中に、大きい琉金がゆったりと泳いでいる。それは遊学していた折に体験した、中国の遠い地平の炎のように見える。」として綴られ、「目前の水槽と大琉金、追憶の大平原と火災の炎」のコントラストの凄まじさと美しさを表現している。
さらにその小宇宙と対比させるための大宇宙として、『天』に付曲。この頃には男声合唱組曲「天」として纏める予定だったが構想が固まりきらなかったという。後に合唱名曲シリーズNo.20(H3)にM3として収録された。
そこから1957年の合唱コンクール課題曲に混声合唱で作曲し応募したが落選した『石家荘にて』を男声化。師の清水脩による落選理由としては、「課題曲としては不適当だったから」。
ここまで凄まじい緊張感を与える詩ばかりを選んでしまったと岩手の湯治場での詩『雨』を選ぶ。
そして最後に終曲に相応しい詩を探し、『さくら散る』に至る。多田は日本古謡「
さくらさくら」に見られるような桜の花の満開、“花ざかり”ではなく、幼い頃から桜の花のもう一つのいのちであり真髄と考えてきた、“落花の舞”を表現しようと試みた。その根底には、1948年の春に多田が見た洛北・
小倉山二尊院門前の桜並木の落花と、1961年春に当時在住していた板橋付近の養老院の前庭の水銀灯に照らし出された桜がある。
初演は指揮者・評論家の福永陽一郎が後々まで語り継ぐ名演奏であったという。『雨』は指揮者・北村協一が最期に振った曲である。
1974年に同志社グリーが第4回世界大学合唱祭で演奏した時にパンフレットに載った曲目の英訳は「
From poems of Shimpei Kusano, 1.At Sekkaso, 2.Heaven, 3.Goldfish, 4.Rain, 5.Falling Cherry Blossoms」となっている。