マイケル・ジャクソンの作品から情報を集めてみました

【引用】
マイケルジャクソン全記録 1958−2009
著:エイドリアン・グラント
訳・監修:吉岡正晴
発行:螢罅璽瓮ぅ
救済 マイケル・ジャクソン 児童性的虐待疑惑(1993年)の真相
著:ジェラルディン・ヒューズ
訳:寺尾和子
発行:メディカル パースペクティブス
発売:サンクチュアリ出版

1981年7月22日
ジャクソンズ、ジョージア州アトランタにあるオムニ・オーディトリウムでアトランタ児童基金のための特別慈善コンサートを開き、10万ドルを集めてチャリティーに寄附する。
この基金はアトランタで起きた連続誘拐事件に対して設立された。

1984年
音楽娯楽業界主催の「T・J・マーテル白血病と癌研究基金」への献金を目的としたチャリティー・アルバム「レッツ・ビート・イット」がリリース。

1984年4月9日
デイヴィッド・スミシーという名の腫瘍を患った14歳の少年が、エンシノにあるマイケルの自宅に招待される。
デイヴィッドの最後の願いはマイケルに会うことであった。
彼は7週間後に亡くなった。

1984年4月14日
マイケル、マウント・サイナイ・ニューヨーク医療センターに19病棟を寄附。
ここは、白血病と癌の研究のためのT・A・マーテル基金でできている施設の一つ。

1984年6月
マクドナルド主催の若い癌患者チャリティー「マリブの夢キャンプ」の支持者に会う。

1984年7月5日
マイケルは、11才のファン、ラドンナ・ジョーンズから、ジャクソンズとプロモーターたちは「身勝手でお金を稼ぐことばかり考えている」という非難の手紙を受け取り、大規模な記者会見を開いて、ツアー組織の変更とマイケル個人のヴィクトリー・ツアーでの報酬すべてを慈善事業に寄付することを発表。
マイケルのツアー収益は3つの慈善事業に分割された。
黒人大学進学基金、夢キャンプ、T・J・マーテル白血病及び癌研究基金。

1984年7月13日〜15日
ジャクソンズ、テキサス州ダラスのテキサス・スタジアムで公演。
彼らは1200枚のチケットを恵まれない子供たちに寄付し、またスポンサーであるペプシ・コーラは1300枚のチケット(3万9000ドル相当)を追加寄付した。

1984年7月21日〜23日
ジャクソンヴィル初日の公演後、舞台裏で不治の病に罹った8人の子供と会見。
命いくばくもない13歳の少女マランダ・クーパーに手紙を書き、市長は手紙でマイケルにこの少女に会ってくれるよう頼んだ。
その結果700人の障害児童がマイケルの特別ゲストとしてジャクソンズによるスリリングなライヴ・ショーを楽しむよう招待された。

1984年8月17日〜19日
出身地ゲイリーでのコンサート開催ができなかったため、彼らはデトロイト公演最終日にセルマ・マーシャル孤児院、インディアナ少年施設、ダンゼルズ大学進学志望者向け職業訓練課程からの恵まれない子供たちを40人招待するための費用を全額負担した。

1984年12月13日
4月に起きた火傷の治療を受けるべく、ブロットマン記念病院を再び訪れる。
彼は150万ドルを寄付して、子供の犠牲者救済のためのマイケル・ジャクソン火傷治療院を設立させた。

1985年1月15日〜23日
クインシー・ジョーンズの誘いで、アフリカ飢餓救済のための曲をライオネル・リッチーと共作。
マイケルは「ウィ・アー・ザ・ワールド」の原曲をてにして現れた。

1986年2月18日
カリフォルニア州パターソン出身で、14歳の心臓移植患者ドナ・アッシュロックが熱狂なファンであることを知ると、マイケルはすぐさま電話をかけた。
そして彼女の回復を願っている、さらに体調がよくなれば一度エンシノの自宅へ招待すると語った。

1986年3月8日
心臓移植患者ドナ・アシュロック、カリフォルニア州エンシノにあるマイケルの自宅を訪れる。
彼女は昼食を共にし、映画を一緒に見た。

1986年4月
ジョージ・マイケル、インタヴューの中で、6月にマイケル・ジャクソンと一緒のレコーディングを予定している、と語る。
その収益金はアフリカ救済基金に寄付される、という。

1987年10月
マイケル、発展途上国の教育児童への援助資金を募るためのチャリティー・オークション用に、30品目に及ぶ身の回りの品を国連教育科学及び文化機構へ寄付して日本ツアーを終える。

1987年11月29日
マイケル、イギリスの児童救済アピールに1万ポンドを寄付する。

1988年5月22日
ローマにある、二つの病床に5歳から12歳の子供の患者たちがいるバンビン・ゲス児童病院を訪ねる。
子供たちにサインをし、キャンディー、LPやカセットを配り、さらに病院に1万ドルの寄付を約束した。

1988年5月23日〜24日
グレート・オーモンド・ストリート児童病院のために20万ポンドを集めたITVのテレソンに、ペプシがマイケルのイギリス・コンサート・チケット4000枚を寄付する、と報じられる。

1989年1月16日〜26日〜27日
ロス・アンジェルス公演のうち、1日分の収益金がアメリカ最大の非営利児童虐待防止機関である、「チャイルド・ヘルプUSA」に寄付された。
マイケルの協力を称えて、チャイルド・ヘルプUSAは南カルフォルニアにマイケル・ジャクソン児童虐待研究国際協会を設立した。

1989年1月
訪れた多くの土地で、マイケルは、彼個人のゲストとして無力な子供たちや恵まれない子供たちをコンサートに招待し、病院、孤児院を訪れ、様々なチャリティーに寄付を続けた。

1989年1月30日〜2月7日
カリフォルニア州ストックトンにあるクリーヴランド小学校を訪ねる。
数週間前、ここでパトリック・パーディー(25歳)が、学校の運動場に放火して、5人が死亡し、39人が負傷、その後バーディーは銃で自殺するという事件があった。
マイケルはサインしたアルバムとビデオを渡し、親や子供たちに話かけた。
彼らは、マイケルの訪問によってまた安心できるようになり、世の中の人々が心配してくれていることやすべての大人が子供を傷つけるわけではないことがわかった、と語った。

1989年3月
カリフォルニア州ユニヴァーサル・シティーのユニヴァーサル・アンフィシアターで、ブラック・ラジオ・エクスクルーシヴ誌の「人道主義者賞」を授与される。

1989年3月5日
聖ヴィンセント機能障害児童の家とビッグ・シスターから200人の子供たちをサンタ・バーバラにあるサーカス・ヴェガスに招待する。
マイケルは手を振り、冗談を言い、笑い、おどけて、彼の招待客とサーカスを楽しんだ。
さらにマイケルは子供たちを施設動物園に案内した。

1989年9月22日
首都児童博物館から、同博物館への寄付集めに対する貢献と恵まれない子供とその原因となる諸問題への終わりなき献身を称されて、89年度ベスト・オブ・ワシントン博愛主義者賞を授けられる。

1989年11月13日
マイケルがウイッシュ・グランテッド(最後の願いをかなえる)協会を通じて、4歳の白血病患者ダリアン・ペイガンを見舞ったことがニューヨーク・ニューズデイ紙の1面と飾る。
マイケルは少年をカナダのアクロバティック・ショーに連れて行き、我々が当たり前のようにおもっているもの、つまり、時間をプレゼントした。

1989年12月28日〜1月3日
84年、治療中にエイズ・ウイルスに汚染された血液製剤のためエイズに感染した若い血友病患者ライアン・ホワイト、休暇をマイケルのネヴァーランド牧場で過ごす。
ココモにある地元の学校から登校を拒否され、ライアンはエイズ患者が受ける差別に苦しんでいた。
彼はテレビ出演して理解を訴え、またホワイト・ハウスで演説した。
マイケルは彼に赤いムスタング車をプレゼントした。

1990年1月
マイケルが個人的に貸し切りにしたスケート場を恵まれない子供たちに開放し、料金を取らずにスケートを楽しませた、と報じられる。

1990年2月4日
11月に撮影された、サミー・デイヴィス・ジュニアの芸能生活60周年記念コンサートの模様がABCから放送される。
これによる収益金約25万ドルのすべてがUNCFへ寄付される。
この番組はエミー賞で最優秀音楽スペシャル番組を授賞した。

1990年4月5日
ブッシュ大統領と面会。
ワシントンの首都児童博物館からこの10年で最高のエンターテイナーに選ばれたことを祝う、ホワイト・ハウスのローズ・ガーデンでの式典の席上でのこと。
子供たちの諸問題に長年にわたって取り組んできたマイケルは、その人道主義的活動に対して賞を受け取った。
ブッシュ大統領は取り囲んだ記者団に対して、マイケルは彼の言うところの「人道主義的諸問題への貢献」をやりとげた、と語った。

1990年4月5日
この多くのウヴェントがあった1日にも、マイケルはライアン・ホワイトの容態を確認するために電話を入れた。

1990年4月8日
ライアン・ホワイト、6日間の昏睡状態の末にエイズとの闘いに終止符を打つ。
享年18歳。
ライアンの親友となったマイケルは、タジ・マハール・カジノに滞在中にこの訃報に接した。
マイケルはドナルド・トランプを残して、すぐにインディアナ州にあるライアンの実家へ向かった。
そこで数時間を過ごし、ライアンの母ジャンヌを慰めた。

1990年4月11日
1500人に上る弔問客と共に葬儀に参加し、ライアン・ホワイトの母ジャンヌを慰める。

1990年5月
西ヨークシャーのウエイク・フォールド在住の14歳の癌患者ジョン・ブラウンは、最後の願いをマイケルによって聞きとげられる。
メイク・ア・ウィッシュ基金の活動の一環として、ジョンは彼のアイドルに直接面会するために、マイケルのネヴァーランド牧場へ招待された。

1990年7月
生命の危機に瀕している重病を持つ子供たちのための救済事業ロス・アンジェルス・ドリーム・ストリートによって、45人の子供たちがマイケルのネヴァーランド・ヴァレーへ招待される。
子供たちは世界のあらゆる地域からやって来た。

1990年8月18日
ロス・アンジェルス地区とサンタ・バーバラ地区のYMCAでの夏期プログラム参加者から130人の子供たちを、サンタ・バーバラの自身の牧場に招待する。
子供たちは「大好き」という小旗を振って好感を表した。
マイケルはロス・アンジェルスのYMCA28丁目支部の名誉会員となった。

1990年9月14日
全米ボーイ・スカウト・ロス・アンジェルス評議会よりマイケル・ジャクソン・グッド・スカウト博愛主義者賞を授与される。
この賞はメイク・ア・ウイッシュ基金、プリンス・トラスト、UNCF、チャイルドシップUSAへの寄付集めに対する努力を通じて、全人類への博愛主義的力を発揮したことを表彰したもの。

1991年4月8日
ジェーン・グランドールの類人猿研究機関への寄付金を募るため、1人あたり500ポンドのチンパンジー・ティー・パーティーを主催する。

1991年5月6日
ジェーン・グッドール国際慈善事業に招待される。
ナイジェリアのゴンベで30年にわたりチンパンジーの研究に尽くしてきたグッドールを、マイケルは支援し続けていた。

1990年7月26日
マイケル、ロス・アンジェルスにある地域青年スポーツ芸術基金センターを訪問。
このセンターは、ギャングになったり麻薬絡みの諸問題に関わることを思い止まらせるよう、ギャングの一員となった若者の両親や家族の手伝いをしている。
マイケルは17歳になったエマニュエル・ルイスと一緒に子供たちと遊び、帰り際にソニーのワイド・テレビ、「ムーンウォーカー」のビデオ、金額は定かではないが高額の小切手を寄付した。

1991年10月
マイケルのネヴァーランド牧場で謎の女性が子供の誕生パーティーを開くのに3万ポンドを支払う。
マイケルはエイズの有名人慈善オークションにこのマイケルの牧場で誕生パーティーをする権利を売り出した。

1992年2月3日
ニューヨークのラジオ・シティー・ミュージック・ホールで記者会見を行い、彼が新しく設立した「ヒール・ザ・ワールド基金」のために世界ツアーを行う予定であると発表。
同基金は、ライアン・ホワイトを記念した小児エイズ基金、キャンプ・ロナルド・マクドナルド基金、メイク・ア・ウイッシュ基金、小児糖尿病基金、そしてマイノリティーのためのエイズ基金に資金を提供するもの。

1992年2月
マイケルは11日間に3万マイルを旅したことになり、彼は病院や孤児院、学校、教会、精神薄弱小児の施設なども訪問したが、そのことを前向きに紹介する報道はほとんどなかった。

1992年6月
恵まれない子供たちのために4万マルク(DM)をミュンヘン市長に寄付
ロッテルダムの子供病院に10万マルク(DM)寄付

1992年7月
ローマのLa Partita del Cuore(チャリティ試合)に約8億2000万リラ寄付
エストニアとラトヴィアの子供の慈善事業に12万マルク寄付
イギリスの子供たちのための慈善事業に50万ポンド寄付(デンジャラス・ツアーの収益金の一部)
イギリスのチャールズ皇太子基金に20万ポンド寄付

1992年9月
スペイン女王主催のチャリティに100万ペセタ寄付
ブカレスト(ルーマニア)の孤児院に子供の遊び場を寄付

1992年11月24日
ヒール・ザ・ワールド基金は、210万ドル相当の救援物資が国連の難民高等弁務官事務所の監視のもとにクロアチアの首都ザグレブに輸送され、その後サラエボに送られて配付されるように、アメリケアズと協力。
マイケルは、ニューヨークのJFK国際空港の格納庫で、旧ユーゴスラビアの紛争地帯ボスニア・ヘルチェゴビナのサラエボにいる子供たちに届けるために、医療品や毛布、冬服、靴など合計43トンがDC-8貨物輸送機に積み込まれるのを見守った。

1992年12月
「オペレーション・クリスマス・チャイルド」という、クリスマスプレゼントを靴箱に入れて貧しい子供たちに贈る組織と協力して、ボスニアの子供たちに、おもちゃ、文房具、写真、英国の児童学校から集められた手紙などを3万個の靴箱に詰めて空輸

1993年1月26日
マイケルは、ロス・アンジェルスのセンチュリー・プラザ・ホテルで行われた記者会見に出席し、ヒール・ザ・ワールド基金のために、NFLとスーパーボウルのスポンサーであるフリト・レイからそれぞれ10万ドルを、さらにBEST基金から50万ドルを受け取った。
これを機に、ロス・アンジェルスにおける子供たち主体の活動母体、ヒールLAが発足した。

1993年1月
1992年に起きたロサンザルス暴動の後、ロサンゼルスの若者たちに薬物濫用・エイズの感染予防教育、指導、予防接種キャンペーンを、市の種々の財団と協力しえ行うことを目的に、新しい子供救済イニシアティブ「ヒール・ザ・ロサンゼルス(LA)」の設立を発表。

1993年2月
セガと協同で、10万8000ドル以上のコンピュウータゲームおよび機器を、英国中の子供病院、子供の家、子供チャリティに配布。

1993年3月
マイケルが自主映画制作会社、マイケル・ジャクソン・プロダクションズを設立したことが発表される。
この会社は道徳的な向上を目的とする映画を製作し、その収益の一部は彼のヒール・ザ・ワールド基金に寄付される。

1993年4月26日
LA浄化運動の一環として、ロス・アンジェルス・センティネルのキャロライン・ビンガムとオフ・ザ・ウォール誌エイドリアン・グラントを伴い、ロス・アンジェルスのサウス・セントラル地区を訪問。
マイケルはワッツ保健財団、エル・サント・ニノ放課後センター及びホーラス・マン中学校を訪問した。

1993年4月
「ヒール・ザ・LA」プロジェクトの3つの施設を極秘で訪問し、薬物濫用・エイズ感染予防プログラムの受講側と提供側のディスカッションに参加。

1993年5月5日
マイケルと共に児童/世界救済運動の共同会長を務めるジミー・カーター元大統領は、予防注射キャンペーン、アトランタ・プロジェクトの支援のためマイケルをアトランタに招待。
この後、オムニ・ホールで行われた「子供たちの祝典」でマイケルはカーター夫妻、テッド・ターナー、ジェーン・フォンダ、リサ・マリー・プレスリー、エマニュエル・ルイスなどと並んで最前列で参加した。

1993年5月
ジミー・カーター元大統領のアトランタ予防接種プロジェクト/子供の健康イニシアティブの協力により5日間にわたって1万7000人の予防接種を手配。

1993年5月
チャレンジャー・ボーイ・アンド・ガール・クラブの百人の少年少女がネヴァーランド・ヴァレーを訪問。

1993年6月10日
子供たちへ薬物教育をする新しいDAREプログラムに着手するべくロス・アンジェルスの中学校で午後の集会に出席する。

1993年8月
タイのペプシ・コーラと共に、タイの田舎の子供たちを支援する、皇太子妃のチャリティに4万ドルを寄付。
ペプシ・コーラ国際本部と協力して、モスクワの子供たち、および、ブエノス・アイレスの子供たちへ新しい救急車を寄付。

1993年9月5日
ノース・ヨークシャーのライトウォーター・ヴァレー・テーマパークでファン及び支援者が世界救済チャリティー・デイのために集う。
当日の全売上げが世界救済イギリス本部よりクリスマスのためにサレエボに寄付される。

1993年9月
日本滞在中に米軍基地内の学校を訪問。

1993年10月
アトランタプロジェクトの一環である小児糖尿病財団、児童擁護基金、ニュージャージー州のボーイズ・アンド・ガールズクラブへ10万ドル寄付。

1993年10月28日
マイケルは「フリー・ウイリー」に出演したシャチのケイコのいるメキシコ・シティーのエル・ヌエボ・レイノ・アベンチュラ遊園地訪問の予定だったが彼は到着せず、代わりに恵まれない子供たち5000人が入れるように手配した。

1993年12月16日
世界救済財団イギリス本部、再度クリスマスのためにおもちゃ、菓子、贈り物、支給物などを前ユーゴスラビアの子供たちに空輸する作戦に協力。

1993年12月
グルジアのトビリシに小児ワクチン6万人分を寄付するため、ゴルバチョフ財団へ空輸。
「オペレーション・クリスマス・チャイルドの活動として、ユーゴスラヴィアにおもちゃと英国の子供たちからの手紙などを詰めた10万個の靴箱をプレゼント」

1994年1月17日
ネヴァーランド・ヴァレー牧場に100人以上の恵まれない子供たちを招待、全員そのファンタジー天国を大いに楽しんだ。

1994年1月〜
「ユニ・ヘルス」および「ロサンゼルス予防接種同盟」と共に、ロサンゼルス地震で家を失った子供たちにワクチンを寄付。また、このワクチン接種を推進するため、ディスカバリートイズ社と共に、数百のおもちゃを子供たちに寄贈。
非営利団体によるロサンゼルス地震の被害者救済活動に「ヒール・ザ・LA」基金を通じて、8万5000ドルを寄付。
地震被害を受けた世帯に無料のラウンドリー・サービスを提供するため、ゼネラル・エレクトリック社等と共同で、洗濯機、ヘアドライヤー、石鹸等をNPO25団体に寄付。このほか、「ヒール・ザ・LA」基金の役員により、地震対策に関する啓蒙活動のほか、ロサンゼルスにおけるさまざまな支援活動を実施。
救世軍と協力して、地震で家を失った400家族以上をユニヴァーサル・スタジオで1日を過ごすために招待。

1994年2月22日
「ジャクソン家の名誉」放映。
全収益がチャリティー団体、助け合う家族に寄付される。

1994年4月12日
ニューヨークのシティー・センターで開催された毎年恒例の第2回子供の選択アワードに、「子供たちの世話」賞受賞のため出席。
この賞は特別部門で、若い人々の人生を豊かにするため一緒に過ごす時間を割いた有名人に謝意を表明するものである。

1994年8月6日
子供たちが入院している2つの病院を訪問。
2600以上のおもちゃをお土産に持っていった。

1994年8月
トイザラス社およびアメリケア社と共同で、ブタペスト(ハンガリー)の小児病院に2万ドル相当のおもちゃ、食糧等を寄付。

1994年 秋
青少年の指導教育プログラムを実施しているロサンゼルスのチームに「ヒール・ザ・LA」基金より支援を行う(千人以上の青少年を対象)。

1994年10月
ロサンゼルスの学生達が放課後に勉学やレクリエーション活動を安全な環境下で行えるよう、コンピューター、言語、数学、スポーツなどを指導するイニシアティブを実施。

1995年3月30日
ジャクソン夫妻が昨年の8月にブタペストを訪問した際に約束された、「ベラ・ファルカス君に新しい肝臓を与える手術」は3月12日にブリュッセルで行われた、とスポークスマンのリー・ソルターズは語った。

1995年4月18日〜20日
ヒール・ザ・ワールド基金を代表するマイケル・ジャクソンとリサ・マリーが、世界17カ国からネヴァーランド・ヴァレーにやって来た46人の少年少女たちを、3日間に及ぶセミナーとワークショップから成る世界子供会議のために歓迎する。

1995年2月
1200世帯以上が参加している「ヒール・ザ・LA」コミュニティ・スクール/セイフ・ヘイブンス構想のカリキュラムおよびプログラム時間を拡大。

1995年3月
ハンバリーの4歳の少年、ベラ・フェルカスの肝移植手術費と治療費を援助

1995年4月
薬物濫用、ホームレス、暴力、エイズ、児童虐待などについて話し合う3日間の世界子供会議のセミナーに出席するため、ネバーランドに参集した17カ国からの46人の子供たちを歓迎し、資金援助。

1995年6月
「ヒール・ザ・ワールド」および「世界子供会議」の青少年大使が「世界子供会議」での成果を国連の第50回年次集会(サンフランシスコ)の「世界子供サミット」にて発表。

1995年 夏
「ヒール・ザ・ワールド」および「世界子供会議」のメキシコからの青少年大使は、「子供たちの希望の火」に同行して全米各地を回り、「地球の子供たち」と「EC2000」同盟が支援している30以上のイベントへ「世界子供会議」のメッセージを届ける。

1995年10月
コミュニティ・スクール/セイフ・ヘイヴンス構想に新学期を立ち上げるため、ブラウンストーンおよびタシャ・スコットがパフォーマンスを行う。

1995年12月
EC2000、ユニセフ、その他の機関と協賛し、また、「地球の子供たち」と連盟を組織して「ヒール・ザ・ワールド」および「世界子供会議」の青少年大使が、メキシコ市の「未来の守護者」記念碑の落成式にてスピーチ。
国際救済委員会と共同で、戦争の爪痕が残るボスニア、ヘルツェゴヴィナの子供たちにパレット2個分のおもちゃを送る。

1996年2月
「ヒール・ザ・ワールド」および「世界子供会議」の青少年大使は、持続可能な環境を創造するモデル案を国連の委員会に提出。

1996年4月
「ヒール・ザ・ワールド」および「世界子供会議」の青少年大使が、ジョージア州アトランタで開催された「子供優先―地球フォーラム」に出席。元大統領ジミー・カーター氏らが主催しているこのイベントは、ロックフェラー財団や世界銀行、その他の財団と「ヒール・ザ・ワールド」の協賛で開催されるもので、100カ国から360名の代表者が参集し、こともの生活の質を向上させるための戦略を討論。
「ヒール・ザ・ワールド」「世界子供会議」の青少年大使は、ワシントンDCで開催された「光のスペクトラム青少年会議」に出席。目的は健康的な環境のもとに、持続可能な社会の必要性を強調するパートナーシップを築くこと。

1996年6月21日
イギリス、セヴォノークスのロイヤル・オーク・ホテルで行われた、ダンブレイン小学校殺人事件の犠牲者を悼むチャリティー・イヴェントに、マイケルとクリントン大統領が登場。多数の有名人も参加した。
マイケルは5000ポンド相当の「ヒストリー」アルバムの4プラチナ・ディスクを贈呈。

1996年7月23日
マイケルとハンガリーの6歳の少年ベラが、ブタペストの病院に戻る。
2年前、マイケルはベラ少年の命を救う手術費用を提供し、再びこの病院で治療を施されることとなった。
マイケルはベセスダ小児病院での記者会見で「ここに戻ってくるのは嬉しい。今日は子供のための日にすべきだ」と述べた。
※94年8月、マイケルはヒール・ザ・ワールド基金からベラ・ファルカスの肝臓移植手術の費用を排出すると約束。
(略)手術は結局前年3月にベルギーで行われた。

1996年9月12日
マイケル、ルーマニアに到着。(略)
マイケルは革命の記念碑や、児童養護施設を訪問。89年のルーマニア革命の混乱の中、講義行動を起こした人たちが警察の銃弾に倒れ死去したユニバーシティー・スクエアーでマイケルがひざまずき献花したため、ブカレストの交通が一時遮断された。
また、児童養護施設で、マイケルのために行われた子供たちのショーを観覧する。
会場は、大理石の壁で作られた巨大な宮殿で、これは暴君であった故チャウシェスクのために作られた場所だった。
マイケルは言った。「全世界の人々が、同胞を殺戮の地に送り込む代わりに、この素晴らしさを見て欲しいと思う。これが僕たちの未来、かけがえのない子供たちが。みんな愛してるy、とても」。

1996年10月1日
10月7日に行われるチュニジアでのコンサートを前に、キングダム・エンターテインメント社からマイケルの声明が盛り込まれたプレス・リリースが発表された。
「これは僕にとってアフリカ、アラブ世界での初めてのコンサートになるだけに、個人的にも特別なものになるでしょう。両地域の人々、国々は僕の心の中でいつでも特別な気持ちを抱かせてくれます。いつも、そこでプレイしたいと思っていました。今回チュニジアでコンサートが行われることを特に嬉しく思っています。チュニジアは平和的で男女子供と分け隔てなく寛容な国です。コンサートの収益から手助けを必要とする人に寄付金を贈りますが、これは僕にとってもさらなる満足となるでしょう。」
※マイケルのコンサートは「ザ・ナショナル・ソリダリティー・ファウンド(国家連帯基金、通称26−26基金)」のチャリティーになる。この基金は、チュニジア大統領が積極的に推進しているもので、いわゆる26−26と呼ばれる貧困層を助けるためのもの。

1996年11月25日
マイケル、5日間にわたるオーストラリアでのヒストリー・ワールド・ツアーを終了。
ツアー途中メルボルンのロイヤル・チルドレンズ病院を電撃訪問した。
彼は病気の子供たちを見舞い、おもちゃをプレゼントし、サインをし、彼らと一緒に写真を撮った。
特に彼は癌に侵された子供、嚢胞性線維症の子供に目をかけた。
看護婦は、後でマイケルの特別プレゼントについてコメント。
重病にかかっている小さな女の子は、マイケルがお見舞いした時に初めて微笑んだことを証言した。

1997年1月25日
インドのボンベイでマイケル・ジャクソン・メモラビア・オークション開催。
ダイアモンド販売業バラッド・シャーは、マイケルが「インディア、生涯かけてあなたに会いたかった(インドよ、生涯をかてその国に行きたかった、の意味)」と書いたピロー・ケースを1万81ドルで落札。
別のビジネスマンは、マイケルが「インドよ、愛してます。あなたの子供たちに神の顔を見ます」と走り書きした鏡を5500ドルで落札。
この売上げは、スラムに住む子供たちに教育を与えるためのチャリティーに寄付される。
マイケルはボンベイ・ライヴからのギャラ、110万ドルをチャリティーに寄付した。

1997年6月18日
マイケル、ドイツのブリュールで行われたファンタジアランドの30周年記念式典に出席。
彼は「チルドレン・イン・ニード(助けを必要とする子供たち)」の書物にサイン。
これは、後にユネスコ(国連教育科学文化機関)が行うチャリティー・オークションにかけられる。

1999年3月20日
マイケル、ドイツのテレビ番組「ウェッテン・ダス」に出演、ネルソン・マンデラ子供基金、赤十字、ユネスコ向け資金集めのために韓国とドイツで2回のコンサートを行うことを発表。

1999年7月1日
ビルボード誌が、「マイケル・ジャクソン・アンド・ヒズ・フレンズ・コンサート」は、330万ドルの資金を集め、これらはユネスコ、ネルソン・マンデラ子供基金、国際赤十字・赤新月社連盟の各チャリティーに寄付される、と報じた。
また収益の一部はコソヴォの犠牲者にも贈られる。

1999年9月4日
マイケル、南アフリカのサン・シティーで行われたコラ・オール・アフリカン・ミュージック・アワードの授賞式でで、ネルソン・マンデラ元大統領からライフタイム・アチーヴメント・アワードを受賞。
マイケルはマンデラに100万南アフリカ・ランド(当時のレート1ランド約18円で約1800万円)の小切手を手渡す。
これはネルソン・マンデラ子供基金への寄付。
この寄付は「マイケル・ジャクソン・アンド・ヒズ・フレンズ」のコンサートの収益の一部。

1999年11月15日
世界記録を集めた「ギネス・ブック」2000年版で、マイケル・ジャクソンは最も多くのチャリティー組織に寄付をしたと掲載される。
その数39で、個人最多。
スポンサーシップを通じての金銭の寄付、あるいはその他の参加を含む。
関係したチャリティーには、エイズ・プロジェクトLA、アメリカ癌協会、BMI基金、チャイルドヘルプUSA、UNCF(黒人大学連盟基金)、YMCA-28丁目クレンショー、シックル・セル・リサーチ基金、ヴォランティアーズ・オブ・アメリカなどがある。

1999年12月4日
マイケル、ニューヨークのマリオネット・マーキー・ホテルで行なわれたホイットニー・ヒューストン主催のチャリティー・イヴェントに出席。

2000年10月28日
マイケル、カリフォルニア州ビヴァリー・ヒルズで行なわれる世界最大のチャリティー・イベント、カルーセル・オブ・ホープに出席。
エリザベス・テイラーと同伴で登場して暖かく迎えられたマイケルは、小児糖尿病の研究へ寄付。

2000年11月30日
ニューヨークで作曲家・慈善家デニース・リッチが創設したG&P基金から、マイケルが小児癌と闘う活動を援助していることに対して表彰される。
「癌は子供の死因の1位です。今夜のように僕たちが集い、力を合わせる時こそ、子供が育つのを見る両親の喜びを奪わせないよう、素晴らしき生命を授かった子供たちの命を奪う病を止めるよう、勇気を奮い立たせることができるのです。」

2002年6月14日
エイズとマラリアの撲滅を目的とする二つのチャリティー・イヴェントに参加するために、1万人が集まるセント・ジェームズ・パークへと向かった。

2002年8月
ドイツで深刻な洪水が発生し、マイケルは被害者へのお見舞いのメッセージをまとめたビデオを製作した。
ここ数百年の中での最悪となった今回のエルベ川の洪水は、計り知れない被害を出したと推測されている。
死亡者、行方不明者もおり、何千もの家屋が崩壊し、生活できない状況となった。
ドイツのテレビ局MDRはマイケルにアプローチし、洪水の被害者を支援するためのチャリテイー・オークションに参加してもらえないかと打診した。
ラス・ヴェガスにいたマイケルは同意し、オークションのためにすぐさま地元のヴァージン・メガストアに向かった。
彼は自分のCDやビデオを14個買い、サインをし、綿のタオルと共にオークションに提供した。

2002年11月20日
マイケルは、ベルリンのポッツダマー・プラッツで開かれたチャリティー・パーティー、ア・トリビュート・トゥ・バンビに出席。
これはドイツのストリート・キッド(職もなく、路上にたむろする子供たち)を助けるオフ・ロード・キッズの資金集めのためのパーティー。
このイヴェントで資金を集めるため、マイケルはその月の初め、ドイツのオークション・サイト、イーベイ用に2種類の品物を提供していた。

2003年8月26日
マイケル、9月13日にネヴァーランド・ヴァレーを一般公開すると発表。
招待客は、1枚5000ドルのペアチケットで敷地内を見学できる上に、マイケル所有のイヴェント会場や映画館にも自由に出入りしたり、ネヴァーランドでランチやディナーを楽しんだりできる。
マイケルは、チケット売上げから1000ドルずつを三つのチャリティーに寄付する考え。
その対象は、メイク・ア・ウイッシュ基金、芸術と教育の多文化主義を推進するワンネス、そしてリオデジャネイロの貧しい子供たちの利益を守るエ・アイ・コモ・エ・ケ・フィカの三つ。

2003年10月1日
マイケルは、カリフォルニア州のビヴァリー・ヒルズ・ホテルで行なわれたルーパスLAとルーパス・リサーチ(訳注/慢性自己免疫疾患の一種であるルーパス患者の支援団体と、その研究機関)への基金を募るためのチャリティー・イヴェントに出席。

2004年12月17日
様々な機関から200名以上の児童がネヴァーランドでのパーティーに出席。
サンタ・バーバラの障害児、ロス・アンジェルスのファーストAME教会の子供たちも出席。
マイケルは3歳から17歳の子供たちを歓迎し、クリスマスと新年の多幸を祈り、挨拶をした。

2006年5月28日
マイケルは東京の児童養護施設、星美ホームを訪れ、大喜びの子供たち140人に日本語で「アイシテル」と伝える。
「世界子供会議」についての参考資料



『マイケル・ジャクソンの来日を機に、彼がいま最も情熱を注いでいるヒール・ザ・ワールドを より多くの人達に理解し賛同していただくために、8歳から16歳までのお子様を対象に
「今、世界中でどんな問題があって、どうすればそれを解決出来るか。 また、子供達に何が出来るか」 というテーマで誌や作文を募集しています。
最優秀者2名には、来年春、彼の牧場で開かれる予定の第2回世界子供会議に参加していただきます』

子供達は真剣そのもので、自分の身の周りで日常起こっている差別,暴力,ドラッグ,地球環境問題などについて積極的に交わす意見は大変重みのあるものでした。 子供達はすごいエネルギー、地球の宝です。
そして質問に答える彼の姿も真剣でした。 また、質問によってはリラックスして楽しそうに答える彼の様子にも感動してしまいました。
我が娘も、 「マイケル! 日本に大きな地震があったのを知っていますか?」
と質問。 マイケルは、 「知ってるよ。 新しいアルバムのレコーディングをしている時にリサから連絡があって とても驚いたよ。
それでとても辛い気持ちになって、3日間仕事をキャンセルしてしまったんだ。」
「マイケルも行ったことのある西宮球場の周りの子供達もたくさん被害に遭いました。その子供達が1日でも早く幸せな暮らしが出来るように祈って下さい。」
「今度日本へ行ったら、日本の総理大臣や政治家の人達といろいろな話をして、少しでも僕が役に立つ事があったら力になりたいと思っています。」と言ってくれたのです。

そして進行形態は、子供達が疲れないような時間配分が配慮されていて、1〜2時間のディスカッションと、博物館などの外出や様々なアトラクションが交互に組まれているのです。 しかもそのアトラクション的なものさえも、ただのお楽しみで終わるのではなく、将来この地球をより良くしていく次世代を担う子供達に対してのマイケルの真剣な想いが伺えるメニューとなっていました。

議題は、『子供とは何か。』 『地球とは何か。』 と大きく分けられていて、子供達は自分で選んだ議題のところへ集まってグループを組み、その議題を基に さらに 『平等・正義・開発/発展・コミュニケーション』 というテーマに沿ってディスカッションするのです。
ここで話し合われた内容は、近く開催される国連50周年の場で発表される予定なので、また時期が来れば皆さんに詳しく伝えることが出来ると思います。

会員体験レポート【 第2回 世界子供会議に参加して 】 ('95年4月18日)より抜粋
詳しくはこちらをご覧ください。
Legend OF MOONWALK
http://legend-of-mwfc.la.coocan.jp/repo_wsoc-never...

動画

Michael Jackson visits a children's hospital -1996


Michael Jackson visits children in the hospital


Michael Jackson visits an Orphanage in Bucharest, Romania 1992


michael jackson with children in an orphanage


michael jackson with children

マイケル周辺の動き

マイケルの裁判後の兄、ジャーメインのインタビュー。(マイケルジャクソン全記録より引用)
2005年7月7日
マイケルがこれまで尽力してきたチャリティーについて、ジャーメインは
「マイケルはこれからも恵まれない人々への施しを続けるでしょうが、距離を置きながらになるでしょう。自分の周りにまとった殻は、ますます硬いものになっていくでしょう。それでもマイケルは人々に与えることをやめない。なぜなら、彼には与え続ける才能が授けられているからです」と語った。
今回の裁判に関わらず、マイケルはこれからも子供たちを支援し、チャリティーを続けていくという。

その他関連事項・その他

Gold Magazine Interview ゴールドマガジンインタヴューより
2002年6月1日(土)ロンドン

G:子供達の慈善事業についてのあなたの情熱についてもっと聞かせて。どの組織をサポートしているのでしたっけ?

MJ:僕自身が生み出したHeal The Worldという子供の為の慈善団体がある。
僕がコンサートをしたり、エンタテインメントにかかわる事をする時はいつも、そこからある程度の収益金をHeal The Worldに寄付している。
孤児院や、病院に寄付したり、肺や肝臓を必要な子供達を僕らは探し出し外科手術代を払ってあげたりする。
ツアー中には、コンサートとの回数と同じくらい病院や孤児院を訪問している。
12歳くらいの子達におもちゃやマイケルジャクソンのポスターやらが一杯つまっ
たギフトボックスを次から次へ手渡すんだよ。
彼らは大喜びさ。
(引用:http://mjlatest.main.jp/gold.html

未確認事項及び議論すべき議題

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