マイケル・ジャクソンの作品から情報を集めてみました

概要

Man In The Mirror (マン・イン・ザ・ミラー)
作詞:サイーダ・ギャレット
作曲:グレン・バラード
リリース:1988年
収録:『BAD』(1987年発売)

歌詞

I'm Gonna Make A Change,
For Once In My Life
It's Gonna Feel Real Good,
Gonna Make A Difference
Gonna Make It Right . . .

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日本語訳

僕は変えるよ
僕の人生での一大転換さ
すごく気分がいいはず
違いをもたらすんだ
ちゃんとそうするんだ

お気に入りの冬物コートの
襟をたてると
この風が僕を圧倒してくる
通りの子供達が見える
食べ物も十分にない子達だ
盲目になってる僕は一体誰?
彼等の窮状も見えないふりをして・・・
夏の無頓着
壊れたビンのフタ
そして一人の男の魂
これらが互いに
風にのって追いかけ合ってるんだ、分かるだろ
なぜってどこにも行くところがないからさ
だから僕は君に知っててもらいたいんだ

僕は鏡の中の男から始めるんだ
彼に流儀を変えるようにお願いしてるのさ
これ以上分かり易いメッセージはなかったろう
世界をもっと住み易い場所にしたければ
(世界をもっと住み易い場所にしたければ)
自分自身を見て
それから変えるんだ
(自分自身を見て
それから変えるんだ)
(ナ、ナ、ナ・・・・・)

関連するマイケルの発言や行動

マイケルの印税は癌患者の子供達のためにロナルド・マクドナルドのキャンプ・グッド・タイムスに寄付された。
(マイケル・ジャクソン 全記録より引用)

マイケル周辺の動き


タイトルの歌・メッセージに関連する事項

歌詞にある A Broken Bottle Top ですが、このような解釈もあるようです。
ブルースは黒人がアメリカで産んだ音楽であることはよく知られています。
そしてそれはロックの元祖形です。
ケイジャン(フランスの移民)が使えなくなった楽器(主にギター)を拾って3コードを奏でて物乞いしたのが始まりでした。
しかし、冬になると、指がかじかんで弦を押さえられなくなり、ビンの首の部分を切り落とし、中指にはめて、擦るようにして音を出したのが始まりです。
これをボトルネックと言い、今ではスライドギターと言う奏で方になっています。
このように考えると、直訳の通りに”壊れたビンのフタ”と和訳された背景には、ブルースマンたちと、彼らの置かれていた環境を A Broken Bottle Top で表現したかったのかもしれないとも考えられます。

SFに出てくる人物


ジョン・F・ケネディー(1917年5月29日 - 1963年11月22日)
第35代アメリカ合衆国大統領。キューバ危機を回避。ベトナム戦争早期撤退を計画。一般的には清新なイメージのリベラル派とされ、アメリカ国民からの期待も高かった若き大統領であったが、任期半ばの1963年にダラスにて暗殺される。暗殺の真相は未解明であり、様々な陰謀説が流れている。ケネディの暗殺は現在に於いてもアメリカ社会に暗い影を投げ掛けている。
ロバート・ケネディ (1925年11月20日 - 1968年6月6日)
第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディの実弟で、兄の任命により同政権の司法長官(1961年-1964年)を務めた。1963年にケネディ大統領が暗殺された後、ニューヨーク州の上院議員選に出馬して11月に勝利したが、1968年に、民主党の大統領候補指名選のキャンペーン中に暗殺された。
マーティン・ルーサー・キング牧師(1929年1月15日-1968年4月4日)
アメリカ合衆国のプロテスタントバプテスト派の牧師である。キング牧師の名で知られる、アフリカ系アメリカ人公民権運動の指導者的役割を果たした活動家。「I Have a Dream」(私には夢がある)で知られる有名なスピーチを行った人物。1964年のノーベル平和賞受賞者。2004年の議会名誉黄金勲章受章者。アメリカの人種差別(特にアフリカ系アメリカ人に対する差別)の歴史を語る上で重要な人物の一人である。
レフ・ヴァウェンサ大統領(1943年9月29日 -)
ポーランドの政治家、労働組合指導者、電気技師で、ポーランド共和国第2代大統領。日本ではレフ・ワレサとも表記される。ノーベル平和賞受賞者。
☆ポーランド民主化運動について
ポーランドは1919年まで、ロシア帝国の領域下に組み込まれており、元々反ロシア的感情が強い地域であった。
ソ連の衛星国に組み込まれてからも1956年、1970年と反ロシア(ソ連)的、反体制的、反共産党的な勢力が、国内の改革と民主化を求めて暴動を繰り返していた。ポーランド政府はソ連による全面的な介入を防ぎつつ、ある程度彼らの要求を聞き入れる、という事を繰り返してきた。
1980年からはレフ・ワレサ率いる独立自主管理労働組合「連帯」が活動を活発化しており、翌1981年「連帯」を非合法化。1983年に戒厳令が解除されたばかりであった。しかし非合法とされながらも「連帯」は以降も活動を続け、彼らを中心とした勢力は依然として国内改革と民主化を要求し、ポーランド共産党による政権を揺るがし続けた。
又1978年にポーランド人として初めてのローマ教皇となるヨハネ・パウロ2世が誕生すると、これはポーランド人のナショナリズムを大きく鼓舞し、反ロシア感情を一層大きくする結果となった。ポーランド人はカトリックでロシア人の正教会とは違うと言う自負があったからである。(中略)最終的に従来のポーランド統一労働者党による政権は下野し、レフ・ヴァウェンサ率いる独立自主管理労働組合「連帯」が政権を握った。
マザー・テレサ(1910年8月26日 -1997年9月5日)
カトリック教会の修道女にして修道会「神の愛の宣教者会」の創立者である。
「マザー」は指導的な修道女への敬称であり、「テレサ」は修道名である。カトリック教会の福者。コルカタ(カルカッタ)で始まったテレサの貧しい人々のための活動は、後進の修道女たちによって全世界に広められている。
生前からその活動は高く評価され1973年のテンプルトン賞、1979年のノーベル平和賞、1980年のバーラ・ラトナ賞(インドで国民に与えられる最高の賞)など多くの賞を受けた。1996年にはアメリカ名誉市民に選ばれている(アメリカ名誉市民はわずか6人しかいない)。2003年10月19日、当時の教皇ヨハネ・パウロ2世によって列福された。


http://www.youtube.com/watch?v=o_xV_QkQJSU
http://www.youtube.com/watch?v=9MjQK54tjW0
デズモンド・ムピロ・ツツ司教(1931年10月7日 - )
南アフリカの平和運動家、アングリカン・コミュニオン(=俗に言う「英国国教会」)南アフリカ聖公会のケープタウン大主教。1984年にノーベル平和賞を受賞。
☆アパルトヘイト
南アフリカ共和国における白人と非白人(黒人、インド、パキスタン、マレーシアなどからのアジア系住民や、カラードとよばれる混血民)の諸関係を差別的に規定する人種隔離政策のことを指す。
☆ツツ司教の演説・声明
http://page.freett.com/gpwn/ap20020429.htm
http://www.tibetsupport.net/?p=9
ジョン・レノン(1940年10月9日 - 1980年12月8日)
1960年代に世界的人気を得たロックバンド・ビートルズのリーダーであり、世界で最も成功したシンガー・ソングライターの一人であった。ビートルズ時代には、ポール・マッカートニーと「レノン=マッカートニー」としてソングライティングチームを組み、1970年のビートルズ解散後はソロ・シンガーとして、また妻で芸術家のオノ・ヨーコとともに平和運動家としても活動した。1980年12月8日(ニューヨーク時間)、ニューヨーク市の自宅アパート「ダコタハウス」前においてファンを名乗る男に銃撃され、40年の生涯を閉じた。
オノ・ヨーコ(1933年2月18日 - )
前衛芸術家、音楽家。ビートルズのジョン・レノンと結婚、レノンとの数々の共作でも知られている。
1953年、20歳のとき、学習院大学からアメリカ合衆国のサラ・ローレンス大学に入学、音楽と詩を学ぶ。1959年から、ニューヨークを拠点に、前衛芸術家として活動を開始。1966年、活動の拠点をイギリス、ロンドンに移す。同年11月に個展を開催、その会場でジョン・レノンと出会い、1969年結婚。1960年代後半から1970年代にかけて、レノンとともに数々の創作活動や平和運動を行なう。レノン亡きあとも「愛と平和」のメッセージを発信し続け、世界各地で個展や音楽活動を行なうなど、今も活動している。
マハトマ・ガンジー(1869年10月2日 - 1948年1月30日)
インドのグジャラート出身、マハトマ・ガンディー(=マハートマー・ガーンディー:Mahatma Gandhi)として知られるインド独立の父、弁護士、宗教家、政治指導者。
南アフリカで弁護士をする傍らで公民権運動に参加し、帰国後はインドのイギリスからの独立運動を指揮した。その形は民衆暴動の形をとるものではなく、「非暴力、不服従」(よく誤解されているが「無抵抗主義」ではない)を提唱した。この思想(彼自身の造語によりサッティヤーグラハすなわち真理の把握と名付けられた)はインドを独立させ、イギリス帝国をイギリス連邦へと転換させただけでなく、政治思想として植民地解放運動や人権運動の領域において平和主義的手法として世界中に大きな影響を与えた。特にガンディーに倣ったと表明している指導者にマーティン・ルーサー・キング・ジュニア、ダライ・ラマ14世等がいる。
1948年1月30日、ガンディーはニューデリーのビルラー邸で狂信的なヒンドゥー原理主義集団民族義勇団の一人ナートゥーラーム・ゴードセー(नाथूराम गोडसे)らによって暗殺された。78歳であった。3発のピストルの弾丸を撃ち込まれたとき、ガンディーは自らの額に手を当てた。これはイスラム教で「あなたを許す」という意味の動作である。そして、ガンディーは「おお、神よ」(「ヘー ラーム हे राम」)とつぶやいて事切れたという。国葬が行われ、遺灰は、ヤムナー川とガンジス川に撒かれた。

『非暴力と非服従〜ガンジーとキング牧師〜』

http://www.youtube.com/watch?v=KKYkZ2g5UB8
http://www.youtube.com/watch?v=d-vJ3OTzv9Q
http://www.youtube.com/watch?v=za5U040S7wg
http://www.youtube.com/watch?v=_CiNsJM08l8
アンワル・アッ=サーダート (1918年12月25日 - 1981年10月6日) ←写真右
エジプトの大統領(在任1970–81年)。1973年10月6日に、シリアと共同でイスラエルに開戦し、第四次中東戦争を起こし、イスラエル軍に大打撃を与えた。これにより国民的英雄となった。以後はナーセルの外交路線を完全に転換してアメリカに接近し、1977年にイスラエルのメナヘム・ベギン首相の招きでエルサレムを訪問。イスラエル・エジプト間の和平交渉を開始し、翌年アメリカのジミー・カーター大統領の仲介のもとキャンプデービッド合意にこぎつけた。歴史的合意により、サーダートはベギンとともに1978年ノーベル平和賞を受賞、世界各国から高い支持を受けた。1981年10月6日、サーダートは第四次中東戦争開戦日を記念しその勝利を祝う戦勝記念日のパレードを観閲中に、イスラム復興主義過激派のジハード団に所属する兵士ハリド・イスランブリ中尉により暗殺された。
メナヘム・ベギン(1913年8月16日 - 1992年3月9日) ←写真左
イスラエル首相。イスラエル独立後にリクードを設立した。1967年6月に無任所相として初めて入閣した。1977年5月17日イスラエル首相に就任し1983年まで務めた。ベギンはイスラエル国建国以来約30年目にして初めての労働党以外の政党からの首相だった。首相在任中にエジプトとの関係正常化を発議し、エジプト大統領アンワル・アッ=サーダートをエルサレムに招待した。1978年にキャンプ・デービッドにおいてエジプトのサダト大統領との歴史的和平合意を行い、同年にノーベル平和賞を受けた。
ジミー・カーター大統領( 1924年10月1日-)  ←写真中央
第39代アメリカ合衆国大統領。2002年 ノーベル平和賞受賞。身長175cm。バプテスト派キリスト者。冷戦のさなか「人権外交」を標榜し、中東において長年対立していたエジプトとイスラエルの間の和平協定・キャンプデービッド合意を締結させたるなど、中東における平和外交を推進した。
ミハイル・ゴルバチョフ大統領(、1931年3月2日 - )
ソビエト連邦の政治家。ソビエト連邦最後の最高指導者。
1985年に共産党書記長に就任し、ソ連国内では東欧の社会主義諸国民主化の契機となったペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)を進め、政治・経済・文化など多岐にわたる分野で合理化・民主化を行った。外交面ではそれまで40年以上続いていた冷戦を、マルタ会談にて就任して僅か5年目で終結させ軍縮を進めるなど、世界平和に多大に貢献した。1990年、ソ連で最初で最後となる大統領に就任し、同年にはノーベル平和賞を受賞。日本を含む西側諸国では絶大な人気を誇り、ゴルビーの愛称で親しまれたものの、特にロシアでは後述の通り甚だ不人気であった。また、ソ連国内の噴出する民族主義を抑えることができず、保守派と改革派に国内の政治勢力が分立するなか、1991年ソ連8月クーデターを招来し、結果的にはソ連共産党の一党独裁体制とソ連邦そのものを終結に導くこととなった。日本大学名誉博士号などの名誉学位を有する。
☆ペレストロイカ(改革)
ソビエト連邦共産党による一党独裁政権が続いたために腐敗が進んでいた政権を立て直すため、1985年に共産党書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフが提唱・実践した。あわせて進められたグラスノスチ(情報公開)とともに、ソ連の政権を民主的な方向に改善していった。しかし結果として、高まる民主化圧力により社会主義体制は破綻し、ソ連崩壊へと到った。現在では、共産圏の民主化を進めるとともに冷戦を終結させた政策として、主に旧ソ連以外の各国で高く評価されている。
ローザ・パークス(1913年2月4日 - 2005年10月24日)
アメリカ合衆国の公民権運動活動家。
1955年にアラバマ州都で公営バスの運転手の命令に背いて白人に席を譲るのを拒み、人種分離法違反のかどで逮捕されて著名となる。これを契機にモンゴメリー・バス・ボイコット事件が勃発。アフリカ系アメリカ人(黒人)による公民権運動の導火線となったことで彼女は米国史上の文化的象徴と見なされ、米国連邦議会から「公民権運動の母」と呼ばれた。人権擁護運動の共有財産(共有遺産)として、その行動は米国内のみならず国際的にも高く評価されている。
ロナルド・レーガン大統領(1911年2月6日 - 2004年6月5日)
アメリカ合衆国の俳優、政治家。第40代アメリカ合衆国大統領。最年長で選出された大統領(69歳349日)。
一期目は「レーガノミックス」に代表される大幅減税と積極的財政政策でアメリカに長期の好景気をもたらし[1]、就任当初から、前任者ジミー・カーター時代のイラン革命や、中米ニカラグアでのサンディニスタ政権成立などで、当該国の親米独裁政権を失ったことを批判して失地を挽回するため世界各地で強硬策を実行し、ベトナム戦争以来となる本格的な海外への武力侵攻をグレナダに対して行うなど、強いアメリカを印象づける出来事が目立った。高い支持率を維持した結果、1984年の大統領選では対立候補の地元を除く49州を獲得するという地滑り的大勝で再選された。しかし2期目はイラン・コントラ事件に代表される数々の政治スキャンダルに揉まれ、政権の体質に対する各方面からの厳しい批判が目立った。
外交ではデタントを否定して、ソビエト連邦を「悪の帝国」と名指しで非難、「力による平和」戦略でソ連と共産主義陣営に対抗する一方、「レーガン・ドクトリン」を打ち出して世界各地の反共主義運動を支援した。前者はソ連の崩壊、後者はベルリンの壁崩壊に代表される東側諸国の自主的民主化を招き、結果として冷戦の平和的終結が実現した。
人種差別問題の解消に対しては積極的な態度を取り続け、1988年に、第2次世界大戦中の日系人の強制収容に対して謝罪と1人当たり20,000ドルの損害賠償を行っている。また、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の誕生日が国の祝日となったのもレーガン政権においてである(1983年)。
ピーター・ウィレム・ボータ大統領(1916年1月12日 – 2006年10月31日)
南アフリカ共和国の政治家。南アフリカ共和国首相(在任期間1978年から1984年)、大統領(在任期間1984年から1989年)を歴任した。アパルトヘイト(人種隔離政策)の完全撤廃と人種間の平等を求める国際世論に対して頑強に抵抗した。
ウィリー・ネルソン(1933年4月30日-)
アメリカのシンガーソングライター。カントリー界の大御所。
1985年にはUSAフォー・アフリカに参加し、ウィ・アー・ザ・ワールドのブリッジ部分でリードボーカルをとった。また同年、ジョン・メレンキャンプとともに、困窮するアメリカの農家のためのチャリティーイベント「ファーム・エイド」を開催した。また同年、ネルソン自身、大学では農業を学んだほか、ヒッピー思想も相まって自然志向が強い。最近ではバイオディーゼルの普及活動に取り組んでいる。
ムアンマル・アル=カッザーフィー(カダフィ)大佐
リビアの軍人、革命家、政治家。
1969年9月1日、カッザーフィーの同志の将校たちと共に首都トリポリでクーデターを敢行。病気療養でトルコに滞在中の国王イドリース1世を退位させ、国家の中枢機関を制圧して無血革命に成功、イドリース1世はそのままトルコに亡命した。11月に公布された暫定憲法により、カッザーフィを議長とする革命評議会(正式名称は「革命指導評議会」だが、日本のメディアは終始一貫して「革命評議会」と呼称していた)が共和国の最高政治機関となることが宣言された(カッザーフィが革命評議会議長と公表されたのは翌年)。
1974年には政治理論の研究に専念するためとして革命評議会議長職権限をナンバー2のジャルード少佐に委譲(あくまで権限移譲であり、退任はしなかった)。1979年からは全国人民委員会書記長を辞任し一切の公職を退いたが、「革命指導者」として現在に至るまで実質上の元首としてリビアを指導している。
カッザーフィーはパレスチナ解放機構(PLO)の有力かつ公然の支持者であった。そのため1979年にサーダート大統領がイスラエルと和平したエジプトとの関係を決定的に悪化させた。また、資金援助などを通じて西アフリカを中心に影響力を維持しているほか、地域機関であるサヘル・サハラ諸国共同体(CEN-SAD)を創設し、アフリカにおける影響力拡大の足場としている。
カッザーフィーには、1970年代と1980年代の欧米やイスラエルに対する過激派のテロを支援した疑惑がもたれている。1988年の死者270人を出したパンナム機爆破事件はリビアの諜報機関員が仕掛けたテロであるとされるが、カッザーフィーは容疑者の引渡しを拒否し、国連制裁を受ける。そのためリビアは当時のアメリカのロナルド・レーガン政権から「テロリスト」「狂犬」として名指しの批判を受け、以後アメリカとの対立は続いた。
アドルフ・ヒットラー(1889年4月20日 - 1945年4月30日)
ドイツの政治家。国家社会主義ドイツ労働者党党首としてアーリア民族を中心に据えた民族主義と反ユダヤ主義を掲げる。1933年首相となり、1934年にヒンデンブルク大統領死去に伴い、国家元首に就任、軍事力による領土拡張を進めたが1939年のポーランド侵攻は第二次世界大戦を誘発した。ドイツ降伏数日前にベルリン市内の総統地下壕内で自殺。
ボブ・ゲルドフ (1951年10月5日 - )
ライヴ・エイド創始者。ナイト勲爵士はアイルランドのミュージシャン、作曲家、俳優、政治活動家。ブームタウン・ラッツのボーカリスト。

SFに出てくる事象

核実験

1945年7月16日にアメリカ合衆国がマンハッタン計画で人類史上初めて行った核実験(トリニティ実験)では、長崎に投下したファットマン」と同型のプルトニウム爆縮型原子爆弾(ガジェット)をニューメキシコ州アラモゴードにある実験場で炸裂させた。実験から50年以上が経過した現在でも、実験場跡地では通常環境の約10倍の残存放射線が検出される。
南太平洋での実験は費用が掛かるため、トルーマン大統領の提案により1951年にネバダ州の砂漠にネバダ核実験場 (NTS,Nevada Test Site) が設置された。その後、フォールアウト(放射性降下物)の測定や建物・動物などへの影響を調べるための実験が地上・地下含めて928回行われた。

現在、核実験を行っている国は、ロシア、イギリス、フランス、中国、インド、パキスタン、北朝鮮がある。

ファーム・エイド

ファーム・エイド(Farm Aid)とは、毎年アメリカ合衆国で開催されるチャリティーコンサートである。経営難に苦しむ合衆国の小規模農場や個人経営の農家に対しての基金を集める目的で、ウィリー・ネルソン、ジョン・メレンキャンプ、そしてニール・ヤングが当コンサートを企画した。1985年9月、シカゴにおいて、第1回コンサートが開催された

ライヴ・エイド

ライヴエイド(LIVE AID)は「1億人の飢餓を救う」というスローガンの下、「アフリカ難民救済」を目的として、1985年7月13日に行われた、20世紀最大の「チャリティー・コンサート」。「1980年代のウッドストック」とも、一部でいわれていたが、その規模をはるかに超越したものとなった。「バンド・エイド」を提唱した、「ブームタウン・ラッツ」のリーダー「ボブ・ゲルドフ」が、中心となって開催されることとなり、その呼びかけに賛同した、多くのミュージシャンたちが、国とジャンルを越えて参加した。

飢餓問題

現在十分に栄養の取れない飢餓人口は9億6300万人おり、その数は毎年増加傾向にある。毎年約1500万人、4秒に1人の割合で飢餓が原因で死亡している。
☆参考世界飢餓にまつわる12の神話:http://journeytoforever.org/jp/foodfirst/report/hu...

ホームレス問題

・米調査「子供50人に1人がホームレス」の現実 42%が6歳未満(2009年3月12日)
世界一の経済大国である米国でホームレスの子供が50人中1人にあたる150万人に上り、その42%を6歳未満が占めていることが、10日に発表された支援団体「National Center on Family Homelessness」の統計でわかった。引用:http://news.livedoor.com/article/detail/4057610/

捕鯨問題

国際捕鯨委員会(加盟国82カ国)の内、捕鯨推進国は34カ国あり、現在では主に食糧として捕鯨をしている国々には、ロシア、日本、ノルウェー、アイスランド、フェロー諸島(デンマーク自治領)などが挙げられる。なお未決定(中立)国は中華人民共和国など3カ国存在する。また、捕鯨国でありながらアメリカ合衆国は捕鯨に反対している。一方で捕鯨国のカナダは、国際捕鯨委員会を脱退している。

チェルノブイリ原発事故

、1986年4月26日1時23分(モスクワ時間 ※UTC+3)にソビエト連邦(現:ウクライナ)のチェルノブイリ原子力発電所4号炉が起こした原子力事故。
4号炉は炉心溶融(メルトダウン)ののち爆発し、放射性降下物がウクライナ・ベラルーシ・ロシアなどを汚染した。事故後のソ連政府の対応の遅れなどが重なり被害が甚大化・広範化し、史上最悪の原子力事故となった。

ワシントンデモ大行進

1963年8月28日に、アメリカ合衆国のワシントンD.C.で行われた人種差別撤廃を求めるデモ。
公民権運動家で、牧師のマーティン・ルーサー・キング・ジュニアらによって、人種差別撤廃を求める運動の一環として行われた行進で、20万人以上が参加した。この行進の最中に、キング牧師の有名な演説”I Have a Dream”が行われた。

アメリカでは、エイブラハム・リンカーン大統領による『奴隷解放宣言』から100年を経た1960年代になっても、「ジム・クロウ法」と呼ばれる「人種分離法(=人種差別法)」の下、アパルトヘイト政策下の南アフリカ同様、交通機関や学校、水飲み場やトイレ等の公共機関のみならず、ホテルやレストラン、バーなどにおいても、アメリカにおける多数民族である白人と、黒人と全ての有色人種が分離されていた。なお、当然のごとく有色人種専用のものは劣悪で不潔なものであった。
さらに「ジム・クロウ法」の下では、黒人と白人の結婚を事実上違法とする州法の存在が認められたほか、教育の機会が与えられなかったことから識字率の低い黒人の投票権を事実上制限したり、住宅を制限することも合法とされてきた。また、これらの州においては、クー・クラックス・クラン(KKK)などの白人至上主義団体による黒人に対するリンチや、同じような志向を持つ警察による不当逮捕や裁判所などによる冤罪判決などが多発した。

しかし、1950年代に入って発生した「モンゴメリー・バス・ボイコット事件」や「リトルロック高校事件」以降、キング牧師などの活動家の指導の下に、黒人たちの公民権(参政権など)獲得を求める運動が盛り上がりを見せ、反人種差別運動家だけでなく、白人が多くを占めるアメリカ国内の世論、そして連邦政府も公民権法の制定に大きく動き始めた。
この様に公民権運動が盛り上がりを見せる中で、連邦政府に対して公民権制定を訴えかけることと同時に、内外に対して公民権運動の盛り上がりをアピールするために、公民権運動団体を中心にワシントンD.C.のリンカーン記念館前の「ワシントン記念塔広場」に集結する「ワシントン大行進」が企画された。
モンゴメリー・バス・ボイコット事件
1955年12月1日にアラバマ州モンゴメリーで、黒人女性のローザ・パークスが公営バスの「白人専用及び優先座席」に座ったことに対して、白人の運転手のジェイムズ・ブレイクが白人客に席を譲るよう命じたが、パークスがこれを拒否したため、「人種分離法」違反で警察官に逮捕され投獄、後にモンゴメリー市役所内の州簡易裁判所で罰金刑を宣告される事件が起きた。この事件に抗議して、マーティン・ルーサー・キング牧師らがモントゴメリー市民に対して、1年にわたるバス・ボイコットを呼びかける運動を展開した。この呼びかけに対して、黒人のみならず運動の意義に共感する他の有色人種のみならず、白人もボイコットに参加し、後にこの運動は「モンゴメリー・バス・ボイコット」と呼ばれることとなる。
この運動は全米に大きな反響を呼び、1956年には、合衆国最高裁判所が「バス車内における人種分離(=白人専用及び優先座席)」を違憲とする判決を出すと、アラバマ州をはじめとする南部諸州各地で黒人の反人種差別運動が盛り上がりを見せた。
リトルロック高校事件
1954年には、公立学校における人種隔離を違憲としたブラウン対教育委員会裁判判決が最高裁において下され、これ以降、全米の学校において長年行われていた人種隔離が廃止されていくこととなった。
しかし、人種差別的な風潮が色濃く残る南部や中西部の各州においては、州政府により人種隔離への対応はまちまちであった。1957年には、ブラウン対教育委員会裁判判決以降も白人しか入学させていなかった、アーカンソー州立リトルロック・セントラル高校への9人の黒人学生の入学を、再選のための白人票稼ぎを目論んだ白人至上主義者のオーヴァル・フォーバス州知事が拒否し、「白人過激派による襲撃事件が起きるという情報があるので学校を閉鎖する」という理由をつけて州兵を召集し学校を閉鎖し、黒人学生の入学を妨害するという事件が起きた。公民権運動が全米規模で盛り上がりを見せる中に発生したこの事件に対して、反人種差別運動家だけでなく、白人が多くを占めるアメリカ国内の世論、そして連邦政府も反発を見せた。ドワイト・D・アイゼンハワー大統領はフォーバス州知事に事態の収拾を図るよう命令したが、この命令が無視されたため、急遽アイゼンハワー大統領はアメリカ陸軍の第101空挺師団を派遣し、入学する黒人学生を護衛させた。その後9人の黒人学生は無事に入学したが、白人学生からの執拗ないじめに遭うことになった。しかし8人の学生が卒業を果たした。
引用:ウィキペディア(日本語版)およびhttp://en.wikipedia.org/wiki/Man_in_the_Mirrorより

その他関連事項・その他

ノーマン・ロックウェル

20世紀のアメリカ合衆国の画家、イラストレーター。アメリカの市民生活の哀歓を巧みに描き、アメリカ人の心を捉えているため、最もアメリカ的な画家のひとりともいえる。

”The Problem We All Live With”(『我ら永遠の課題』)

人種差別的な言葉「NIGGER」と悪戯書きがなされ、トマトが投げつけられた壁の前を、連邦保安官に守られながら通学する幼い黒人少女の姿(公民権運動の一環として、白人の学校に通おうとする場面)を描いている。

”New Kids in the Neighborhood”(『新しいご近所さん』)

黒人の女の子が抱えている白い猫、白人の子たちが連れている黒い犬の対比。黒人の男の子が手にしているキャッチャー用のミット、白人の男の子がピッチャー用のグローブの対比が興味深い。

未確認事項及び議論すべき議題


本などからの引用

SB:Are you proud to be an American? When you did all these concerts abroad in foreign countries, did you feel like you were some sort of American representative?

MJ:I hope you don't take this wrong, what I am about to say, but I feel I belong to the world and I hate to take sides. Even though I am an American and I was born in this country and there are a lot of things about America I am proud of, and there are a lot of things I am not proud of... like that [Norman] Rockwell painting of little girl trying to get to school to learn and they were throwing stuff at her.

※Rockwell had painted a black girl going to a recently desegregated school in the deep South, surrounded by Federal marshals who were there to protect her from attack. Michael and I had gone to see it at a private gallery.。(『Michael Jackson Tapes』より引用)

SB:君はアメリカ人であることに誇りを持っているかい?海外コンサートを行ったとき、君はアメリカの代表者だと感じるかい?

MJ:今から言うことを悪く取らないでほしいのだけれど、僕は世界に属していると感じるし、どちらか一方にはつきたくない。僕はアメリカ人でこの国に生まれた。アメリカという国に誇りを持てることはたくさんあるのだけれど、そうでないこともたくさんある。たとえば、ロックウェルが書いた絵だけれど、少女が学校に行こうとしたら誰かが彼女に物をなげたというところとかさ。

※ロックウェルは黒人の少女が南部のある公民権運動により開かれた学校に、連邦保安官に守られながら通学する絵を描いた。マイケルと私はあるプライベートな画廊にその絵を見に行ったことがある。

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現在、中東情勢が緊迫しています。
中東で最も恐怖政治を敷いてきた独裁者カダフィ大佐ですが、1969年以来の独裁政権が反政府デモで揺れています。
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