家元「ダウンタウン」を見損なっていた。「見損なう」とは、己れの見る眼力が間違っていた、ということだ。
<中略>
ダウンタウンが売れているのも知ってたし、本も又たけし同様売れたのも聞いている。
けど、関心がなかった。理由はTVに出てくる「お笑い整理業、つまり仕切り屋」の一人であり、チョイと見たら、小汚ねぇ、小生意気な、やり方が、
「東京という大田舎に集まっている低能の若者に受けているのだろうから」と見向きもしなかった。
ところがアニはからんや、さに非ズ、ふとTVを見て驚いた。「いいのだ」、家元の鑑賞に充分耐える。この頁に書きたくなったのだから・・・。
どう誉めるか、どう説明するか。家元物事フィーリングで処理するから文章とてもその通り。で、その通りに感じたままを書く。
松本のスタイル、行動の全てに照れが漲(みなぎ)る。家元照れない奴ァ嫌だ。バカなんだ、バカぁ照れない。
で、松本人志相棒に何かいう、その”何か”とは、非常に抽象的な文句であり、その言葉はアドリブなのだろうが、問題提起に成り得る文句でもある。
それをいきなりぶっつけられた浜田は正常人と同じレベルで疑問を返す。
「わからねえよ・・」
この会話のキャッチボールに使う「間」、ふと天外(渋谷)と寛美(藤山)の間を想ったっけ。
この”待ち”の”間”、現代(いま)、これが出来る奴にぶつかるとは思わなかった。見事なまでの漫才の間なのだ。いつごろからこの二人に、この間が出来上がったのかしら・・・。
観客と相棒に投げ放った言葉、受けた相手はとまどい、それを疑問と共になげ返してくる。で、また、それを説明する内容、つまり松本の言葉と解釈はカリスマ性を持っている。
けど、まだ若い、その答えは説明になってない未解決だ。だがいい、当人も解決していないことを知っている。結果、「俺ァ、ダメェー」と己れを放り出し、ピエロとなって客に「許してくれ」と優越感をあたえて終わる。
何せ家元、初めてダウンタウンをそれも二十分ぐらい見ただけなのだ・・・けど、当ってると想う、何せ家元、芸を、人間を観る目だけは持っている。
ナニ、見損なうくせに・・・。
松本人志、己れの才能を持てあまし、その才能を分解出来ず、駄々ァこね、喧嘩ァ売り、すねて、甘えて、”勝手にしろ”と居直り、それに悔い、
何で説明出来ないのか、分解出来ないのか、とそれがどこかの心の隅にいつもあり、それを女か、酒で逃げているのではなかろうか・・・。
つまり、勝手だが(今更、いうにぁあ及ばない)己れの若き日がW(ダブ)ってくるのだ。
「知らねえよ、あんたなんぞ」と松本はいうだろうが・・・。<中略>
松本人志いい相棒に恵まれた。駄々っ子泳がせ、対等に遊んでやっている浜田、漫才で対等という間柄も珍しい。どこかでコンビというものは差が生じ、それをお互い認めているのだろうがムズカシイ。
それを救っているこの二人は、TVという金の取れるメディアで(昔はTVは芸人にとって稼ぎ場ではなかった)漫才以外の才能で互いにそれぞれが才能の成功があるのだろう・・・。
二人あり、それぞれが、別のジャンルで成功している者が組んだ漫才、これは家元と前田武彦が初めてであり、その延長をパペポという上岡と鶴瓶に受け継がれているスタイルを、逆にしたのがこのコンビである。
家元、もう少しTVを見ないといかんかネ。
でも、ダメ、もう歳なり、である。
ダウンタウンの五十代は見られまい、チト残念だがこれも未練である。