(59-829)寒いのはクーラーのせいじゃなくて


風は青く、空は灰色。
気候は次第に冬に近づいていく。
太陽が昇り始めるのも次第に遅くなっていくが、人々は、季節ではなく時計によって決められた一日を今日も生きている。
れいなはマフラーに顎をうずめ、身を震わせながらいつもの登校路を歩いていた。

いつもの公園の前で絵里が待っている。
昨日まで三日間ほど風邪で学校を休んでいたが、今朝、れいなのもとに「今日から復帰するぜ!」という連絡が入った。
だから、れいなは少し遠回りをして、いつもの公園に向かったのだ。


「おはよ」とれいなは言う。
絵里の返事を待ってから、「風邪は良くなったと?」と付け足す。
たった三日間離れていただけなのに、れいなはどこか懐かしい感じがした。

「うん。そもそも半分以上はずる休みだし。
 風邪引いたって言えば、学校も休めるし、良いことづくめなんですよ、これが」

「ずる休やったと?心配して損した」

にたにたとした笑いを浮かべる絵里に向かってれいなは言葉を返す。
それから、何となく絵里から目を逸らした。

「わぁ、心配してくれてたんだぁ。嬉しーなぁ」

絵里は周りの目も気にせず、れいなに抱き着く。
擦れ違うサラリーマンが羨むように、或いは妬むように、身を寄せ合う二人にちらりと視線を向けた。

れいなはその右腕に絵里の温かさを感じる。
そして安心感を得る。
しかし、れいなの心の中にはこの曇り空のように薄暗い部分がある。
後ろめたさと恐怖感が今しがた絵里から受け取った安心感と比例して大きくなっていく。

れいなは自分の浮かべる笑顔が引き攣っているような感じがしたけれど、それでも暖かい絵里の手を握り返した。


 ***


昨日の放課後のことだ。
絵里はまだ風邪に伏しており(もちろん後にそれがその時点では仮病であったことがわかるわけだが)、
れいなは結局さゆみと帰る羽目になった。
日が暮れかける頃になって、舞台の幕を下ろすように、街に雲の一群がやってきた。
雨が降るかもしれない、とそんな空模様の下、二人は並んで歩きながら言葉を交わしたが、
暗い色の雲は街を覆うベールとしての役割しか果たすつもりはないようだった。

冬の雲たちを連れて来た冷たい風が二人に身を寄せ合わせる。
辺りにはもう枯葉さえ転がってはいない。
乾いた風が少し切なく、何かを連れ去るような音を二人の鼓膜に残していく。
寒さのせいか、二人の歩みは心なしか早めである。

「れーな、寒いの。今すぐ夏にして」

さゆみが自分で自分の身体を抱きしめるようにさすり、凍えながら言う。

「無理言わんでよ」

れいなも同じように身を震わせながら、さゆみに言葉を返した。

「そんなことできようなら、れーな今頃お金持ちったい」

「じゃぁ、季節を操る能力を身につけて、それでお金稼いで、そしてさゆみをどこか温かい国に連れてって」

「二度手間やん、それ」簡潔なツッコミ。

「じゃぁ、さゆみをスキーに連れてって」

「や、寒くなっとぉし」

「さゆみが水着に着替えたら」

「さゆが水着に着替えたら、スキーに連れて行けばいいと?死んでしまうとよ?」

「うーん……あと、もう一つ何だっけ?ホイチョイ三部作のやつ」さゆみが問う。

「波の数だけ抱きしめて」

れいなは答えるが、答えながら、何故自分がそんなことを知っているのか不思議に思う。
どうせ以前さゆみが何かの機会にれいなに教え込んだのだろうけれど。

「波の数だけ抱きしめて」さゆみは反復する。

「さゆみは抱きしめられるくらいじゃ満足できないな」

「じゃぁ、何して欲しいと?」

「そうね……こういうのはどう?波の数だけ膣内射精」

「…………」

時折、さゆみはこういった恥じらいも無いことを言う。
この類の凍り付く空気はれいなにとって幾度か経験のあることではあるが、
それでも、急に来られるといささか反応に困ってしまう。

「あれ?引いてる?」

さゆみは集中力の無い聞き手に対して「あれ?聞いてる?」みたいな感じでれいなに問いかける。

「や、さゆがそういう感じのことを考えよーのは知っとぉけど、表現が直接的過ぎて。
 せめて波の数だけイカせて、とかにできん?」

「うわ、語呂悪っ……」

「波の数だけ膣内射精……確かに、語呂は良いかも……」

世界の中にこれだけ冷静に下ネタを交わし合う高校生の男女が、自分たち二人のほかにいるだろうか。
そんなことを漠然と考えながら喋っているうちに、二人はさゆみの家の前まで辿り着く。
いつ見ても豪奢だな、とれいなは思う。
そして、さりげなく「あぁ、寒いっちゃね」と独り言を零した。


「今日はパパもママも遅くまで仕事なの」

れいなの隣で自分の家の立派な玄関を眺めながらさゆみは言う。

「お兄ちゃんは?」

「どっかで独り暮らし中」

「お姉ちゃんは?」

「一階のリビングでセーラームーン見せとくから大丈夫」

「何が大丈夫なのかよくわからんっちゃけど」れいなは冷えた手をこすり合せて言う。
「まぁ、寒いけん、とりあえずお邪魔させていただくと」

「夏は暑いけん。春と冬は疲れたけん」

さゆみはれいなを馬鹿にしたような笑みを浮かべながら、鍵を開ける。
自動で明りが灯る玄関。
さゆみほどではないが、れいなも見慣れた光景だった。

家の中には誰もいないようだった。
二人はあの奔放な姉の行方が少し気になったが、まぁ、いないならいないでそれに越したことはない。
きっと近所の子供たちとでも遊んでいるのだろう。
そんなことよりも、まずは二階に上がり、一刻も早く、冷たい部屋を暖める必要がある。

「エアコン、リモコン。リモコン、エアコン」さゆみが口ずさむ。

軽快なリズムに合わせて、二階にある自分の部屋の中をうろうろするさゆみだったが、
そのうちに上方から「ピッ」と何かのスイッチが入った音が聞こえる。
振り返るとれいながエアコンのリモコンを手に、既に部屋の温度調節をしていた。

「なんで、さゆみの部屋なのにれいなの方が早くリモコンの場所を見つけられるわけ?」

「なんで、って……ベッドか机の上になければ、今日の朝はさゆのママがエアコン切ってくれよったってことっちゃろ。
 なら、テレビの横かな、って」

「うわぁ、ストーカーじゃん。こわっ」

「いやいや、待ちぃって。ストーカーじゃないけん。れいなはただの友達」

「ただの友達?違うでしょ?
 さゆみ達はただの友達なんかじゃ……ただのフレンドなんかじゃない。さゆみ達は――」

「「セックスのフレンド!」」

「そう、れっきとしたセックスフレンドなの!」


エアコンが完全に覚醒し、低い唸り声を上げて、生暖かい風を部屋に送り始める。

電気を点けていない部屋はグラウンドの用具室のように薄暗い。
れいなはスクールバッグを本棚の隣に置き、さゆみは勉強机とセットになっている椅子の上に荷物を置いた。
そして、特に家主のさゆみの方から勧めるでもなく、二人はベッドに並んで腰かけ、疲れたように溜息をつく。
大人には「高校生なんて気楽でいいじゃないか」などと言われるけれど、そんなこともない。
こっちはこっちでいろいろ大変なんだよ、とでも言いたげな表情で。

「ねぇ、キスしよう」さゆみが唐突に提案する。

「前から思いよったけど、さゆはそういうこと誰にでも言うと?」

「言わないよぉ。ちゃーんと、れーなだけ」

「何が『ちゃんと』なんか……」

苦笑いをするれいなの肩に、さゆみは頬を乗せる。
それから、両手でれいなの右手の指を一本ずつ揉みほぐし、そこから何かのメッセージを読み取ろうとする。
しかし、わかるのはその五本の指が冬の空気のせいで酷く冷たくなっているということくらいだ。

「ねぇ、れーな。さゆみが水着に着替えたら、スキーに連れて行って、波の数だけ抱きしめてくれる?」

「海にスキー場があるか、山に海水浴場があれば」

「ただのセックスフレンドなのに、そこまでしてくれるの?」

「別にれーなはさゆのこと、ただのセックスフレンドなんていうふうに思ってないとよ」

静かな部屋に、沈黙の時間が流れる。
れいなの言葉の裏にあるものが、さゆみに届くまでには幾度かの反射や屈折を経ることが必要らしい。
しかし、確かな時間をかけて、それはちゃんとさゆみの心に届く。

「じゃぁ、カノジョだと思ってくれる?」

「うーん……」れいなは誰に向けるでもなく、小首を傾げる。

「じゃぁ、女の子の中で一番好きな子」

「うーん……やっぱ、ただのセフレで」

「ひど。れーな、最低」

それから、二人は意味も無く見つめ合った。
いや、それは傍から見れば「意味も無く」というだけであって、本当は「意味のある」ことだったのかもしれない。
ひとまず言えることは、仄暗い色合いを混ぜたれいなの瞳に、弱さに湿ったさゆみの姿が映り、
そのことが二人の間に秘匿的な意志疎通の通路を作り上げたということだ。

宗教的な儀式のように、或いは、決められた映画のワンシーンのように、二人の唇は重なる。
緊張や高揚、ましてや企みのようなものは一切なく、ただ夜に月が昇るように二人はキスをした。
静かで長いフレンチキス。
二人ともキスを終えてからようやく自分たちがキスをしていたことに気が付くくらいの穏やかで自然なキスだった。
静謐が支配する住宅街を一台の車が通り抜けていく。
その音が消えてなくなるまで、二人はただ見つめ合っていた。

「ちょっと暖房効いてきた」さゆみは独り言のように言う。

「うん。でも、部屋暗くない?明りつけよっか?」

「ううん。いいよ、このままで。あ、でも、れーなは暗いの怖いよね?」

「ば、バカにせんでよ。こんなの怖くなんて――」

「わっ!」

「ひっ」

思わず、れいなはさゆみに抱き着いてしまう。
自分の情けなさに頬を赤らめるれいなだったけれど、一度さゆみに抱き着いてしまうと、上手く離れられなくなる。

「ふふふ。怖がってんじゃん」

さゆみの手がれいなの髪を梳く。
自分の腕の中で丸くなるれいなに、さゆみはどうしようもない愛しさを感じてしまう。
れいなの頬が胸に押し付けられ、夜の水平線に浮かぶ小さな月の明りみたいにほんのりとした性的な快感が、さゆみの鼓動を僅かに早めた。

「ドキドキしとぉ」

「……………」

れいなの言葉にさゆみは少し天井を見上げて、返答の言葉を考える。
色味の無い天井では感性が刺激されるはずもなく、下らない言葉しか思い浮かばない。

「あぁ、これがかの有名な縄文土器ですか。なんて言うか、こう、表現はしにくいんですけど、
 やっぱりこの茶色い感じとか、なんか土器土器してますよね」

「つまんな。てか、せっかくの雰囲気が台無しやん。それでも、ほんとに女と?」

「どこからどう見ても近年稀に見る美少女でしょうよ。特定文化遺産として国に保護されたっておかしくないくらいでしょうよ」

「見た目の話やなくて、中身の話をしよーっちゃけど」

れいなはさゆみの胸に顔をうずめたまま、冷静に言い返した。
さゆみの背中に回された腕の指先が、グラウンドの砂に暇つぶしのお絵描きをするような感じで、たいした意味も無くさまよう。

「文句言うんだったら、いつまでも怖がってさゆみに抱き着いてないで離れてよ」

さゆみの言葉にまたれいなはすかさず「やだ」と答える。
あまりにも素直過ぎて、さゆみは呆れて笑ってしまう。
どうしてこの子猫は母性本能をくすぐるのがこんなにも上手いのだろうか。
甘え上手を競う大会とかがあれば、ぜひ参加してもらいたいものだ、とさゆみは思う。
そして、その時はありったけの金をれいなに賭けよう。

それから、さゆみは眼下に走る暗い金色の流れに指を差し入れる。
サラサラとしたれいなの金髪を掻き分け、そのどこまでも完成品的な耳を掘り起こした。
ふっ、と息を吹きかけるとれいなが抱きしめる腕に力を込める。
くすぐったいみたいだ。
もう一度、ふっ、と息を吹きかけると、今度は顔をしかめて、さゆみの方を見上げてくる。
もぞもぞと胸の上で顔を動かし、それから「くすぐったいけん」と制服にかぶりつくように言う。
制服のボタンの間から、れいなの暖かい吐息が零れ、さゆみの方も何だか少しだけくすぐったくなった。

「れーな、もうだいぶ温まったでしょ。制服脱ごうよ」

さゆみは冬の朝に布団をはぎ取るときのような決意を持ってれいなを自分からはがした。
乱れた髪を整えるれいなを見つめながら、さゆみはブレザーを脱ぐ。
れいなも親鳥の後を従順に追うアヒルみたいに、ブレザーを脱いだ。
そして、ひと足先にセーター姿になって腕を広げて待っているさゆみの胸にまた身体を預けた。

「れーなってさ、自分が可愛いって自覚あるでしょ?」さゆみは問いかけてみる。

「それって、普通、男の方が言う台詞っちゃろ」

「まぁ、さゆみが自分のこと可愛いと思ってるなんて聞くまでもないだろうから、あえてさゆみの方から質問してみたの。
 で、どう?れーなは自分のこと可愛いって思ってる?」

「そんなイジワルなこと聞かんでよ」

一拍分、呼吸を置く。それから溜息とともに続きを言葉にしていく。

「はぁ、じゃぁ、本当のこと言うけど、まじで自分のこと可愛いなんて思ってないとよ。
 でも、さゆに可愛いって思ってもらえるんなら、それは嬉しいかもしれんね」

「なに、その上手く否定しつつ、相手に取り入る百点満点な答。どこで勉強したの?」

「朝の小テストで出てきたと」

「ふふ」

それから、さゆみはまたれいなの金色の髪を掻き分け、そこから覗く柔らかそうな耳を見下ろした。
その形は変に縦長で歪だとか、特別入り組んでいるとか、逆に簡素過ぎることもなく、
平均的でありながら唯一無二の完全性を持っている。
洗練された芸術品のようにすら見える。
さゆみはまず耳たぶを唇で挟み込む。
骨なのか筋肉なのか(こんなところに筋肉がつくものなのだろうか?)わからないが、
あれだけ柔らかそうに見えた耳にも確かな固さがあった。
「はむはむされとぉ」とれいなは小さく零しながら、身体を後ろに倒す。
さゆみもそれに連れられて、れいなの上に覆いかぶさるような形になる。
黒髪が白い頬に落ちた。

「ほんと言うと、絵里には今、オナニーも禁止されよぉと」

「言いつけは守ってるの?」

「まぁ、今のところは」

「いつまで守らなきゃいけないの?」

「絵里の風邪が治るまで」

「それまではオナニーはもちろん、出すこと自体が禁止」

「そうったい」

さゆみは一瞬考える。
絵里の嫉妬深さはよく知っている。
いや、もちろん、これまでも絵里に隠れてれいなにちょっかいを出して、それがバレては面倒なことになった経験が幾度となくある。
でも、その度に何だかんだ仲直りをして、そして絵里と一緒にさゆみはれいなを蹂躙してきた。
だから、今回もきっと大丈夫なはず。
それに大前提として、どこの誰に男の射精の有無を見分けられようか。
さゆみは自分に言い聞かせる。

けれど、どこかで何かの音が聞こえる。
これはいわゆる「警鐘」というやつかもしれない、とさゆみは考える。
絵里の感の良さは、さゆみも知るところ。
さゆみが前髪を切っても全然気づかないくせに、
絵里はれいなのこととなると数キロ先の血の匂いを嗅ぎつける鮫みたいに敏感で獰猛になる。
さゆみはそのことを経験上よく知っていた。


「さゆ」

れいなは暗い表情を落とすさゆみを見上げながら言う。
部屋の中はもうずいぶんと暗くなっていた。
半分だけ開かれたカーテンから街灯の光が零れてくるだけ。
淡い影はさゆみの部屋の何かをいびつな形で映し出す。
その異形は、れいなには約束も因果律のようなものさえ失われた魔界を想起させた。
今、ここにあるのは、簡素な分だけ鋭利な欲求だけだ。

「なに?」聞こえるか聞こえないか、くらいの声でさゆみは聞き返す。
さゆみが首を傾げると、れいなの頬の上の黒い髪が春先のワンピースの裾のように揺れる。

「チューして」

目を瞑り、口づけを交わす。
暖かい舌が、唾液を纏った舌が、ゆるく絡み合う。
静かな部屋にたしかな水音が跳ねた。
まるで雨の日に無邪気な子供が水溜りを長靴で踏みつけたみたいに。

唇が離れると、れいなは甘い溜息をついて、さゆみを誘う。
言葉などなくともその溜息が現実的な台詞として機能する。
初恋で戸惑っている男の子に、女の子の方から告げる「好きにしていいよ」というやつと同じであることがさゆみにはわかる。
あれれ、そんな臆病な男の子みたいな奴じゃないんだけどな、とさゆみは思う。
まぁ、でも、そんな風に誘われちゃって、悪い気はしないか。

さゆみはまずれいなのワイシャツのボタンを上から二つくらい外す。
ガラス細工みたいに壊れやすそうな鎖骨を露わにする。
そして、そこに口づけを落とした。
れいなの呼吸が一瞬止まり、でも、何もないようにまた静かに息が漏れる。
舌を這わせ、味のしない滑らかな皮膚を鎖骨に沿ってなぞる。

「今、何時くらいやろ」れいなはさゆみの舌先の温かみを感じながらつぶやく。

「きっともう五時半……いや、六時過ぎたかもしれんね」

「どうしたの、急に時間なんか気にし出して」

「いや、なんでもないっちゃけどさ」

「……気になる。言ってよ。
 もしかして、さゆみに舐められてたせいで、もう巨大化して三分経ったから、これ以上は戦えない、的なこと?
 あーあ、なんてリスキーなヒーローに地球は守られているというのだろうか。
 怪獣が二体続けざまにやって来ることなんて、これっぽっちも考えないのかしら」

「三十分番組やけん、怪獣は一体がちょうど良いんよ、きっと」れいなは影に支配された天井を見上げる。

そして、そこに何も見いだせないまま再び口を開く。

「てかさ、そんなことはどうでも良くて……
 や、これかられーなが言いようことも、もしかしたらどうでも良いことかもしれんけど。
 たださ、朝、七時に起きようやん?」

「うん」

「で、学校行って、さゆん家来て。
 もう六時くらいで、あっという間に半日終わりようね、って思ったと。
 それに、どうせこの後家に帰っても、だらだらテレビとか見て、そんで寝るだけ。
 で、また朝。
 毎日その繰り返し。
 時間は流れてく。でも、れーなは何も成長していない」

「まるでサザエさんとか、ちびまる子ちゃんの世界だね」

「はぁ、いっそのこと、それならいいっちゃけどね」

濡らしてしまった靴下を履いたまま学校の内履きに履き替えるような「やるせなさ」がれいなを襲った。
さゆみはれいなを跨いで、れいなの向こう側に寝っ転がる。
そして、こちらに視線を傾けるれいなの顔から髪を払い除け、頼りない頬にそっと手を添えた。

「大丈夫だよ」さゆみは言う。
不安げにれいなは「そうかな?」と聞き返し、さゆみはそれに小さく頷く。
そして、先程のれいなと同じように薄暗い天井を見上げ、言葉を探す。

「だって、ほら。さゆみ達キャラ濃いし。子供からお年寄りまで、いずれお茶の間の人気者になるの」

「こんな下ネタしか取り柄のない二人じゃ無理やろ」

「まぁ、確かにね」さゆみも思わず苦笑いしてしまう。

「でも、ほら、絵里もいるしさ。さゆみ達三人なら良い感じだと思うの」

「良い感じ?」

「うん、そう。れーなは『成長してないのが嫌』みたいに言うけど、でも、そうじゃなくてさ。
 きっと変わらないことも素敵なことの一つなの。さゆみ達はきっと変わらなくてもいいんだよ」

「変わらないことで愛される……?」

「うん。れーなはいつまでもこうやって、さゆみに甘えて良いんだよ。
 時々、女のさゆみがビックリするくらい可愛いところ見せたりしてさ。
 で、何かのタイミングで絵里の性奴隷から逃れられたら、さゆみのとこにおいで。
 ちゃーんと可愛がってあげるから」

「何が『ちゃんと』なんか……」

「ま、たまには三人でシたりして。で、時にはさゆみが絵里からご褒美を貰い受けることもあったり。
 それを椅子に縄で括り付けられたれーなが見てる、ってものいいじゃん?」

「結局、下ネタがより過激になりよーだけな気が……」

れいなは冷静に返しながら、その場面を想像してみる。
なんて不健全で罰当たりな行為だろうか。
3PでレズでSMで。
BPOにバレたら確実に打ち切りになってしまうな、とれいなは半笑いを浮かべながら思う。
でも、れいなにとっては、BPOだろうがNPOだろうが、そんなものはどうでもよかった。
いくら世間から誹謗中傷を受けようとも、
れいなと絵里とさゆで作り上げるその完璧な輪は、三人にとってはどこまでも温かで優しく、乱されようのないものだった。

「じゃぁ、さゆはずっとこんな高校生のままでもいいと思っとぉ?」れいなは尋ねる。

「当たり前じゃん」さゆみは断固として答える。

ベッドの上で並んで寝転がりながら、視線を交わす。静寂な時間が流れている。

「まぁ、たまにはね、新しいプレイスタイルを試してみたくなるときもあるよ?
 でも、何だかんだ、さゆみはさゆみであることが好きだし、れいないにはヘタレニャンキーが似合ってると思うし、
 絵里にはいつまでも可愛らしいアホの子であってほしいと思うの。
 だから余計なことは考えないで、とりあえず今日はさゆみと一発ヤっていかない?」

「結局そうなるとかいな」

笑いながられいなは身体を起こす。
さゆみもそれに習って、二人はベッドの上で見つめ合う。
夜はもう既に部屋を満たし、遠い街灯の光の中で見えるのはもうお互いの姿くらいだ。
でも、そんな暗がりの中でお互いにお互いを「可愛いな」と思う。
それからまた、全てを知り尽くしてしまった二人が交わすべき優しいキスをした。

「ねぇ、さゆ」

「うん?」

「ほんとに、れいなはれいなのままでいいと?」

「あぁ、もう、面倒くさいなぁ。そんなに不安なの?」

「うん……でも、何がどう不安なのかはよくわからん……」

「よし、じゃぁ、さゆみお姉さんがいいものをあげよう」

さゆみはれいなの長い髪を後ろに除けた。
そして露わになった首筋に唇をあてがう。
数秒間、二人はそのまま一つの影になってじっと時間が過ぎ去るのを待った。
さゆみが仕事を終えて身体を離すと、れいなの首筋には揺るぎようのない確かな「印」が残っていた。

「これ、絵里に見つかったら絶対に面倒なことになると……」

「見つかったら、とか」さゆみは小さく笑う。

「絶対に見つかるに決まってるでしょ」

「はぁ。結局、余計な不安ごとがまた増えただけやん」

「そうかもね。でも……それでも、さゆみが付いてると思ったら、少し安心しない?」

「するわけないっちゃろ。むしろ不安しか感じん」

「ひど。れーな、最低」

さゆみは拗ねたようにベッドの上でれいなに背を向ける。
けれど、その瞬間にれいなは後ろからさゆみを強く抱きしめた。

「嘘に決まっとぉと。さゆがおってほんとによかった」と、耳元で囁く。

お互いの身体の温もりがじんわりと混ざり合う。
さゆみは自分の身体に回されたれいなの腕を握りしめ、そっと微笑んだ。
明け方の雨のように静かに。
暗闇に灯る蝋燭のように淡く。


夜は冷たく、自分の役目を急に思い出したように雨雲がぽとぽととまばらな水滴を街に滴らせていた。
まだ水溜りは出来ていない。
まんべんなくアスファルトが湿る程度。
二人は一つの傘を分け合って、寒さに身体を震わせている。
街灯から街灯へと渡り歩き、言葉も無くれいなの家を目指す。
ふとした瞬間に、さゆみの家を出るときに見かけたさゆみの姉の姿を思い出す。
暖かいリビングで何やらテレビに夢中になっていた。
悲しいくらいに暖かい光景。
ビニール傘を、電線から落ちて来る大きめの雨粒が打ち付ける。

普通は男が女を家まで送り届ける。
普通は付き合ってもいない相手とはエッチなんてしない。
普通は親友同士の女が同じ男を奪い合ったりはしない。
ましてや、共有資産として利用したりなんかしない。
でも、どこまで行っても、この三人にはこの関係性しか適切なものは見つけられるはずも無く、
メビウスの輪の上を旅するように、表と裏を行ったり来たりしながら、同じ時間の中を生き続けていくしかない。
想い出が繰り返される。
けれど、少なくともあのキスマークが消えるまでは、
新しい想い出に足を踏み入れることなく、今ある想い出の中で温まっていようと思う。
寒い冬はまだ始まったばかりだ。


 ***


繋いだ手の先で絵里が怪訝そうな表情を見せる。
れいなは少し不安になる。
何かを勘付かれたという懸念があった。
しかし、れいなは微笑み続けるよりほかない。
昨日さゆに、首筋に付けられたキスマークが絵里にバレてしまわないように。

しかし、そんなソワソワとした感情が絵里にバレないはずもない。
絵里はぎこちないれいなの微笑を怪しく思う。
でも、まだ確信は持てない。
だから、絵里も笑顔を保ち続けることにする。
そもそも、三日ぶりに会ったから、まだ何となく歯車が噛み合っていないだけかもしれない。
自分にもそう言い聞かせる。


「あのさ、れーな……」


喋りかけておいて、そこで急に絵里の言葉は詰まってしまう。
れいなの中にどこか自分を遠ざけようとする潜在意識があるような気がする。
自分でも良くないことだとはわかってはいるのだけれど、こういう被害妄想みたいなのがどうしても止められない時がある。
それでも、絵里はれいなの右腕に抱き着き続けた。
そうしないと、ヘリウムで膨らまされた風船のように、
れいながあの曇り空の中に吸い込まれていってしまうような気がしたからだ。
赤でも青でも何色でもいいけれど、
とにかく原色の目立つ風船が、どんどん小さくなって、灰色に犯されていくイメージが絵里の頭を過ぎる。


「絵里のいない間に、学校の勉強進んだ?」


不意に生まれてしまった沈黙を再び打開するために絵里は思いついたことを口にする。
しかし、言ってから後悔する。
れいなの反応を窺うと、案の定、不信がるような表情。
当り前だ。
絵里が勉強の話をするなんて、皆既日食並みの異様さだ。

しかし、いくら異様とは言え、この世界において皆既日食という現象が疑いの余地なく存在しているように、
絵里が勉強のことを話す可能性というものがない訳ではない。
れいなは疑念を飲み込み、何事もなかったように「いや、別に。ただ十二月八日から期末テストが始まるけんね」と簡潔に答えた。


「今回ばかりはれーなも勉強頑張るとよ」れいなは眉のひそめながら言ってみせる。

「えぇ?ホントかなぁ?」絵里は小バカにするように、れいなに言った。

「今回はマジ。リアルガチってやつ。こう見えて、れーな地頭は良い方やけんね。やればできる人間ったい」

「あ、そう。ま、せいぜい頑張ってくださいな。
 どうせ、最後にはさゆに『もうわけわからん!助けてぇっ!』って泣きつくに決まってるんだから」

「そ、そんなことにはならんしっ」

一瞬だけれいなは言葉に詰まってしまう。
そして、その一瞬を絵里は見逃さない。
二人の視線が交錯する。
それもまた一瞬の出来事ではあったけれど、その一瞬の間にありとあらゆる情報が、その二対の瞳の間でやり取りされる。

そして、無言のままに絵里の手がれいなの首に巻かれたマフラーに伸びた。
れいなは抵抗するでもなく、絵里のされるがままになる。
それは絵里に選んでもらったマフラーで、
れいなに良く似合う赤と灰色と、それからアクセントに紺色が混じったアーガイル柄のものだ。
マフラーはあっという間にれいなの首元から外され、
そして絵里の視線がその首元に向けられる。
れいなは何かを隠すように、少し身を背けるけれど、すぐにその首筋につけられた一つの証拠を見つけ出した。


「や、これはさゆに無理矢理……」

「サイテー!!絵里が風邪引いてる隙ねらって――」

「別に、隙を狙ってとか、そういんじゃないとよっ」

「でも、結果だけ見ればそうじゃん!絵里がいない間に、さゆとエッチしてんじゃん!」

絵里はれいなの首筋についた小さな「あざ」を指さしながら叫んだ。
どう見ても、さゆがれいなの首筋に残していったキスマークだった。

同じく登校中の小学生のグループが、興味深そうに二人を見やった。
まだ幼い小学生にも、絵里の叫んだ「エッチ」という言葉の意味が、単純に「スケベ」だとか「エロい」だとか、
そういった普段自分たちが使っているのとは違う定義のものであることがわかった。
ただ、それが具体的に何を指すのか、と言われてもその小学生たちにはまだわからない。
そして、二人はまた道端に取り残される。

「だから、別にそういうんじゃないけん」れいなは必死に弁明する。
「ただ、その……昨日は寒かったけん……寒いね、とか言い合って、気がついたら――」

「気がついたら、キスマークがついてた!?」

絵里は怒りを抑えきれず、れいなを鋭く睨みつけながら言い放つ。
幸い、もう辺りには誰もいない。

「キスマークつけられるくらい、強く吸われて気がつかないわけないじゃん!なんで拒まなかったの!?」

「やって……そんな風に拒んだら、さゆが可哀想――」

「絵里は!?風邪で寝込んでる間に、れーなを寝取られる絵里は可哀想じゃないの!?」

「や、だから、寝取られるとかそういうんじゃ――」

「サイテー!!」

絵里は手に持っていたれいなのマフラーをその持ち主に投げつけた。
一瞬より前にあった狂騒とは打って変わって、空気が凍り付いたような沈黙が辺りに広がる。
れいなは罪悪感を感じる一方で、この糾弾は必要以上のものではないのか、というフラストレーションに飲み込まれる。
確かにれいなは絵里のいない場所でさゆみからキスマークを貰った。
それは単なる「あざ」というものを超えて、二人の親密さの象徴とも言える。
しかし、その二人の親密さは決して「二人だけの親密さ」というわけではない。

れいなはこのキスマークが付けられたときのことを思い出す。
その時にそこにあった感情を。
さゆをどこまでも愛しいと感じながら、それと同時にれいなの心には確かな絵里の影があった。
その時の感情を言葉に表すのはかなり難しい。
朝の眠気と冬の寒さ、それから絵里の厳しい糾弾の視線。
決して、曖昧な感情を論理的な言葉に置き換える作業をするのに良い環境とは言えない。
しかし、それでも、目の前の孤独に打ちひしがれる絵里に対して、早く声をかけてあげなければならない。
考えもまとまらないまま、れいなは口を開く。


「あのさ、別に言い訳するつもりはないっちゃけどさ」


ほんの一言を発しただけで、れいなの言葉はまた立ち止まってしまう。
絵里は地下牢に転がる鎖の破片を一瞥するように、れいなの方に一瞬目を向ける。
しかし、その視線はまた冷たいアスファルトの上にすぐに戻っていった。

れいなは白い息を吐き出し、緩く目を瞑る。
まるで瞼の裏に昨日の記憶を映し出すように。
その記憶から何かのヒントを探すように。
首筋の「あざ」が何かの予兆のように静かに疼き出す。
そこには暖かい安心感のようなものがあった。
そしてその「あざ」はまるでそれ自身が何かのヒントであるというような直感がれいなに宿る。
絵里との空気を気まずくさせた直接の原因であるこのキスマークが、
その事態を解決する重要なアイテムであるというどこまでも矛盾を孕んだ直感だ。
しかし、れいなは一先ずその直感を信じることにする。
何といっても、この直感はさゆが後ろ盾してくれている直感だ。
れいなはそう思う。

「れーなもバカやないけん。こんなキスマークつけたら絵里にバレてしまうことぐらいわかってたとよ」

「じゃぁ、なんで素直に謝らないの?ていうか、そもそもなんでつけたの?れーなバカ?」

「だけん、バカやないって。じゃぁ、逆に聞くけど、絵里はなんでれーながわざわざこんなキスマークつけたと思う?」

「なんで、って……どうせ、さゆとエッチしたことを絵里に見せつけるためとか――」

「そんなわけないやろ」

れいなの声は思ったよりも大きく、通りに響き渡った。
少し恥ずかしげにれいなは辺りを見渡し、それからそこに誰もいないことを確認すると続きを付け足す。

「や、ある意味では見せつけるために……てか、このキスマークを絵里に見せることは、れーなにとって大事なことやったと。
 三日も絵里に会ってなかったけんさ。れーなも、その、寂しかったとよ。
 だけん、絵里に、ほんのちょっぴり……その、嫉妬してほしくって……
 でも、結果的に絵里を傷つけることになってしまって、そのことは申し訳ないと思うと。
 ただ、れーなは……もちろん、さゆもやけど。絵里に何て言うか……その、久しぶりに……」

そこでれいなは言い淀む。
見苦しい言い訳なんて聞いてやるまい、と固く決意していた絵里もいつの間にか、れいなの言葉に耳を傾けている。
それどころか恥じらうように、そわそわとしたれいなの姿に目が釘付けになっている。
絵里の視線に気づいたれいなは落ち着かなげに足元のマフラーを拾い上げる。
それから、それについた砂埃を軽く払って、何度か折り畳んだ。

「久しぶりに何よ?」

絵里はやや強めに言い放つ。
それはもはや二人にとっては一つの合言葉として機能しているような文句だった。
れいなはややためらいがちに、薄く唇を開く。


「久しぶりに……その、お仕置きしてほしいと……」


言葉が零れた瞬間、絵里の顔に猟奇的な笑みが広がっていく。
さっきまでの怒りはもはや微塵も感じさせない。
子供が新しいおもちゃを買ってもらう前よりも純粋な期待が絵里の胸に渦巻いている。


「れーな」絵里は名前を呼ぶ。

「な、なん……?」

「絵里ね、ちょっと試してみたいことがあるんだ」

「ごくり……」

「男の潮吹きって、聞いたことある?」


絵里は満面の笑みを湛えながら、れいなの腕を引っ張った。
「そうだ、さゆの家に行こう!」絵里が世界中の人々に宣言するような感じで言う。
れいなは学校をサボることを少し気にしたが、絵里にとっては三日休むのも四日休むのもたいして変わりはない。
左手でれいなを引っ張りながら、絵里はさゆみに電話をかける。
2コール目くらいで、さゆみが電話に出た。

「これからさゆの家に行くから」絵里は宣言する。

「え?は?」突然のことにさゆみは慌てふためく。

「絵里のれーなによくもキスマークなんか付けてくれましたね。この罪は大きいですよ」

殺し屋がターゲットに「これから殺しに行く」と告げるように、絵里は独善的に言いのけた。
そして、自分勝手なタイミングで電話を切る。
しかし、切る直前に電話口の向こうで、さゆが一瞬漏らした吐息を絵里は聞き逃さなかった。
これで良い、と絵里は思う。

れーなの首筋にさゆのキスマークが付いているなんて許しがたいことだけれど、
でも、許しがたいからこそ、逆に許すことができる。
強大な罪には強大な罰を与えなければならない。
そして、三日も大人しく家で眠りこけていた絵里にとって、
強大な罰を二人に与えることは、骨の折れる労働どころか、むしろ待ち侘びたご褒美のようなものだった。

れいなは零れ落ちる絵里の笑みにほっと胸を撫で下ろす。
結局、昨日さゆと話した通りになりそうだ。
BPOだかNPOだかにバレたら、きっと面倒なことになるだろう。
いや、普通に学校サボってる時点でもう結構ヤバイか。
そんな風に思いながらも、れいなの心は静かな幸福に包まれていた。
灰色の空はどこまでも終わりがなく、それは不吉な予兆というよりはむしろ、三人の世界を包み込む柔らかな被膜のように感じられた。
冷たい風を追いやるように二人は手を繋ぐ。

「へへへ、なんか結局三人ですることになっちゃったね」歩きながら絵里は言う。

「やっぱり絵里は二人きりの方がよかったと?」

「うん、まぁ、それはそれで魅力的だけど……でも、ね」

「にひひ」

れいなと絵里は笑いながら寄り添う。
首筋に付いた紫色の小さなあざを挟んで。





冷たい風とキスマーク 完
 

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